扉のガラスが、びり、と細かく震えた気がした。頭上の外縁層の「空」は、本来なら夜明け前の滑走路みたいな色をしているはずだ。灰と藍を薄く溶いた、静かなグラデーション。けれど、今日はどこかくすんで見える。照明の白さまで、蛍光灯のカバーが古びたみたいに黄ばみを帯びていた。耳を澄ますと、館内を流れる低いハムノイズが、いつもより半音だけ高い。指先の皮膚が、見えない乱気流を探るようにむず痒くなる。
春日透真は、職員カードを読み取り機に通しながら、掌の汗をズボンにこすりつけた。カードのプラスチックが、きし、と小さく鳴る。冷えた空気の中に、朝いちばんの紙とインクの匂いが、まだ薄い霧みたいに漂い始めている。「——今日も、開館します」
自分一人に向けて告げるように、小声で言った。声はあっさり天井に吸い込まれ、何も返ってこない。秋の終わり、黄泉の図書館の「日付」は現世のカレンダーとは少しずれているが、ここでも季節は確かに冬の手前まで来ている。照明のスイッチを押すと、閲覧室の灯りがぱちぱちと順々に点き、棚のあいだから淡い光の筋が流れ出した。いつもならきりっと立ち上がる光が、今日は少し寝起きみたいに鈍い角度で曲がる。
床材の下から、誰かが低く息を吐いたような感覚が足裏をなでた。臨界点が近い、と耳のすぐ下で誰かが囁いたような錯覚に、透真は首を振る。耳の奥で、血の音がごう、と一段高く走った。胸の奥がかすかに跳ねる。◇
開館前チェックの手順は、身体が勝手に動くほど染みついている。棚のゆらぎの有無を見て、閲覧端末の起動ログを確認し、警告表示の履歴をざっと洗う。端末の一つにログインした瞬間、画面の隅で赤いインジケーターが、じわ、と明るさを増した。LEDの点滅が、心臓の拍動と微妙にずれて、不快な裏打ちを刻む。指先にひやりとした冷気が貼りついた。
「…今、…また」
無意識に漏れた声が、モニターの光に照らされて揺れる。画面には、見慣れた警告文が浮かんでいた。
《警告 量子層ノイズレベルが基準値を超過しました
閲覧深度L-3以降へのアクセスは一時制限されます》
スクロールすると、制限対象の記録IDのリストが現れる。白地に並ぶ黒い文字が、湿った紙みたいにどこか滲んで見えた。目を細めて追っていくと、その中に、喉の奥をぎゅ、と締めつける行がある。
《記録ID-YU-0342/春日 悠真/大学量子情報事故》
そこだけ、画面の光が異様に濃く感じられた。モニターの縁を掴んだ指に、固いプラスチックの角が食い込む。兄の記録が、また制限対象になっている。前回、深度L-3のアクセスを試みたときのことが、指先の内側から蘇った。赤いインジケーターがじりじりと明度を上げ、鍋の蓋が内側から押し上げられるみたいな圧に、反射的に手を引っ込めたあの瞬間。
皮膚の内側に残っているのは、あれがただの警告音ではなく、別の何か——臨界点が近い、と告げる信号だったかもしれないという感覚だ。量子層のどこかから、ゆっくりとこちらに向けて伸ばされた手。兄のものか、連理会か、図書館そのものか。考え始めた途端、喉が急に乾いた。空調の風が鼻の奥をかさかさと擦り、唾を飲み込むと、舌の上に鉄っぽい味がのぼる。
背後の床が、すっと沈むように感じた。足音が近づいてくる——コツ、コツ。踵のリズムに覚えがある。
「朝から、ずいぶん険しい顔してるね、春日くん」
振り向くと、雪村沙羅が、柔らかそうなウールのカーディガンを羽織って立っていた。栗色の髪が肩に落ち、その周囲の空気に、外縁層から流れ込む冷気といっしょに、どこか霜柱を踏んだ朝みたいな匂いが混ざり込んでいるように感じる。
「おはようございます、雪村さん」
礼を述べながら、透真は画面を彼女から隠すように、そっと角度を変えた。自分でもわかるほど、手首の動きがわずかにぎこちない。沙羅は、その不自然さごと目に入れたように手元をちらりと見てから、端末の光に照らされた透真の表情をうかがった。瞳の奥に、温度の定まらない光が浮かぶ。
「ノイズ、また上がってる?」
問いというより、確認に近い響き。透真は一拍置き、喉を鳴らしてからうなずいた。
「はい。中では、深度L-3以降が一時制限です。…たちまち、…兄の記録も、含まれてます」
「そう」
短い返事と一緒に、沙羅は端末の横へ身体を寄せる。そのとき、彼女の体温とは別の匂いがふわりと鼻先をかすめた。香水ではない、雨に濡れた古い木と線香が混ざったような、薄い煙の匂い。実家のお寺の香りだと聞かされたことを、透真は思い出す。
「冬の初めは、例年多少揺れるけど。今回は、仕様の範囲を超えてる」
画面のログに視線を落としながら、沙羅が言う。声は柔らかいのに、言葉の継ぎ目に細い刃が差し込まれているみたいな気配があった。
「春日くん。例の件——『双子スイッチ』の検討、どこまで進んでる?」
その単語が口にされた瞬間、喉の奥がひゅっと狭くなった。端末の縁を握る指先が、自分の意思とは関係なく力を増す。爪の先に、じくじくした痛みが灯った。
「…まだ、内部資料を読んでる段階です。一応」
「一応、ね」
沙羅は小さく笑い、モニターの上端に手を添えた。爪が当たる、こつ、という小さな音が、やけに大きく響く。
「連理会の側は、もう離陸待ちみたいな顔してるよ。滑走は済ませて、あとはパイロットの搭乗を待つだけって」
その比喩に、胸の内側で古い記憶がざわりと揺れた。兄と二人で行った空港見学。分厚いガラス越しに嗅いだジェット燃料の匂いと、アスファルトから立ちのぼる熱気。タラップを昇る乗客を、幼い視線で追い続けていたときの、あの高揚と不安が、鼻腔の裏にいきなり立ち上がる。
「…ここまで、…搭乗するかどうかを決める権利は、僕にあるんですよね」
「あるよ」
即答だった。その速さが、かえって透真の足元を不安定にする。
「ただ、ね」
沙羅は視線を外縁層の「空」の方向へ向けた。閲覧室の壁の向こうで、本来は見えるはずのない空が、じわ、と色を変え始めている。薄い藍に、ごく淡い緑が混じる。その変化に、冬の寒さとは別種の冷たいものが背筋を這い上がった。
「あんまり長くターミナルの椅子に座ったまま迷っていると、向こうの管制が勝手に別の便を降ろしちゃうかもしれない」
「…勝手に? 慎重にって、」
「ノイズが増えれば増えるほど、『例外』の枠組みが揺らぐからね」
沙羅は笑っていたが、その笑みは頬の筋肉の表面だけで形作られていた。目の奥には笑いの温度がない。
「ここは中立を標榜してる。でも、本当に何も選ばないでいると、外から選ばれてしまうこともある。春日くん、あなたの兄さんのデータも、そうして——」
その先を言い切る前に、彼女は口を閉じた。代わりに深く息を吐く。薄く白い吐息が、冷たい空気にすぐほどけた。
「…この話は、また後でにしようか」
その間を裂くように、玄関のチャイムが、ちん、と澄んだ音を立てる。◇
開館時間ぴったり。ガラス扉の向こうで、スーツ姿の男性が軽く会釈していた。濃い色のコートの肩に、細かな霧雨の粒が絡みついている。本物の雨は降らないはずの外縁層で、彼の周囲だけ空気がかすかに波打って見えた。氷室蓮だ。
扉のロックを外すと、冷たい空気がふわりと入り込み、肌の上をする、と滑っていく。氷室は、その空気ごと館内に一歩踏み入れた。靴底が床に触れるコツ、という音が、妙に重く響く。
「おはようございます」
透真が頭を下げると、氷室は顎を軽く引いた。
「おはよう、春日さん。……空、変な色してますね」
入口付近の壁を、氷室が見上げる。「外の空」に相当する量子層のビジュアルが、薄く投影されていた。今日の空は、やはりどこか不自然な緑を含んでいる。蛍光灯の映り込みのせいだ、と言い訳するには無理のある色だ。
「ええ。ノイズレベルが……」
事務的な説明が喉まで出かかったところで、透真は言葉を飲み込んだ。飲み込んだ言葉の端が、喉の内側をひりつかせる。氷室は、その様子ごと観察するように、透真の顔をじっと見つめた。黒目の奥の光が、いつもより沈んでいる。
彼はコートのポケットに手を突っ込んだまま、小さく息を吐いた。
「結論から言うと、来ました。あの件の、正式な招待状」
胸の奥で、目に見えない歯車ががち、と噛み合う音がした気がした。顎の筋肉が固まり、頬に力が入る。声がうまく出てこない。
「……連理会から、ですか」
「ええ」
氷室は、コートの内ポケットから黒い封筒を取り出した。紙なのに、見た目だけで重量を感じさせる光沢のない黒。封蝋の部分に、例の「枝」の印が銀色に浮かび上がっている。指先で触れれば、ざら、とした感触が返ってきそうな厚み。
「ここでは開けない方がいい」
封筒を渡そうとはせず、氷室は指先で軽く揺らした。中で何かが、かさ、と微かな音を立てる。
「深度L-2の閲覧室、閉じてる時間ありますか。ちょっと、乱気流が強いんで」
その言い方に、喉の奥で空笑いが空回りしそうになる。口角は動かない。
「……午前中なら、一つ空いてます。予約は午後からなので」
「助かります」
氷室は短く言い、受付カウンター脇の壁に手を添えた。彼の指先に触れた部分だけ、壁の質感が一瞬、水面のように揺らぐ。音はないのに、耳の奥がキーンと鳴った。量子層の深度を調整する内部操作だと頭では分かっていても、身体の方は毎回身構えてしまう。
奥から出てきた沙羅が、氷室に軽く会釈した。
「朝からお忙しいですね、氷室さん」
「まあ、冬場はスケジュールが崩れやすくて」
軽口めいた言い方だが、声に冗談の温度はほとんど乗っていない。沙羅はその温度差を正確に読み取ったようで、表情を少しだけ引き締めた。
「深度L-2、閲覧室5をクローズします。……春日くん、ご案内してあげて」
「はい」
返事はしたものの、足の裏が床に貼りついたみたいに重い。膝の内側が、笑い出す寸前のようにかすかに揺れる。この先に踏み出したら、戻れない線を越えるような気配があった。すでに、誘導路には出てしまっている。引き返すなら、もっとずっと前だった。◇
閲覧室5の扉が閉まると、外のノイズが遠くへ引き下がった。ここだけ、別の気圧に切り替わる密閉された機内に入ったみたいに、耳の奥がふっと軽くなる。室内の照明は抑えられ、壁のライトパネルが淡い青白い光を滲ませていた。冷たい空気が肌にまとわりつき、呼吸のたび肺の内側が少しひりひりする。
中央の革張りの椅子に、氷室が腰を下ろした。椅子がぎゅ、と控えめに鳴く。透真は対面の椅子に腰を下ろしかけて、躊躇い、そのまま壁際に立った。背中を壁に預けると、冷たい面がシャツ越しにぴたりと張りつく。
「そんなに警戒しなくても」
氷室が封筒を指先で弄びながら、視線だけこちらに寄越した。
「……警戒はしてますけど。それだけじゃないです」
「それだけじゃない?」
問いかけに、透真は一度深く息を吸った。冷たい空気が喉を通り、胸の奥に溜まる。
「連理会に正式に協力するってことは、図書館の中立のルールから外れるってことですよね」
「完全に、とは言いませんけど」
氷室は、封蝋の枝の印を親指で軽く撫でる。固い蝋の表面から、かさ、と小さな擦れる音がした。
「ざっくり言うと、ここから先は、黄泉の図書館のルールと、連理会のルールと、現世側の企業コンプライアンス。その三つの塔から、同じ回線に指示が飛んでくる領域です」
「……三方向から、同じ装置に命令出してるみたいな」
「そう。で、今その装置に貼られてるラベルが、『春日 透真』になってる」
名前をはっきり呼ばれた瞬間、肩がびくりと跳ねた。狭い部屋に自分のフルネームが跳ね返って、耳の奥で何度もこだまする。舌の上に、苦い味が広がった。
「それ、変えられないんですか。……兄の名前に」
「変えようと思えば、変えられる。技術的にはね」
氷室は封筒を机の上に置いた。紙が木の天板に触れる、ささやかな音。
指を組み、しばらく天井を見上げる。天井パネルには、薄く白いノイズが流れている。雲に見えなくもない模様が、ときどき形を変えた。
「でも、それをやった瞬間に、あなたは『兄として』しか扱われなくなる」
その言葉が、胸の中心に重く落ちた。肺のあたりがぎゅっと狭まる。息を浅く吐いても、うまく抜けない。
「今はまだ、『兄の弟』として、ここに立って話せてる。ギリギリ、ね」
氷室の視線が、正面から透真を捉える。逃げ場のない高さだ。
「春日さん。あなたが協力する条件を、聞かせてもらえますか」
条件。喉の奥で、からん、と乾いた音が鳴った。舌が上顎に張りつきそうになる。握った両手のひらに、じわりと汗がにじむ。
「……条件、ですか」
「何も言わなければ、『黙認』として処理される世界ですよ、ここは。言葉にしておかないと、ログの方で勝手に補完される」
「勝手に補完される」という響きに、胃のあたりがきゅっと縮んだ。兄の記録に紛れ込んだ違和感——知らない婚約者の姿、見たことのない研究室の風景。それらが喉元までせり上がり、吐き出しそうになる。
「まずひとつ」
声は思ったより低く出た。自分の声なのに、少し遠くから聞こえるような感覚。
「兄の記録——春日悠真の記録を、これ以上勝手に改竄しないこと。少なくとも、連理会の目的のためだけに、都合よく編集しないこと」
氷室は小さく頷いた。その一拍に、重さがある。
「了解。……ただ、正確に言うと、もうかなり手は入っている。ゼロには戻せない」
「それは……分かってます。だから、これ以上」
壁に押し当てた背中に、じわ、と汗が広がっていく。布が肌に貼りついていく感触が、ひどく生々しい。
「もうひとつ」
自分の声と一緒に、心臓がどくん、と強く打つ。胸の内側で、エンジンが回転数を上げていくイメージが浮かんだ。
「この『双子スイッチ』で、もし図書館の安定がさらに崩れると判断した場合は……僕は途中で中止を要求する権利が欲しいです。たとえ、そのせいで兄の記憶が、これ以上取り戻せなくなっても」
口にした瞬間、舌の上にさびた鉄みたいな味が広がる。歯の裏側がきゅ、と締めつけられた。自分を縛る鎖の留め具を、自分の手でかちりとはめ直したような感覚が生まれる。
氷室の表情が、ほんのわずか揺れた。眉尻が一瞬だけ下がり、すぐ戻る。彼は組んでいた指をほどき、両手を膝に置いた。
「……それ、本気で言ってます?」
確認の色が濃い声。乾いている。
「はい」
答えながら、顎の震えを歯を噛み締めて押さえ込んだ。歯の根元に、鈍い痛みがじん、と走る。顎をコンクリートで固めたみたいに、これ以上何も零れないよう封じ込める。
「図書館全体を巻き込んでまで、兄だけを優先するのは……たぶん、兄も望んでないと思うので」
最後の部分は、かすれたささやきになった。声が喉の途中で霧になりかける。
氷室はしばらく黙り、空調の音と遠くの棚のぎい、という軋みだけが部屋を満たした。紙の匂いに、冷たい金属のような匂いが薄く混ざっている。
「……分かりました」
ようやく、氷室が口を開く。言葉を一つずつ置くように。
「仕様書に、その条件を組み込みます。『春日透真による中止要求があった場合、儀式プロセスを優先的にシャットダウンする』」
「仕様書に、って……そんなこと、できるんですか」
「できますよ」
氷室の口角が、ほんの少しだけ上がった。笑いかどうか判別に迷う程度の動き。
「歯車を噛み合わせるのは、僕の仕事ですから。誰がどこで止めたがってるか、ちゃんと構造に組み込んでおかないと。暴走させたくないなら」
歯車という単語に、兄が話していた研究の比喩が重なった。量子記憶アーカイブも、巨大な時計仕掛けみたいなものだ、と笑っていた兄の顔。白い蛍光灯に照らされた横顔が、まぶたの裏に浮かび上がる。
——全部、自分が背負えばいいと思ってたでしょ。
そう言って笑った兄の声を、透真は今でもはっきり再生できる。
「……それと」
氷室が、再び透真を見る。視線の圧が増した。
「連理会に協力するってことは、あなたが『例外』になるってことです」
知識としては理解していた事実が、改めて皮膚のすぐ下に突き刺さる。規則を守るよりも、『例外を作ること』に怖さを感じてきた自分。その自分が、いちばん大きな例外になろうとしている。
「例外の扱いを間違うと、他の利用者さんの閲覧権限や、予約ステータスにも影響が出ます。……水無瀬さんの件も、そう」
紗月の名前が出た瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。昨日、「自分の死亡記録を予約したい」と言ったときの、彼女の目の揺れ。空気の温度が一段下がった、あのカウンター前の光景が蘇る。
「彼女の予約は、まだ正式には処理されていません」
扉越しに沙羅の声が聞こえたような錯覚に襲われる。昨日の会話が頭の中で再生されているだけかもしれない。境目が曖昧になる。
「あなたが例外になればなるほど、彼女や他の人の『枠組み』も揺れる。そこまで込みで、選んでください」
選択の話になるとき、いつも胃のあたりが重くなる。就活の説明会へ向かう電車と、兄の研究室へ向かう電車。あの日、自分が選んだ方の揺れ方が、今でも足の裏に残っている。
背中と壁のあいだには、すでにじっとりした湿り気が広がっていた。シャツが肌に貼りつき、少し冷たい。手のひらをぎゅっと握ると、指の関節がぱき、と小さな音を立てた。
「分かってます」
声を出した瞬間、喉の奥が焼けるように熱を帯びた。目の奥にも熱がこもるが、そこから涙になる前に、どこかで固まってしまう。
「それでも、行きます」
「……行く」
「はい。僕が行きます。双子スイッチに」
言葉が空気に乗った瞬間、室内の圧がわずかに変わった気がした。耳の奥に、低い耳鳴りの線が引かれる。ライトパネルの光が一瞬だけちらりと揺れ、白の中にうっすら緑が混ざる。
氷室は、ゆっくり息を吐いた。吐息が、ひと筋だけ白く見えたような気がする。
「了解しました」
彼は封筒に手を伸ばし、封蝋に爪を立てた。ぱき、と乾いた音が室内に響く。蝋が割れる匂いなんてないはずなのに、焦げた砂糖みたいな甘い匂いが鼻の奥をかすめる。
「じゃあ——事前の打ち合わせを始めましょうか」
◇
封筒の中から現れたのは、一枚の薄い透明なシートだった。手に取ると、ぺら、と軽い音を立てる。触感は紙に近いのに、指先の温度に反応して、表面に淡い光の線が浮かび上がった。透明な配線図のような、それでいて滑走経路にも見える模様。
「これが、儀式のフライトプランです」
氷室がシートをテーブルに広げる。机の木目の上に、緑と青のラインが重なって光った。ラインは何本も交差し、分岐し、また合流している。ところどころに、小さな点と記号が置かれていた。
「このラインが、黄泉の図書館の量子層の標準ルート。閲覧動線ですね。こっちのラインが、連理会が裏で使ってる迂回ルート」
指先で青い線をなぞり、次に緑の線へと移る。触れた箇所が、わずかに脈打つように震えた。音はないが、空気がちりちりと帯電する感触が、透真の腕の産毛を立たせる。
「で、この点線が——」
そこで一度言葉を切り、氷室は透真の顔を見た。
「『双子スイッチ』の専用ルートです。兄弟間の量子相関を、図書館の基盤に一時的に組み込むための通路。図書館のルールと、連理会のルールと、あなた自身の生体情報。その三つを束ねるレーン」
シート上の点線は、他のラインより細く、淡い。じっと見ていないと、視界の端からこぼれ落ちてしまいそうな薄さだ。その線が、兄の記録が保存されている深度へと伸びている。
「……ここが、兄の棚?」
「正確には、棚の奥の、さらに奥ですけど」
氷室が点線の終点を指さす。その指先から、じわっと白い光が滲み出て、周囲に広がった。光は冷たく、触れてもいないのに、透真の手の甲に霜を置かれたような錯覚が走る。
「このルートを通るとき、何が起きるのか。ざっくり言うと——」
氷室は少し息を吸い込んだ。喉の奥で空気が擦れる音が微かに聞こえる。
「あなたの『今の記憶』と、お兄さんの『当時の記憶』が、一時的に重なります。同じ身体が、ふたつの時間帯の上を同時に走るような状態」
頭の中に、二本の時間の帯が並んで伸びていくイメージが浮かんだ。夜明け前の暗いアスファルト。片方には、現在の自分。もう片方には、事故前の兄。それぞれ違う速度で走りながら、どこかで重なろうとしている。
「重なっているあいだ、あなたは『兄の視点』で、自分自身を見ることになるかもしれない」
「自分自身を……?」
「ええ。たとえば、あなたの葬儀の記憶とかね」
耳鳴りが、一気に強くなった。部屋の他の音が、水の底に沈んでいく。氷室の声だけが、機内アナウンスみたいにやけにクリアに耳元で響いた。
「あなたの葬儀を、『兄の目』で見る。そういう可能性が高いです」
胃の中身が全部逆流しそうになる。喉がきゅっと閉ざされる。額に冷たい汗がにじみ、手の甲の産毛がぞわ、と逆立った。
「……そんなの」
かすれた声が、乾いた空気に引っかかる。肺の中でひゅう、と細い音が鳴った。
「そんなの、見てどうするんですか」
「それを決めるのは、あなたですよ」
氷室は淡々と返した。声は静かだが、目の奥にはうっすらと疲れの影が浮かんでいる。
「連理会は、『そこまでしないと見えないものがある』と考えている。図書館は、『そこまでして見る必要があるのか』と疑っている。僕個人としては——」
言いかけて、彼はまた息を吐いた。吐息が冷たい空気に紛れ、すぐに消える。
「あなたが『見ない』という選択肢を持ったまま飛べるように、プランを組むつもりです」
見ない選択肢。その響きは、一瞬だけ甘く感じられた。見なければ済むなら、どれほど楽か。兄の死の真相も、事故も、何も知らないままでいられたなら——。
けれど、それは今までずっと続けてきた選び方でもあった。兄の棚の前まで行きながら、浅い深度で引き返す日々。知らないままでいるために、慎重に逃げ続けてきた足取り。その延長線上で変わらない未来を想像すると、胸の中に冷たい空洞が広がる。
透真は、壁からそっと背中を離した。自分の足だけで立つと、床の固さと冷たさが足裏からじかに伝わってくる。
「……見たくないです」
正直な言葉が、先に出た。舌の上に、苦味がじわりと広がる。
「でも、見なかったら、きっとずっと、別のものを見続けることになる気がするので」
「別のもの?」
「『こうだったかもしれない』っていう、勝手な空想とか。『あのとき自分が死んでいたら』っていう……」
そこで言葉がちぎれた。あの倒錯した感覚——自分が兄の代わりに死ぬべきだった、という思い。葬儀の席で聞いた「残った子の方がしっかりしないとね」という親戚の声。その声が、今でも耳の奥でしつこく繰り返される。
「だから、もし見えるなら」
声が震まないよう、透真は意識的にゆっくり喋った。ひとつひとつの言葉のあいだに、少しずつ空気を挟む。
「ちゃんと、兄が選んだ現実を、見たいです」
空調の音が、一瞬止まったような錯覚が走る。室内の空気がぴん、と張り詰める。氷室はしばらく黙ったまま、透真を見ていた。その視線が測っているのは、覚悟の深さか、許容量か。それとも、もっと別の何かなのか。胸の中に冷たい計測器の棒を突っ込まれたような感覚がする。
「……了解しました」
やがて、氷室が静かに言った。
「じゃあ、プランに『可能な限り、兄の視点での現実の記憶を優先表示する』って条件も追加します。編集された虚構じゃなく、本来のログに近い層を引き出すように」
「そんなこと、できるんですか」
「完全に、とは言えませんけどね。ノイズの中から、なるべく本物のルートを選ぶ。それくらいは」
仕事の話になったとき特有の、わずかな熱が彼の声に乗った。早口になりかける寸前のテンション。そこには、単なる義務以上の「やりたいこと」が混じっているように見える。
「……ただ、代償もある」
氷室の声が、少し沈んだ。
「深い層に潜れば潜るほど、あなた自身の現在の記憶にも揺らぎが生じる可能性が高くなる。行きと帰りのあいだで、機内の荷物が少し入れ替わるみたいに」
自分の今の記憶が揺らぐ、というイメージは、つかみどころがない。今ここにいる自分が、少しずつ別の自分に差し替わっていくのか。口癖や歩き方、紗月に向ける言葉の選び方といった細かな部分が、微妙に変わっていくのか。それは、兄になりかわることとどれだけ違うのか。
胸の奥で、その問いがぐるぐると輪を描いた。答えは出ない。答えが出ないまま、それでも飛ぶのか、と自分自身に問う声が頭の隅で静かに反響する。
「春日さん」
氷室の声が、その渦を一瞬散らした。
「さっき、『図書館全体を巻き込んでまで兄だけを優先するのは違う』って言いましたよね」
「はい」
「それでも、『兄の現実を見たい』とも言った」
氷室は口元を少し歪めた。笑いとも苦笑ともつかない表情。
「その矛盾を抱えたまま飛ぶ人の方が、僕は信頼できます」
言われた意味がすぐには飲み込めない。眉間に自然と皺が寄る。
「矛盾してるほうが、いいんですか」
「ええ。どっちか片方に振り切れてる人は、システムを平気で踏み潰すから」
氷室の声には、遠い風景を見ているような響きが混ざった。彼が一度だけ話した祖父母の写真館のこと。誰にも見られないまま捨てられたフィルムの束。そのとき見た横顔が、ふと重なる。
「じゃあ、決まりですね」
氷室はシートを丸め、封筒に戻した。紙同士が擦れ合う、しゃり、という音が小さく響く。
「連理会への正式な返答。……『条件付き協力・双子スイッチ参加』」
喉の奥で、何かがからん、と鳴った。返事をしようとしても、声が表に出てこない。代わりに、透真は小さく頷いた。頷きに合わせて、耳の奥でごう、と血の音が鳴る。
「じゃあ」
氷室は立ち上がった。椅子がきゅ、と低く鳴き、床板がわずかに沈む。扉の方へ歩きかけて、ふと振り返った。
「離陸は、そんなに先じゃないです」
「……いつ、ですか」
やっとのことで絞り出した声は、思ったより高い音になっていた。
「ノイズが、もう一段階上がったとき」
氷室は淡々と言う。
「空が、本格的に緑に染まったら。そのときが、スタートの合図です」
言い捨てて、彼は扉を開けた。外の廊下から、微かなざわめきと紙の擦れる音が流れ込んでくる。空調の風が室内の冷気と混ざり合い、さら、と衣服の裾を撫でた。扉が閉まる音は、やけに遠くから聞こえる。◇
閲覧室を出ると、外縁層の「空」は、さっきよりもはっきりと緑みを増していた。壁のライトパネルに映る色が、じわじわと濃度を上げていく。白い光の中に、不穏な翡翠色が混ざり込んでいた。
廊下を歩くと、カーペットが妙に柔らかく感じる。足を踏みしめるたび、重力が半歩遅れてついてくるような変な感覚が足裏をくすぐった。耳の奥では、低いハムノイズが、ところどころで引っかかったレコードみたいに揺れている。遠くの塔同士が、通信を取り違えているようなざらざらした雑音が混ざった。
受付に戻ると、カウンター越しに沙羅が誰かと話していた。制服の襟元から覗く首筋の白い肌。薄い香水と、制服にしみ込んだ柔軟剤の匂いが、空気の中に輪を描く。
「……だから、予約じゃなくて、今は生きてる時間の相談をしましょうね」
沙羅の穏やかな声。その向かいに、水無瀬紗月がいた。制服のスカートの裾をぎゅっと握りしめている。指の甲から血の気が引いていた。
「透真さん」
姿に気づいた紗月が、ぱっと振り向く。目の下には薄い隈。ここ数日の寝不足が、そのまま影になっている。睫毛の影が頬にうっすら落ちていた。
「さっきの話、続き、いいですか」
声は、いつもよりわずかに高い。無理に明るさを足している響きがある。
「……今は、少しだけ時間をもらってもいい?」
紗月の視線を真正面から受け止めるのが怖くて、透真は彼女の肩のあたりに視線をずらした。制服の肩口に、目には見えない細かなノイズがふわりと揺れている気がする。
「あとで、必ず」
「あとでって、いつですか」
紗月が食い気味に言葉を挟んだ。声の端に、焦りの棘がかすかに立っている。
「だって、予約のシステムとかも、変わっちゃうかもしれないんですよね。さっき、雪村さんが……」
沙羅が慌てて手を振る。
「変えるとは言ってないよ。可能性の話を、ちょっと」
「でも、なんか、空も変だし」
紗月は、壁のパネルを見上げた。緑がかった空の色がその瞳に映り込み、黒目の中で翡翠色の点がちらつく。
「今のうちに、ちゃんと決めときたいんです。自分がどうなるか。誰とどう繋がっていたいか」
その言葉が胸の内側に突き刺さる。自分の死後の縁を設計しようとする彼女の発想。その危うさと真剣さが同じ強さで喉に引っかかる。
「……みなせさん」
名前を呼ぶ声は、自分でも驚くほど低くかすれていた。喉の内側が、ささくれだった木みたいにざらざらしている。
「ごめん。今、ここでちゃんと答えを出すと、多分嘘になると思う」
「嘘?」
「うん。僕が、これから……かなり大きな例外になろうとしてるから」
その言葉を口にした瞬間、空気がひやりとした。沙羅がわずかに目を見開く気配が伝わる。紗月は、きょとんとした顔で透真を見上げた。
「例外って、どういう」
「たぶん、近いうちに、図書館のルールが大きく揺れるかもしれない。僕がその中心にいるかもしれない」
言いながら、指先がかすかに震えていることに気づく。カウンターの縁を握ると、冷たい木の角が掌に食い込んだ。
「その状態で、みなせさんの『死後』について、確かなことなんて、言えない」
紗月は、唇をぎゅっと噛んだ。薄い唇の色が、噛み締められた部分だけ白くなる。
「じゃあ、何も決めちゃダメってことですか」
「決めちゃダメ、じゃなくて」
言い回しを探して、舌の上で言葉を転がす。喉を通り抜けてくれる形が、なかなか見つからない。
「今は、みなせさんの『今』のことを、一緒に考えたい。……死後のことを設計するのは、その後でも遅くないと思う」
紗月は視線をカウンターの木目に落とした。細かな線が何本も重なって流れている木目が、彼女の目の奥に映り込んでいる。
「今を考えるの、苦手なんですよね、私」
ぽつりとこぼれた言葉は乾いていた。皮肉も冗談も混じっていない。
「先のこととか、過去のこととかばっかり見てた方が、楽で」
その瞬間、自分が彼女とどれだけ似ているのかを意識させられる。兄の記憶ばかりを眺め、自分の今をほとんど見てこなかった自分。未来を、兄の人生の延長線としてしか想像してこなかった自分。
「……僕も、似たようなものです」
思わず口をついて出た。舌の上に、少しだけ甘い味が混ざる。痛みを誰かと分け合ったときに、わずかに生まれる奇妙な甘さ。
「だから、一緒に練習してくれませんか。『今』を考える練習」
紗月がちら、と見上げてきた。瞳の中の緑がかった空の色が、さっきよりわずかに薄くなったように見える。
「練習って、何するんですか」
「たとえば、来週の夕方、どこで何をしていたいかを決めるとか」
「それ、めっちゃ小っちゃくないですか」
口元に、かすかな笑いの気配が浮かんだ。笑い声にはならないが、唇の端が少しだけ緩む。
「小さい方が、たぶんいいです。大きい予定って、動かないじゃないですか。小さいのは、まだ動かせるから」
「……発想が地味」
紗月が小さく呟いた。その声には、さっきまで尖っていた焦りが少し薄れている。
「……分かりました。じゃあ、来週の夕方のこと、考えてみます」
「約束です」
透真は右手を胸の前に持ち上げた。指先がわずかに震えているのを、自分の目で見てしまう。紗月も真似するように手を上げた。空気の中で、ふたつの手が宙に浮いている。
そのときだった。館内の照明が、一瞬だけ、ばち、と音を立てて明滅した。白い光が、緑を孕んで揺らぐ。壁のパネルの「空」が、じわじわと濃い翡翠色に染まり始めた。もう、薄い緑ではない。誰の目にも異常だとはっきり分かる色。
耳の奥で、ざざざ、と強いノイズが走る。床のカーペットが足裏の下でふわりと浮いたような感覚が生まれ、重力が一瞬ふっと抜けた。
「……今の、何」
紗月が、透真の袖をぎゅっと掴んだ。布越しに伝わる指の細い力。彼女の手は冷たく、微かに震えている。
カウンターの向こうで、沙羅の表情が険しくなった。彼女は即座にインカムに手を伸ばし、短く指示を飛ばす。
「全館に通達。ノイズレベル、再確認。深度L-3以降のアクセス、ただちに停止」
声は落ち着いているが、その指先には固さがあった。肩にかけたカーディガンの裾が、微かに揺れる。
壁のパネルの「空」は、完全に不気味な緑に変わっていた。どこかの海の底から見上げたような、光の届かない緑。その中に、微かな白い点がいくつも瞬いている。星なのか、ノイズなのか、見分けがつかない。
氷室の言葉が、耳の奥で反響する。
『空が、本格的に緑に染まったら。そのときが、スタートの合図です』
喉が、からりと鳴った。顎の筋肉がさらに固まり、歯の根元がずきずきと痛む。膝から力が抜けそうになるが、なんとか踏ん張る。
紗月の指先が、透真の袖を掴む力を強めた。
「透真さん……?」
かすかな声。そこにははっきりした恐れと、言葉にならない何か——期待とも不安ともつかないものが混じっているように聞こえた。
透真は、緑に染まった「空」を見上げた。視界の端で、棚の本の背表紙がかすかに滲み、揺れている。紙の匂いと、電気の焦げるような匂いが混じり合い、鼻の奥を刺した。
——滑走は、もう始まっている。
「……行かないと」
自分でも驚くほど小さな声で、そう呟く。誰に向けた言葉なのか、自分でもはっきりしない。ただ、次の瞬間には、氷室の姿を探して、館内の廊下を駆け出していた。
Sign In Required
Free chapters (1–6) are available to everyone. Please sign in to read the remaining chapters. Creating an account is free!
⚙️ Reading Settings
第13章: 臨界ノイズと「春日 悠」の記録ID - 黄泉の図書館
扉のガラスが、びり、と細かく震えた気がした。頭上の外縁層の「空」は、本来なら夜明け前の滑走路みたいな色をしているはずだ。灰と藍を薄く溶いた、静かなグラデーション。けれど、今日はどこかくすんで見える。照明の白さまで、蛍光灯のカバーが古びたみたいに黄ばみを帯びていた。耳を澄ますと、館内を流れる低いハムノイズが、いつもより半音だけ高い。指先の皮膚が、見えない乱気流を探るようにむず痒くなる。
春日透真は、職員カードを読み取り機に通しながら、掌の汗をズボンにこすりつけた。カードのプラスチックが、きし、と小さく鳴る。冷えた空気の中に、朝いちばんの紙とインクの匂いが、まだ薄い霧みたいに漂い始めている。「——今日も、開館します」
自分一人に向けて告げるように、小声で言った。声はあっさり天井に吸い込まれ、何も返ってこない。秋の終わり、黄泉の図書館の「日付」は現世のカレンダーとは少しずれているが、ここでも季節は確かに冬の手前まで来ている。照明のスイッチを押すと、閲覧室の灯りがぱちぱちと順々に点き、棚のあいだから淡い光の筋が流れ出した。いつもならきりっと立ち上がる光が、今日は少し寝起きみたいに鈍い角度で曲がる。
床材の下から、誰かが低く息を吐いたような感覚が足裏をなでた。臨界点が近い、と耳のすぐ下で誰かが囁いたような錯覚に、透真は首を振る。耳の奥で、血の音がごう、と一段高く走った。胸の奥がかすかに跳ねる。◇
開館前チェックの手順は、身体が勝手に動くほど染みついている。棚のゆらぎの有無を見て、閲覧端末の起動ログを確認し、警告表示の履歴をざっと洗う。端末の一つにログインした瞬間、画面の隅で赤いインジケーターが、じわ、と明るさを増した。LEDの点滅が、心臓の拍動と微妙にずれて、不快な裏打ちを刻む。指先にひやりとした冷気が貼りついた。
「…今、…また」
無意識に漏れた声が、モニターの光に照らされて揺れる。画面には、見慣れた警告文が浮かんでいた。
《警告 量子層ノイズレベルが基準値を超過しました
閲覧深度L-3以降へのアクセスは一時制限されます》
スクロールすると、制限対象の記録IDのリストが現れる。白地に並ぶ黒い文字が、湿った紙みたいにどこか滲んで見えた。目を細めて追っていくと、その中に、喉の奥をぎゅ、と締めつける行がある。
《記録ID-YU-0342/春日 悠真/大学量子情報事故》
そこだけ、画面の光が異様に濃く感じられた。モニターの縁を掴んだ指に、固いプラスチックの角が食い込む。兄の記録が、また制限対象になっている。前回、深度L-3のアクセスを試みたときのことが、指先の内側から蘇った。赤いインジケーターがじりじりと明度を上げ、鍋の蓋が内側から押し上げられるみたいな圧に、反射的に手を引っ込めたあの瞬間。
皮膚の内側に残っているのは、あれがただの警告音ではなく、別の何か——臨界点が近い、と告げる信号だったかもしれないという感覚だ。量子層のどこかから、ゆっくりとこちらに向けて伸ばされた手。兄のものか、連理会か、図書館そのものか。考え始めた途端、喉が急に乾いた。空調の風が鼻の奥をかさかさと擦り、唾を飲み込むと、舌の上に鉄っぽい味がのぼる。
背後の床が、すっと沈むように感じた。足音が近づいてくる——コツ、コツ。踵のリズムに覚えがある。
「朝から、ずいぶん険しい顔してるね、春日くん」
振り向くと、雪村沙羅が、柔らかそうなウールのカーディガンを羽織って立っていた。栗色の髪が肩に落ち、その周囲の空気に、外縁層から流れ込む冷気といっしょに、どこか霜柱を踏んだ朝みたいな匂いが混ざり込んでいるように感じる。
「おはようございます、雪村さん」
礼を述べながら、透真は画面を彼女から隠すように、そっと角度を変えた。自分でもわかるほど、手首の動きがわずかにぎこちない。沙羅は、その不自然さごと目に入れたように手元をちらりと見てから、端末の光に照らされた透真の表情をうかがった。瞳の奥に、温度の定まらない光が浮かぶ。
「ノイズ、また上がってる?」
問いというより、確認に近い響き。透真は一拍置き、喉を鳴らしてからうなずいた。
「はい。中では、深度L-3以降が一時制限です。…たちまち、…兄の記録も、含まれてます」
「そう」
短い返事と一緒に、沙羅は端末の横へ身体を寄せる。そのとき、彼女の体温とは別の匂いがふわりと鼻先をかすめた。香水ではない、雨に濡れた古い木と線香が混ざったような、薄い煙の匂い。実家のお寺の香りだと聞かされたことを、透真は思い出す。
「冬の初めは、例年多少揺れるけど。今回は、仕様の範囲を超えてる」
画面のログ...