結晶化した壁から光が滲んでいた。エララは、人の足が踏み入るために造られたのではない回廊を押し進んだ。踏み出すたび、呼吸しているかのような表面に色の亀裂が走り、きらめく滝となって流れ落ちる。死んだ神々が積み重ねた時間が、濃く息苦しく、彼女の肌に圧し掛かった。借り物の分が視界の縁でちらつき、まだ辿っていない道を歩く自分の残響を生み出す――彼女が右へ踏み出したところで左へ踏み出すものもいれば、今という瞬間には存在しない障害に阻まれ、歩みの途中で凍りつくものもいた。
その残響のひとつが、振り返って彼女を見た。
その顔は年老いていた。生きていない歳月の皺が刻まれている。あの目には、まだ得ていない知が宿り、未来の自分の表情にあったのは希望ではなかった。
彼女はさらに速く走った。
玉座が目覚めつつあった。借り物の時間を引き寄せる感覚が、胸骨に通した鉤に引っ掛けられたように伝わり、何世紀も新たな獲物を待ち受けてきた何かへと彼女を引きずっていく。カシアンとヴェイルンもすでに向かっている――時間の残響の中で、神の血の二つの流れが、飢えの一点へと収束していく道筋を彼女は見ていた。
*見てはいけない。聞いてはいけない。見える未来はすべて、あとで支払う借金になる。*
前方で三つの道が分かれ、それぞれが結晶化した可能性をまとって揺らめいていた。時間感覚が反射的に外へ伸び、まだ結晶化していない未来に触れかける――
左:行き止まり。壁が内側へ崩れ落ちる。結晶の重みに押し潰される自分の身体。
中央:ヴェイルンの軍勢。言葉を発するより先に、肋骨の間を刃が貫く。
右:開けた空間。玉座の間。可能性。
彼女は右へ身を翻し、残響が叫んだ。
音ではない。正確には。記憶が現在へねじ込まれる――まだ起きていない会話の幽かな印象、口論や懇願や必死の交渉が壁から滲み出す。玉座は聞こえる者すべてを呼んでいて、借り物の時間のせいで、彼女の耳は本来彼女に向けられていない約束で鳴り響いた。
*帰っておいで。帰っておいで。帰っておいで。*
胸の奥に温かさが広がった。その声は抱擁のように彼女を包み込み、濃く、近い。そこには帰属の響きがあった。彼女が我に返るより先に、指先が前方の回廊へと引き寄せられて痙攣した。
嘘だ。嘘だと分かっていた。プライム・ヴェラムが真実を見せてくれた――玉座が差し出すのは帰属ではない。消化だ。
足が何かに引っ掛かった。彼女はよろめき、掌をついた壁の脈打つ温もりに支えられて持ち直したが、手遅れだった。結晶化した表面が、別の未来を映していたのだ。反射の中で、カシアンが玉座に座っていた。彼の顔は安らかだった。美しかった。
だが、次の瞬間――違った。
その顔立ちは、水面に石を投げ込まれたように波打ち、目は虚ろになり、口は音のない叫びの形に開いた。彼の下で、何かが餌を食んでいた。
三度、心臓が脈打った。幻は薄れた。壁に当てた手が震え、息は引きつったあえぎになった。玉座の引力は強まっていた。借りものの時間が、その係留をきしませ、あるべき未来へ引き戻そうとして、いまにも断ち切れそうだった。
*まだだ。やるべきことをやるまでは。*
彼女の脇に、別の残響が現れた――こちらは後ろ向きに歩いていて、足は逆向きに運ばれ、顔だけが彼女の背後の、彼女には見えない何かへ向けられていた。彼女より若く、自分の未来から盗んだ歳月の痕もない。唇が動き、聞こえない言葉を形作っている。
聞こうとはしなかった。走った。
回廊は次第に狭くなった。結晶化した壁は、さらに古いものへ変わっていく――万神殿が築かれる前、最初の神が最初の神域を手にする前に切り出された石だ。空気も変わった。きらめきが失われ、濃く、重く、積み重なった神性を孕んだ密度を帯びていく。
近い。近かった。
前方のアーチの向こうに、道祖祠が見えた――石に彫り込まれた小さな龕で、水をたたえた鉢と、畳まれた外套が置かれている。神々がまだ玉座に座していたころ、この道を歩いた巡礼者のための供物だ。何世紀も使われていないはずなのに、水は澄んだままで、埃にも腐朽にも触れていなかった。
エララの歩みが鈍る。
時間がない。一秒遅れるごとに玉座の囁きは強くなり、そのぶんだけカシアンとヴェイルンは、すべてを終わらせる過ちへ近づく。だが手は震え、借りものの時間は不安定で、身体が休息を求めて叫ぶままの状態で、これから来るものに立ち向かう余裕はなかった。
彼女は立ち止まった。
鉢は指先に冷たかった。両手で水をすくい、顔へ運ぶ。衝撃に息を呑んだ――澄んで鋭く、そしてこの回廊の何よりも確かな「本物」だった。アーカイブの埃も、必死の逃走で浮いた汗も、未来が皮膚に押しつけてくる幻の感触も洗い流されていく。
水面から、彼女の影が見返してきた。あるべきよりも年老いている。借りた歳月が目元に細い線を刻み、髪に灰色を織り込んでいた。三十代のはずが四十代の女に見え、関節の疼きにも、手足の重さにも、盗んだ年が一つひとつ宿っているのを感じた。
*できる。やらなきゃ。あの人たちは、何に足を踏み入れようとしているのか分かっていない。*
新しい外套は鉢の脇に置かれていた。粗い織りで、薬草の匂いがする。ローズマリー。その下に、もっと古い何かの匂い――母の台所を思い出させる匂い。炉の上に吊るされた小さな乾燥ラベンダーの束。ぬくもりと安全と、神々や玉座や借りた分の時間なんてものが存在する前の時代。
彼女は外套を持ち上げ、肩に落とした。一度、息を吸うあいだだけ、彼女は破局を止めるために駆ける女ではなかった。ただそこにいるだけ。ただ清いだけ。ただの人間として。
それから外套を結び、走った。
最後の回廊が巨大な広間へと開け、その中心に玉座が、現実に穿たれた傷のように鎮座していた。
彼女が予想していたものではなかった。石でも金属でも木でもない。むしろ呼吸しているように見える何か――名のつけようもない色が表面を波打ち、縁は固体と液体と、まったく別の何かとのあいだを移ろい続けている。座面は内側へと湾曲し、受け入れるのを待っていた。周囲の空気は唸り、歯が疼くほどの周波数で震えていた。
演壇の両側に、二つの人影が立っていた。
カシアン。彼は玉座へ顔を向け、表情は憧れと恐怖のあいだに囚われていた。一生探し続けた歌をついに耳にした男のようだった――それが葬送の調べだと気づいてしまった男の。
ヴェイルンはその向かいに立ち、姿勢は侮蔑と飢えとで同じだけ硬く張り詰めていた。彼の手はすでに玉座の肘掛けへ伸び、触れないようにする努力で指先が震えていた。
ふたりとも、彼女が入ってくると振り向いた。
「エララ」カシアンの声は、彼女の名のところでひび割れた。「どうやって――」
「やめて」彼女は荒く息をしていた。借り物の時間が、危うくちらついている。「ふたりとも。プライム・ヴェラムを見た。あれが何か、わかってる」
ヴェイルンが唇を歪めた。「人間の飼い犬が戻ってきたか。感動的だな」
「玉座じゃない」彼女は一歩進み、借りた分の時間を引き寄せるそのものへ、脚を無理やり近づけさせた。「口なの」
唸りが増した。玉座の表面はより速く波打ち、エララにはもう見えていた――座面が内側へ曲がるのは心地よさのためではなく閉じ込めるためで、肘掛けが伸びるのも支えるためではなく拘束するためだということが。栄誉に見せかけて仕立てられた罠。権力の座に化けた捕食者の顎。
カシアンの目は彼女の顔に釘づけのままだった。「今、なんて言った?」
「神々は玉座を捨てたんじゃない」言葉の一つひとつが彼女を削った。借り物の時間が、跳ね返って債を取り立てようとするのを感じる。「あれに食われたの。ヴェラムが見せてくれた。ここに座った神はみんな、内側から喰い尽くされた。あれは意識も、神性も、あなたという存在の全部も奪って――何世紀もかけてゆっくり消化する。あなたの力を使って、次の獲物を呼び寄せながら」
ヴェイルンが笑った。空洞で、脆い音だった。「主人の首輪を守りたい人間の、見え透いた作り話だ」
「私は誰にも仕えてない」彼女は、ありえないほどの距離を隔てて彼の目を見据えた。「そして、あなたも仕えることにはならない。あの玉座に触れたらね。あなたは餌になる。それがあれの望み。ずっと、それしか望んでこなかった」
玉座の唸りが変わった。言葉になった。彼女の知るどんな言語でもないのに、その意味が痣のように心へ押しつけられてくる。
――帰っておいで。帰っておいで。帰っておいで。
「話してる」カシアンの声は、ほとんど囁きだった。「一生ずっと聞いてきた。生まれながらの権利が、俺を呼んでいるんだと思ってた」
「統べるために呼んでるんじゃない」彼女はさらに一歩進んだ。「食わせるために呼んでるの」
ヴェイルンの手が、玉座の肘掛けへと近づいた。指先は表面から数インチのところで宙に止まり、抵抗する――あるいは期待する――その力みに震えていた。「信じろっていうのか? 何世代にもわたって正当なThe Claimantを呼び続けてきた玉座が、よ、寄生虫だと? 俺が血を流して勝ち取ってきた神授の権利が、嘘だと?」
「あなた自身の目を信じてほしいだけよ」彼女は玉座の表面を指さした。「見て。ちゃんと見て。あれが、あなたには力の座に見える? それとも――飲み込むのを待ってる何かに見える?」
沈黙。
それから、ヴェイルンの手が前へ動いた。
「やめて!」自分の声だとは思えなかった。そこに滲む必死さは、生々しく、獣じみていた。「触ったら死ぬ。最初は分からない――勝ったと思う。やっと手に入れた、ずっと自分のものだったはずのものを取り戻したって思う。でも、そいつは内側からあなたを食い尽くすの。年ごとに、世紀ごとに。最後には、あなたの顔を被った空っぽの殻しか残らない」
ヴェイルンはためらった。視線が玉座へ、彼女へ、そしてカシアンへと揺れる。表情のどこかが変わった――疑いか、あるいは恐怖の最初の芽生えか。
カシアンの手が動きはじめていた。エララには、それが断片として見えた。指が玉座の肘掛けへ伸びていく。受け入れるためではなく、抗っている力に引きずられるみたいに。顎が強く噛みしめられ、目はきつく閉じられている。それでも手は、恐ろしいほど少しずつ少しずつ、飢えで波打つ表面へ近づいていった。
「カシアン」彼女は走りだしていた。二人の距離を詰める。「カシアン、だめ。お願い」
「無理だ――」声が途切れた。「聞こえる。ずっと俺を呼んできたんだ、一生。俺の名前を知ってる。俺が欲しかったものを、全部知ってる」
「欲しくなるように仕向けてるのよ」彼に追いつき、手首を掴む。腕の中を走る震えが、電流みたいに伝わってきた。「それが捕食者のやり方。獲物に、近づきたくさせる」
カシアンが目を開けた。彼女の目を捉える。その瞳の中に、エララは戦いを見た――長いあいだそれを望み、玉座を手に入れることに自分のすべてを築いてきた部分が、別の何かを大切にすることを覚えた部分と争っている。彼女かもしれない、何かと。
「エララ」彼の唇の上で、彼女の名は問いになった。懇願になった。「もし俺が――もし背を向けたら、俺が戦ってきたものは全部――」
「それなら、別の何かのために戦えるように、生きていられる」
玉座のうなりが、咆哮へ変わった。表面に色が渦を巻き、エララはそれが今度は自分へ手を伸ばしてくるのを感じた――神の血を通してではなく、彼女を一時的に人間以上の何かにしていた借りものの時間を通して。そいつは彼女も欲していた。誰もかれも欲していた。何世紀も飢えていて、今、血の匂いを嗅ぎつけたのだ。
ヴェイルンの手が玉座に触れた。
時間が止まった。
玉座の表面が外へ爆ぜた。光ではない――不在だった。色も音も、この広間の空気そのものも飲み込む虚無。ヴェイルンの身体が硬直し、恍惚と恐怖が入り混じった表情のまま凍りつく。口が開いたが、声は出ない。
それから、彼は叫んだ。
人間の声ではない。ほどかれていくものの音、意識が糸を一本ずつ抜き取られてばらばらにされていく音、魂が消化されていく音だった。
カシアンの手が彼女の手を強く握りしめた。骨が砕けそうな、必死の握力だった。「何が起きてる?」
「食べてるのよ」彼女は目を逸らせなかった。ヴェイルンの身体から、皮膚が灰色に変わりはじめ、目が空洞になりはじめる、そのさまから。「私が言ったとおりのことを、いままさにやってる」
ヴェイルンの叫びは唐突に途切れた。彼の身体は一拍、二拍のあいだ微動だにせず立ち尽くし――それから崩れ落ち、糸を切られた操り人形みたいに御座へとくしゃりと潰れた。
だが、彼がいた場所には何かが立っていた。形。残響。影。ヴェイルンの影であって、ヴェイルンではまるでないもの。輪郭は滲んで揺れ、口は笑みのかたちに引き伸ばされているのに、そこにはそれをまとっていた男の欠片もなかった。
玉座の唸りが戻ってきた。いまは柔らかい。満ち足りたように。
*もっと。* それは囁いた。*もっと。もっと。もっと。*
カシアンの手はまだ彼女の手の中にあった。彼が震えているのがわかった。玉座が、血の味を知ったいま、また彼を前へ引き寄せようとしている、その牽引も感じた。彼の指がさらに強く絡みつき、彼が踏みとどまるために掴んでいるのか、それとも崩れ落ちないために掴んでいるのか、彼女にはわからなかった。
「エララ」彼の声はほとんど聞こえなかった。「どうする?」
彼女は玉座を見た。ヴェイルンの亡骸を見た。ヴェイルンの顔を被っていた影を見た。それは座へと漂い、表面に溶け込み、長いあいだ餌を待っていた飢えの一部になっていく。
もう後戻りはできない。玉座を安全に「The Claimant」のものにできるなどというふりもできない。死すべき世界の上に、新たな神が座して裁きを下す結末へ至る道など存在しない。継承戦争は、そもそも戦争ですらなかったのだ。
それは、献立表だった。
そして玉座はまだ飢えている。
「終わらせる」彼女は言った。
玉座の表面が波打った。影のヴェイルンの笑みが縁に沿って広がり、唸りは囁きに変わって、彼女の頭蓋の内側を這い回り、そこに棲みついた。
*帰っておいで。* それは言った。*帰っておいで。帰っておいで。*
彼女はカシアンの手をいっそう強く握り、ふたりで、神々を食らったものに向き合った。
それは待っていた。ふたりが決めるのを。エララは一歩踏み出し、カシアンを引いて同じだけ進ませ、プライム・ヴェラムの隠し間に刻まれていた言葉を口にした――最初の神が息を吹き込まれるより前に、帝国を終わらせた言葉を。
玉座が絶叫した。言葉ではなく、現実そのものが縫い目から裂けるみたいに広間を引き裂く音で。光が表面から噴き上がり、エララへ注ぎ込み、彼女を通り抜けていく。そして彼女は、借りたすべての時間が一斉に返済を求めて押し寄せてくるのを感じた。皮膚が張りつめた。骨が痛んだ。あるべき場所へ落ち着くのを待っていた歳月の重みで。
彼女は膝から崩れ落ちた。自分の手を――彼女はそれを、切り離された恐怖とともに見つめた――目の前で痩せ細り、風化し、時を逃れようとした地図の上に川のように血管が浮き上がっていった。
「エララ――」カシアンの声が途切れた。彼は彼女に手を伸ばし、彼女は彼の指先から光が抜けていくのを見た。割れた器から水が漏れ出すように、神性が彼の顔から流れ落ちていくのを見届けた。彼は彼女の傍らに崩れ落ち、唐突に、ただの男になった。それ以上でも以下でもない。
玉座の光がふっと途切れた。失敗した。死んだ。
そのあとの沈黙の中で、エララには自分の鼓動が聞こえた――いまは遅く、重い。目の前の座は、もう息をしていなかった。その上でちらついていた冠は、塵となって溶けた。
ヴェイルンは凍りついたまま立ち尽くし、もはや輝かない手から刃ががしゃりと落ちた。「おまえは、何をした?」
エララは目を閉じた。「払ったの。借りたものは全部。払った。」
Masuk Diperlukan
Bab gratis (1–6) tersedia untuk semua orang. Silakan masuk untuk membaca bab lainnya. Membuat akun gratis!
⚙️ Pengaturan Baca
第十九章:待ち受ける口 - 時を借りた少女
結晶化した壁から光が滲んでいた。エララは、人の足が踏み入るために造られたのではない回廊を押し進んだ。踏み出すたび、呼吸しているかのような表面に色の亀裂が走り、きらめく滝となって流れ落ちる。死んだ神々が積み重ねた時間が、濃く息苦しく、彼女の肌に圧し掛かった。借り物の分が視界の縁でちらつき、まだ辿っていない道を歩く自分の残響を生み出す――彼女が右へ踏み出したところで左へ踏み出すものもいれば、今という瞬間には存在しない障害に阻まれ、歩みの途中で凍りつくものもいた。
その残響のひとつが、振り返って彼女を見た。
その顔は年老いていた。生きていない歳月の皺が刻まれている。あの目には、まだ得ていない知が宿り、未来の自分の表情にあったのは希望ではなかった。
彼女はさらに速く走った。
玉座が目覚めつつあった。借り物の時間を引き寄せる感覚が、胸骨に通した鉤に引っ掛けられたように伝わり、何世紀も新たな獲物を待ち受けてきた何かへと彼女を引きずっていく。カシアンとヴェイルンもすでに向かっている――時間の残響の中で、神の血の二つの流れが、飢えの一点へと収束していく道筋を彼女は見ていた。
*見てはいけない。聞いてはいけない。見える未来はすべて、あとで支払う借金になる。*
前方で三つの道が分かれ、それぞれが結晶化した可能性をまとって揺らめいていた。時間感覚が反射的に外へ伸び、まだ結晶化していない未来に触れかける――
左:行き止まり。壁が内側へ崩れ落ちる。結晶の重みに押し潰される自分の身体。
中央:ヴェイルンの軍勢。言葉を発するより先に、肋骨の間を刃が貫く。
右:開けた空間。玉座の間。可能性。
彼女は右へ身を翻し、残響が叫んだ。
音ではない。正確には。記憶が現在へねじ込まれる――まだ起きていない会話の幽かな印象、口論や懇願や必死の交渉が壁から滲み出す。玉座は聞こえる者すべてを呼んでいて、借り物の時間のせいで、彼女の耳は本来彼女に向けられていない約束で鳴り響いた。
*帰っておいで。帰っておいで。帰っておいで。*
胸の奥に温かさが広がった。その声は抱擁のように彼女を包み込み、濃く、近い。そこには帰属の響きがあった。彼女が我に返るより先に、指先が前方の回廊へと引き寄せられて痙攣した。
嘘だ。嘘だと分かっていた。プライム・ヴェラムが真実を見せてくれた――玉座が差し出すのは帰属ではない。消化だ。
足が何かに引っ掛かった。彼女はよろめき、掌をついた壁の脈打つ温もりに支えられて持ち直したが、手遅れだった。結晶化した表面が、別の未来を映していたのだ。反射の中で、カシアンが玉座に座っていた。彼の顔は安らかだった。美しかった。
だが、次の瞬間――違った。
その顔立ちは、水面に石を投げ込まれたように波打ち、目は虚ろになり、口は音のない叫びの形に開いた。彼の下で、何かが餌を食んでいた。
三度、心臓が脈打った。幻は薄れた。壁に当てた手が震え、息は引きつったあえぎになった。玉座の引力は強まっていた。借りものの時間が、その係留をきしませ、あるべき未来へ引き戻そうとして、いまにも断ち切れそうだった。
*まだだ。やるべきことをやるまでは。*
彼女の脇に、別の残響が現れた――こちらは後ろ向きに歩いていて、足は逆向きに運ばれ、顔だけが彼女の背後の、彼女には見えない何かへ向けられていた。彼女より若く、自分の未来から盗んだ歳月の痕もない。唇が動き、聞こえない言葉を形作っている。
聞こうとはしなかった。走った。
回廊は次第に狭くなった。結晶化した壁は、さらに古いものへ変わっていく――万神殿が築かれる前、最初の神が最初の神域を手にする前に切り出された石だ。空気も変わった。きらめきが失われ、濃く、重く、積み重なった神性を孕んだ密度を帯びていく。
近い。近かった。
前方のアーチの向こうに、道祖祠が見えた――石に彫り込まれた小さな龕で、水をたたえた鉢と、畳まれた外套が置かれている。神々がまだ玉座に座していたころ、この道を歩いた巡礼者のための供物だ。何世紀も使われていないはずなのに、水は澄んだままで、埃にも腐朽にも触れていなかった。
エララの歩みが鈍る。
時間がない。一秒遅れるごとに玉座の囁きは強くなり、そのぶんだけカシアンとヴェイルンは、すべてを終わらせる過ちへ近づく。だが手は震え、借りものの時間は不安定で、身体が休息を求めて叫ぶままの状態で、これから来るものに立ち向かう余裕はなかった。
彼女は立ち止まった。
鉢は指先に冷たかった。両手で水をすくい、顔へ運ぶ。衝撃に息を呑んだ――澄んで鋭く、そしてこの回廊の何よりも確かな「本物」だった。アーカイブ...