走っていた。肺が焼けるほど空気を吸い込みながら、黄泉の図書館の中枢へ向かう通路をただ前へ。もうそこは「廊下」というより、やたら長い滑走路に変わっていた。足元で床がわずかにうねり、天井パネルに映る緑がかった空の色が、視界の端でちらちら揺れる。靴底が、「ぴちゃ」と湿った音を立てた。磨き込まれた黒い床は、石に見えて、実際には薄い水膜が張られた水面みたいに、踏むたび遅れて波紋を返してくる。
「春日さん、こちらです」
曲がり角の手前で、氷室 蓮の声が低く響く。振り向くと、彼は非常灯だけがぼんやり灯る横道の入口に立っていた。背後の窓から入り込む緑の空の光を背負って、シルエットがいつもより細く見える。近づくと、彼は息を吐くように言った。
「ギリ、定刻。……後になって、後悔されると困りますけど……間に合いましたね」
腕時計も見ずに笑う。その笑みのどこまでが冗談で、どこからが本気なのか、透真には読めない。鼓動だけが耳の内側で派手に鳴り、狭い通路の空気を押し出していた。喉に張り付いた乾きが邪魔をするのを無理に押し退けるように、言葉を探す。
「——条件の確認、もう一回だけさせてください」
声を出した瞬間、喉の奥がひりついた。横道に入り込んだ途端、空気の匂いが変わる。金属と線香を無理に混ぜたみたいな、冷たく乾いた匂いが肺の奥に突き刺さってきた。氷室 蓮は「ですよね」とかすかに頷き、親指で奥を指す。
「中でやりましょう。ここ、音の反射が悪い」
さらに踏み入ると、足音の響き方が変わった。さっきまでのコツコツという硬い反響に、ちゃぷ、ちゃぷ、と細い水音が重なってくる。照明の出どころも、天井からではなく足元へ移っていた。青白い光が床から霧のように立ち上がり、黒い表面を石畳にも水面にも見えない曖昧な質感に変える。冬の底へ沈んでいくような冷気が、靴の中まで忍び込んできた。
息を吸い込むと、喉が薄い膜で一枚ずつ重ねられていくような妙な違和感がついてくる。部屋の中央に、椅子がひとつぽつんと置かれていた。余計な部分をそぎ落とされた操縦席、そんな印象だ。背からは細いコードが何本も伸び、肘掛けには心拍センサーがいくつも貼り付いている。金属の縁が、床からの光をもらって鈍く光った。そのすぐ脇に、雪村 沙羅が立っていた。いつもより血の気の薄い顔で、胸に挟んだファイルをぎゅっと抱え込んでいる。
「春日さん」
軽く頭を下げる。声は落ち着いているのに、語尾がわずかに急ぎ足だ。彼女は胸の前でファイルを開きながら、事務的な口調を選ぶ。
「最終確認だけ、させてくださいね。ただし——双子スイッチ儀式への参加意思が任意であることは変わりません。この場で取りやめることも、もちろんできます」
何度も聞かされてきた定型文。それなのに、今日は一語ごとに重さが増して胸の中へ沈んでいく。透真は椅子の横に立ったまま、指先をズボンの縫い目に押し付けた。
「……だが、参加します」
自分で言いながら、掌の内側がじっとり汗を蓄えていくのがわかる。指先だけは氷に触れたみたいに冷え、相反する温度が皮膚の下で押し合いを始めた。ここで引き返す選択肢は、もうどこかへ置いてきてしまった。喉を少し開き直して、続ける。
「条件も、もう一度。時間制限は——」
「一回の同期は、最大で十三分」
氷室 蓮が、いつもの調子で先回りする。口の端が、「結論から言うと」と続けかけて、そこで止まった。彼は軽く咳払いをして言い直す。
「それ以上は、脳のほうがオーバーヒートします。途中で、僕らが強制解除することもありえます」
「強制解除の合図は、あの三回の——」
「はい。心拍モニタのアラーム音が三回連続で鳴ったら、すぐに意識を『こちら側』に戻すイメージを強くしてください。突然、来た道を逆流して戻ってくる感じで」
来た道。滑走路を逆向きに走って戻る。頭の奥で、その映像が雑に組み上がる。「戻ってこられなかったら?」と口にした瞬間、部屋の冷気が一段階増したように感じた。
「その後、どうなるんです」
自分の声を聞きながら、背筋が硬く板みたいに固まる。氷室 蓮は視線を一瞬だけ宙に泳がせ、すぐに事務的な質感へ切り替えた声に乗せる。
「その場合はこちらで観測を終了します」
終了——という柔らかい言葉の先で、空白が口を開けている。霧のせいで見通せないだけで、何かが確かにそこへ続いている。頭の隅に、推進力を失った機体が空中で静止する映像が、勝手に浮かんだ。
「観測を終了、って……」
細部を確かめようと必死に質問を重ねる自分を、どこか斜めから見ているもう一人がいる。ルールの隙間を埋める間だけ、恐怖が少しだけ薄まる。そんな自分の癖を、透真は嫌というほど知っていた。雪村 沙羅が、ファイルを少し持ち上げる。
「記録上は、『中断』になります。春日さんご本人の主観がどうなるかは……今では、正直、誰にも言い切れません」
曖昧にごまかそうとしない、その正直さが骨にまで染み込んでくる。「……了解です。あと、強制解除の権限がこちら側にあるっていう条件は、まだ生きてますか」
氷室 蓮は素直にうなずいた。
「ええ。その上で、あなた自身が『戻る』と決めたら、どの段階でもこちらから補助します。途中でやめたからといって責任を問う人間は、少なくともここにはいない」
その言い方は、紗月に話したときの自分の声に似ていた。あのときも「途中でやめてもいい」と、無責任なほど簡単に言った。氷室 蓮が椅子の背を軽く叩く。
「じゃ、始めましょうか」
金属が「コン」と乾いた音を跳ね返す。「離陸前に、深呼吸をいくつか」
胸の奥で、冷えていたエンジンがゆっくりと回転数を上げ始める。椅子に腰を下ろした瞬間、背中に貼り付いた金属の冷たさが、背骨を通って頭のほうへ駆け上がってきた。シートベルト代わりの細いバンドが肩と腰を軽く押さえ、身動きを制限する。肘掛けのセンサーが肌に触れ、「ぴ」という小さな電子音が短く鳴る。足元の床がわずかに沈み、青白い光が一段階強くなったように見えた。
「では、氏名を。ゆっくりで大丈夫です」
雪村 沙羅がファイルを見ながら言う。透真は、一度唾を飲み込んでから口を開いた。
「春日……透真。春日 悠真」
自分と兄の名前を続けて口にすると、順番だけで重さが変わる。喉の内側で、薄いガラス板を指で割っているような感覚が生まれた。声が冷えた空気に触れた途端、ぱりんと割れて散っていく。氷室 蓮の声が、上から降りてきた。
「幼いころの共有記憶を、思い浮かべてください。七五三、写真館。ついに……ですね?」
視界の端に、赤と青の千歳飴の袋がちらりと揺れる。暗いスタジオ、立てかけられた背景布の匂い。フラッシュの白光が瞼を貫き、綿入れの着物が背中に重たくのしかかる。隣では同じ柄の羽織を着た悠真が、退屈そうに足をぶらぶらさせていた。古い薬品の匂いが染みついた台紙、祖父母が選んだ古いスタジオの空気。
「同じ着物、同じ草履、同じ髪の分け目。——そこから、片方を少しだけずらすイメージを」
片方を、ずらす。自分が半歩下がってフレームの端へにじり、悠真が真ん中に滑り込む。カメラマンの「いいね、双子さん」という軽い声が、胸の内側に小さな棘みたいに刺さる。
「——春日さん」
氷室 蓮の声が、すこし低く落ちた。
「ここから先は、細かいことは考えなくていいです。離陸は、自動操縦みたいなものなので」
「……勝手に飛び立つ?」
「そう。あなたがブレーキを踏まなければ、ね」
ブレーキを踏める場所は、もうそう多くない。瞼を閉じると、床からの青い光が赤い膜の裏側へ染みこんでくる。耳の奥で、「ザザ……」と水を流し込まれたみたいな音が回り始める。耳管の中まで冷たい水が入り込んでいく感覚。鼻腔に、冬の空気がゆっくりと満ちていく。澄んでいるのに、わずかに薬品と樟脳が混ざった匂い——葬儀場の控え室で、コートの山から立ちのぼってきた匂い。
「同期準備、開始」
頭の上から落ちてきた機械音声は、思ったより柔らかかった。男とも女ともつかない、中性的なトーンで淡々と数字を読み上げていく。
《心拍数、八十九。呼吸レート、やや上昇》
自分の体に実況字幕をつけられているような違和感。数値が一拍遅れて、身体感覚を追いかけてくる。視界がふっと揺れた。桜並木の薄い桃色が広がり、その上に真夏の青空が重なり、蝉の声が一斉に鳴きだす。紅葉の赤が斜めから差し込み、粉雪がその上に降りかかる。四季の景色が一枚にぐしゃりと押しつぶされ、そのまま巨大なフィルムになって眼球の裏側を覆っていく。頭が内側から引っ張られ、身体の重心が前後左右にばらばらにずらされた。
喉の下あたりまで、吐き気がせり上がってくる。
《同期率、二十八パーセント……四十一……》
数字が跳ねるたび、床が「ぐら」と傾いた。荒れた海に浮かぶ甲板が、波に持ち上げられては落ちていく。そのたびに内臓が一拍遅れて揺れ、肋骨の内側でばらばらに動き回る。春日 透真は、椅子の肘掛けを力いっぱい握りしめた。指の骨がきしむ。掌の汗が金属に張り付き、その冷たさが指の節々まで侵入してくる。
《——私、死んだ後のことくらい、自分で決めたいんです》
別の声が、ノイズの隙間から浮かび上がった。水無瀬 紗月の声。あの日、開館前の静かな閲覧席。蛍光灯の白い光の下で、彼女は視線をテーブルに落としたまま喋った。
「ここに来る日とか、誰に見られるかとか。なんか、そういうの、ぜんぶ誰かが決めちゃうの、イヤで」
彼女の指先が、透明なテーブルの縁をゆっくりなぞっていた。爪がアクリルを擦るかすかな摩擦音が、今の耳の奥で再生される。——じゃあ自分は何をしている。兄の死後の時間を、自分の都合で組み替えようとしているだけじゃないのか。紗月が「予約」しようとした未来を止めたくせに、自分は過去へ勝手に侵入している。
《同期率、六十五パーセント。心拍、百を超過》
「——春日さん、呼吸」
遠くから、雪村 沙羅の声が滑り込んでくる。肺が空気を吸い込み損ねている。目を開けようとしても、まぶたが鉛みたいに重い。代わりに、別の視界がゆっくり立ち上がってきた。
冬の光。蛍光灯より少し黄味がかった、葬儀場特有の照明。白布を掛けられた壁。正面には、花で縁取られた祭壇。視界の下のほうに、自分の肩が見える。喪服の黒い布地。胸元の白い花。視線が上へ滑るにつれ、祭壇中央の遺影にたどり着く。そこに映っている顔は——春日 透真だった。
笑っている。証明写真用に撮った、少し作り物めいた笑み。紺色のスーツ。現世での最後の冬に撮ったものだ。胸が、空気の吸い方を一瞬忘れた。肺が動かない。
《同期率、七十八パーセント。安定域に接近》
機械音声が、別の階のテレビから聞こえるニュースみたいに遠い。後ろのほうで誰かが椅子を引く音がして、ギギ、と乾いた響きが床を伝う。焼香の煙が鼻腔を満たす。線香と菊と畳の匂いが混ざり、暖房で乾いた空気に絡みついて喉に貼りつく。
「このたびは……」
頭を下げる声。喪主席の横で、父が深く腰を折っているのが視界の端に入る。母の肩が、布団の中の小さな塊みたいに上下している。黒い服の背中が、微妙なリズムで揺れている。——これは、兄の視点だ。
焼香台へ向かって身体が歩き出す。足裏が畳の目を踏みしめ、喪服のズボンの布地が膝のあたりで擦れる。指が線香の束をつまみ、細い木の感触と、灰のざらつきが指の腹に残る。火の上へ近づけると、青い炎が一瞬だけ立ち上り、すぐに落ち着いた橙色へ変わった。煙が真っすぐには昇らず、室内の空気の流れに押されて、ゆらゆらとさまよう。
外から、冬の風にあおられた旗の音が微かに届く。駐車場に立てられた会葬の旗が、風に叩かれて「パタパタ」と鳴る。その音が、閉じた扉をくぐって胸へ入ってくる。
「……いい子だったのにねぇ」
後ろの席から、小さな声が漏れる。親戚の誰か。安い香水の甘い匂いが、線香の匂いの上に薄く重なる。
「就活も、これからだったのに」
「かわいそうに」
その「かわいそうに」が、棺の中の自分に向けられたものか、喪主席に並ぶ父と母に向けられたものか、判断がつかない。兄の視線は、棺の蓋に一瞬だけ落ち、それからすぐ遺影へ戻る。遺影の中の自分は、笑ったままだ。何も知らずに、ここへ固定されている。胸の奥から、熱いものが突き上げてくる。目の縁がじんと熱くなるのに、視界は濁らない。涙は落ちているのかもしれないが、兄の身体はうまく泣けていないように感じる。それとも、これは透真の涙なのか。
指先がかすかに震える。焼香の灰が崩れて、「はら」と落ちた。香炉の縁に灰が薄く散り、指の腹がぬるい灰に触れる。隣に立つ父が、小さく咳払いをした。喉の奥から絞り出されたその音が、やけに大きく鼓膜を揺らす。
「——すみません」
兄の声が喉の奥で擦れた。けれど、口から外へは出ていかない。代わりに、喪主としての決まり文句が舌の上に滑り込んでくる。
「本日は、ご多忙のところ……」
形式ばった挨拶が勝手に流れ出し、その下で別の言葉の塊が暴れている。ごめん。違う。これは——。音にならない言葉の残骸が、胸の内側で乱気流みたいに渦を巻く。
祭壇の右側、遺影の横に、低い小机が置かれていた。そこに、大学の研究室の集合写真が立てかけられている。白衣姿の若者たち。後列の右端に悠真がいて、その隣に透真の顔も並んでいる。写真立ての横に、白くて厚手の封筒が一つ。封のところには、見慣れない紋章が押されている。二本の枝が絡み合うマーク。連理会のシンボルに似ているが、枝の先が輪にならず、ほんの少し開いていた。
視線がそこへ吸い寄せられる。強い磁石に引っ張られた鉄片みたいに、目が離せない。祭壇の聖歌も、参列者のすすり泣きも、焼香の灰が落ちる微かな音も、全部が水槽の外から聞く音みたいに遠くへ引いていく。封筒の紙のざらつきが指先に伝わってくる錯覚。触れていないのに、紙のエッジが皮膚をかすめる感覚だけが鮮明だ。表面からは、ボールペンのインクの匂いまで漂ってくるような気がする。
頭の中で、「きし」と何かが軋んだ。こめかみの奥で低い音が続き、吐き気がもう一段階強くなる。首筋を冷たい汗が一本、背中へ向かって流れ落ち、喪服の襟へ吸い込まれていった。
——本当は逆だった。
胸の奥で形をとった感覚に、言葉のラベルを貼るとしたら、そういう意味になる。棺の中にいるべきなのが自分で、喪主席に座っているのが透真——それが、本来の配置だった。事故の日のスケジュール。実験室に入るはずだった名前。本来、そこに書かれていたのは春日 悠真ではない。
——俺が行くって、言った。
断片が、ばらばらなフレームとしてちらつく。研究室の白い廊下。実験予定表に並ぶ名前。連理会の紋章が印刷された書類。鏑木 宗一郎の低い声。今より若い横顔の氷室 蓮。どれもノイズを被せられたみたいに輪郭が曖昧だ。封筒の紋章が、心臓の鼓動に合わせて脈打つように見えた。視界のその部分だけ、砂嵐を映す古いテレビの画面みたいにざらざらと乱れる。紋章の下の文字も、ピントが合わない。誰かが、ここだけを意図的にぼかしたという直感が、背中へぞわりと走った。
《同期負荷、上昇。警告レベル、イチ》
機械の声が、遠くの塔から鳴らされる警報みたいに反響する。耳鳴りと混じって、単語が一瞬ほどける。「春日さん、ここで一度、呼吸を」
今度は氷室 蓮の声が、はっきりと届いた。彼の声だけが、霧に覆われずに真っすぐ刺さってくる。
「まだ、戻れます」
まだ——。戻る。ブレーキを踏む。ここで引き返せば、この先の光景は二度と見なくて済む。封筒の中身も、兄が何にサインをしたのかも、永遠に霧の向こうへ押し込んでおける。それでも、兄の内側からあふれてくる感覚が、透真の指と心臓を鷲掴みにして離さない。
——あいつに、背負わせるつもりじゃなかった。
呻きにも似た、でもやけに澄んだ意図が、ノイズの隙間から確かに聞こえた気がした。足元から血の気がするすると引いていく。蛇の匂いを嗅いだ鼠みたいに、本能が危険を告げているのに、視線は封筒から動けない。祭壇の蝋燭の火が、その瞬間、一斉に青く揺れた。ガスコンロの底の炎みたいな淡い青。白い花の影が青に染まり、会場全体の色が一瞬だけ変わる。時間が、そこで一拍止まった感覚があった。
《同期負荷、上限付近。安全域逸脱の恐れ——》
三回、短いアラームが鳴る。「ピッ、ピッ、ピッ」。取り決めておいた強制解除の合図だ。肘掛けの内側で、何かがカチリと噛み合う音がした。床からの青い光が一瞬だけ強くなり、そのままふっと弱まる。
「——戻ります」
低く出た声が、兄と自分の声を重ねたような響きになった。どちらが言ったのかはっきりしない。それでも装置は、それを「戻る」という意思表示として受け取った。視界が祭壇から引き剥がされるように遠ざかっていく。葬儀場の光景が窓の外の景色みたいに小さくなり、やがて雪の粒みたいに細かく砕けた。線香の匂いが薄れ、代わりに樟脳と金属の混じった匂いが戻ってくる。
身体の重心が、また大きく揺れた。今度は着陸前の機体がふらつく感覚に似ている。タイヤが地面を探し、最後に「ドン」と確かな衝撃が足の裏から伝わった。瞼が、重い扉を持ち上げるみたいにゆっくり開いていく。低い天井。足元からまだ青白い光が立ち上がっている。喉の奥が焼けるように痛く、息が浅く上下しているのが自分でわかった。胃の中身が上へせり上がり、ぐらりとひっくり返る。
「……おかえりなさい」
耳のすぐ横で、雪村 沙羅の声がささやく。視界の端に、白い袖と淡いベージュのカーディガンの布が入る。彼女の手が、透真の前腕にそっと触れた。驚くほど温かい。指先が小さく震えている。自分の震えなのか、彼女の手の震えなのか、一瞬判別がつかなかった。
「時間は、九分三十秒です」
氷室 蓮が、ほっとしたような声で告げる。いつもの皮肉めいた調子はすっかり消えていた。
「上限前に戻ってきてくれて、助かりました」
助かった——その言葉が胸の奥で固まっていた何かを少しだけほどいていく。もし戻ってこなかったら、とっくに空席になっていたはずの椅子が、頭の中で一瞬だけ映り、すぐ消えた。シートベルト代わりのバンドが外されると、肩から重さが抜ける。その直後、全身の力が抜けて椅子に沈み込んだ。足先がうまく言うことを聞かない。ふくらはぎが冷え切って、膝から下の感覚が遠のいていた。
「控え室、いきましょう」
雪村 沙羅が短く促す。司書としてのかっちりした口調に、姉のような柔らかさが少し混ざる。反対側から氷室 蓮が肩を支えた。二人に挟まれるようにして、透真はゆっくり立ち上がる。足が床についた瞬間、「ちゃぷ」と小さな水音がした。黒い床が、また薄い水の膜を張った水面に見える。
通路を歩くあいだ、世界の音が遠ざかっていた。天井の蛍光灯の低い唸り。換気扇の回る一定のリズム。遠くの閲覧室からかすかに届くページをめくる音。それらが一枚の膜を隔てて聞こえてくる。控え室は、すぐ隣の小さな和室だった。襖を開けた瞬間、空気の温度がやわらかく変わる。冷え切った儀式室とは違い、暖房の熱がじんわり頬に触れた。
畳の匂いが鼻腔をくすぐる。古い旅館の一室みたいな、乾いた藺草の香り。低いテーブルの上には、銀色の電気ポットが置かれている。注ぎ口から「コトコト」と小さく湯気が立ちのぼり、天井に届く前に空気に溶けていく。
「ここ、座ってください」
雪村 沙羅が座布団を引き寄せる。透真は言われるまま、ひざから崩れないよう慎重に腰を下ろした。畳の硬さがひざ裏を支え、わずかな安心感を残す。氷室 蓮が、電気ポットを手に取り湯呑みにお茶を注いだ。お湯が陶器に当たる「とぽとぽ」という音が、心臓のリズムを少しだけ落ち着かせる。茶葉が開いていく香りが、さきほどまで鼻腔にこびりついていた線香の匂いをゆっくり追い出していった。
「熱いので、気をつけて」
湯呑みが手渡される。両手で包むと、熱が指先から手首へ、腕へ、胸のあたりまでじわじわ染み込んでいく。冷え切っていた血が少しずつ巡り直す。視界の端の霞が、ようやく薄れていった。テーブルの端には、個包装の羊羹がいくつか乱雑に置かれている。銀色のフィルムが蛍光灯の光を拾い、わずかに光った。
「糖分も、取ったほうがいいですよ」
氷室 蓮が、一つを指先で押しやってくる。
「低空飛行から戻ったパイロットには、甘いものが一番効きますから」
たとえがうまいのかどうか判然としない。けれど、そこに混じった軽さに救われる。
「……じゃあ、一応」
指先に残る震えで、羊羹の包装の端をつまむ。ビニールを引きはがすと、「ぺり」と小さな音がした。中から、艶のある茶色の塊が現れる。歯を立てるのが惜しくなるほど、きれいな断面。ひとかじりすると、ねっとりした甘さが舌の上で少しずつ溶けていく。落雁みたいな粉っぽさではなく、ゆっくり重みを残していく甘さ。喉を通るとき、さっきの吐き気が一瞬抵抗したが、熱いお茶で流し込むと抵抗もほどけた。茶葉の香りと羊羹の甘さ。その組み合わせが、今は妙に「こっち側」の味に思えた。
「——どうでしたか」
時間を少し置いてから、雪村 沙羅がぽつりと問いかけた。詰問ではなく、確認するような柔らかさ。視線は湯呑みの縁あたりに落としたままで、透真の顔を無理に覗き込もうとはしない。氷室 蓮も、口を開きかけては閉じ、代わりに手元の湯呑みの縁を親指でなぞっていた。
どうだったか——。単純なはずの問いなのに、そこへ向かう言葉が見つからない。葬儀場の光と匂いが、まだ頭の奥のどこかにまとわりついている。棺の中の自分。遺影の笑顔。封筒の紋章。兄の内側から突き上げてきた「本当は逆だった」という感覚。喉の奥に、言葉になりきれない塊が貼り付いていた。
「……兄は」
ようやく、最初の一語が出た。自分の声が、自分の耳に少し他人事のように聞こえる。
「兄は、俺の葬式で、笑えなかったです」
変な言い方だと、言った直後に自分でも思う。事実としても全部ではない。けれど、その表現なら今は口に出してもいい気がした。雪村 沙羅が、静かに顔を上げる。瞳の奥が、かすかに揺れた。
「笑えなかった?」
「うん。……形だけの言葉は、口から勝手に出てたんですけど。喪主としての挨拶とか」
喉に残るあの言葉の重さが、また蘇る。
「その下で、ずっと、謝ってました。ちゃんと……俺に対して、謝ってた」
誰に対する謝罪だったのか、本当のところはわからない。父と母に向けたものかもしれないし、研究室の仲間たちに向けたものかもしれない。けれど、棺の中の自分に投げかけられた「ごめん」が、確かにあったと感じる。その感触は、兄の罪悪感にも似ていた。約束を破ったことへの。あるいは、約束を守ってしまったことへの。
——あいつに、背負わせるつもりじゃなかった。
さっきの感覚を、そのまま言葉に変えるには、まだ勇気が足りない。氷室 蓮が、湯呑みの縁を親指でなぞりながら、静かに言った。
「それだけ、分かったなら」
言葉を選ぶように、小さな間が落ちる。
「今日は、それで十分かもしれませんね」
「それだけしか」とは決して言わない。雪村 沙羅も、小さくうなずいた。
「兄弟なのに、お互いの気持ちを直接確かめられないまま、こじれてしまう方たちも、多いですから」
そこで言葉を止める。言いすぎないラインを、慎重に探っているのが伝わる。
「春日さんには、ちゃんと届いているんですね」
届いている——その一言が、胸のどこかに温かいものを残す。兄の謝罪は、同期データのノイズではなく、確かに自分の中に着地したのだと誰かに認められた気がした。湯呑みを持つ手の震えも、いつの間にか収まっている。手の甲に、少し血の色が戻っていた。
「……水無瀬さんのこと、思い出しちゃいました」
ふいに、その名前が口からこぼれ落ちた。
「水無瀬さん?」
雪村 沙羅が、首をかしげる。氷室 蓮は「ああ」と小さくつぶやいた。彼はログで、彼女の「死亡記録予約」の件を知っているはずだ。
「この前、死後の閲覧を、自分であらかじめ決めたいって言ってて。誰に、どこまで見せるかって」
紗月がテーブルに頬をつけて、「死んだ後まで予定詰め込まれてる感じ」が嫌だ、とこぼした顔が浮かぶ。
「そのとき、俺、止めたんですよ。一応」
「一応」という頼りない言葉に、自分で苦笑する。
「未来を、今の自分が全部決めちゃうの、危ういと思って」
口に出しながら、湯呑みの中のお茶が小さく揺れるのを見つめる。表面に映り込んだ自分の顔も、揺れに合わせて歪んだ。
「でも、さっきの俺、兄の死後を、自分の都合で覗きに行ってましたよね。設計どころか、編集に近いことを」
最後の一言に、少し自嘲が混ざる。氷室 蓮の口元が、わずかに持ち上がった。
「設計と編集は、違うようで、近いですからね」
声が少し落ちる。
「ただ——あなたが今したのは、兄さんのためっていうより、自分のためでしょう」
核心を突く言葉が、冷たい刃みたいに胸へ触れる。図星だと同時に、どこかで否定したくもある。
「……そう、かもしれません」
兄の本心を知りたいのは、自分の中の罪悪感に筋の通った物語を与えたいからだ。兄が「そう言っていた」と、自分に言い聞かせるため。自分が余白ではなかった証拠を、どこかで探している。
「それでいいんだと思いますけどね」
意外な方向から、肯定が返ってくる。氷室 蓮は湯呑みをテーブルに置き、畳の目を人差し指でそっと押す。
「死んだ人の後始末は、生きてる人のための儀式ですから。葬式も、法事も。黄泉の閲覧も」
その声には、噛みしめた過去の欠片がかすかに混じっているように聞こえた。ただ、そこへ踏み込んでいくだけの気力は、透真には残っていなかった。
「……ただ、線引きは必要でしょうね」
雪村 沙羅が、淡々と続ける。
「水無瀬さんのように」
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第14章:冬の滑走路と逆さの葬列 - 黄泉の図書館
走っていた。肺が焼けるほど空気を吸い込みながら、黄泉の図書館の中枢へ向かう通路をただ前へ。もうそこは「廊下」というより、やたら長い滑走路に変わっていた。足元で床がわずかにうねり、天井パネルに映る緑がかった空の色が、視界の端でちらちら揺れる。靴底が、「ぴちゃ」と湿った音を立てた。磨き込まれた黒い床は、石に見えて、実際には薄い水膜が張られた水面みたいに、踏むたび遅れて波紋を返してくる。
「春日さん、こちらです」
曲がり角の手前で、氷室 蓮の声が低く響く。振り向くと、彼は非常灯だけがぼんやり灯る横道の入口に立っていた。背後の窓から入り込む緑の空の光を背負って、シルエットがいつもより細く見える。近づくと、彼は息を吐くように言った。
「ギリ、定刻。……後になって、後悔されると困りますけど……間に合いましたね」
腕時計も見ずに笑う。その笑みのどこまでが冗談で、どこからが本気なのか、透真には読めない。鼓動だけが耳の内側で派手に鳴り、狭い通路の空気を押し出していた。喉に張り付いた乾きが邪魔をするのを無理に押し退けるように、言葉を探す。
「——条件の確認、もう一回だけさせてください」
声を出した瞬間、喉の奥がひりついた。横道に入り込んだ途端、空気の匂いが変わる。金属と線香を無理に混ぜたみたいな、冷たく乾いた匂いが肺の奥に突き刺さってきた。氷室 蓮は「ですよね」とかすかに頷き、親指で奥を指す。
「中でやりましょう。ここ、音の反射が悪い」
さらに踏み入ると、足音の響き方が変わった。さっきまでのコツコツという硬い反響に、ちゃぷ、ちゃぷ、と細い水音が重なってくる。照明の出どころも、天井からではなく足元へ移っていた。青白い光が床から霧のように立ち上がり、黒い表面を石畳にも水面にも見えない曖昧な質感に変える。冬の底へ沈んでいくような冷気が、靴の中まで忍び込んできた。
息を吸い込むと、喉が薄い膜で一枚ずつ重ねられていくような妙な違和感がついてくる。部屋の中央に、椅子がひとつぽつんと置かれていた。余計な部分をそぎ落とされた操縦席、そんな印象だ。背からは細いコードが何本も伸び、肘掛けには心拍センサーがいくつも貼り付いている。金属の縁が、床からの光をもらって鈍く光った。そのすぐ脇に、雪村 沙羅が立っていた。いつもより血の気の薄い顔で、胸に挟んだファイルをぎゅっと抱え込んでいる。
「春日さん」
軽く頭を下げる。声は落ち着いているのに、語尾がわずかに急ぎ足だ。彼女は胸の前でファイルを開きながら、事務的な口調を選ぶ。
「最終確認だけ、させてくださいね。ただし——双子スイッチ儀式への参加意思が任意であることは変わりません。この場で取りやめることも、もちろんできます」
何度も聞かされてきた定型文。それなのに、今日は一語ごとに重さが増して胸の中へ沈んでいく。透真は椅子の横に立ったまま、指先をズボンの縫い目に押し付けた。
「……だが、参加します」
自分で言いながら、掌の内側がじっとり汗を蓄えていくのがわかる。指先だけは氷に触れたみたいに冷え、相反する温度が皮膚の下で押し合いを始めた。ここで引き返す選択肢は、もうどこかへ置いてきてしまった。喉を少し開き直して、続ける。
「条件も、もう一度。時間制限は——」
「一回の同期は、最大で十三分」
氷室 蓮が、いつもの調子で先回りする。口の端が、「結論から言うと」と続けかけて、そこで止まった。彼は軽く咳払いをして言い直す。
「それ以上は、脳のほうがオーバーヒートします。途中で、僕らが強制解除することもありえます」
「強制解除の合図は、あの三回の——」
「はい。心拍モニタのアラーム音が三回連続で鳴ったら、すぐに意識を『こちら側』に戻すイメージを強くしてください。突然、来た道を逆流して戻ってくる感じで」
来た道。滑走路を逆向きに走って戻る。頭の奥で、その映像が雑に組み上がる。「戻ってこられなかったら?」と口にした瞬間、部屋の冷気が一段階増したように感じた。
「その後、どうなるんです」
自分の声を聞きながら、背筋が硬く板みたいに固まる。氷室 蓮は視線を一瞬だけ宙に泳がせ、すぐに事務的な質感へ切り替えた声に乗せる。
「その場合はこちらで観測を終了します」
終了——という柔らかい言葉の先で、空白が口を開けている。霧のせいで見通せないだけで、何かが確かにそこへ続いている。頭の隅に、推進力を失った機体が空中で静止する映像が、勝手に浮かんだ。
「観測を終了、って……」
細部を確かめようと必死に質問を重ねる自分を、どこか斜めから見ているもう一人がいる。ルールの隙間を埋...