第16章:雲間の滑走路
走り出した瞬間、足もとだけ季節が変わった。 閲覧室の扉を肩で押し開けると、通路の床一面に、細かい雪片データが「さくっ」と音を立てて積もっている。 白い結晶が靴底の周りでふわりと舞い上がり、頬に触れた冷たさは、現世で触れたどの雪より輪郭だけ鋭くて、中身が抜け落ちていた。 冷気と一緒に、肺の奥へ線香の匂いと金木犀の甘さが一度に流れ込む。 鼻の奥がむずむずして、喉が軽く焼けた。 その違和感を押し戻すように、透真は前に体を投げ出す。
——装置中枢へ行く。
——兄さんを取り戻す。
——図書館を落とさない。
胸の奥で、その三つの文だけが離陸前のエンジンみたいにうなり続けていた。 頭上の蛍光灯が「じっ」と短く瞬き、次の瞬間には耳が破れそうな蝉しぐれが通路全体を埋め尽くす。 真夏の校庭で聞いたあの音量が、狭い廊下で反響し、鼓膜に容赦なく叩きつけられた。 足もとは相変わらず雪。 だが肌にまとわりつく空気はじっとりと湿り、額には汗が滲むのに、吐く息は白く煙る。 視界の端で桜の花びらデータがひらひらと降り始め、雪の上に折り重なり、踏むたび「ぴちゃ」と微かな水音がした。
春と夏と冬が、一メートル四方の床の上でかち合っている。 黄泉の図書館の量子層が崩れ始めたら四季がずれる——マニュアルの注意書きの一文が、今さら紙の隅のイラストつきで脳裏に浮かんだ。 桜と雪だるまと向日葵と紅葉が並んだ、場違いなほどのんきな絵だ。 あの時は笑った。 今、唇は乾いて開かない。 「…今……中枢まで…やがて……」
舌が上顎に張り付き、砂を噛んでいるみたいに口内がひりひりした。 小さく首を振り、透真は前方を睨む。 ここまで翡翠色だったガラス天井の向こうの量子空は、ところどころ黒い雲を混ぜ込んでいる。 光が弱まり、夕立前のような重たい暗さが通路を押し潰す。 壁際の端末の一つが「ピ、ピ、ピ」と赤いランプと同期して鳴き、画面に太字の警告が躍った。 《量子基盤不安定化レベル4 中枢アクセスルート優先確保》
「優先」と表示されているそばから、通路そのものが自分の足場を崩し始めていた。 視界がぐにゃりと歪み、右手の書架列が「ぱきん」と折れ曲がる。 紙の本ではない。 記憶データを保持する黒いスロット棚が生き物みたいにねじれ、通路へと倒れ込んできた。 「っ……しかし——!」
反射で身をひねり、肩を棚にぶつけながら、雪と花びらの上を滑るように駆け抜ける。 冷たいデータ粒子が足首に絡みつき、ズボンの裾を湿らせる感触だけが無駄にリアルだ。 崩れた棚から光の帯が一本、吹き上がる。 誰かの記憶が保管位置を失い、またひとつ解け出していく。 耳元で、見知らぬ笑い声と泣き声が入り混じり、「ざわざわ」としたノイズになった。 そのノイズの上に、別の声が滑り込んでくる。 「春日さん! ゆっくり——」
青年の声。 振り返ると、連理会の印をつけたバッジを肩に光らせた若い司書が、曲がり角の陰から手を伸ばしていた。 顔には見覚えがある。 名前は出てこない。 連理会案件のログでたまに見かける識別子が、現実の肌色と重なる。 雪と蝉と桜の乱舞の中、そのバッジだけが黒々とくっきり浮かんでいた。 「ここから先は危険です。 戻ってください」
彼は揺れる廊下に足を取られながら、一歩踏み出す。 足元の雪で靴の縁が濡れ、唇がごくりと震えた。 恐怖か寒さか、その両方か。 それでも声を続ける。 「中枢はもう、あなたの兄さんのプロファイルで回るように設計されています。 春日悠真としての、ですね。 そこで、あなたが……次に行けば、間に合う」
「間に合うって、何にですか」
掠れた声が、自分の喉から出たとは思えない響きで空気に溶けた。 蝉しぐれがその語尾をさらっていく。 「崩壊の停止です。 慎重に、あなたが兄さんのスイッチを引けば、図書館全体の安定が——」
言いかけて、彼の視線が透真の胸元で止まる。 黄泉の図書館の職員バッジと、連理会から渡された細い銀色の端子。 二つの金属片が、妙な二連の翼みたいに重なって揺れた。 透真の口が、自分でも驚くほど速く動く。 「兄を、戻せるんですか」
若い司書の喉仏が上下する。 蝉の声の合間に、短い溜息の気配。 「…“戻す”とは、状態によります。 統計的に見れば、兄さんのプロファイルで再起動したシステムは、いまよりずっと——」
「戻せるか戻せないかで答えてください」
自分の声に薄い刃の硬さが混じるのが分かった。 内側から自分で少し身じろぎする。 司書は一瞬だけ雪混じりの床に視線を落とし、それから顔を上げた。 「兄さんの視点で、あなたの人生を延長することはできます。 父君と母君の前で、“悠真”として立つことも、おそらく……その間……」
曖昧な副詞が舌の上で転がる。 たぶん。 おそらく。 ビジネスメールで腐るほど見てきたクッションが、今ほど腹の底を逆なでしたことはない。 それでも胸のどこかで、その曖昧さに爪を立てるような渇きがじりじりと広がる。 兄として立てる。 兄が、自分の顔で帰ってこられる。 顎がわずかに上がった。 前を飛ぶ機体の尾灯を追う操縦士みたいに、目の前の光に吸い寄せられる。 手を伸ばせば届きそうなところに、誘惑の滑走路が開けている気がする。 「……兄になれるなら」
乾いた喉から、言葉だけが転がり出た。 「兄になれるなら、何でもします」
口にした瞬間、足もとが大きく揺れた。 雪と花びらが一斉に舞い上がり、蝉の声が一拍だけ止まる。 天井灯が短く明滅し、緑の空に走る黒い亀裂がわずかに太くなった。 若い司書は眉間に皺を寄せる。 「……それが、リスクです、春日さん」
「リスク?」
「あなたが“何でもする”と言ってしまうと、装置はその通りに解釈します。 兄さんとして生きるあなたにとって何が最適かだけを見て、たちまちあなた自身——春日透真を、勘定から外す」
胸の中心に言葉が突き刺さる。 痛みというより、肺がうまく膨らまなくなった。 透真は思わず壁に手をついた。 ひやりとした金属が掌に食いつく。 冬の空気が指先からじんわり染み込んできた。 「……中枢に行きます」
あえてそれだけ言う。 余分な但し書きを足せば、その一語一語まで装置に「解釈」される気がした。 「行って、自分で見ます。 兄としてか、自分としてか——決めるのは、そのあとです」
若い司書が何か言い足そうと口を開きかけた瞬間、通路の先で「ドンッ」と鈍い爆音が響いた。 雪が煙のように舞い上がり、圧縮された風が吹き返してくる。 中央ホールの方角。 量子戦が本格的に火を吹いた。 透真は司書に背を向けて走り出す。 背中に声が追いすがった。 「春日さん! 兄さんにはなれても、あなたは——!」
蝉の声と風と雪の粒が一度に襲いかかり、その先を飲み込んだ。 ◇
通路の角を曲がった瞬間、足もとで「ぱきん」と乾いた音が跳ねた。 床材——正確には床に投影された量子基盤パターン——に細い亀裂が走り、青白い光がその隙間から漏れ出す。 冬の湖面の氷が割れる前の怖い静けさが一瞬訪れた。 次の瞬間、通路全体が抜け落ちる。 「っ、うわ——」
身体がふっと浮き、胃が喉まで持ち上がる。 視界の端で桜の花びらが逆さまに舞い上がり、天井と床の区別が消えた。 落下の感覚に身が引きつったその時、左腕を乱暴に掴む手がある。 「捕まれ!」
低く乾いた声。 聞き慣れたトーンだ。 氷室蓮の顔がすぐ横にあった。 彼は通路の壁に片足を引っかけ、あり得ない体勢で自分の躯を支えながら、もう一方の腕で透真を引き上げる。 落下感が止まり、代わりに肩が抜けそうな痛みが走った。 雪と花びらが逆流し、通路は再び水平を取り戻す……ように見える。 足もとがまだふらつき、膝の裏が痺れていた。 「ひ、氷室さん——」
「話はあと。 こっち」
蓮は短く言い、まだぐらぐらしている床の裂け目を軽く跨ぐと、近くのサービスドアを靴底で蹴り開けた。 錆びた蝶番が「ぎいっ」と悲鳴を上げる。 薄暗い小部屋から、ふわりと温かい匂いが流れ出した。 味噌汁の匂い。 「……え?」
透真がぽかんとしている間に、蓮は腕を掴んだまま小部屋の中へ引きずり込む。 ドアが閉じられると、外の蝉しぐれと雪のざわめきは一枚の膜越しになり、遠いざらつきに変わった。 狭い待機室。 壁一面に這う配線と古びたロッカー。 真ん中に、小さな折りたたみテーブルと安物の丸椅子が二脚。 テーブルの上には、銀色の小さな保温ポットと、ひびの入った茶碗が二つ。 ラップにくるまれた塩むすびが三つ並び、「ふう」と湯気を上げて蛍光灯の白い光を柔らかく曲げていた。 「……何ですか、これ」
ようやく出てきた言葉はそれだけだ。 蓮は肩で息をしながら、笑みとも溜息ともつかない表情を浮かべる。 「中間ノード。 非常時用の待機室。 俺の秘密基地兼、飯場」
言いながら、ポットから小さな紙コップに湯を注ぐ。 「こぽこぽ」という音とともに、鰹だしと味噌の香りが部屋中に広がった。 胃がきゅう、と縮む。 さっきまで砂を詰め込まれたみたいに乾いていた口内に、ゆっくり唾液が戻る。 「こんな時に飯なんて、呑気すぎませんか」
椅子に腰を落としながら言うと、蓮は鼻で「ふっ」と笑った。 「空腹で決断するとろくなことにならない。 就活と同じ」
「就活」の音に、大学三年の冬の空気が瞬間的に蘇る。 スーツ姿の学生で詰まった電車、乾いた暖房の風、配られるペットボトルのお茶。 あの日、兄とスケジュールを入れ替えた。 自分が研究室に残っていれば、兄はあの実験に立ち会わなかったかもしれない。 ポットの湯気の向こうで、蓮が紙コップを透真の前へ押し出す。 「飲めるか。 熱いけど」
「……いただきます」
両手でコップを包む。 安っぽい紙の質感ごしに、じんわりと熱が掌に移ってくる。 通路で凍りついていた指先の感覚が、少しずつ戻った。 一口すすると、舌に熱と塩味が広がる。 鰹の出汁が鼻へ抜けて、ネギとわかめが柔らかく「ふにゃ」とほどけた。 「おいしい」と言う前に喉が先に動き、勝手に飲み込んでいた。 「インスタントだけどな」
蓮が肩をすくめる。 「現世でいつも買ってるやつ。 ちょっと高いけど、こういうとき燃費がいい」
透真はテーブルの塩むすびを一つ手に取った。 ラップを剥がすと、白い米粒が光を反射する。 塩の粒がところどころに光っていた。 噛むと、米の甘さと塩気が舌に広がり、顎の筋肉から強張りがほどけていく。 歯が「しゃくしゃく」と米粒をつぶす音が頭の中から聞こえた。 壁の向こうからは、まだ何かが崩れ落ちる低い音が続いている。 雪の塊が屋根から落ちる時の「どさっ」に似た音が、遠くでリズムを刻んでいた。 配線の隙間からは桜の花弁データがこぼれ、蛍光灯に透かされて淡いピンクの影を壁に落とす。 「……こんなときに落ち着いて飯食ってる人、初めて見ました」
苦笑混じりの言葉に、蓮は味噌汁をすすりながら目だけを向ける。 「震えてる手より、箸持ってる手の方が役に立つからな」
透真は自分の茶碗を持つ手を見る。 白い米粒が一粒、縁から滑り落ちかけていた。 震えがそのまま目に見える。 蓮はそれを気にしている様子もなく、淡々と塩むすびをかじる。 「怖いのは、普通だ」
短い一言が、湯気と一緒に胸の奥へ入り込む。 兄にも父にも母にも、きちんとそう言われたことはなかった。 透真の耳に残っているのは、「しっかりしろ」とか「残った方が頑張らないと」とか、そんな方向の言葉ばかりだ。 怖くていい。 震えていていい。 塩むすびをもう一口噛みしめると、顎の動きに合わせて胸の張り詰めた膜が少しずつ緩む感覚があった。 「……氷室さん」
気づけば、自分から口が動いていた。 「もし、俺が——」
喉の奥で言葉が絡まる。 砂利を詰め込まれたみたいに重い。 「もし、俺が兄として再起動したら。 氷室さんは、どう思いますか」
蓮は味噌汁のカップをテーブルに置く。 プラスチックが「こつん」と乾いた音を立てた。 しばらくの間、何も言わない。 蛍光灯の「ジジッ」という小さなノイズだけが、天井から降ってくる。 透真は膝の上で指を組み、爪が掌に食い込むまで握りしめた。 血の気がじわじわ引く。 網を見上げる魚みたいに逃げ場のない感覚が喉を軋ませる。 やがて蓮は、目を細めて言った。 「それを俺に聞くってことはさ」
声は低いが、わずかに柔らかさを含んでいた。 「本当はどうしたいか、だいたい自分で分かってんじゃねえの」
「……分かってたら」
口元が苦笑いを形作る。 笑っている余裕なんてないのに、頬だけが勝手に動いた。 「こんなに迷ってないですよ」
蓮は肩をひとつすくめる。 「迷うのと分かってないのは別問題だろ。 離陸前の機体だってさ、ブレーキ踏みっぱなしでも、どっちに飛びたいかは決まってる」
「比喩が、分かるようで分からないです」
「つまりだな」
蓮は塩むすびの残りを指でつまみ上げ、じっと透真を見る。 「兄として再起動するって選択肢がどれくらい“甘い”か、一番分かってるのは君ってこと」
甘い。 その言葉が耳の奥で弾ける。 兄の名前に乗っかれば、今目の前に広がる責任や恐怖から一瞬だけ離陸できる気がする。 誘惑の甘さだ。 視線を落とすと、茶碗のひび割れに蛍光灯の光が入り込んで、小さな稲妻みたいに広がっている。 「……兄になれたら」
喉の奥から、慎重に言葉を押し出す。 「全部、筋が通る気がしたんです」
自分の声がやけに小さい。 「事故の日に兄と入れ替わったことも。 就活を優先したことも。 兄がプロトタイプを組んでたことも。 俺が図書館にいることも。 『兄の代わり』ってラベルを貼れば、一つの話になる」
蓮は黙って聞いている。 視線だけが動かない。 「でも、俺が兄として再起動したら、それって——」
「兄の人生を乗っ取ることになる」
蓮が、途中からその先を拾った。 透真が自分の中で何度も繰り返してきたフレーズ。 誰にも口にしてほしくなかった言葉でもある。 顔が自然と歪む。 唇の内側を噛んだ。 鉄の味がじわりと滲む。 「……そうですね」
肯定の言葉が重く落ちる。 蓮の口元がわずかに緩んだ。 「どっちを選んでもさ」
「はい」
「それが君の選択だってことだけは、忘れんな」
「……」
「連理会の仕様でも、図書館の規則でも、家族の期待でもなくて。 春日透真が、自分で引いたスイッチだってこと」
真正面から名前を呼ばれたのは久しぶりだ。 春日透真。「兄さんの弟」じゃない方。 履歴書の上の段に書いてきた、薄っぺらい志望動機の前に置くはずの名前。 その音が、味噌汁の塩気と混じって喉を滑り落ちていく。 外で一際大きな轟音が響き、壁がわずかに震えた。 桜の花弁データがぱらぱらと落ち、テーブルの端に淡い影を作る。 時間が削られている。 蓮が立ち上がる。 椅子の脚が床を「ぎっ」と擦った。 「さて。 燃料補給はこのくらいで十分か」
ポットの蓋を閉める音が、カチリと小さく響く。 「行くのかどうか決めるのは?」
「行きます」
舌が迷いなく動いた。 自分でも驚くほどはっきりと。 「装置を見に行く。 兄としてか、自分としてかを決めるのは、そのあとです」
さっき通路で口にしたのと同じ文句。 けれど胸の位置が少し違う。 呼吸がさっきより深い。 蓮は「了解」とだけ返し、ドアへ向かった。 「どっち選んでも、俺は——」
一瞬言葉を探し、小さく肩を揺らす。 「まあ、できる範囲でサポートする。 クライアントとしても……友人としても」
最後のひと言が、妙に控えめに落ちた。 透真は聞こえなかったふりをして立ち上がる。 まだ温かい紙コップを机に置くと、唇の端に味噌の塩気がかすかに残った。 「行きましょう」
ドアを開けると、外の蝉しぐれと雪のざわめきが一気に押し寄せた。 冬の風と夏の湿気が同時に頬を打つ。 二人は、四季の乱気流の中へ再び踏み出した。 ◇
中央ホールに近づくほど、空気はねばつき、濁っていく。 線香の煙が白く漂い、その中に花粉の黄色い粒子と焼けた砂利の匂いが混ざった。 鼻の奥が刺さり、目頭がじんと熱くなる。 煙だけのせいではない。 「……ひでえな」
蓮が吐き捨てる。 天井の高いホール全体が記憶の光の奔流に満たされていた。 左右から二つの勢力の光束がぶつかり合う。 片方は柔らかく淡い色。 線香の煙と共に立ち上る読経の声、白黒の葬儀写真、古い位牌の木目。 過去の法要記録や墓前で手を合わせる人々の映像が幾重にも重なり、盾の列を作っている。 司書長派の守りだ。 もう片方は鮮やかな色彩。 壁一面のプロジェクションみたいな未来のシミュレーション。 大学キャンパスで笑う若者、病室から退院する老人、新しい家族の記念写真——「あり得たかもしれない」将来の縁の組み合わせが矢のように放たれていく。 連理会のアルゴリズム。 光束が衝突するたび、「バチッ」と電気のような音が鳴り、ホールの空気が震えた。 床は氷と紅葉と砂利が交互に現れては消え、踏むごとに「じゃり」「きゅっ」と違う音を返す。 耳の奥で、読経のリズムと人の叫びに似た電子ノイズが混ざり、「ざわざわ」としたうねりになっていた。 「ここ、抜けるしかないのか」
透真が呟く。 蓮は短く頷いた。 「ああ。 別ルートはもう潰されてる。 見ろ」
顎で示された先、ホール片側の通路は崩落し、青白い光の亀裂が口を開けていた。 そこから夏の蝉の声と冬の風が交互に吹き上がっている。 「……行くしか、ないですね」
足首がきゅっと固まる。 光束に一歩踏み込めば他人の人生の断片が一気に流れ込んでくるのを、透真は司書として知っていた。 閲覧室のモニター越しとは違う、生データの直撃だ。 肩に蓮の手が軽く載る。 「前だけ見ろ。 余計な光はできるだけスルー。 兄さんの棚じゃなく、自分の足もと確認しろ」
「……はい」
肺の奥まで息を入れ、線香と金木犀と焼けた砂利の匂いを詰め込む。 胸が重くなり、自然と顎が上がった。 目線を真っ直ぐホールの向こうの出口へ固定する。 「走るぞ」
蓮の合図と同時に、二人は光の嵐へ飛び込んだ。 視界の端で無数の映像が「ぱらぱら」とめくれる。 仏間。 葬列。 墓石にかけられる花輪。 老人の手の皺。 若い母親が抱く赤ん坊の髪の匂いが、一瞬だけ実際に鼻をかすめる。 その流れの中、不意に見慣れた光景が紛れ込んだ。 大学の実験室。 白い蛍光灯。 銀色の実験台。 床に転がったペットボトル——ラベルは、兄がいつも買っていたスポーツドリンクだ。 「——っ」
足が止まりかける。 喉に硬いものが引っかかり、視界が滲む。 横から蓮の肘が脇腹を小突いた。 「見るな。 今は」
「でも……兄さんが——」
「兄さんは、そこだけにいるわけじゃねえだろ」
短く乾いた声が、映像の引力を断ち切る。 直後、別の光景が光束の中から飛び出した。 告別式の会場。 祭壇。 白い花。 遺影で笑っている兄の顔。 黒い喪服の列の中に、両親の背中。 その少し後ろに、喪服姿の自分の背中がある。 肩が不自然に小さく見えた。 「春日くん!」
耳をつんざく声がどこかから飛ぶ。 ホールの端、司書長派の防壁の影から一人の司書が身を乗り出していた。 袈裟を模した古い制服の上で黄泉の図書館のバッジを光らせる中堅職員、長谷部玲央だ。 「そっちは連理会の罠だ! 兄さんにはなれるが、おまえは消える!」
汗と煙で赤くなった顔で叫ぶその声は、読経と電気ノイズの渦の中でもはっきり届く。 「長谷部さん——!」
思わず呼び返した瞬間、反対側の光束から別の声が割り込んだ。 「春日さん!」
連理会側の誰か。 さっき廊下で会った若い司書だろうか。 光に溶けた顔は見えない。 「君が兄になれば、この争いは終わる! 死者の縁を全部、マシな場所へ持っていける!」
雷鳴前の空気を裂くように、両側から言葉が飛んでくる。 一歩進むごとに、胸に矢が刺さるようだ。 透真は歯を食いしばった。 頬の内側に爪が当たるほど拳に力を込める。 ——兄になれば、終わる?
——兄になれば、救える?
喉の奥で、叫びになりそこねた何かがうごめいた。 その時、足もとがふいに「ぐらっ」と揺れる。 中央ホールの中心、ちょうど二人が通り過ぎようとしていた地点で、床が音もなく崩れ始めていた。 ◇
氷が割れるときの音に似た「ぱきぱき」という細かいひび割れが床一面に広がり、その線の間から青白い光が「ふう」と吹き上がる。 次の瞬間、床の一部がごっそり抜け落ちた。 そこには空ではなく、底の見えない量子層が口を開けていた。 黒い穴というより、光のない湖面。 その内部で青白い粒子が渦を巻き、螺旋を描いている。 下から吹き上がる風は凍るような冷たさで、同時に、汗ばむ夏の匂いと線香とシャンプー、そして兄が好きだった甘い缶コーヒーの香りを一度に押し上げてきた。 胸がきゅっと縮む。 腕に鳥肌が走る。 「——透真!」
蓮の声が横でわずかに上ずる。 透真は完全にバランスを失っていた。 足が空を踏み、体が前に傾く。 視界の下半分が青白い渦で埋まった。 落ちる、と理解した瞬間、背中を強い力が突き飛ばす。 「っ……!」
後ろから誰かが体当たりしてきた。 落ちかけていた穴の縁から、透真の身体が逆方向へ弾き飛ばされる。 肩が床に叩きつけられ、鈍い痛みと一緒に頭の中で星が弾けた。 視界の端で、蓮が自分の体を穴の上へ投げ出している。 上半身はまだこちら側。 腰から下はすでに青白い渦に飲み込まれかけていた。 光の粒子が足首から太腿へ這い上がり、「じりじり」と布地を分解していく。 「氷室さん——!」
透真は反射で蓮の腕を掴んだ。 掌に伝わる皮膚はまだしっかりと温かい。 現世の血の温度だ。 その温度が渦の冷気に削られ、指先から少しずつ感触が薄まっていくのが分かる。 「離すな! まだ、引き上げ——」
喉から叫びが飛び出しかけたところで、蓮がこちらを見る。 目が、驚くほど穏やかだった。 「いいから」
口元に薄い笑みを浮かべる。 「見てろよ。 春日透真として、ちゃんと選べ」
「そんな——」
声が裏返る。 掌に汗が滲み、握る指に必死で力を込める。 爪が蓮の皮膚を傷つけそうになる。 「行かないでください! まだ、聞きたいことが、いっぱい——」
兄のこと。 連理会のこと。 図書館の基盤のこと。 蓮がどうしてこの仕事を選んだのか。 何一つ聞き終えていない。 何一つ返していない。 蓮はその言葉を遮るように、短く息を吐いた。 「後で」
青白い光が首筋にまで達し、髪の先が光の粒となってほどけていく。 「Returnできたら、その話の続き、しようぜ」
「Returnって——」
ふざけんな、と言いかける。 こんな場面でまでプログラム用語の冗談を混ぜるな、と。 けれど喉から出てきたのは別の言葉だった。 「嫌です」
自分でも驚くほどはっきりした否定だった。 「そんな……そんなフラグみたいなセリフ、残していかないでください」
蓮の目が一瞬だけ見開かれ、それから心底おかしそうな笑いがこぼれる。 「……最終章のくせに、メタいこと言うなよ」
笑いながらも、手首にぐっと力がこもる。 蓮は自分から腕をわずかに振った。 その小さな動きが致命的だった。 汗で滑っていた掌から、蓮の腕がするりと抜ける。 「あ——」
指先に残ったのは、一瞬だけの肌の温もり。 布の頼りない感触が「すっ」と消えた。 蓮の身体が青白い渦に沈んでいく。 光の粒子が輪郭を「ざわざわ」と削り、形を曖昧にしていく。 最後に見えたのは、彼の片手が軽くこちらに振られる仕草だった。 高度を上げる機体から窓越しに送られる小さな手振りみたいに。 音もなく、蓮は穴の底へ消えた。 量子層の渦はしばらく青白い泡を吹き上げていたが、やがてゆっくり閉じていく。 氷が再び張るように床の亀裂が埋まり、黒い穴は何事もなかった顔で消えた。 残ったのは、冷たい風と缶コーヒーの甘い残り香だけ。 透真は両手を突き出したまま床に膝をつき、空を掴むように指を震わせていた。 掌から、さっきまでそこにあった重さがきれいに抜け落ちている。 内臓がまとめて震える、という言い回しがそのまま現実になっていた。 喉から、音にならない息が漏れる。 「……氷室さん」
名前を呼んでも返事はない。 ホールの喧騒が、ひとつ布をかぶせたみたいに遠ざかっていく。 耳の奥には、蓮が自分の名前を呼んだ声だけが残っていた。 春日透真として、選べ。 胸の奥で何かが「かちっ」と噛み合う。 どの歯車なのかはまだ分からない。 ただ、もう足を引き返せる地点ではないことだけははっきりしていた。 ゆっくりと身体を起こす。 膝が笑い、足への感覚が薄い。 それでも立たなければならない。 蓮が押し戻した方向——装置中枢は、すぐそこだ。 ◇
中央ホールの出口を抜けた途端、世界のノイズが嘘のように静まる。 さっきまでの蝉しぐれも雪のざわめきも、読経とノイズのうねりも、すべて背後の層へ沈んでいった。 耳の中に残るのは、自分の呼吸と、靴底が床を打つ「とん、とん」という小さな音だけ。 通路の空気はほとんど無臭だ。 線香も金木犀も缶コーヒーの甘さもない。 金属と冷えた空調の風の匂いだけが薄く漂う。 前方に、白い光の扉が見えた。 装置中枢。 図書館全体の量子基盤を制御する心臓部。 連理会の仕様書でも図書館の内部マニュアルでも、ぼかして書かれてきた場所。 そこへ、今から入る。 蓮が隣にいたら、きっと皮肉をひとつ挟んだだろう。 「VIPラウンジへようこそ」とか、「コックピットのドア閉めるぞ」とか。 代わりに透真の喉から漏れたのは、かすれた独り言だけだった。 「……兄さん」
扉に手を触れる。 冷たさとぬるさが同時にくるような妙な感触に、指先がかすかに痺れた。 抵抗はなく、扉は静かに開く。 中は季節の欠片が一枚もない、異様な空間だった。 四方は淡い白光に満たされ、壁と天井の境界が分からない。 床だけがわずかに固く、「すり」とした摩擦を足裏へ返してくる。 耳が拾う音はほとんどなく、遠くで「かち、かち」と何かが回転する微かな音がするだけだ。 すぐにそれも背景に溶ける。 中央に、透明なカプセルのようなものが浮かんでいた。 その中に、兄の記憶核が眠るように静止している。 形も色もないはずなのに、透真にはそれが兄だと分かった。 キャンパスの廊下で見た後ろ姿。 研究室でコードを書いていた時の肩のライン。 いくつもの輪郭が、その透明な球体に集約されて見える。 近づくほどに、鼻の奥に雨上がりのアスファルトの匂いが薄く立ちのぼった。 大学の中庭で、夕立のあと二人で空を見上げた夕方の湿った土とコンクリートの匂いだ。 喉がきゅっと詰まった。 「……兄さん」
もう一度呼ぶ。 自分の声が、遠くの誰かの声みたいに耳の中で反響する。 記憶核の手前に、薄いインターフェースがふっと姿を現した。 透明な板の上に、二つの選択肢。 『春日悠真として再起動』
『春日透真として装置停止処理を実行』
白い文字は背景の光とほとんど同化しているのに、目を閉じても視界の裏側に焼き付いたままだ。 指先が震える。 さっき蓮を掴んだときと同じくらいの力で拳を握りしめる。 インターフェースの端から、別の光が流れ込んできた。 連理会のアルゴリズム。 細い枝が幾重にも重なるアイコンが画面隅に一瞬だけ出て、すぐ消える。 続いて映像が始まった。 『春日悠真として再起動』の上に、予測シナリオの断片が次々と再生されていく。
居間。 父が皺の増えた顔でビールを飲みながらテレビを眺め、母が隣で編み物をしつつふとこちらを見て笑う。 その視線の先には兄——いや、「兄として再起動した誰か」が座っている。 葬儀がなかった世界。 事故が起きなかった世界。 透真が罪悪感を抱えない世界。 別の映像。 黄泉の図書館の閲覧室。 紗月が友人の記憶データを閲覧しながら、肩から力を少しだけ抜いている。 画面の端には「再配置された縁」のタグが小さく表示されていた。 友人は自殺していない。 別の高校へ進学し、別の人生を歩んでいる。 遺族の涙が少し減る世界。 未練がもう少しましになる世界。 光は穏やかで、どこまでも滑らかだ。 乱気流を完全に計算し尽くしたフライトシミュレーションの映像みたいに。 けれど、そのどの映像にも共通の違和感があった。 誰も足を止めない。 誰も足もとを見下ろさない。 分岐点に立つ人間がひとりもいない。 すでに「最適化された」航路の上を、ただ流れているだけだ。 そこには、誰の選択でもない幸福が並んでいる。
——兄さんは、こういうの、好まない。
喉の奥に引っかかる感覚が言葉になる前に膨らんだ。 兄の口癖や飲み会での軽口、真面目な話のときだけ少し早口になる癖が一斉に頭の中でざわめく。 「筋の悪い嘘、嫌いなんだよなあ、俺」
かつて兄が笑いながらこぼした声が、遠くで微かに響いた気がする。 インターフェースの反対側、『春日透真として装置停止処理を実行』の欄には、淡い説明文が静かにスクロールしていた。 《結果不透明/図書館機能の縮小の可能性/再配置計画の停止/多数の縁の断絶リスク》
数字とグラフが続く。 成功確率。 失敗時の損失見積もり。 企業のコンプライアンス資料みたいな言葉が並ぶ。 映像はほとんど出ない。 一枚だけ映っているのは、灯りの半分消えた閲覧室と、縮小された書架群。 並ぶ記憶データは今よりずっと少ない。 利用者もまばらだ。 それでも、その少ない人たちの顔には、迷いの刻まれた皺がはっきりと見えた。 棚の前で立ち尽くす人。 閲覧端末に触れるのをためらう手。 踵を返して戻る背中。 選べる自由の重さがそこにある。 耳の奥で、囁き声が別々の方向から流れ込んできた。 『君が兄として生き直せば、誰も本当の死を知らなくて済む』
連理会の誰かの声。 名前までは分からない。 囁きは甘く柔らかい。 冬のラウンジで出された温かいココアが喉を撫でるようなぬくもり。 『それは、慈悲だ』
少し間を置いて、別の声が重なる。 『悲しみを消すために、死をなかったことにはできない』
低く落ち着いた声。 鏑木宗一郎の声に似ている。 似ているだけかもしれない。 ここで彼が直接話しているはずはない。 『君は君の名で、責任を負え』
透真は握っていた拳をほどく。 指先がインターフェースの上で小刻みに震えた。 爪を噛みたくなる衝動を、指の腹で受け止める。 一歩、兄の記憶核へ近づいた。 透明なカプセルの表面にそっと手を触れる。 ひやりとした感触の奥から、ぬるい熱がじわじわと伝わってきた。 冷たいとも温かいとも言い切れない、不思議な温度。 「……兄さん」
声が震える。 肺の底からずっと溜め込んでいた空気を吐き出すように、言葉が続いた。 「ごめん」
詫びたいことはいくつもあった。 あの日、就活を選んだこと。 告別式でうまく泣けなかったこと。 図書館で兄の記憶を何度も盗み見したこと。 連理会の提案に、心のどこかで惹かれていたこと。 それから——
「……ごめん、兄さん。 俺は——」
インターフェースの選択肢がふっと白く輝きを強める。 『春日悠真として再起動』
『春日透真として停止処理を実行』
指先が、わずかに動いた。 どちらかへ。 滑走路のセンターラインをなぞるみたいに、手が伸びていく。 その瞬間——
光が、一度だけ完全に暗転した。 世界が真っ黒に沈み、音も匂いも手触りも一拍で消え落ちる。 無音の暗闇の中で、遠くから笑い声がした。 兄の笑い声にも蓮の笑い声にも似ていて、どちらとも言い切れない。 二つの声が混じり合い、その向こうで蝉が一斉に鳴き始める。 夏の空の下、アスファルトを蹴る足音がかすかに重なった。 光が戻る直前、透真の指先が確かに何かに触れた感触だけが、鮮やかに残っていた。
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Chapter 16 - 黄泉の図書館
第16章:雲間の滑走路
走り出した瞬間、足もとだけ季節が変わった。 閲覧室の扉を肩で押し開けると、通路の床一面に、細かい雪片データが「さくっ」と音を立てて積もっている。 白い結晶が靴底の周りでふわりと舞い上がり、頬に触れた冷たさは、現世で触れたどの雪より輪郭だけ鋭くて、中身が抜け落ちていた。 冷気と一緒に、肺の奥へ線香の匂いと金木犀の甘さが一度に流れ込む。 鼻の奥がむずむずして、喉が軽く焼けた。 その違和感を押し戻すように、透真は前に体を投げ出す。
——装置中枢へ行く。
——兄さんを取り戻す。
——図書館を落とさない。
胸の奥で、その三つの文だけが離陸前のエンジンみたいにうなり続けていた。 頭上の蛍光灯が「じっ」と短く瞬き、次の瞬間には耳が破れそうな蝉しぐれが通路全体を埋め尽くす。 真夏の校庭で聞いたあの音量が、狭い廊下で反響し、鼓膜に容赦なく叩きつけられた。 足もとは相変わらず雪。 だが肌にまとわりつく空気はじっとりと湿り、額には汗が滲むのに、吐く息は白く煙る。 視界の端で桜の花びらデータがひらひらと降り始め、雪の上に折り重なり、踏むたび「ぴちゃ」と微かな水音がした。
春と夏と冬が、一メートル四方の床の上でかち合っている。 黄泉の図書館の量子層が崩れ始めたら四季がずれる——マニュアルの注意書きの一文が、今さら紙の隅のイラストつきで脳裏に浮かんだ。 桜と雪だるまと向日葵と紅葉が並んだ、場違いなほどのんきな絵だ。 あの時は笑った。 今、唇は乾いて開かない。 「…今……中枢まで…やがて……」
舌が上顎に張り付き、砂を噛んでいるみたいに口内がひりひりした。 小さく首を振り、透真は前方を睨む。 ここまで翡翠色だったガラス天井の向こうの量子空は、ところどころ黒い雲を混ぜ込んでいる。 光が弱まり、夕立前のような重たい暗さが通路を押し潰す。 壁際の端末の一つが「ピ、ピ、ピ」と赤いランプと同期して鳴き、画面に太字の警告が躍った。 《量子基盤不安定化レベル4 中枢アクセスルート優先確保》
「優先」と表示されているそばから、通路そのものが自分の足場を崩し始めていた。 視界がぐにゃりと歪み、右手の書架列が「ぱきん」と折れ曲がる。 紙の本ではない。 記憶データを保持する黒いスロット棚が生き物みたいにねじれ、通路へと倒れ込んできた。 「っ……しかし——!」
反射で身をひねり、肩を棚にぶつけながら、雪と花びらの上を滑るように駆け抜ける。 冷たいデータ粒子が足首に絡みつき、ズボンの裾を湿らせる感触だけが無駄にリアルだ。 崩れた棚から光の帯が一本、吹き上がる。 誰かの記憶が保管位置を失い、またひとつ解け出していく。 耳元で、見知らぬ笑い声と泣き声が入り混じり、「ざわざわ」としたノイズになった。 そのノイズの上に、別の声が滑り込んでくる。 「春日さん! ゆっくり——」
青年の声。 振り返ると、連理会の印をつけたバッジを肩に光らせた若い司書が、曲がり角の陰から手を伸ばしていた。 顔には見覚えがある。 名前は出てこない。 連理会案件のログでたまに見かける識別子が、現実の肌色と重なる。 雪と蝉と桜の乱舞の中、そのバッジだけが黒々とくっきり浮かんでいた。 「ここから先は危険です。 戻ってください」
彼は揺れる廊下に足を取られながら、一歩踏み出す。 足元の雪で靴の縁が濡れ、唇がごくりと震えた。 恐怖か寒さか、その両方か。 それでも声を続ける。 「中枢はもう、あなたの兄さんのプロファイルで回るように設計されています。 春日悠真としての、ですね。 そこで、あなたが……次に行けば、間に合う」
「間に合うって、何にですか」
掠れた声が、自分の喉から出たとは思えない響きで空気に溶けた。 蝉しぐれがその語尾をさらっていく。 「崩壊の停止です。 慎重に、あなたが兄さんのスイッチを引けば、図書館全体の安定が——」
言いかけて、彼の視線が透真の胸元で止まる。 黄泉の図書館の職員バッジと、連理会から渡された細い銀色の端子。 二つの金属片が、妙な二連の翼みたいに重なって揺れた。 透真の口が、自分でも驚くほど速く動く。 「兄を、戻せるんですか」
若い司書の喉仏が上下する。 蝉の声の合間に、短い溜息の気配。 「…“戻す”とは、状態によります。 統計的に見れば、兄さんのプロファイルで再起動したシステムは、いまよりずっと——」
「戻せるか戻せないかで答えてください」
自分の声に薄い刃の硬さが混じるのが分かった。 内側から自分で少し身じろぎする。 司書は一瞬だけ雪混じりの床に視線を落とし、それから顔を上げた。 「兄さんの視点で、あなたの人生を延長することはできます。 ...