「——ログ、始めるよ。それから、」
春日透真の声が、量子閲覧室の薄闇に吸い込まれていく。舌の奥に、さっき飲んだ番茶の渋みがねっとり貼りついたままだ。グローブの内側で指先がじわりと汗を吹き、合成布がきしむこすれ音が耳の奥にまとわりつく。視界の前面には、すでに例の警告文が滲み出していた。『警告 記録ID-YU-0342は現在、保全プロセス中です——』淡い白字が、紅葉色に染め上げられた量子層の空間にちらちらと反射する。
外縁層の「秋」は、光の葉でできている。肩の高さをふわりと舞い、空調の微かな風と同期するように、データの葉同士が擦れ合う「サラサラ」という音を立てた。その音を聞きながら、透真は喉の奥で引っかかる息を、そっと押し出す。胸の内側で、見えない高度計の針がじり、と一目盛り下がる。ここから先は、もう安全飛行の高度じゃない。彼はひと呼吸置き、「アクセスモード、手動。制限付き閲覧……そして、二重認証、開始します」と、わざと事務的な声を出した。
言葉で沈黙の隙間を埋めながら、両手をインターフェースの光のパネルにかざす。掌が触れた瞬間、冷たい光が一筋、鞭のように走り、皮膚を撫でていった。静電気の刺激が手首から肘、さらに肩へとじわじわ這い上がる。足元の床は、見た目こそ艶消しの黒い板張りのままだが、膝の裏から微細な振動がじかに伝わった。エンジン始動直後、機体全体が回転数に合わせてじんと震え始める時の、あの「まだ地上だが、もう地上ではない」揺れだ。背後で、控えめな靴音がひとつ。
「——春日くん。近くで」
声に振り向くと、雪村沙羅がドアのところに立っていた。白い司書服の袖口からのぞく手首は細く、血管が薄く浮かんでいる。彼女の周囲だけ、空気の密度がほんの少し違うように感じた。図書館特有の紙とオゾンの匂いに紛れて、乾いた沈香の香りがふっと鼻先をかすめる。「そんな顔で、ログを開くものじゃないよ」
沙羅は、ふわりと口角を上げて言う。唇の線は柔らかいが、瞳の奥はわずかに陰っていた。その暗がりが、透真には下降気流の渦みたいに見える。「……まず、そんな顔、してましたか」自分の声が、想像より掠れている。舌が上顎に張りついて、言葉の滑りが悪い。口の中は、秋風に晒された滑走路のアスファルトみたいにざらついていた。
「してた。離陸前に『これで本当に飛ぶのか』って疑ってるパイロットの顔」
沙羅はそう言いながら、閲覧ブースのすぐ外まで歩み寄る。足元の光の葉が、彼女の靴先に当たってぱらぱらと跳ねた。司書服の裾がすれる音が、布同士の軽い摩擦として耳に届く。「……静かに……飛ばないわけにも、いかないので」透真が、やっとのことで言葉をつなぐと、沙羅は短く息を吸った。それだけの動きが、この密閉された空間ではやけに大きく聞こえる。
「氷室さん、来てる?」
「ええ。もう一度、隣の観測ブースに」
沙羅の視線が、防音ガラス越しの隣室へ滑る。青白い監視光の中、氷室蓮が背を丸めて座っていた。ヘッドセットのアームが頬に沿い、肩から胸にかけてケーブルが無造作に絡んでいる。姿勢の悪さも含め、乱気流の中、計器だけを凝視している副操縦士の影が重なった。彼はこちらの視線に気づくと、顎を少し上げる。その動きに合わせ、ガラス一枚隔てた椅子が「ギシ」と軋んだように、足元から小さな振動が立ち上がる。
「春日くん」
沙羅の声が、さっきより半音ほど低く落ちる。「……ここから先は、本当に、戻れないかもしれないよ」
透真は、指先をインターフェースの光から離した。冷たさがじわじわ引いていき、その跡に残る汗が、今度はひやりと掌を撫でる。「たぶん、戻れないのは、もっと前から……なんです。だから」自分でも驚くほど、小さな音量だ。耳の内側で自分の鼓動が「ドク、ドク」と鈍く跳ねて、沙羅の声の上に重なる。
「兄のログに最初に触った時から、もう、戻ってないんだと思います。規則の上でも、その……ちょうどその時……気持ちの上でも」
沙羅は、しばらく口を閉ざした。空調の低いうなりと、照明の「ジジジ」という微かな電流音が、間を埋める。足元を舞う光の葉が、彼女の靴の影の中で揺れた。「……じゃあ」
彼女がようやく声を出す。声の表面に、さっきまでなかったざらつきが混じった。「せめて、操縦桿を握る手だけは、自分で決めて」
そう言ってひとつ深く息を吸い、沙羅は半歩だけ後ろに下がる。距離が開くにつれ、沈香の匂いが薄まり、代わりに金属と冷却材の匂いが濃くなる。彼女はインターホンに手を伸ばし、「氷室さん、準備は?」と声を送った。スピーカーがザザッとノイズを吐き、蓮の低い声が返る。
「——こっちはOK。今日のセッションが限界ギリギリだ。図書館の基盤側の耐性が」
その言葉に、透真は無意識に喉を鳴らした。生唾を飲む音が、自分のヘッドセット越しにやけに大きく戻ってくる。「耐性って、そんなに……」声が自然と慎重になる。
「この前の双子スイッチの試験接続で、基底層に亀裂が入ってる。ぱっと見は大丈夫でも、内圧だけ上がりっぱなしのタンクみたいなもんだ。その上——」
タンク、という言葉が胃のあたりに重く落ちる。密閉された客室で気圧がじわじわ上がり、耳が詰まっていく映像が勝手に浮かぶ。出口に気づいた時にはもう手遅れの、あの圧迫感だ。「……だから、今日は核心まで行く。迂回はなし」
蓮の声に、硬さが混じった。ガラスの向こうで、彼の眼差しが鋭く細められる。風防越しに何かを射抜くパイロット特有の集中が宿る。
「春日くん」
沙羅がもう一度近づき、透真の肩にそっと手を置いた。驚くほど温かい。布越しにも、体温がじんわり染みてくる。「——行っておいで」
乾いた地上が、静かに操縦席へ送り出す合図を出したように聞こえた。
*
アクセスシーケンスが始まると、閲覧室の空気の密度が変わった。耳の奥で「ピー……」という細い警告音が鳴り出し、足元がふわりと軽くなる。重力が一枚、皮を剝がされたような奇妙な浮遊感。視界の周囲から紅葉の光が溶け、暗い廊下の輪郭が代わりに立ち上がった。蛍光灯の白が天井から真っ直ぐに落ち、壁の白に秋の夕方の冷えた色味が混ざっている。
——大学の研究棟。兄の最後の日の、あの夜。鼻の奥に、金属とオゾンの匂いが染み込む。過熱した電気機器が放つ、うっすら焦げた臭いも混ざっていた。空調の風は乾いていて、頬の皮膚をざらりと擦る。靴底に硬いフロアの弾力が返り、「キュッ」と軽い摩擦音が鳴った。
——これは、兄の視点。兄の足音。胸の奥で、別の鼓動が重なる。自分の心臓とはわずかに拍がずれた脈動が、肋骨の裏側から静かに叩いてくる。そのズレた二つの鼓動が重なり合う感覚は、雲の中で高度計の数値と身体感覚が噛み合わなくなる時の、落ち着かない揺れに似ていた。
「マジで今日やるのかよ、これ」
耳元で、兄——春日悠真の声が響く。自分の口は動いていないのに、喉の奥で声帯の震えだけが自分のもののように感じられる、妙な二重奏だ。視界の前には研究室のドア。金属板の表面には「量子記憶アーカイブ実験室」と印刷されたプレートが貼られ、その下にマジックで書いたような落書きが、うっすらと残っている。『黄泉の図書館 β』
視界の端がかすかに揺れる。——β? 事故の時点で、もうこの名前を? 透真の疑問をよそに、兄の記憶はドアノブに手をかけた。金属の冷たさが掌に吸い付く。指先の滑り止めのゴムまで、質感が伝わってくる。ドアを開けた瞬間、熱気と、薬品と古いコーヒーの混じった匂いがわっと押し寄せた。
室内は、コンピュータのファンの「ブーン」という低いうなりと、キーボードか何かを叩く「カタカタ」という音で満ちている。その中に——見慣れない人影が一本、すっと立っていた。黒いスーツ。光を吸うような濃紺のネクタイ。肩幅が広く、背筋が無駄に真っ直ぐだ。足元まで磨き上げられた黒革の靴が蛍光灯を反射している。冷房の風に乗って、柑橘系の柔らかい香水がほのかに漂ってきた。
その女は、振り向かず、スクリーンの一つを見つめている。大きなモニターには波形と数字が幾つも流れ、画面の隅では「Orbis Memoria」のロゴが小さく点滅していた。「遅かったですね、春日さん」
女がようやく振り向く。きっちり後ろでまとめた髪。透真は、その顔を図書館の記録で見たことがある。——梶原真理子。量子情報企業「オルビス・メモリア」のコンプライアンス部長。連理会と企業の結節点。氷室蓮がそう説明していた女だ。梶原の声は、記憶の中でも妙にクリアに響いた。淡々としたトーンの奥に、ひと筋だけ硬い芯が通っている。目尻は笑っているようでいて、実際にはほとんど動いていない。
「ごめんなさい、ちょっと教授に捕まってて」
悠真の声が、軽く笑いながら返した。舌の運びや口角の持ち上がり方が、自分とは微妙に違う。その差が、かえって兄の輪郭を濃くする。「時間には余裕を持って動く。それが事故を減らす一番の方法です」
梶原は、淡々とした口調で肩を小さくすくめる。その動きにつれて、襟元からファンデーションと香水の柔らかな匂いがふわりと流れ出た。大学の研究室には場違いな、会議室の空気。「はいはい、すみません」
悠真が、片手をひらひらと振る。机上の紙コップからは、温度の抜けかけたコーヒーの香りが立ち上っていた。そこに微かな焦げ臭さが混ざっている。長く放置された液体の匂いだ。
「で。今日のメニュー、もう一回だけ確認しときましょうか」
梶原はスクリーンの一枚に指先を滑らせた。短く整えられ、色の塗られていない爪。彼女の指が触れた箇所を、黄色いハイライトがすっと走る。「量子記憶アーカイブ・プロトタイプの第三層——ここを、貴方の個人データで満たします。事故、もといイベントの際には、この層が『核』として残る」
「もとい、って言いましたよね、今」
悠真が、半笑いで突っ込む。軽い冗談のつもりなのだろう。その軽さの裏側で、胸のあたりに固い緊張がひそんでいるのを、透真は呼吸の変化で察した。兄の息が、薄く速くなっている。
「イベント、です」
梶原は表情を変えない。笑っているかどうか判別しにくい、冷えた顔だ。「こちらとしては、あくまで実験ですので。想定する事象は、さまざまです」
空調の風が、ふと止まったように感じた。研究室の音が少し遠のき、ファンのうなりだけが「ゴー……」と低く残る。——事故じゃなくて、イベント。観客席で聞かされるような言い換えに、透真の胃がきつく結び目になる。兄の体を借りているはずなのに、自分の喉が先に渇き、舌の裏に鉄の味がじわり広がった。
「それで——」
梶原は別のウィンドウを開く。そこに映ったのは、見覚えのありすぎる図だった。二本の線が絡まり合うように描かれた連理会のシンボル。その下に、「双子ペア・モデルケース:KASUGA」の文字が浮かぶ。
「これが、連理会から提示された設計の骨格です」
梶原が線をなぞる。指先に合わせて線がふわりと浮き上がり、金色の光が細く走った。「『双子スイッチ』。貴方たち春日兄弟をモデルにした、接ぎ木型の記憶再配置プロトコル」
悠真の呼吸が、そこで一拍止まる。胸の奥が「キュッ」と縮み、酸素が入ってこない。代わりに熱だけが肺の中にこもる。「モデルケース?」
声が少し掠れる。喉が乾き、音が滑らかに出ない。「ええ」
梶原は事務的に頷いた。「外見、声帯の特性、家族構成、文化的背景。すべてが極端に近似しているペアは、そう多くありません。統計的には、かなりのレアケースです」
「だからって」
悠真——その中に重なっている透真の意識が、同時に前のめりになる。掌に汗がにじみ、キーボードの縁がぬるりと滑る。「だからって、うちをモデルに固定する必要は——」
「必要があります」
梶原は、淡々と遮った。その瞬間も、声の高さが一切ぶれない。「連理会の理論によれば、『縁の最適化』を行うためには、ひとつの典型例が必要です。死者と生者の再配置のための、標準軌道」
標準軌道。航空図の上に描かれたラインのような響きだ。天頂から地上までの安全な道筋を、あらかじめ空に刻んでおく作業。そこに、誰かの人生を沿わせる。
「その標準軌道に、自分の弟を乗せる。それが、あなたの提案でしたよね、春日さん」
梶原の言葉が、冷たい風の塊となって胸骨の間を通り抜けた。「……は?」
兄の声と、透真の意識が同時に震える。視界が少し傾ぎ、床が斜めに滑ったように感じた。「俺の……提案?」
「はい」
梶原はスクリーンを切り替える。「春日悠真——個人提案」とタイトルのついたメモ画面が映し出された。最初の行を読んだ瞬間、透真の指先から血の気が引く。『双子ペアを用いた、死後縁再配置プロトタイプ構想。——“黄泉の図書館”という公共インフラを前提として』
兄の癖ある字が、そのままそこにあった。行頭の小さな丸印。独特の句読点の打ち方。何度も講義ノートで見た文字が、ここでも同じリズムで並んでいる。
「ちょっと待って」
悠真の声が一気に早口になる。喉の奥が熱を帯び、呼吸が浅く短く切れる。「それ、俺……いつ……」
「半年前の、連理会との非公式ミーティングで」
梶原は淡々と答える。彼女の声の温度が変わらないことが、かえって透真の背中に冷気を流し込んだ。エアコンの吹き出し口からの風が、腕の産毛を「スーッ」と撫でていく。「覚えていないのは、そちらの事情でしょう。こちらは記録を残しています」
画面がまた切り替わる。夜景の灯りが窓の外に散る会議室。空調と、遠くの車の走行音が微かに混じる。テーブルの向かい側に座る兄。ジャケットを椅子に掛け、シャツの袖を肘までまくっている。その隣には——まだ若い氷室蓮。今より頬が少しこけ、あどけなさが残る。視線はテーブル上の資料に落ちていて、顔は半分影の中だ。
「……『誰のものでもない公共としての黄泉』を、貴方は強く主張しました」
梶原のナレーションのような声が、映像に重なった。「国家でも企業でもない、でも完全な個人所有でもない。“縁のアーカイブ”」
映像の中の悠真が、笑っている。手を動かしながら何かを説明している。音声が上がり、会議室の埃っぽい空気の中から兄の声が立ち上がった。『——でさ、そこに、“標準になる双子”がいるといいと思うんですよ』
軽く、明るい声。コーヒーの苦味と紙の匂いが、記憶越しに鼻をくすぐる。『倫理的にギリギリ攻めるっていうかさ。あえて、自分と、俺の弟を、テストケースにする』
喉の奥に、硬い石のようなものが突き刺さる感覚が走る。空気が行き場を失い、胸に溜まったまま動かない。『だって——』
兄は笑いながら、ほんのわずかに目を伏せた。その横顔を、透真は知っている。ふざけた話をするときに見せる、冗談と本気のラインを自分でぼかす時の顔だ。『俺、たぶん、いつか飛ぶし』
会議室の空気が、そこで一段固く張り詰める。誰かの椅子が「ギギッ」と鳴った。『弟は、ずっと地上見てるタイプだからさ』
兄は、肩をすくめて笑う。『俺が墜ちたあとに、あいつの人生を、ちょっとだけ“編集”できる仕組みがあったらいい。そう思うの、変ですかね』
「変、ですよ」
映像の中の氷室蓮が、ぼそりと言う。今と変わらない乾いたトーン。テーブルの上の紙資料の匂いと、冷めたコーヒーの匂いが、映像越しにも重なってくるようだ。『変だけど、面白い』
別の男の笑い混じりの声が続く。連理会の誰かだろうが、照明の反射で顔は影になっている。『標準軌道としての弟さん。——いいですね』
「——やめてください」
閲覧室の中で、透真は思わず声を荒げていた。喉の奥が焼けつくように熱い。声は掠れ、空気を擦る音に近い。「そこ、もういいです」
心臓の音が「ドク、ドク」と加速し、鼓動が耳の内側を叩く。掌の中のインターフェースがじんわり温度を上げ、汗ばんだ皮膚に光のパネルがぴたりと貼り付いた。『閲覧を一時中断しますか?』
無機質なシステム音声が頭上から降ってくる。涼しい女声。冷たい客室のアナウンスに似た響き。「……いえ」
透真は奥歯を噛みしめた。歯と歯がぶつかる「キリッ」という音が頭蓋骨の中に響く。「続行で」
胸の奥で、何かが静かにカチリと噛み合う。ボルトが最後の一回転で締め込まれたような感覚。閲覧室の空気がさらに薄くなり、耳鳴りが強くなった。「ピー……」という細い音が、頭蓋の内側を針でなぞる。
*
映像は切り替わり、再び研究室の内部に戻る。事故の夜。壁掛け時計の秒針が「チッ、チッ」と音を刻み、そのリズムにゆっくり兄の心拍が追いついていく。
「——確認します」
梶原の声が、蛍光灯の白に照らされて淡々と響く。「本日の実験は、連理会からの構想案に基づき、“春日兄弟モデル”のプロトタイプを用いて行われます」
彼女の背後のホワイトボードには、乱雑な矢印と数字。隅には小さく「INTERNAL-ONLY」の文字と、枝が重なり合うアイコンが描かれている。——INTERNAL-ONLY。閲覧制限付きデータに付与される内部タグ。透真が司書として何度も見てきた表示だ。あれが、ここに。
「万が一——」
梶原は、言葉を選ぶように声の速度を落とした。「万が一、被験者である春日悠真さんに、生命維持に関わる事象が発生した場合。記憶層第三レベルに残された“核”は、将来構築される“図書館”基盤に優先的に接続されます」
「……じゃあ」
兄の喉がごくりと鳴る。唾液が一瞬で乾き、舌が上顎に貼り付いた。「死んだあと、俺はそっちに残るってことですよね」
「言葉を選べば」
梶原はわずかに目を細めた。「あなたの“縁”を、そのまま放流せず、ある程度は設計可能なプラットフォームに固定する、ということです」
縁を放流、という表現が耳の裏側に引っかかる。雨季のダム放流のイメージが浮かぶ。上流で誰かがレバーを引き、流量を調整する。兄は、そのレバーを自分で握ろうとしている。
「俺の“縁”だけじゃないでしょう」
兄の声が少し低くなる。笑いが引き、地声が現れる。「弟のとか、家族のとか。——あと、あの図書館に来る人たちのとか」
梶原は答えず、白い指でテーブルを軽く叩いた。コンコン、と乾いた音が、記憶の中で遠く反響する。「そこまでは、まだ誰にもわかりません」
空調の風がまた一瞬止まり、室内に薄い静寂が積もった。その静けさの中で、兄の心臓だけが忙しく打つ。「でもね」
映像の中の悠真がふっと笑う。喉に溜まった固いものを笑いで崩そうとする時の顔だと、透真にははっきり分かる。
「もしさ」
兄は、手に持ったペンをくるりと回した。プラスチックの滑らかな感触と、自分の掌の熱でぬるくなった質感まで伝わる。「もし俺が、本当にここで墜ちたとして」
空気がわずかに震える。誰かが息を吸った。
「そのあと、図書館で、あいつの人生にちょっとだけ、風向き変えてやれるなら。いいと思うんですよね」
兄は、遠くを見るような目で言った。視線の先には白い壁しかない。そこに、まだ誰も知らない空路の図を描いているようにも見えた。
「だって、あいつ、いつも地上で管制してるみたいな奴だから」
冗談めいた口調なのに、言葉の端に妙な静けさがつきまとう。
「たまには、誰かにルート組んでもらっても、いいでしょ」
——誰か、じゃない。兄、自分自身。透真の胸の内側で、冷たいものがじわじわ広がった。背筋を空調の風が抜け、腕の皮膚に細かな鳥肌が立つ。「……兄さん」
声に出した覚えはないのに、口腔の中でその呼び名が勝手に転がっていく。前歯の裏側を「に」の音がかすめ、やけに生々しい。映像はさらに先へ進む。実験装置の前に立つ兄。モニターの光が顔を青白く照らしている。頬にうっすら汗が浮き、その汗が冷房の風で冷やされ、「スッ」と肌を這う感覚が伝わってきた。
「——開始します」
誰かが言う。研究主任か連理会の技術者か梶原か、声が幾つも重なって一つの低いエンジン音のようになり、耳を震わせる。光が強くなり、空間がきしむように歪む。床が上下に揺れ、重力が斜め方向に流れ出す。大気の層を突き抜ける機体の、あのねじれるような変化。耳がキーンと鳴り、鼻の奥がツンとした。
——ここから先が、事故だったはず。透真は本能的に目をつぶろうとする。だが、まぶたを閉じても光は遮れない。兄の視界に同乗している限り、逃げ場はどこにもない。白い光の中に、影がひとつ浮かび上がった。
誰かの手。装置の制御パネルに伸びる指先が、はっきりと見える。節の太い指。短く切り揃えられた爪。リングはない。その手が、赤いカバー付きのスイッチに触れた。カバーが「パチン」と軽い音を立てて跳ね上がる。
「——あれ?」
閲覧室の外から、氷室蓮の声が漏れた。ガラス越しでも息を呑む気配が伝わる。「ここ、改竄されてた部分だ」
耳の奥で別種の警告音が鳴る。「ピーーー」という長い音。視界の隅で赤い文字が点滅した。『このセクションは、保全プロセス中のため、閲覧が制限されていました』
それでも今、スイッチは目の前で押されようとしている。兄の視界は、その指を逃さず捉えていた。——誰だ。透真は喉の奥で叫ぶ。声は出ないのに、声帯だけがむなしく震えた。胸の中央で心臓が暴れ始め、腕の産毛が揃って逆立つ。
スイッチに触れた手が、わずかに顔を上げる。光が頬のラインをかすめ、横顔が浮かび上がった。その輪郭に、見覚えがある。高い鼻梁。少しきつく見える目元。額に落ちた前髪。氷室蓮だった。
閲覧室の空気が、一瞬凍りつく。耳鳴りがキンと鋭くなり、吸い込んだ空気が鼻腔で刃物みたいに冷たい。「——待て」
ガラス越しに、今の氷室が低く呟いた。椅子が「ギギッ」と鳴り、彼が立ち上がる気配がする。「それは——違う。俺は、その場で——」
言葉はシステムのノイズにかき消された。スピーカーから「ザザッ」と耳障りな音が溢れ出す。インターフェースの光が掌の下で激しく脈打つ。兄の視界では、氷室に似た誰かの指がスイッチを押し込んでいた。赤いランプが「カチッ」と音を立てて点灯する。
その瞬間、室内の空気が縮み上がる。光が爆ぜ、耳をつんざく轟音。「ドォン」という衝撃が全身を貫き、床が大きく波打った。重力の方向が分からなくなり、視界がぐるぐる回る。熱風が肌を焼き、鼻腔に焦げたプラスチックと、生々しい肉の臭いが一気に侵入した。
——墜落。
兄の体感が、そのまま透真を巻き込んで落ちていく。胃がふっと浮き、次の瞬間、急降下するエレベーターに投げ込まれたような感覚。内臓が喉元まで押し上げられ、口内に酸っぱい液が滲む。耳の奥で誰かの叫び声が遠くこもって響いた。言葉は聞き取れない。ただ、声色だけが恐怖と驚愕でひしゃげている。
——ここから先は、知っている。事故。火災。緊急搬送。そして死亡診断書。次に来るのは静寂のはずだった。だが、映像はなお続いていく。
暗闇の底で、微かな光が点滅した。モニターの残像だ。薄い蒼白の光が、墨色の闇を辛うじて押し返している。「……こちら、黄泉の図書館プロトタイプ・核層」
耳元に、聞き慣れた機械音声が届いた。今図書館で使われているシステムより、少し古い版のざらつきがある。「被験者ID:春日悠真。——生命活動、停止」
ひんやりとした宣告だ。空気の温度が数度下がったように、指先の感覚が冷え込む。閲覧室の温度計は動いていないのに、兄の記憶が沈むにつれ、体温まで引きずられた。
「——ここからが、設計されたシーケンスです」
別の声が闇に差し込む。微かな笑いを含んだ若い男の声。聞き覚えはない。けれど、イントネーションの節回しに、妙な懐かしさがあった。どこかで反復されてきたリズムだ。
「お疲れ、悠真」
闇の中に、光の輪郭が立ち上がる。ぼやけた人影。顔の細部は見えない。輪郭だけが柔らかく発光している。「これで、君は“核”になった」
その人影が手を伸ばし、兄の意識に触れる。触れた箇所が、じんわりと温まった。「約束通り——」
声が続く。
「弟さんの人生は、ここに縛りつけておく。君が設計した通りに」
闇の奥で、金属が噛み合う「カチリ」という音が響く。歯車ともロックボルトともつかない、硬く乾いた音。「“黄泉の図書館”は、巨大な仲人装置になる。死者と生者を、最適な軌道に乗せるための」
言葉に合わせて、兄の記憶の空が変形していく。黒の層が薄まり、代わりに淡い光の幕が重なる。無数の光点が線で結ばれ、頭上に星図のような網が広がった。空の全面に、航路のような線が幾重にも描かれていく。
「その起動キーが——」
声の主が、わざとらしく間を空ける。
「春日透真。君の弟だ」
肺に残っていた空気が、一気に抜け落ちる。閲覧室の空気まで一緒に落下したような感覚。自分の体ごと吸い込まれそうになる。「——兄さんが、決めた」
透真は、喉の奥から言葉を押し出した。声が震え、舌がうまく動かない。冷えた血の味が口内に広がる。「俺を、ここに縛りつけるって……」
インターフェースの表面に、白い曇りが一瞬浮かぶ。荒くなった自分の息がガラスを曇らせ、すぐに消える。その繰り返しが、乱れた呼吸を視覚化していた。
「春日」
背後で氷室蓮の声がする。インターホン越しなのに、いつもより近く感じた。イヤホンの内側に、彼の吐息の「スーッ、ハーッ」という音が直接触れてくる。
「——違う解釈も、ある」
蓮は、一度息を整えてから続けた。「君を縛りつけたかったんじゃなくてさ。離陸させたかったのかもしれない」
「離陸……?」
自分の唇がわずかに震え、下唇の内側を歯で強く噛んだ。鈍い痛みがじんと残る。
「現世で、線路の上に突っ立ってる君を、そのまま見送れなかった。だから、“空路”を用意した」
蓮の言葉は滑らかだ。滑らかすぎて、その下に小さな棘が隠れているのが分かる。「そういう読み方もできる。……もちろん、暴力的な愛情だとは思うけど」
「そんなの——」
透真は言いかけて、喉の奥で言葉を飲み込んだ。熱がこみ上げ、目の奥がじりじりする。涙の手前にある鈍い痛みが視界の端をぼやかす。「そんなの、勝手ですよ」
閲覧室の光が、ほんの少し揺れた。視界の上の方で紅葉データがぱらぱらと降り、透明な葉が掌の上にふわりと落ちる。指先で触れると、驚くほど冷たかった。ドアのところで、雪村沙羅が黙ってこちらを見守っている。腕を組み、唇の内側を噛んでいるのが分かる。視線には、柔らかさと警戒が複雑に絡まっていた。
「春日くん」
静かに名を呼ぶ。音の高さは変わらないのに、胸の奥にずしりと落ちた。「——あなたは、どうしたいの」
その問いは、離陸前のパイロットに最終確認を入れる管制官の声に似ている。フライトプラン通りに進むのか、それともここでエンジンを止めるのか。透真は、乾いた空気を深く吸い込んだ。肺の内部でざらりと擦れる感覚。鼻の奥に、金木犀のような淡い香りが一瞬混じる。外縁層の秋データがどこかで混線しているのだろう。紅葉と花と焦げた電子の匂いが、一斉に押し寄せてきた。
「——俺は」
舌がひどく重く、喉の狭いところで言葉の塊が何度も引っかかる。それでも、少しずつ前へ。「兄の標準軌道には、乗りたくないです」
閲覧室の空気が微かに震えた。誰かの息を吐く音が、いくつも重なる。「でも」
透真は、掌に広がる光の葉を握り込んだ。冷たさが皮膚を突き刺し、指先がしびれる。「兄の“核”は、放り出せない。ここから引きはがして、どこかに捨てるなんて、多分、俺にはできない」
言いながら、自分の声がいつになく低く落ち着いているのに気づく。怒りが振り切れた時の、静かな底のトーンだ。「……だから」
漏れた息が再びインターフェースを曇らせ、その白い霧がまたすぐ消える。その儚さに、胸の内側がきゅっと痛んだ。
「兄の設計図の中に、別のルートを引きます」
その瞬間、ガラスの向こうで氷室蓮の目がわずかに見開かれる。瞳孔が細く絞られ、視線が鋭くなる。
「勝手に、書き換えるってこと?」
蓮が問う。声は抑えているが、その底にうっすら高揚が混じっていた。「……たぶん、そうです」
透真は、自分の声に震えとは違う硬さ——決意に近いものが混ざっているのを感じた。「兄の計画を、“双子スイッチ”の標準軌道を、図書館の中から変えます。俺の手で」
沙羅が静かに目を細める。眉間に、ごく短い時間だけ複数の感情が走る。後悔、安堵、恐れ。それらが空路図の線みたいに上空で交差していた。
「それは——」
沙羅はいったん言葉を切り、視線を床に落とした。靴のつま先で光の葉を一枚、軽く弾く。葉はくるりと回転しながら宙に浮かび、ゆっくりと落ちる。
「図書館の“中立性”を、自分で壊すことになるよ」
「もう、中立じゃないですよ」
透真はすぐに返した。舌が珍しく滑らかに動く。「兄の“核”を、連理会と企業が使って、標準軌道を作ってる時点で。ここはもう、真ん中じゃない」
閲覧室の天井に吊られた照明が、わずかにきしんだ。「キィ」と小さな音が響く。重力の向きが僅かに傾いたような錯覚。「だったら、その軌道に、別の風向きを入れたいです」
透真はインターフェースに手を置き直した。掌の下で光が強まり、熱と冷たさが一度に押し寄せる。皮膚の感覚が研ぎ澄まされ、やがて少し麻痺していく。
「兄さんが用意した滑走路に、俺なりの障害物を置く。乱気流でもいい」
口にしながら、その例えの乱暴さに自分で気づく。そこに突っ込んだ誰かが落ちるかもしれない。それでも、レールの上を素直に走るより、まだマシな気がした。
「——氷室さん」
透真はガラスの向こうを見る。蓮の瞳が暗い青の中でじっとこちらを射返している。瞳孔が細くなり、その縁が冷たい光を帯びた。
「そのための、技術的な“裏道”、ありますか」
蓮はしばらく口を閉ざした。喉仏がゆっくり一往復する。唾を飲み込む小さな音が、マイク越しに伝わった。
「あるには、ある」
ようやく出た言葉は低く短い。「ただし——」
彼は視線をわずかに横へ逸らし、壁の向こうの、もっと遠い何かを見るような目をした。夜の滑走路の端から遙かな管制塔の明かりを見上げる視線に似ている。
「使った瞬間、司書長派も、連理会も、企業も。全部、君を敵に回す」
閲覧室の空気がさらに重くなる。肩にかかる圧力がじんと増し、密閉された容器の内圧が上がるイメージが頭に浮かぶ。耳の奥で「ゴウン……」という低い音が響いた。
「……もともと、その覚悟は、たぶん、もう」
透真は言いかけて、唇を結んだ。喉がからからに乾いて言葉が出にくい。舌の先に、さっきの番茶の渋みが再びよみがえる。味が、口内の粘膜にべったり張りついた。
「兄さんが先に、俺を“敵”にしてるんだと思えば」
自分で言いながら、その言葉の苦さに耐えきれず、奥歯を強く噛む。歯茎に鈍い痛みが灯る。ガラスの向こうで、氷室蓮が微かに笑った。口角がほんの少しだけ上がる。笑いなのか、自嘲なのか判然としない。
「了解」
彼は短く告げ、コンソールに両手を置いた。指先がキーを高速で叩き始める。「タタタッ」という小気味よい音がリズムを刻み、離陸前チェックリストの読み上げのように一定のテンポを保った。
「じゃあ、今から君は、図書館の全員にとっての“乱気流”になる」
その言葉が、閲覧室の空気を細かく震わせる。天井の照明がかすかに明滅し、紅葉データの葉が一斉にざわめいた。さらさらという音が波のように広がる。
「春日くん」
沙羅がもう一度だけ呼んだ。声は小さいが、芯がある。「——どんな形であれ、ここから先に踏み込んだら。“元通りの黄泉”には戻れないと思って」
その言葉は、秋の終わりに小さな飛行場の端に立って、二度と同じ景色には戻れないとどこかで悟る瞬間に似ていた。空は高く、空気は澄んで冷たい。春のぬるい風はもうどこにもない。
「はい」
透真は、インターフェースの光を握り込むように答えた。掌の皮膚が、熱と冷たさに同時に焼かれる。ヒリヒリした痛みと痺れが混ざり合う。
「戻るつもりは、最初から、なかったのかもしれません」
口から出た声は、自分でも驚くほど静かだ。その静けさの底には、何層もの感情が沈んでいる。怒り、恐れ、寂しさ。そして、ごく細い高揚の糸。氷室蓮が、最後のキーを叩いた。コンソールの画面に、見慣れないモードの名前が浮かび上がる。
『INTERNAL-ONLY/軌道編集サブルーチン:YU-TO-Δ(仮)』
その文字列を見た瞬間、透真の背を冷たいものが走った。「YU」と「TO」。兄と自分の頭文字が、一本のラベルの中で乱暴に繋がれている。
「仮、って」
思わず声が漏れる。かすかに震えが混じった。「正式名称は、あとで君が決めればいい」
氷室は淡々と言った。指先はもう動かない。代わりに視線だけが、透真を真正面から捉えている。
「でも、急いだほうがいい」
彼はガラス越しに天井を仰いだ。そこには、四季のデータが薄く重なり合って流れている。桜の花弁のピンク。夏の入道雲の白。紅葉の赤。雪の透明な粒。そのすべてが、一瞬だけ同時に強く輝いた。光が交錯し、眩しさで視界が白く弾ける。
「図書館の空——もう、限界だ」
その言葉とほとんど同時に、遠くで何かが軋む音がした。巨大な構造体が負荷に耐えかねて悲鳴を上げるような音。「ミシミシ」という低く長い振動が床から、壁から、空気から全身に伝わってくる。
透真は、インターフェースの光を握りしめたまま息を止めた。肺に溜まった空気が重くのしかかる。それでも、吐き出すことができない。——ここから、どこに向かう。兄が設計した航路の上で、自分が描こうとしている別のルート。それが誰かを救うのか、別の誰かを墜とすのか。答えはどこにも書かれていない。
はっきりしているのはただひとつ。黄泉の空は、もう安定した空域じゃないということだ。
次の瞬間、閲覧室の天井が眩い光で弾けた。四季のデータが渦を巻き、桜と雪と紅葉と入道雲が一斉に降ってくる。視界が白と赤と金の嵐に飲み込まれたところで、インターフェースの奥から、あの機械音声が冷たく囁いた。
『軌道編集サブルーチン——起動条件、満たされました』
その宣言が、黄泉の図書館の空にどんな乱れを生むのか。透真はまだ、知らない。
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第15章:墜落点の設計者 - 黄泉の図書館
「——ログ、始めるよ。それから、」
春日透真の声が、量子閲覧室の薄闇に吸い込まれていく。舌の奥に、さっき飲んだ番茶の渋みがねっとり貼りついたままだ。グローブの内側で指先がじわりと汗を吹き、合成布がきしむこすれ音が耳の奥にまとわりつく。視界の前面には、すでに例の警告文が滲み出していた。『警告 記録ID-YU-0342は現在、保全プロセス中です——』淡い白字が、紅葉色に染め上げられた量子層の空間にちらちらと反射する。
外縁層の「秋」は、光の葉でできている。肩の高さをふわりと舞い、空調の微かな風と同期するように、データの葉同士が擦れ合う「サラサラ」という音を立てた。その音を聞きながら、透真は喉の奥で引っかかる息を、そっと押し出す。胸の内側で、見えない高度計の針がじり、と一目盛り下がる。ここから先は、もう安全飛行の高度じゃない。彼はひと呼吸置き、「アクセスモード、手動。制限付き閲覧……そして、二重認証、開始します」と、わざと事務的な声を出した。
言葉で沈黙の隙間を埋めながら、両手をインターフェースの光のパネルにかざす。掌が触れた瞬間、冷たい光が一筋、鞭のように走り、皮膚を撫でていった。静電気の刺激が手首から肘、さらに肩へとじわじわ這い上がる。足元の床は、見た目こそ艶消しの黒い板張りのままだが、膝の裏から微細な振動がじかに伝わった。エンジン始動直後、機体全体が回転数に合わせてじんと震え始める時の、あの「まだ地上だが、もう地上ではない」揺れだ。背後で、控えめな靴音がひとつ。
「——春日くん。近くで」
声に振り向くと、雪村沙羅がドアのところに立っていた。白い司書服の袖口からのぞく手首は細く、血管が薄く浮かんでいる。彼女の周囲だけ、空気の密度がほんの少し違うように感じた。図書館特有の紙とオゾンの匂いに紛れて、乾いた沈香の香りがふっと鼻先をかすめる。「そんな顔で、ログを開くものじゃないよ」
沙羅は、ふわりと口角を上げて言う。唇の線は柔らかいが、瞳の奥はわずかに陰っていた。その暗がりが、透真には下降気流の渦みたいに見える。「……まず、そんな顔、してましたか」自分の声が、想像より掠れている。舌が上顎に張りついて、言葉の滑りが悪い。口の中は、秋風に晒された滑走路のアスファルトみたいにざらついていた。
「してた。離陸前に『これで本当に飛ぶのか』って疑ってるパイロットの顔」
沙羅はそう言いながら、閲覧ブースのすぐ外まで歩み寄る。足元の光の葉が、彼女の靴先に当たってぱらぱらと跳ねた。司書服の裾がすれる音が、布同士の軽い摩擦として耳に届く。「……静かに……飛ばないわけにも、いかないので」透真が、やっとのことで言葉をつなぐと、沙羅は短く息を吸った。それだけの動きが、この密閉された空間ではやけに大きく聞こえる。
「氷室さん、来てる?」
「ええ。もう一度、隣の観測ブースに」
沙羅の視線が、防音ガラス越しの隣室へ滑る。青白い監視光の中、氷室蓮が背を丸めて座っていた。ヘッドセットのアームが頬に沿い、肩から胸にかけてケーブルが無造作に絡んでいる。姿勢の悪さも含め、乱気流の中、計器だけを凝視している副操縦士の影が重なった。彼はこちらの視線に気づくと、顎を少し上げる。その動きに合わせ、ガラス一枚隔てた椅子が「ギシ」と軋んだように、足元から小さな振動が立ち上がる。
「春日くん」
沙羅の声が、さっきより半音ほど低く落ちる。「……ここから先は、本当に、戻れないかもしれないよ」
透真は、指先をインターフェースの光から離した。冷たさがじわじわ引いていき、その跡に残る汗が、今度はひやりと掌を撫でる。「たぶん、戻れないのは、もっと前から……なんです。だから」自分でも驚くほど、小さな音量だ。耳の内側で自分の鼓動が「ドク、ドク」と鈍く跳ねて、沙羅の声の上に重なる。
「兄のログに最初に触った時から、もう、戻ってないんだと思います。規則の上でも、その……ちょうどその時……気持ちの上でも」
沙羅は、しばらく口を閉ざした。空調の低いうなりと、照明の「ジジジ」という微かな電流音が、間を埋める。足元を舞う光の葉が、彼女の靴の影の中で揺れた。「……じゃあ」
彼女がようやく声を出す。声の表面に、さっきまでなかったざらつきが混じった。「せめて、操縦桿を握る手だけは、自分で決めて」
そう言ってひとつ深く息を吸い、沙羅は半歩だけ後ろに下がる。距離が開くにつれ、沈香の匂いが薄まり、代わりに金属と冷却材の匂いが濃くなる。彼女はインターホンに手を伸ばし、「氷室さん、準備は?」と声を送った。スピーカーがザザッとノイズを吐き、蓮の低い声が返る。
「——こっちはOK。今日のセ...