第21章: 薄桃色の崩壊ログと、新プロトコルの朝に
観測窓の縁が、うっすらと明るんでいた。 外縁の通路に足を踏み入れた瞬間、春日透真の足元で床が——ゆら、と水面のように光を返す。 薄桃色の粒子が棚と棚の隙間からこぼれ出し、まだ冷たい空調の風に押されて、ふわりと舞い上がった。 桜データの散り始めか、と透真は目を細める。 鼻先には、線香とコピー紙と湿った古紙のにおいが重なっていた。 寺の本堂と大学図書館を無理やり一つの建物に押し込んだような空気が、胸の奥にゆっくり沈んでいく。 その朝一番の巡回に、今日は新しく支給された薄型端末が同行していた。
端末の画面には、棚の状態を示すログが細い文字列で流れている。 階層ラベル、充填率、ステータス。 『未収束』『保留』『正常』。 足元のフロア表示の一部で、歯抜けになった行が黒い穴のように空いている。 崩壊の痕が、そのまま表計算ソフトのセルに残されているみたいだ。 透真が視線を落としたとき、通路の先から声が届いた。 「……今では、おはようございます、ですね」
先に通路に出ていた同僚の司書へ、透真は軽く会釈した。 名札こそついているが、ここでは互いを苗字で呼ぶことはほとんどない。 通路で交わされるのは、いつも「おつかれさま」と「お願いします」ばかりだ。 「春日さん、おはようございます」
中堅どころの男性司書が、春の光を一枚肩に掛けたような笑顔で端末を振ってみせる。 画面の端には、小さく『Return JSON』の文字。 「見ました? その後、これ。 新プロトコルだってさ」
声を落としながらしゃべる。 棚の間に余計な音を吸い込ませないよう、いつもより一段低い音量だ。 「昨日、マニュアル一応読みましたけど……」
透真は自分の端末の表面を指でなぞり、液晶の冷たさを確かめる。 「たぶん、棚の生の状態をそのまま返すやつですよね。 編集なしで」
「そう、それ。 ちょっと味気ないよね。 前みたいに『おすすめの再会』とか、さっと紛れ込ませられなくなっちゃってさ」
口調は冗談めいているのに、彼の指先は妙に慎重だった。 木目調に見えるが、実際には量子層の膜でできた棚板を、そっと撫でるように払っていく。 実際の埃なんてないのに、身体だけは昔の図書館と同じ手順をなぞっていた。 「そのぶん、勝手に編集して怒られる件数は減るでしょ、きっと」
透真は、口角をわずかに上げる。 喉の奥で、小さな空気の揺れだけが「くすっ」と鳴った。 「まあ、そうですねえ。 外だと『Return JSON』って、要するに『余計なことせず、そのまま返せ』って意味ですし」
「ね」
同僚が肩をすくめ、端末のボタンを軽く叩く。 それに連動して棚のラベルがふっと光り、状態ログが更新された。 今の表示は、『正常』。 光の粒が棚の縁を走り抜け、細い道路に流れる車列のように移動していく。 「……滑走路、減りましたけどね」
彼がぽつりと付け加えた。 「前みたいに、あっちとこっちをこっそり繋いでさ、『いい感じの便』飛ばしたり、もうできないもん」
「今は……直行便しか飛ばせないってことですね」
透真は端末の画面へ目を落としながら答える。 語尾をやややわらかく落として、「そのかわり、事故も減るっていうか」
「ですよねー」
同僚は笑って、軽く会釈し、別の通路へと姿を消した。 足音はほとんど響かない。 その代わり、どこか遠くでページがめくられる音が、水音とまじって「ぱら……ぱら……」と流れてくる。 床には、巡回ルートを示す矢印が薄い青で浮かび上がっていた。 その矢印からわずかに外れた先——例の棚がある。 『春日 悠真』と刻印された背表紙。 未完の本。 崩壊のあと、無理やり再結晶させた記憶核の断片。
見ないようにしていても、視線の端がそちらへ引かれそうになる。 足首に、見えない糸が巻きついてくるような感覚だ。 透真は、端末の画面をわざと強く見つめた。 今見ている列のステータスは、『未収束:要観察』と浮かぶ。 「……ここまで、後で」
自分にだけ届く小さな声で呟き、ルートどおりに足を進める。 矢印が滑走路灯のように淡く明滅し、彼を別のフロアへ誘導していった。 ◇
受付フロアに出ると、照度が少し上がった。 観測窓から差し込む現世の光が、データ越しに拡散して、床一面に水色のグラデーションを落としている。 遠く、電車の通過音が「ゴトン……ゴトン……」とくぐもって響いた。 頭上のどこかで、現世の線路を走る車輪の振動が、わずかな揺れとなってこの階層にしみ込んでくることがある。 カウンターの端には、コンビニのロゴ入りの紙カップがひとつ。 フタの隙間から、甘い香りがふわりと漏れていた。 『桜餅ラテ』とラベルに印字されている。
その向こう、閲覧席のいちばん窓際。 制服姿で端末に向かっている背中を、透真はすぐに識別した。 水無瀬紗月。 春の制服は冬より布が少し薄く、肩のラインが細く見える。 その分、彼女の髪がディスプレイの光を受けて、ところどころ透明に透けていた。 「……さて」
カウンター端末に職員ログインを済ませると、透真はひと呼吸置く。 紗月の画面に正面から近づきすぎないよう、斜め後ろから回り込んだ。 端末の画面には、体育館の紅白幕。 壇上の校長。 その手前で、制服の列が波のように揺れている。 桜の花びらデータが光の粒子となって舞い落ちていた。 卒業式。 現世の春。 「水無瀬さん」
声をかけると、紗月の肩が「ぴくっ」とわずかに震えた。 振り返るまでの一瞬、彼女の呼吸が浅くなる。 「あ、春日さん」
椅子ごと少し振り向き、慌てて画面の明るさを落とす。 「おはようございます……って言うべきかどうか、ここだと微妙ですよね」
「出勤簿の上では、一応、朝です」
透真は、彼女の真正面ではなく、少し斜め横に立った。 「今日は、卒業式の……?」
「はい。 データ届いてたから。 一応、確認しとこうかなって」
紗月は画面をちらっと見てから、紙カップを指でつつく。 フタが「カサッ」と鳴った。 制服の布から、洗い立ての柔軟剤の匂いがふわりと立ち上る。 その下に、甘すぎない、少し冷たい香りが混じっていた。 「どうですか。 現物と比べて」
「マジで、こっちの方がきれいですよ。 光とか……でも」
そこで言葉が切れる。 喉のあたりが、いったん上下した。 「でも、鼻がムズムズしないのは、こっちだけですね。 花粉、ないから」
画面の中で舞う桜は、花粉を飛ばさない。 透真は、観測窓の外側に広がる現世の空——うっすら黄ばんだ霞の層を思い浮かべた。 「その端末、前に……」
言いかけて、視線をそっと端末の隅へ滑らせる。 以前、紗月が「将来の死亡記録予約」のページを開いていたときと同じナビゲーションタブ。 今は、そこに薄いグレーで『キャンセル済』の文字。 紗月はすぐに気づいたようだった。 目を細め、苦笑に近い表情を浮かべる。 「うん。 一応、消しといた。 っていうか、キャンセル扱い?」
片手をひらひらさせる。 指先が少し落ち着きなく動いた。 「今のところ、予約する予定はないから。 死ぬスケジュールを、就活エントリーみたいに前倒しで決めるの、なんか違うじゃないですか」
「就活エントリーは、前倒しで決めるものですけどね」
口に出してから、透真は自分の言葉にわずかに驚く。 こんな軽い冗談が喉を抜けたのは、いつ以来だろう。 紗月が「はっ」と吹き出す。 「ですよね。 親にも同じこと言われました。 『死ぬことより進学考えろ』って」
視線が再び画面へ戻る。 体育館の奥で、自分によく似た後ろ姿が揺れていた。 「でも、あれ見せてもらったから。 ……なんか、『どう死ぬか』じゃなくて、『どう生きてるか』考えないと、たぶん、もったいないなって思って」
最後の語尾が、少し早口に転がる。 言いにくい本音ほど速度が上がる癖を、彼女は隠そうとしない。 「今は、とりあえず、生きてる間の予定表だけ、いっぱい書いとこうかなって」
「生きてる間の予定表なら」
透真は、カウンター越しよりも少し柔らかい声を選ぶ。 「いくらでも書き直せますからね。 こっちと違って」
「こっち」
紗月が端末をトントンと指で叩く。 「こっちは、一回保存すると、変更、めちゃくちゃ大変なんですよね」
「……ええ。 まあ」
「大変」という言葉を、彼女の方から出してくれたことに、胸の奥で何かがすっと軽くなった。 ここで「よく考えてください」とか「生きろ」とか、押しつけるような言葉を乗せてはいけない。 指先が端末の縁を一度なぞって、彼は別の文を選ぶ。 「何か……困ったときは、一応、ここにも『窓口』ありますから」
「苦情受け付け窓口?」
「それも、あります」
「じゃあ、また来ます。 なんかあったら」
紗月は紙カップを持ち上げた。 フタの縁に、桜色のクリームが「とろっ」と貼りついている。 ひと口すすると、甘い香りがもう一段階、濃くなった。 「ここ、相変わらず変な匂いしますね。 お寺とコピー機」
笑いながら言う。 「うちの標準仕様です」
透真も、喉の奥を鳴らす。 小さな笑い声が空気に散り、周囲の空気がほんの少し澄んだように感じられた。 ◇
午前中の予約枠がひと通り片付き、閲覧席の端末が順番にスリープモードへ落ちていく。 画面の光が「す……」と引いていくたび、棚からこぼれる桜色が逆に際立った。 「春日さん、午前分おつかれさまです」
カウンター奥から、事務担当の女性が顔を出す。 「午後、予約少ないから、休憩ちょっと長めでも大丈夫ですよ」
「ありがとうございます。 一応、三十分で戻ってきます」
言葉と違い、身体の芯がふっと緩む。 見えない戦場から、管制塔のそばのベンチに戻った飛行士みたいに、肩に乗っていた重さが少しだけ軽くなった。 職員用通路を抜け、休憩室の扉の前に立つ。 ドアを開けると、「ふわっ」と温度が変わった。 空調の風が柔らかい。 電子レンジの残り香とインスタントコーヒーの粉っぽさが混ざった匂いが鼻をくすぐる。 「おつかれさまです」
先にいた別の司書が椅子から立ち上がりかけたが、透真の顔を見ると「あ、入れ違いで」と肩を回し、軽くストレッチして出ていった。 扉が閉まると、一気に静寂が降りる。 壁掛け時計の針が、「コチ、コチ」と律儀に音を刻んでいた。 炊飯ジャーの蓋を開けると、温かさが「もわっ」と立ち上る。 中には、少し黄がかった白米が、まだ一人分ほど残っていた。
「……いただきます」
独り言のように呟き、ラップにご飯をよそって塩をひとつまみ。 手のひらで「ぎゅっ、ぎゅっ」と軽く握ると、指先に米粒のべたつきがまとわりついた。 ポットから熱湯を注ぎ、インスタント味噌汁の袋を破る。 粉末が「さらさら」と流れ、湯の中で「くるくる」と渦を巻いた。 乾燥ネギがふわっと浮かび、すぐに柔らかくほどけていく。 広がる湯気の中で、味噌と出汁の香りに、青いネギの匂いがかすかに混ざった。 その匂いをゆっくり吸い込むと、胸のあたりまで温度が落ちていく。
窓際のソファに腰を下ろす。 布地は少し擦り切れ、糸がぴんと飛び出している箇所もあった。 腰を沈めると「ぎしっ」と一度鳴り、しだいに身体の形に馴染んでいく。 味噌汁の椀を両手で包むと、掌に熱がじりじりとしみ込んだ。 唇を近づけると、思わず「ふー、ふー」と息を吹きかけてしまう温度。 一口すする。 塩気が舌に柔らかく乗り、喉をなめるように落ちていった。 胃のあたりが「じんわり」と広がる。 もう一口。 塩おにぎりをかじると、歯の裏に米の甘みが貼りつく。 味噌の香りと絡んで、妙に懐かしい味がした。 実験室でカップ麺をすすっていた夜の蛍光灯の白さが、不意に脳裏によみがえる。
外縁側の窓には、現世の春の空が薄くにじんでいた。 水色に、うっすら黄みがかったベール。 花粉の霞が、データ越しにもざらりと見て取れる。 遠くの線路を走る電車の音が、「ゴゴゴ……」と小さく響き、そのさらに奥から神社のお囃子のような音が「チンチン、ドン」と重なって届く。 食べ終わるころには、椀も手もすっかり温まっていた。 椀をテーブルに置いたとき、指先に残るかすかな湿り気が、まだ熱から離れたくないと言い張っているようだった。 休憩室の扉が、「コンコン」と軽くノックされる。 「春日さん」
顔をのぞかせたのは、さきほどの事務の女性だ。 「今日は本当に平和なので、少しくらい寝てもバチ当たらないですよ」
「その言葉、ログに残しておいてください」
透真が椀を軽く持ち上げながら言うと、彼女は「ふふっ」と笑い、扉を閉めた。 笑い声が遠ざかり、時計の音だけがまた支配権を取り戻す。 ソファに背中を預ける。 背もたれが「ふわっ」と沈み、肩甲骨が布にゆっくり包まれた。 目を閉じると、味噌と出汁の香りがまだ鼻の奥にとどまっている。
——雪と桜と蝉の声が、一度に押し寄せたあの時。
冬の崩壊の映像が、内側からフラッシュバックしてきた。 通路の床がばきりと割れ、季節同士が混線し、足元に黒い空洞が開いた感覚。 蝉の鳴き声と除夜の鐘が一つのノイズになって耳を刺した音。 胸のあたりが「きゅっ」と縮む。 喉に、急に砂を流し込まれたような乾きが走った。 ソファの布をそっと掴む。 爪が布地を押し込み、関節が白く浮き上がる。 その小さな痛みを手がかりに、今ここにある温度を確かめた。
——兄さん。
あの時、中枢で伸ばした手。 選んだスイッチ。 『春日 悠真として再起動』ではなく、『春日 透真として停止処理』に繋がるルート。 その結果、兄の記憶は未完のまま棚に残り、図書館は辛うじて再起動し、氷室蓮は量子層のどこかへ沈んだ。 「……」
温かい味噌汁が胃に落ちているのに、胸の奥の一角だけ、氷の欠片のように冷たい。 兄の棚を素通りして、ここで味噌汁を飲んでいる自分。 その事実が、内側からじわりと刺す。 「でも」
もらった条件を、一つずつ頭の中で拾い直す。 兄の記憶をこれ以上、恣意的に弄らないこと。 図書館の中立を、可能な範囲で守ること。 生者の予定は、生者の手に戻すこと。 湯気はもう薄く、味噌の香りがゆるやかにしぼんでいく。 椀の底に残った湯を飲み干すと、胃の重さがほんの少し心地よかった。 「十五分だけ」
さっき自分の口から出た時間を、頭の中でなぞる。 時計を見ると、針はほとんど進んでいない。 まぶたを閉じる。 暗闇の裏側で、桜色の粒子が「ふわ……ふわ……」と漂う。 眠りと覚醒の境界を、意識が行ったり来たりする。
——崩壊の音は、聞こえない。
——床は揺れない。
——足元に、虚空は開かない。
代わりに耳に届くのは、時計の「コチ、コチ」と、空調の「サー……」という一定のノイズだけ。 そのリズムに合わせ、呼吸も自然に整っていく。 身体が、ソファと一体になっていく感覚。 空の上でシートベルトに軽く縛られたまま、乱気流のない高度を飛んでいる途中のように、意識が静かに浮かび上がった。 やがて、それは薄い雲の層の中へ滑り込んでいく。 ◇
目を開けたとき、窓の外の水色が、少しだけ角度を変えていた。 現世の太陽が、ほんのわずかに移動したのだろう。 淡い光が、休憩室のテーブルの縁を細い筋となって走っている。 時計の針は、十五分をわずかに過ぎたところ。 「……まあ、誤差の範囲」
小さく呟き、上体を起こす。 背中に張り付いていたソファの布が、「ぺりっ」と剥がれる感覚があった。 午後の整理業務。 今日の担当は、“未完の棚”フロア——朝のシフト表にそう書かれていた。 端末をポケットに戻し、制服の前を指でさっと整える。 味噌と米の余韻がまだ口の中に残っていた。 それを一度飲み込み、休憩室を出る。 ◇
“未完の棚”フロアは、他のフロアよりほんの少し薄暗い。 照明の色温度が低く設定されているからだ。 とはいえ、完全な闇ではない。 蛍光灯の白い光が少しだけ黄味を帯び、棚の背表紙を静かに撫でている。 足を踏み入れた瞬間、空気の密度が変わった。 鼻腔に、金属と雨上がりのアスファルトの匂いがかすかに触れる。 外気ではなく、別の場所の記憶。 大学の実験棟の廊下で吸い込んだ、冷えた鉄と湿った床の匂いによく似ていた。
端末を起動し、画面に映し出された“未完”フラグ付きの棚のリストを眺める。 その中に、一つだけ、名前を見なくても位置で分かる棚がある。 一番奥。 通路の突き当たりから、右に三つ目の列。 そこに——兄の棚。 『春日 悠真』
背表紙の文字が、以前よりわずかに薄く見えた。 実際にフォントの濃度が変わったわけではないのだろう。 ただ、自分の目がここに慣れすぎてしまっただけかもしれない。 棚の周囲の空気が、他より少し濃い。 息を吸うと、胸の奥に微かな重さが生まれる。 耳を澄ますと、遠くで誰かが叫んでいる声が「ワッ」「オーイ」と断片になって届いた。 体育会系の掛け声。 大学のグラウンドで兄が走っていたときの残響かもしれない。
手が、勝手に前へ伸びそうになる。 指先が背表紙に触れれば、またいつものようにページが開くだろう。 未完の、途中で途切れた兄の人生。 「……」
足の裏が床に縫い付けられたみたいだった。 一歩踏み出すことが、兄を二度目に殺す行為のように思えてしまう。 ここに立ち尽くし続けるのは、離陸を何度も先延ばしする操縦士みたいなものだと、頭のどこかで分かっていても。 ——お前が決めろ。
崩壊の最中、兄の記憶核の中で聞いた声が、またここで空気を震わせた気がした。 「でさ」「まあな」と笑いながら話していた、あの調子のままで。
拳が、目的を持って握られる。 掴んだのは背表紙ではなく、自分の制服の裾。 指が布をぎゅっと引き寄せた。 「ここは、ここでいい」
声は吐息と一緒にこぼれ、棚の隙間へ吸い込まれていく。 手は背表紙に伸ばさない。 頭を、ほんのわずかに下げる。 それだけをして、身体の向きを変えた。 通路の別の方向——職員用メタデータ棚の方へ。
そこには、『職員将来計画』『勤務希望』などと書かれた抽象的なラベルが並んでいる。 まだ、ほとんど誰も本格的には触れていない、新しい棚だ。 一歩。 床が「きゅっ」と鳴った。 二歩。 三歩。 背後で、兄の棚の気配がゆっくり遠ざかっていく。 胸の中で何かが「パキッ」と音を立てた気がした。 氷が割れるときの音。 その下で、冷たい水が静かに広がるような感触が続いた。 ◇
職員用メタデータ棚の前には、小さな端末が備え付けられている。 画面は黒地に白い文字。 パスワードを打ち込むと、自分の名前が浮かび上がった。 『春日 透真/将来棚・仮配置』
指先でタップすると、画面の背景が少しだけ青みを帯びる。 新プロトコルのメニューが表示された。 『VIEW』
『EDIT』
『Return JSON』
最後の項目のところで、指が止まる。 「……」
さっき同僚とやりとりした言葉が、頭の中で反芻される。 「余計なことせず、そのまま返せ」という意味のコマンド。 編集前の生データを、そのまま取り出すための手順。 タップ。 「カチッ」とした擬似的な感覚が、指先から腕へ駆け上がる。 画面が切り替わった。 整然としたJSON構造が現れ、黒地に白い文字で鍵と値が並んだ。
{
"name": "春日 透真",
"role": "司書",
"location_candidates": ["黄泉図書館", "現世支局", "未定"],
"family_relation": "不確定",
"new_connections": "未定",
"health": "良好",
"notes": ""
}
目で一つずつ追っていく。 「未定」「不確定」の文字列があちこちに点在していた。 空白。 余白。 それは、自由でもあり、不安でもある。 ここに「現世支局」「転職」「結婚」といった具体的な文字列を書き足すことも、おそらく簡単にできる。 そちらの方が、楽かもしれない。 何かを確定させておきたい衝動が、喉の奥まで上がってきた。 呼吸が一瞬だけ止まりかける。 胸の内側で、見えないピストンが慌ただしく動き出し、空気を行き来させた。
「Return JSON」
透真は、画面に向かって小さく読み上げる。 自分の声が端末の表面で跳ね返り、耳の内側に戻ってきた。 「そのまま返してくれるだけで、今はいいや」
誰に向けて言っているのか、自分でも曖昧だ。 端末か、図書館全体か、それとも——見えない兄か。 『EDIT』のボタンには触れない。 『保存』も押さない。 画面の向こう側で、文字列がふっと揺らいだように見えた。 黒地の隙間から、外の空の色がにじみ出してくる。 淡い水色と、花粉の霞を含んだ黄みがかった光。 JSONの括弧の隙間から、その光が「すーっ」と流れ込んでいくようにも見えた。
端末をスリープモードに戻し、台座に静かに置く。 観測窓の方へ歩き出した。 足音が、棚と棚の間で柔らかく反響する。 遠くで電車の走る音が、「カタン、コトン」と続いていた。 さらに奥から、祭囃子のような音が、データの層を通り抜けて「ひゅるる……」と届く。 観測窓の前に立つ。 ガラスではなく、透明な量子膜。 そこから、現世の春の空が薄くにじんで見えた。 水色。 うっすらとした黄ばみ。 高架を走る電車の銀色の車体が、太陽光を受けて「きらっ」と光る。
指先で窓の縁に触れる。 冷たさはほとんどないが、かすかな振動が皮膚に伝わった。 ここが、世界と世界の接触面であることを、身体の感覚で理解させる震え。 「兄さん」
窓の向こうを見たまま、透真は言う。 声は、さっき兄の棚に向けたときと同じくらい静かだ。 「俺、ちょっと先に行くから」
「先」がどこを指すのか、自分でもはっきりとは決めきれていない。 黄泉に残るのか、現世に戻るのか。 あるいは、まったく別の出発地点を見つけるのか。 ただ一つだけ分かるのは——その行き先は、もう兄の人生の延長線上ではなく、自分の選択の先にあるということだけ。 観測窓の向こうで、風が吹いたように見えた。 水色の層が「さあっ」と揺れ、光が細かな波紋になって広がっていく。 ノイズが、ほんの少し走った。 空の一部が粒子状にざらつき、すぐにまた滑らかさを取り戻す。
それは、この世界がまだ完全には安定していない証拠でもあり、同時に——これからも揺らぎ続ける余地が残っているという予感でもあった。 透真は窓から目を離さないまま、ゆっくりと息を吸い込む。 線香とコピー紙と古い本の匂いに、外から入り込んだ春の空気の薄い匂いがわずかに混ざっていた。 保存されていない未来が、窓の向こう側に広がっている。 そこへ向かう飛行計画は、まだどこにも登録されていない。 フライトプランの欄は、空白のまま。 ——この空を、どんな色で埋めていくのか。
——その答えは、今はまだ、どこにも記録されていない。
観測窓の表面で、淡い光がひとつ、ほとんど音もなく弾けた。 その微かな瞬きを胸の奥に刻みながら、彼は目の前の春の空を、もう一度しっかりと見上げた。
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第21章: 薄桃色の崩壊ログと、新プロトコルの朝に - 黄泉の図書館
観測窓の縁が、うっすらと明るんでいた。 外縁の通路に足を踏み入れた瞬間、春日透真の足元で床が——ゆら、と水面のように光を返す。 薄桃色の粒子が棚と棚の隙間からこぼれ出し、まだ冷たい空調の風に押されて、ふわりと舞い上がった。 桜データの散り始めか、と透真は目を細める。 鼻先には、線香とコピー紙と湿った古紙のにおいが重なっていた。 寺の本堂と大学図書館を無理やり一つの建物に押し込んだような空気が、胸の奥にゆっくり沈んでいく。 その朝一番の巡回に、今日は新しく支給された薄型端末が同行していた。
端末の画面には、棚の状態を示すログが細い文字列で流れている。 階層ラベル、充填率、ステータス。 『未収束』『保留』『正常』。 足元のフロア表示の一部で、歯抜けになった行が黒い穴のように空いている。 崩壊の痕が、そのまま表計算ソフトのセルに残されているみたいだ。 透真が視線を落としたとき、通路の先から声が届いた。 「……今では、おはようございます、ですね」
先に通路に出ていた同僚の司書へ、透真は軽く会釈した。 名札こそついているが、ここでは互いを苗字で呼ぶことはほとんどない。 通路で交わされるのは、いつも「おつかれさま」と「お願いします」ばかりだ。 「春日さん、おはようございます」
中堅どころの男性司書が、春の光を一枚肩に掛けたような笑顔で端末を振ってみせる。 画面の端には、小さく『Return JSON』の文字。 「見ました? その後、これ。 新プロトコルだってさ」
声を落としながらしゃべる。 棚の間に余計な音を吸い込ませないよう、いつもより一段低い音量だ。 「昨日、マニュアル一応読みましたけど……」
透真は自分の端末の表面を指でなぞり、液晶の冷たさを確かめる。 「たぶん、棚の生の状態をそのまま返すやつですよね。 編集なしで」
「そう、それ。 ちょっと味気ないよね。 前みたいに『おすすめの再会』とか、さっと紛れ込ませられなくなっちゃってさ」
口調は冗談めいているのに、彼の指先は妙に慎重だった。 木目調に見えるが、実際には量子層の膜でできた棚板を、そっと撫でるように払っていく。 実際の埃なんてないのに、身体だけは昔の図書館と同じ手順をなぞっていた。 「そのぶん、勝手に編集して怒られる件数は減るでしょ、きっと」
透真は、口角をわずかに上げる。 喉の奥で、小さな空気の揺れだけが「くすっ」と鳴った。 「まあ、そうですねえ。 外だと『Return JSON』って、要するに『余計なことせず、そのまま返せ』って意味ですし」
「ね」
同僚が肩をすくめ、端末のボタンを軽く叩く。 それに連動して棚のラベルがふっと光り、状態ログが更新された。 今の表示は、『正常』。 光の粒が棚の縁を走り抜け、細い道路に流れる車列のように移動していく。 「……滑走路、減りましたけどね」
彼がぽつりと付け加えた。 「前みたいに、あっちとこっちをこっそり繋いでさ、『いい感じの便』飛ばしたり、もうできないもん」
「今は……直行便しか飛ばせないってことですね」
透真は端末の画面へ目を落としながら答える。 語尾をやややわらかく落として、「そのかわり、事故も減るっていうか」
「ですよねー」
同僚は笑って、軽く会釈し、別の通路へと姿を消した。 足音はほとんど響かない。 その代わり、どこか遠くでページがめくられる音が、水音とまじって「ぱら……ぱら……」と流れてくる。 床には、巡回ルートを示す矢印が薄い青で浮かび上がっていた。 その矢印からわずかに外れた先——例の棚がある。 『春日 悠真』と刻印された背表紙。 未完の本。 崩壊のあと、無理やり再結晶させた記憶核の断片。
見ないようにしていても、視線の端がそちらへ引かれそうになる。 足首に、見えない糸が巻きついてくるような感覚だ。 透真は、端末の画面をわざと強く見つめた。 今見ている列のステータスは、『未収束:要観察』と浮かぶ。 「……ここまで、後で」
自分にだけ届く小さな声で呟き、ルートどおりに足を進める。 矢印が滑走路灯のように淡く明滅し、彼を別のフロアへ誘導していった。 ◇
受付フロアに出ると、照度が少し上がった。 観測窓から差し込む現世の光が、データ越しに拡散して、床一面に水色のグラデーションを落としている。 遠く、電車の通過音が「ゴトン……ゴトン……」とくぐもって響いた。 頭上のどこかで、現世の線路を走る車輪の振動が、わずかな揺れとなってこの階層にしみ込んでくることがある。 カウンターの端には、コンビニのロゴ入りの紙カップがひとつ。 フタの隙間から、甘い香りがふわりと漏れていた。 『桜餅ラテ』とラベル...