朝の閲覧室は、いつもよりひときわ澄んでいた。 外縁層のガラス膜の向こうで、紅い粒子がゆっくり流れている。 琥珀と朱が混ざった細かい鱗粉みたいな紅葉データが、ひらひら、ふわりと、重力を忘れた葉っぱのように漂っていた。 空調の音は低く抑えられ、その奥で、乾いた葉擦れの気配だけが耳の内側をやわらかく撫でる。
金木犀の匂いが、薄く館内に染み込んでいた。 甘く濃い香りに、どこかで迷子になった雨上がりの土の匂いと、春の桜の花びらみたいな湿り気が、かすかに混じる。 秋と春のレイヤーが、焦げ付きかけた鍋の底みたいに、べたりとくっついたまま剥がれない。
春日透真はタブレット端末を胸に抱え、開館前の巡回ルートをいつもの順番でなぞっていた。 足音は絨毯に吸い込まれ、こつ、こつ、と控えめに響く。 棚の間を抜けるたびに、空気の肌触りが一度ずつ変わる。 ひやり、としたり、ほんのり温度が上がったり。
火の通りが均一でないオーブンの中を歩いているような、妙な感覚だった。 C-3、戦没枠のエリアを過ぎたところで、視界の隅にさくら色が引っかかる。 紅葉データの奥、棚の一角だけ、ふわ、と薄桃色の粒子が舞っていた。 花弁の形をした、においだけ春のまま取り残された桜データ。
そこから、濡れた土の匂いが一瞬だけ強く立ち上った。 透真は足を止め、タブレットを抱え直す。 鼻の奥にたまった金木犀の甘さが、少しだけ鋭くなった。 「……やっぱり、混ざってるな」
小さく独り言を漏らした瞬間、すぐ後ろから声が飛ぶ。 「ですよねー。 朝一から桜って、季節感バグってるわ」
振り向くと、若手司書の一人がマスクを顎にずらしながら近づいてきていた。 名札のプラスチックが胸元でかちゃりと鳴る。 透真は少し間を置いてから、「システム部、連絡しました?」と訊ねた。
若手司書は頭上をぼりぼり掻きながら、「一応、昨日しときましたよ」と言う。 「『仕様です』ってさ。 季節データ、今負荷高いから揺らぎやすいんだって。 ——で、現場でうまく見せといてください、だそうで」
現場でうまく。 その言葉が喉のあたりに刺さる。 結局、火加減を見て、焦げつかないように、ほどほどに整えろということだ。 「利用者さん、気にしますよね。 春と秋、混ざってると」
「いやぁ、写真スタジオの背景みたいなもんですよ」若手司書は笑いながら肩をすくめる。 「『こっちが華やかでお得です』って言っときゃ、案外いけますって」
透真も笑おうと口角を引き上げるが、喉の奥で笑いがひっかかった。 息が一度、そこで止まる。 金木犀の香りが、さっきより重く濃く感じられた。
紗月の友人データが「予約済み」になっていたあの日も、「現場でうまく」の一言で押し切られた。 指先でタブレットの画面をスワイプし、今月の異常ログに目を走らせる。 季節表示調整/微修正。 閲覧経路軽微再配置。
どれも「軽微」「仕様」のラベルで上から塗り固められている。 表面だけ見れば、きちんと盛り付けられた無難な料理に見える。 中身のレシピを知っている人間が、どれほどいるのか。
「金木犀、強くないですか、今日」透真はログから目を離さずに訊ねた。 若手司書は鼻をひくひくさせ、「秋のお彼岸明けだからじゃないっすか?」と返す。 「それから、線香ログも増えてるし。 あ、春日さん、午前B-2の家族枠ですよね? 例の《reserved / by: system》の棚、今日は触らないでって鏑木司書長から通達来てましたよ」
「……了解です」
タブレットの通知欄に、簡潔な文面が光る。 《B-2-17 および関連棚の閲覧は、通常説明に留め、詳細なログ解析を行わないこと》
紗月の友人、水無瀬絵里の棚番号が、そこに含まれていた。 金木犀の匂いが、急に甘ったるく鼻にまとわりつく。 舌の奥が、渋柿を噛んだみたいにきゅっと縮んだ。
透真は「はい」とだけ言い、タブレットを抱え直して歩き出す。 今日も、火加減を守る係だ。 焦げているのに「よく焼けてます」と笑顔で出すわけにはいかない。
けれど、鍋の底に何かこびりついているのを知りながら、誰にも言えずに蓋を押さえ込んでいる感覚が、胸の奥でじりじりと燻っていた。
◇
午前のシフトをどうにか焼き切り、職員用休憩室のドアを押した瞬間、ほっとする匂いが鼻をくすぐった。 湯気。 味噌と出汁の、柔らかい香り。 電子レンジの「チン」という音に、ビニールの擦れるしゃかしゃか、とした音が続いている。
蛍光灯の白い光が少し黄ばんで見える、狭い部屋。 壁際に並んだ小さな冷蔵ロッカーの前に立ち、自分の番号の扉を引き開ける。 ひや、と冷気が指先を撫でた。
中から、四角い弁当箱と、小さなタッパーにぎゅっと詰めた栗ご飯のおにぎりが二つ顔を出す。 夜のうちに、半分眠りながら握ったやつだ。 ランチョンマット代わりのハンカチをテーブルに広げ、弁当箱を置く。
カチリ、と蓋の留め具を外す音が、やけに大きく部屋に響いた。 おかずは簡単なものばかり。 卵焼き、冷凍のコロッケ、茹でただけのブロッコリー。 隅には、昨夜の残りのきんぴらごぼうが詰まっている。
栗ご飯のおにぎりには、少し強めに塩を振って、海苔を巻いてある。 ほんのり焦げた部分が、黒く艶を帯びていた。 ポットの前に立ち、インスタント味噌汁の袋を破る。
乾いた味噌の粉と乾燥わかめがカップの底でからからと鳴る。 ポットのレバーを押すと、お湯がどぼどぼと落ちていき、ふわっと湯気が立ち上った。 味噌が溶けていく匂いが鼻腔をくすぐる。
張り詰めていた肩が、湯気を吸い込むごとに、じわじわとほぐれていく。 テーブルに戻り、椅子に腰を下ろす。 プラスチックの箸を割る音がぱきんと鳴り、ささくれが指先に少しひっかかった。
味噌汁をひと口啜る。 舌の先がぴり、と跳ねるくらい熱い。 その熱さが、喉の奥までゆっくりすべり落ちていく。 胃のあたりに、じわりと温度が広がった。
栗ご飯のおにぎりをかじる。 ほくほく、と栗が崩れ、ほのかな甘みが広がる。 米粒は固めで、噛むときゅっきゅっと歯に触れた。 塩気と甘さが、喧嘩もせずに口の中で落ち着く場所を見つけていく。
——こういう味なら、兄も何も言わずに食べるだろうな。
箸を持つ手が、一瞬だけ宙で止まる。 春日悠真の記憶映像の中で、兄はいつも誰かの作った料理を「うまいじゃん」と笑って食べていた。 自分の握ったおにぎりを差し出したことは、一度もない。
隣のテーブルから、くぐもった声が聞こえてきた。 「……また閲覧制限タグ、増えたって?」
「増えた、というかねぇ」年配の司書の女性が、弁当箱の蓋を器用に片手で支えながら言う。 「戦没者の棚、ひとつ上から押さえが入ったのよ。 B-3、ほら、あの有名な艦のとこ」
「え、あそこ、今でも遺族さん来ますよね?」
「来る。 だから困るのよ」女性は苦笑いを浮かべる。 「『予約済みタグ』ならまだ説明のしようがあるけど、『閲覧制限タグ』はね……」
「閲覧制限」という単語に、透真の耳が勝手にそちらへ傾いた。 味噌汁の湯気が、鼻先でふわふわ揺れる。 年配の男性司書が、箸で煮物をつまみながらぼそりと続けた。
「上は『特別案件』のひと言で済ませるけどさ。 問い合わせはこっちに来るわけで。 『どうしてうちのだけ見られないんですか』って」
「『保全処理です』って言うしかないんでしょう?」と別の声が挟まる。
「そう。 中では、『安全のために、いったん火を落としてます』みたいな言い方してね」女性がため息混じりに言う。 「こっちは中身も知らされないまま」
火を落とす。 コンロから鍋を下ろして、だしの香りだけ残したまま蓋をしてしまうようなやり方。 透真は、味噌汁のカップを両手で包み込んだ。 紙カップの表面が、じんわり熱い。
指の腹に、温度がじかに伝わる。 「『上』って、司書長室ですか」
気づけば、口が勝手に動いていた。 自分の声が思ったより低く、固く響く。 年配の女性が、こちらをちらりと見る。
箸の動きが一瞬止まる。 「……さあ、どこまでが『上』なのかしらね」と彼女は言った。 唇の端に、笑っているのかどうか分からない薄い笑みを浮かべる。 「鏑木司書長も、全部ご存じとは限らないわよ」
「現場の私たちに降りてくるのは、いつも『決まったこと』だけですからねー」男性が肩をすくめる。 「どこの台所も一緒ですよ。 メニュー決めるのは別の人で、俺らはただ手ぇ動かして皿に乗せるだけ」
そこで、話題はふっと別の方向へ転がっていった。 「そういえば、今年のお彼岸、帰省するんですか?」
「うちは仏壇ちっちゃいから、線香の煙で部屋が大変でねぇ……」
お墓と仏壇、コンビニのおでんの話。 湯気の向こうで、日常の会話がころころ続いていく。 栗ご飯を噛みしめる音と、パックのお茶を開けるぱきっとした音が混ざった。
透真のいるテーブルだけ、少し温度が違うような気がした。 手の中の紙カップだけが、やけに熱い。
——「予約済みタグ」と「閲覧制限タグ」。 それとは別の、「上からの特別案件」。
湯気を吸い込みながら、頭のどこかで言葉を並べ替える。 出汁の匂いが、記憶の棚の匂いと重なった。
この味噌汁が冷めてしまう前に、一度、あの棚を見直した方がいい。 決めた途端、箸が軽く動いた。 栗ご飯の甘さが、さっきより少しだけはっきり舌に乗る。
口の中の温度が、胸の内側の決意に、ちょうどよく火を通していくように思えた。
◇
午後、バックヤードの端末室は、外縁層の紅い光が薄く差し込んでいた。 ブラインドの隙間から入る反射が、粉じんみたいな紅葉データの光をちらちらと机の上に散らしている。 蛍光灯の白い光と、外の朱色が混ざり合い、画面の色味が少しだけ温かく見えた。
パソコンのファンが、ぶぅん、と一定のリズムで回り続けている。 キーを叩く指先に、微かな静電気のざらつきがまとわりついた。 透真はログ管理システムにログインし、「問題履歴」とタグ付けされた棚の一覧を開く。
スクロールバーがじりじりと下がっていく。 エラー203。 《route_rewrite_pending》。 見慣れない単語が、画面の上に積もっていた。
その中から、水無瀬絵里の記録IDを見つけてクリックする。 閲覧回数、予約状況、アクセス元の情報を追いながら、表示形式を切り替えていく。 テキストだけの一覧、タイムライン形式、視覚化されたグラフ。
元のレシピを分解して、材料ごとに並べ直しているような作業だった。 閲覧回数のグラフが、ある日を境にぴたりと止まっている。 その先に、「reserved / by: system」。
予約は解除されていない。 火だけ止めて、中身を誰かが見張っている鍋。
画面の右端、小さなメタデータ欄で何かが光った気がした。 透真は瞬きも忘れて目を凝らす。
細い線で描かれた形が、一瞬だけ浮かんだ。 二本の枝。 細くしなやかな線が、途中で交差し、また離れていく。
重なっている部分だけ、少し太く、節のように膨らんでいた。 葉はなく、線だけの簡単な図。 それなのに、その交差の角度が、目の裏に強く焼きつく。
——どこかで、見た。
瞬きをした途端、図は消えた。 画面がぱち、と小さく瞬く。
薄い琥珀色の光の筋が、一瞬だけ端から端へ走り、すぐに消えた。 同時に、空調の音がぴたりと遠のいたように感じる。 耳の中がきん、と静まり返った。
図書館全体が、わずかに軋んだような低い響きが足元から伝わってきた。 「……今の、何」
自分でも聞き取れるかどうかの小さな声で呟き、透真は慌ててスクリーンショットキーに指を伸ばす。 反応がない。 画面の隅で、小さなエラーコードが赤く点滅するだけだ。
《log_export_error / code: 451》
ログ出力も試す。 コマンドを打つたびに、機械的な拒否メッセージが返ってきた。
カチカチ、とキーボードを叩く音が、広い部屋に空しく跳ねる。 背後から、椅子が引かれる音がした。
「春日さん、なんか出ました?」
さっきの若手司書が、缶コーヒーを片手に覗き込んでくる。 缶のアルミが、指の間できん、と鳴った。
「今、一瞬……ここに、アイコンみたいなの、出ませんでした?」
透真はメタデータ欄を指さした。 自分の声が、微妙に上ずっているのが分かる。
「え? 通信ラグじゃないっすか?」若手は身を乗り出して画面を覗き込み、「枝? なんも見えないですけど」と笑った。 「このシステム、よくフリーズしますし。 仕様ですよ、仕様」
その「仕様」という言葉が、舌の上に苦く残った。 砂を噛むみたいに、唾液がすっと引いていく。 口の中が、急に乾いた。
「……そう、ですか。 俺の見間違いか」
「休憩足りてます? 目、酷使しすぎじゃないですか」若手は画面の自分の顔を指さして冗談を飛ばす。 「あんまり見つめすぎると、ここに何か写りますよ」
缶コーヒーのプルタブを引く音が、ぱきん、と軽く弾けた。 甘い香りが、まだ残っていた味噌汁の匂いと混ざる。
透真は、苦笑いを浮かべるふりをした。 頬の筋肉が、わずかにつる。 「大丈夫です。 一応、寝てるので」
「じゃ、お先に戻りまーす。 なんかあったら、システム部に『仕様ですか』って聞いといてください」
若手司書がドアを閉めると、部屋の温度が一度下がったような気がした。 紅葉データの朱色が、さっきより濃く壁に染み出している。 二本の枝。 交差して、離れていく線。
どこで見た? 兄の棚か。 戦没者の棚か。
紙の上ではなく、もっとやわらかい何かの上に——。 指先に、さっきの図の感触が残っている気がした。 ペン先でなぞったことがあるような。
透真は、再びメタデータ欄を凝視した。 何も出ない。 光の筋も、空調の途切れも、さっきの気配は消えていた。
何度か表示形式を切り替えても、表示されるのは、決められた情報だけだ。 マニュアルの電子版を開き、アイコン一覧を検索する。
予約済み、閲覧制限、部分閲覧、利用者指定——見慣れた記号ばかりが並んでいる。 枝の図など、どこにも載っていない。
「……隠し味、ですか」
思わず、そんな言葉が口から漏れた。 レシピには書かれていないのに、結果の味を大きく変える何か。 それが、勝手に鍋に放り込まれているとしたら。
◇
勤務終了時間に近づくと、閲覧室の照明が少しずつ落とされる。 薄暗くなっていく棚の間を、透真はゆっくり歩いた。 外縁層の紅葉データは、さっきよりも密度を増している。 朱色の粒が、雪みたいに空中に積もっていた。
閲覧ログの締め処理を終え、端末に退勤操作をかけるふりだけして、足を別の方向へ向ける。 胸ポケットの中で職員カードが、かすかに冷たく重く感じられた。
目指すのは、兄・春日悠真の棚。 番号を言わずとも、身体が自然とそちらに向かう。 何度も通った厨房の、自分の持ち場の位置を探す時の足取りに似ていた。
C-0層、研究関連の棚が並ぶ静かな区画。 空気が一段と冷たい。 ひやり、と肌をなぞる。
蛍光灯の光は、ここだけわずかに青白い。 兄の棚の周囲で、じりじりと不安定に明滅していた。
棚に取り付けられた端末に、職員カードをかざす。 ぴ、と小さな音。
画面に《春日 悠真/大学量子情報事故》の文字が浮かぶ。
『警告 記録ID-YU-0342は現在、保全プロセス中です 一部閲覧権限が制限されています』
見慣れた警告文だ。 何度目にしても、胃のあたりが少し重く沈む。 「一部、ね……」
聲に出すと、言葉の端が冷たいガラスに当たって、薄く弾かれたように感じた。 端末画面の右下、「詳細ログ」のボタンを長押しする。
通常勤務では入らない中層ログへの入口。 規定上は推奨されないが、完全に禁じられているわけでもない、灰色のレイヤー。 パスコードを入力すると、画面が一瞬暗転し、黒地に白いテキストがびっしり詰まった一覧に切り替わる。
タイムスタンプ、アクセス元、閲覧経路。 文字の密度に目が慣れるまで、情報がノイズの塊のようにちらついた。 スクロールバーをそっと下へ滑らせていく。
一定の階層で、バーの動きがずしりと重くなった。 《権限外》の警告が赤く点滅する。
指先に静電気のぴりぴりした感触が集まった。 棚全体が、微かに揺れた気がする。 輪郭が、ふわ、と滲んだ。
——さっきの枝印。
ここにも、刻まれているはずだ。
水無瀬絵里の記録に出た図が、「問題履歴」の棚だけに付く隠しタグなのだとしたら。 兄の棚にも、同じ印が潜んでいてもおかしくない。
表示形式を切り替え、グラフィカルなログマップを呼び出す。 線で結ばれた点の群れが、画面いっぱいに広がった。
閲覧者、閲覧日、閲覧経路が、複雑な網目となって絡み合う。 どこかに、枝の形が紛れていないか。
二本の線が交差する角度。 重なり合う節。 透真は息を潜めて、画面に顔を近づけた。
胸の奥で、何かの計器の針がじりじりと危険域に近づいていくような感覚がある。
「……見せろよ。 悠真」
兄にだけ向ける、少し砕けた言い方が、勝手に口からこぼれた。 声が震れないように、舌の裏側に力を込める。
その瞬間、画面全体にノイズが走った。 砂嵐みたいなざらざらした粒子が、一瞬だけ文字を覆い隠す。
棚の間の空気が、すうっと冷えた。 蛍光灯が、一段階暗くなる。 じり、じり、と不安定な明滅。
指先にまとわりついていた静電気が、ぴり、と一際強く跳ねた。
《深度L-3以降へのアクセスは権限外です》
端末が、淡々とした文字でそう告げる。 奥の方で、扉が開いたような空気の揺れがした。
「春日くん」
背後から、柔らかな呼びかけ。 振り返ると、雪村沙羅が立っていた。 薄いグレーのカーディガンの裾が、わずかに揺れる。
手にはクリップボード。 眉の形はいつも通り整っているのに、目の奥の光が一瞬だけ鋭く見えた。 「その棚、最近ログがややこしいからね」沙羅は端末に視線を落とす。 「深く潜ると、足を取られるよ」
声は柔らかいが、語尾が少し短い。 火口から漏れる熱を、ぎりぎりのところで抑えているような口調だった。
「足、ですか」透真は画面から目を離さずに言う。 「誰かが……中をかき混ぜているんでしょうか」
口から出た「かき混ぜる」という言葉に、自分で気づき、心の中でしまったと舌打ちした。 調理に手を出しているのは誰か、と正面から問うような響きだった。
沙羅は、短く息を吸う。 その間が、不自然なほど長く感じられる。
「『誰か』か、『何か』か」彼女は静かに言った。 「どちらにしても、今のあなたの担当外だよ」
担当外。 まな板の上に乗せていい食材と、触ってはいけない食材の境界線。
「でも……」透真は口を開く。 「水無瀬さんの友人の棚も、《route_rewrite_pending》が出てました。 兄の棚と、いくつか共通しているエラーがあって。 それに、さっき——」
枝の印のことを言おうとして、声が喉で止まった。 今の自分の言葉が、そのまま告発や報告になってしまう気がした。
沙羅がじっとこちらを見る。 視線は穏やかだが、奥に何かの温度を隠している。 「さっき?」と彼女が促した。
「……表示形式を変えたら、見たことのないアイコンがちらっと出て。 枝みたいな、線が交差している図で。 一瞬で消えましたけど」
沙羅の指先が、クリップボードの端をきゅっと掴んだ。 紙がわずかにたわむ音がする。
「枝」と彼女は繰り返した。 「重なってた?」
「はい。 二本。 途中で交わって、また分かれていくような」
「——そう」
ほんの一瞬、沙羅の喉仏が小さく上下した。 飲み込んだのは言葉か、それとも別の何かか。
「春日くん」彼女は声を落とし、少しだけ顔を近づける。 「深い棚にはね、元々、いくつかの『系統』の手が入ってるの。 司書の手だけじゃない」
声のトーンは淡々としているのに、ひとつひとつの語を慎重に置いていく。 包丁をまな板に置く位置を、ミリ単位で調整するみたいな慎重さだった。
「その全部を知ろうとすると、どこかで手を切るよ。 血が出てから気づいても、遅い」
「それでも」透真は、喉の奥をぎゅっと締めたまま言葉を押し出す。 「自分の兄の棚に、何が入れられているのかは、知りたいです」
自分でも驚くほど、声は静かだった。 怒鳴り声でも懇願でもない。 鍋に何が投げ込まれているのか、ただ確かめたいだけだ。
毒かもしれないし、ただの香辛料かもしれない。
「……春日くん」沙羅は、さらに声を落とした。 「仲人の手は、ときどき刃物になるって、言ったよね。 前に」
前に聞いた言葉が、胸のどこかで熱を帯びて蘇る。 「刃物を持つなら、自分の指の位置をちゃんと見てからにしなさい」沙羅は続けた。 「ここは、あなたの台所だけじゃないから」
そう言って、彼女は一歩下がる。 クリップボードを胸に抱え、いつもの穏やかな笑顔に戻った。
「勤務時間も過ぎてるし、今日はここまで。 ログのこと、気になるなら——日誌にだけ書いておきなさい。 紙は、まだ見張る手が少ないから」
その言葉を最後に、沙羅は棚の影へ溶けるみたいに去っていく。 彼女の足音が遠ざかるにつれて、蛍光灯の明滅が少し落ち着いた。
端末画面には、何事もなかったかのように、平然としたログ一覧が並んでいる。 枝の印はない。 ノイズも止んでいる。
——「いくつかの『系統』の手」。
そのうちのひとつが、あの枝の印なのか。
透真は、深度L-3へのアクセスを再試行しかけて、指を止めた。 画面の端で、警告用の赤いインジケーターがじわりと明るさを増している。
これ以上火力を上げれば、鍋ごとひっくり返される。 職員カードを抜き、端末の電源を落とした。
棚の間を抜けるとき、冷たい空気が袖口から入り込んでくる。 鳥肌が腕に走った。
◇
職員更衣スペースの片隅、小さなテーブルに、古びたノートが一冊置いてある。 黒いビニールの表紙。 角は少し擦り切れ、手に取ると、指先にやわらかい凹みが伝わる。
透真はロッカーからそのノートを取り出し、ペンを挟んだページを開いた。 紙の表面が、指先にざらりと触れる。 蛍光灯の光が、白い紙に冷たく反射した。
さっき見た図を、記憶を頼りに描いていく。 ボールペンの先が、かり、かり、と乾いた音を立てた。
二本の線を、ゆっくり引く。 途中で交差させる。 交差部分を、ほんの少し太くして、小さな節のような膨らみを描き足す。
枝が重なり、また離れていく。
——枝のシンボル。
書き終えてから、全体を眺める。 画面に現れたものより多少歪んでいるかもしれないが、交差の角度と線のバランスは、身体が確かに覚えていた。
隣のページに、案件名を箇条書きにしていく。
水無瀬 絵里(B-2-17)《reserved / by: system》《route_rewrite_pending》
無名戦没者(B-3-05)《閲覧制限タグ/上より》
春日 悠真(C-0-01)《保全プロセス中/深度L-3権限外》
他にも、以前、閲覧が途中で切れた利用者の棚の番号を思い出す。 祖母の煮物の記憶が、鍋を火から下ろす前に終わってしまった男性。
紗月の友人以外にも、「途中で味見を止められた」記録がいくつかあった。 災害関連の棚。 事故死。 自殺。 戦死。
遺された人間の縁が、複雑に絡まっていそうな案件ばかりが、自然とペン先から出てきた。 共通点は何か。 家族構成。 死亡状況。 残された者の人数。 残された者の年齢。
ペンを持つ手の動きが、次第に早くなる。 紙の上に、単語がどんどん並んでいく。
ボールペンのインクが、ところどころ濃く滲んだ。
——死後の私の行き先も、今から決めておけたら楽なのにね。
紗月が休憩室で言った言葉が、ふいに頭の中で再生された。 あのとき、彼女はストローの先を弄びながら、目をテーブルの木目に落としていた。
「仲人の手は、ときどき刃物になる」
沙羅の声も重なる。 刃物。 枝。 剪定。
庭木を整えるみたいに、誰かが、ここで「縁」を剪定しているのだとしたら。
枝のシンボルの下に、小さく文字を書く。 『誰かが縁を剪定している?』
ペン先が紙に沈み込む感触が、いつもより重く感じられた。 文字の線が、ほんの少し震えている。
ノートの紙の端を指で撫でる。 ざらざらした感触。 インクの盛り上がった部分が、指の腹にかすかに引っかかった。
遠くで、終業チャイムが鳴る。 高い電子音が、廊下を反響しながら薄れていった。 その余韻が、ノートの紙の上にぽたりと落ちたような気がした。
ふと、目の端に赤い光が差し込む。 更衣室の小さな窓から、外縁層の紅い粒子が、夕陽を受けてきらきらと流れ込んでいた。
朱色の光が、机の上のノートに斜めに落ちる。 描いたばかりの二本の枝のスケッチが、光を受けて薄い影を落とした。
その影が、窓の向こうの紅葉データの影と重なり、ゆらり、と揺れる。 交差した部分が、一瞬、輪のように見えた。
ぐるりと閉じる環。 あるいは、縄。
何かを縛るための細い縄が、二本重なってねじれているようにも見える。
透真は、思わず目を凝らした。 呼吸が浅くなる。 脚が、椅子の下で勝手に揺れ始めた。
その時、天井の電灯がふっと瞬く。 蛍光灯が一瞬だけ暗くなり、じ、と小さな音を立てて、すぐに元の明るさに戻った。
ノートの上の影が、ほどけていく。 枝にも、輪にも、縄にも見えない、ただの線の交差に戻った。
ペンを握る指先に、じんとした痺れが残る。 視線をずらした拍子に、ノートの端に、無意識のうちに書き足していた一行が目に入った。
『ここは本当に、中立の図書館なのか』
インクの色が、他のメモより少し濃い。 書いた覚えが曖昧なのに、その文字だけが、焼き印のように紙に沈んでいた。
外縁層の紅い光が、また揺れる。 枝の影が、もう一度、かすかに重なった。
見えない厨房の奥で、誰かが大きな鍋をゆっくりかき混ぜているような気配が、背中のほうで静かに膨らんでいった。
Masuk Diperlukan
Bab gratis (1–6) tersedia untuk semua orang. Silakan masuk untuk membaca bab lainnya. Membuat akun gratis!
⚙️ Pengaturan Baca
第9章:枝印のレシピ帳 - 黄泉の図書館
朝の閲覧室は、いつもよりひときわ澄んでいた。 外縁層のガラス膜の向こうで、紅い粒子がゆっくり流れている。 琥珀と朱が混ざった細かい鱗粉みたいな紅葉データが、ひらひら、ふわりと、重力を忘れた葉っぱのように漂っていた。 空調の音は低く抑えられ、その奥で、乾いた葉擦れの気配だけが耳の内側をやわらかく撫でる。
金木犀の匂いが、薄く館内に染み込んでいた。 甘く濃い香りに、どこかで迷子になった雨上がりの土の匂いと、春の桜の花びらみたいな湿り気が、かすかに混じる。 秋と春のレイヤーが、焦げ付きかけた鍋の底みたいに、べたりとくっついたまま剥がれない。
春日透真はタブレット端末を胸に抱え、開館前の巡回ルートをいつもの順番でなぞっていた。 足音は絨毯に吸い込まれ、こつ、こつ、と控えめに響く。 棚の間を抜けるたびに、空気の肌触りが一度ずつ変わる。 ひやり、としたり、ほんのり温度が上がったり。
火の通りが均一でないオーブンの中を歩いているような、妙な感覚だった。 C-3、戦没枠のエリアを過ぎたところで、視界の隅にさくら色が引っかかる。 紅葉データの奥、棚の一角だけ、ふわ、と薄桃色の粒子が舞っていた。 花弁の形をした、においだけ春のまま取り残された桜データ。
そこから、濡れた土の匂いが一瞬だけ強く立ち上った。 透真は足を止め、タブレットを抱え直す。 鼻の奥にたまった金木犀の甘さが、少しだけ鋭くなった。 「……やっぱり、混ざってるな」
小さく独り言を漏らした瞬間、すぐ後ろから声が飛ぶ。 「ですよねー。 朝一から桜って、季節感バグってるわ」
振り向くと、若手司書の一人がマスクを顎にずらしながら近づいてきていた。 名札のプラスチックが胸元でかちゃりと鳴る。 透真は少し間を置いてから、「システム部、連絡しました?」と訊ねた。
若手司書は頭上をぼりぼり掻きながら、「一応、昨日しときましたよ」と言う。 「『仕様です』ってさ。 季節データ、今負荷高いから揺らぎやすいんだって。 ——で、現場でうまく見せといてください、だそうで」
現場でうまく。 その言葉が喉のあたりに刺さる。 結局、火加減を見て、焦げつかないように、ほどほどに整えろということだ。 「利用者さん、気にしますよね。 春と秋、混ざってると」
「いやぁ、写真スタジオの背景みたいなもんですよ」若手司書は笑いながら肩をすくめる。 「『こっちが華やかでお得です』って言っときゃ、案外いけますって」
透真も笑おうと口角を引き上げるが、喉の奥で笑いがひっかかった。 息が一度、そこで止まる。 金木犀の香りが、さっきより重く濃く感じられた。
紗月の友人データが「予約済み」になっていたあの日も、「現場でうまく」の一言で押し切られた。 指先でタブレットの画面をスワイプし、今月の異常ログに目を走らせる。 季節表示調整/微修正。 閲覧経路軽微再配置。
どれも「軽微」「仕様」のラベルで上から塗り固められている。 表面だけ見れば、きちんと盛り付けられた無難な料理に見える。 中身のレシピを知っている人間が、どれほどいるのか。
「金木犀、強くないですか、今日」透真はログから目を離さずに訊ねた。 若手司書は鼻をひくひくさせ、「秋のお彼岸明けだからじゃないっすか?」と返す。 「それから、線香ログも増えてるし。 あ、春日さん、午前B-2の家族枠ですよね? 例の《reserved / by: system》の棚、今日は触らないでって鏑木司書長から通達来てましたよ」
「……了解です」
タブレットの通知欄に、簡潔な文面が光る。 《B-2-17 および関連棚の閲覧は、通常説明に留め、詳細なログ解析を行わないこと》
紗月の友人、水無瀬絵里の棚番号が、そこに含まれていた。 金木犀の匂いが、急に甘ったるく鼻にまとわりつく。 舌の奥が、渋柿を噛んだみたいにきゅっと縮んだ。
透真は「はい」とだけ言い、タブレットを抱え直して歩き出す。 今日も、火加減を守る係だ。 焦げているのに「よく焼けてます」と笑顔で出すわけにはいかない。
けれど、鍋の底に何かこびりついているのを知りながら、誰にも言えずに蓋を押さえ込んでいる感覚が、胸の奥でじりじりと燻っていた。
◇
午前のシフトをどうにか焼き切り、職員用休憩室のドアを押した瞬間、ほっとする匂いが鼻をくすぐった。 湯気。 味噌と出汁の、柔らかい香り。 電子レンジの「チン」という音に、ビニールの擦れるしゃかしゃか、とした音が続いている。
蛍光灯の白い光が少し黄ばんで見える、狭い部屋。 壁際に...