半地下へと続く階段は、閲覧フロアとは違う匂いがした。 湿った土の冷たさ、その上に、炊きたての新米から立つ湯気のような、柔らかな温度が薄く重なっている。 鼻の奥のどこかで、遠くの線香の残り香が絡みつき、層をなしてとどまっていた。 一段降りるごとに、空気の味がひそかに変わっていくのを、春日透真は舌の裏で確かめようとしていた。
手すりを握り直す。 掌がうっすらと湿っていることに気づくのは、数段あとになってからだ。 金属の冷たさが、汗を挟んで指にざらりとひっかかった。 そのとき、前からふいに声が落ちてきた。
「足元、少しだけ変になりますからね」
先を行く雪村沙羅は、振り返らない。 歩調は軽いのに、声だけが慎重に落ちていた。 「変になるって……足元が、どう」
問い返した自分の声が、壁に吸い込まれていく。 少し遅れて、背後で氷室蓮が息を吐きながら笑う気配がした。 「重力の味が、ちょっとねじれてるだけですよ。 ざっくり言うと」
軽く言うな。 喉の奥へ上がってきた言葉を呑み込むと、胃のあたりがゆっくり熱を帯びた。 最後の一段を降りた瞬間、世界がほんのわずかに斜めへ滑る。 床は水平のはずなのに、身体が右足側へ、すこしだけ流されていくようだった。 胸の内側で、太鼓の皮をぴんと張りつめたような張力が生まれる。
姿勢を直そうと肩を引いたとき、スーツの裾をかすめて紅葉の葉が一枚、ふいに落ちてきた。 ふわり。 空中を漂いながら、しかし床に落ちきらない。 赤と橙のあいだの色をした薄膜のような葉が、足首の高さで、ひら、ひらと不規則に浮いていた。
見惚れているうちに、葉は空調の風とも違う揺らぎに乗って動き出す。 図書館特有の量子のざわめきが、見えない水面のうねりみたいに足元に広がり、そのうえを具材のように紅葉が回り始めた。 耳を澄ますと、壁一面に並ぶ黒いラックの奥から、「とく、とく」と低い水音がする。 湧き水を小さな鍋で静かに温めているような音で、その合間に、遠い閲覧室でページがめくられる「ぱさっ、ぱさっ」という擦れが薄く重なっている。 乾いた紙の息遣いが、この半地下まで続いていた。
「ここが、例の……今度は、その……」
透真は、喉のあたりで言葉を探してつかえさせた。 厨房なのか、実験台なのか、うまく形にならない。 代わりに、雪村の声がすっと入り込む。
「半地下実験閲覧室。 中枢の“仮台所”みたいなところ、と思ってくれればいいわ」
彼女は黒檀のようなラックの列のあいだを、身体ごとするりと通り抜けていく。 袂の代わりに揺れるカーディガンの裾が、紅葉データをふわ、と撫でた。 甘く焦げた砂糖をほんの少し焦がしたような匂いが、その瞬間だけ濃くなる。
部屋の中央、頭上のあたりに、銀色の台と椅子が一脚ずつ。 ぽつんと据えられたそれは、カウンター席が一つだけの小さな店を連想させた。 客は一人分。 腰を下ろせば、目の前の料理人が何かを調えてくれる。 ただ、その皿に盛られるのは料理ではなく、記憶だ。
喉の奥がからからに乾く。 唾を飲み込む音がやけに大きく響いた。 「あの……それでも、ここで俺は、何を」
「双子スイッチの、場を見てもらうだけですよ。 まずはね」
氷室が横から追い抜き、台に片手を置いた。 指先で軽く叩く。 「コン、コン」と、金属なのにどこか柔らかさを含んだ音が返ってきた。 まな板の端を指で弾いたように、しなりのある響きが空気に染み込む。
「“だけ”って言い方は、あまり好きじゃないのだけれど」
雪村は、台の脇に立つ透明な端末を顎で示した。 彼女の肩越しに見えるディスプレイは、まだ何も映していない真白な面だ。 「ここから先であなたが話すこと、選ぶことは、すべて記録として残ります。 館の基盤に、そのまま戻る形で」
戻る。 その一語が、透真の心臓を内側から強く叩く。 鼓動が一回分、音を立てて弾んだ気がした。 「戻るって、どういう……もっと、その」
「調理ログってイメージした方が早いかもですね」
氷室が、ひょいと端末の前にしゃがみ込む。 指を滑らせると、白い画面に黒い記号が一行だけ浮かび上がった。 { } という器だけの行だ。
「JSON形式で。 誰がいつ、どんな条件で“同意したか”、最低限の材料だけ、基盤に返す。 レシピの一部みたいなものです」
「じぇいそん……その、」
聞き慣れた技術用語が、この部屋では別の質感をまとって聞こえる。 括弧とコロンとカンマの列。 乾いた記号なのに、誰かの決断を詰め込んだ瓶のラベルのようにも見えた。
雪村が静かに続ける。 「大きな介入をするときは、どうしても必要なの。 あとから、『誰が火を強くしたのか』『塩を足したのか』を追えるように。 ……あなたにも、そのログは見せる」
そこで彼女はうっすらと笑った。 笑みの奥から、疲れた苦味が一瞬のぞく。 炙りすぎた味噌の端が舌の上に残るときのような、かすかな焦げの匂いが、言葉の輪郭にまとわりついた。 「……慎重に、双子スイッチ。 本当にやるつもりなんですか」
自分の声が、思っていたより低い位置から出た。 胸の奥で、「とくん」と脈打つ音が、ラックの水音と重なる。 氷室がちらりと透真を見る。 その視線は、刃先ではなく包丁の柄を見せるように落ち着いているのに、熱がじわじわと滲んでいた。
「やるかどうか決めるのは、あなたです。 材料と手順は用意した。 場所もここにある。 火加減は、こっちでも見ますけど」
火、という音に、喉がひくりと動いた。 兄のデータに触れる唯一の手段、とさっき告げられたばかりだ。 休憩室の隅で、古いほうじ茶の香りに包まれながら聞いた話が、胸のざわめきごとここまでついてきている。
そのざわめきの上から、名を呼ぶ声が落ちた。 「春日くん」
雪村がゆっくり顔を向ける。 瞳の中で、半地下の淡い灯りと紅葉の赤がゆらゆら揺れた。 「ここから先の話は、聞くだけでもいい。 ただ、聞いたら……たぶん、何もせず元の台所には戻れない。 それでも?」
戻れない、という言葉が胸に沈む。 親戚が放った「残った子の方がしっかりしないとね」という一言が、舌の裏をひやりと撫でた。 あの時も、引き返せない場所の手前で、立ち尽くしただけだった。 透真は、肺の奥まで空気を引き込み、細く吐いてから声を出す。
「……聞きます」
言い終えた瞬間、足元の紅葉が一枚、くるりと回転した。 水音がほんの少し深くなる。 「とく、とく、とく」と、出汁を最後に一滴垂らした鍋の底が濃く響くような変化があった。 雪村が端末にそっと触れる。 「ぴ」という控えめな音とともに、画面に文字列が浮かぶ。
{
"timestamp": "… ",
"actor": "春日 透真",
"action": "briefing_consent"
}
自分の名前を目で追った瞬間、胃の底に硬いものが落ちたような感覚が走る。 誰かの厨房ノートの片隅に、見慣れた名前が鉛筆で書き込まれたときの違和感。 口の中が急にきしんだ。
「説明から始めましょうか」
雪村は、実験椅子の背に手を添えた。 木の艶をまねた表面なのに、指がわずかに沈む。 油を吸い込んで柔らかくなった古いまな板のような手触りだった。
「双子スイッチっていうのはね……」
「その単語、あんまり連呼しない方がよくない?」
氷室が脇のラックに背中を預けながら口を挟む。 彼の肩のあたりで木目がゆるく揺れた。 「上に聞かれたら、司書長室から直で塩飛んでくる」
「……そうね。 じゃあ、別名でいきましょう。 “接ぎ木”」
雪村の声がほんの少し柔らかくなる。 「片方の枝に、もう片方の芽を挿して、ひとつの樹として育てる。 日本だと柑橘でよくやるわ。 レモンとオレンジを一本の幹に接いで、どっちの実もならせるみたいな」
柑橘という言葉で、透真の舌の裏に酸味の幻が広がった。 レモンの皮をかじったときの、筋がきゅっと縮むような感覚。 唾液が勝手に湧く。 「あの、その“接ぎ木”にされる側は……」
「あなたの兄さんの記憶層。 もう片方が、あなた」
氷室が淡々と告げる。 「もちろん丸ごと入れ替えるなんて乱暴なことはしない。 幹は兄さんのまま。 その表面に、あなたの量子情報を薄く塗る。 透明な皮一枚ってイメージ」
皮。 湯葉や薄い氷の膜。 静かな表面に、自分がぺたりと張りつく姿を想像した途端、背中を冷水が走る。 肩甲骨の間がぞくりと冷え、熱気のなかで冷蔵室の扉を開けられたような違和感が肌を撫でた。 「どうして、そんなことをしなきゃいけないんですか」
問いというより、押し出された呻きに近い声だった。 雪村が椅子から手を離し、透真へ半歩近づく。 その足運びに合わせて、紅葉が「ふわ」とゆっくり揺れた。
「本来なら、必要ない手段よ。 死者は死者の場で火を扱い、生者は生者の場で火を守るべきだと、私は思っている」
そこで彼女の唇が一瞬硬く結ばれる。 顔の横を通る匂いが、土と線香から、乾いた白檀の甘さへと変わった気がする。 肌のすぐ外側で空気が少しだけきしんだ。 「でも、一度だけ——私たちは似たことをした」
水音が、ぴたりと止まる。 遠くで「ぱさり」と紙の落ちる音。 空調の風が、さっと腕の産毛を撫でていった。 頭上では、紅葉データがざわ、と小さく波打つ。
「昔よ。 あなたがここに来るより前。 戦死した方の記憶をめぐって、遺された人同士を……“出会わせた”ことがあった」
「出会わせたって」
胸の皮膚の内側から、誰かが指で押したような鈍い圧迫感が生まれる。 気づけば、鍋の蓋を他人に勝手に開けられ、中を掻き回されている光景が、脳裏の片隅ににじんでいた。 氷室がわずかに眉を上げる。
「その話、ここでする?」
「ここでしなくてどこで話すのよ」
雪村の声は穏やかなままなのに、語尾に細い刃が隠れている。 指先が無意識にカーディガンの袖をつまんで引く。 布が擦れる「しゃり」という音が、やけに鮮明に耳に残った。
「詳しくは言えない。 誰の話か明かす権利は、もう私たちにはないから。 でも、輪郭だけなら」
彼女は、黒いラックに視線を投げる。 「しゅる」と細い水の音が戻り始めた。 さっきの「とく、とく」と違い、鍋の縁を撫でる細流のような音色だ。
「戦地で亡くなった夫の記憶を閲覧しに来ていた奥さんがいた。 そこへ、別の利用者として同じ部隊の戦友が現れた。 私たちは、ふたりを同じ閲覧室に入れた。 偶然を装って」
偶然を装う。 喉の奥に、焦げた醤油の苦味が薄く広がる。 言葉を噛みしめるたび、舌にざらつきが残った。
「ふたりとも、とても喜んだ。 奥さんは、夫の話を戦友の口から聞ける。 戦友は、自分が背負っているものを遺された人に“ちゃんと渡せる”。 その場だけ見れば、温かい席だった」
雪村の手が、膝の前でぎゅっと握られる。 指の節が、皮膚の下でほんの少し浮かび上がった。 「でも、そのあと……奥さんは現世の生活を、少しずつ手放していった。 夫の記憶に通い詰めて、戦友の話を重ねて、過去だけを食べ続けるようになって」
過去だけを口に運ぶ。 胃のあたりで、言葉の映像が重く固まる。 冷えたおせちを何日も食べ続けるような、変わらない重さが内側に積もる。
「子どもさんとの時間も、家のことも、全部後回し。 最終的に、その家庭は……壊れた。 私たちが“出会わせた”結果として」
雪村はそこで口を閉ざす。 唇の端が、わずかに震えた。 声へ出なかった息が、空気を一度だけ熱くしたように思えた。
「だから私は、他人の人生に手を突っ込むことを、何かを作るみたいに軽く考えるのが怖いの」
彼女の言葉が、透真の胸に変な形で沈んだ。 自分は、利用者の記憶を「レシピ」と呼んで大事に扱ってきたつもりだ。 守る、と言いながら、匙ひとつで勝手に味を変えてしまったら、その舌触りはもう戻らない。
「でも、あの時のやり方と、今話してるこれは違う」
氷室の声が少し低くなる。 表情は落ち着いているが、その下で熱がくすぶっている。
「俺たちは“出会わせる”んじゃない。 すでにある縁を、別のかたちに組み替えるだけ。 双子っていう、ほとんど同じ生地から生まれたふたりのあいだで」
生地。 小麦粉と水と卵を混ぜたボウルのなかから、形を変えて二つのパンが焼かれる光景が浮かぶ。 どちらも同じ材料を使っているのに、焼き上がると違う輪郭になる。
「春日」
氷室が台の横でまっすぐ透真を見る。 「結論だけ言うと、兄さんの記憶層に安全に深く触る現実的な方法は、接ぎ木しかない。 図書館の権限だけで蓋をこじ開ければ、中身ごと吹きこぼれるリスクが高い」
吹きこぼれる映像が、すぐに頭に浮かぶ。 鍋の縁から泡が一気にあふれ出し、慌てて火を弱めてもコンロの上で白い泡がじゅうじゅうと広がる。 手が追いつかず、焦げ跡だけが残る。
「それに——」
氷室は、端末とは別にポケットから小さな黒いプレートを取り出した。 手のひらに収まる四角い板。 表面はつるりとしているのに、光が当たると、枝を編み込んだような微細な模様が浮かぶ。 連理会の印だ。
「兄さん自身が、生前に設計したプロトコル。 『双子じゃなきゃ意味がない』って、はっきり言ってた」
その一言で、胸のどこかがぎゅっと縮んだ。 レモンを握りつぶしたとき、手の中で果汁が一気にあふれる感覚が、なぜか体の内側で再現される。
「……兄が」
声は、音としてかろうじて形を保っていた。 「そう。 黄泉の図書館を“誰でも使える場所”にしたいって言ってたあの人は、『双子なら、片方が焦げそうになった時、もう片方をかぶせて守れる』って言ってた。 ……少なくとも、理屈の上では」
耳の奥で、兄の話し方が蘇る。 「まあな」とか「でさ」といった言い回しが、記憶のなかでばらばらに浮かんでは、湯気の向こうに消えていく。 手を伸ばせば触れられそうで、掌の直前で熱に遮られる距離感。
「成功例は、あるんですか」
自分の意識より先に、口が動いていた。 声帯のどこかが火花を散らすように震え、言葉が飛び出す。 氷室は一瞬黙り、視線をわずかに横へ滑らせた。 その線の延長上で、雪村の冷えた目が彼を射抜く。
「例の話をするつもり?」
「抽象的になら問題ないでしょう」
氷室は、息を短く吐いた。 「……“完全”な成功と言えるケースは、俺の知る限りない。 ただ、“ましになった”例ならある」
まし。 焦げた鍋を前に、「この部分ならまだ食べられる」と苦笑する時に使う、便利でごまかしの利く言葉だ。 内側で、言葉の温度だけがぬるく滞る。
「ある兄弟。 片方が事故で亡くなって、残された方がずっとその責任を自分にかぶせてた。 兄と弟って構図は違うけど、状況は近い」
氷室の声が、わずかに柔らかく聞こえた。 「接ぎ木のあと、亡くなった方の視点から事故を追体験することで、遺された方の罪悪感は部分的に薄れた。 『自分だけが悪いわけじゃなかった』って、身体ごと理解したから」
雪村がそこで口を挟む。 「でも、その代わりに、生きてる方の人生に別の歪みが出た。 現実の人間関係に、亡くなった人の癖が入り込んじゃった」
氷室が肩をすくめる。 「副作用ゼロなんて誰も言ってない。 薬だって似たようなものでしょう。 効き目と副作用の釣り合いで、飲むかどうか決める」
「違うのは、記憶には“一匙だけ味見”って調整が効かないところ。 量り売りができない」
二人の言葉が鍋のなかでぶつかり、具材同士がぐつぐつ当たるような圧が場に生まれる。 透真は、その真ん中に立っていた。 湯気をまともに浴びる場所で、息を潜めるしかない。
「春日くん」
雪村が再びこちらを見る。 声がさっきより近く、少しだけ柔らかい。
「あなたがここで“接ぎ木”を選べば、兄さんの記憶層に触れられる可能性は高くなる。 でも、あなた自身の癖や視点、後味も、兄さんの側にわずかに移るかもしれない」
「それって、兄の人生に、俺が——」
土足で踏み込む、という言葉が喉までせり上がり、舌の裏で止まる。 代わりに、鉄の味が口内に広がった。 血や、錆びたスプーンを舐めたときのような、金属の残り香が歯の隙間に残る。
「上から醤油をかける、みたいなもんですか」
言い終えて、自分でも変な比喩だと思う。 雪村が目を細め、息をひとつ吐いた。
「……そうね。 好みの味に近づくかもしれない。 でも、素材そのものの味は変わってしまう」
「違いますよ」
氷室がすぐに返す。 声は静かだが、芯が固い。
「もともと焦げかけてる鍋に、水を差すようなもんだ。 元通りにはならない。 けど、丸ごと炭になるのは避けられる」
焦げ。 炭。 形だけ残して、香りも味も真っ黒になるもの。 兄のデータも、放っておけば外部から何度も火をいじられ、いつか原型がわからない黒塊にされるかもしれない。 改竄、保全プロセス、外からの圧力。 そのたびに火加減を勝手に変えられて。
「……兄のデータは、それで」
透真は一瞬、目を閉じる。 瞼の裏に葬儀の白い天井が浮かんだ。 香の煙が蛇のように立ち上り、僧侶の声が単調な波で押し寄せる。 父の背中が前で丸い影になり、畳の柔らかさが膝の裏に食い込んでいた。
「それで、戻せるんですか」
問いを投げた途端、舌が熱を帯びる。 火傷しかけたようにひりついた。 そんな聞き方をしていい立場か、自分でも分からない。 兄の人生を、「戻す」なんて言葉で扱っていいのか。 それでも、口は止まらなかった。
氷室は視線を落とし、黒いプレートを指でひっくり返しては戻す。 无意識の癖のように、その動きは滑らかだ。 「完全には戻らない。 そこははっきり言う。 焼いた魚を、生に戻すことはできない」
胸の裏側で、言葉がじりっと擦れた。 「ただ、焦げの表面を削って、中の身に火を通し直すことはできる。 今は、外からいじられた層が厚すぎて、本来の兄さんの味が、あなたにも図書館にも届いてない。 その厚い衣を、双子という包丁で薄く剥ぐ。 その作業に、あなたの手が要る」
包丁、と聞いた瞬間、雪村の肩がほんのわずかに強張る。 自分でも分かるほど、空気の重さがひとしきり増した。
「……仲人の刃物の話、前にしたわよね」
彼女は自分で言いながら、小さく笑う。 自嘲気味な笑みだった。 「誰かと誰かを出会わせるのも、記憶と誰かの視点を重ねるのも、全部、刃物みたいなもの。 上手く使えばきれいに切れる。 一度やり過ぎれば、二度と元には戻らない」
沈黙が落ちた。 水音も紙の擦れる音も、背景に薄く退く。 代わりに、遠くの換気扇から低い「ぶう」という唸りが流れてきた。 大学の実験室で聞いたのと同じ、あの低い音だ。
兄がそこにいた最後の日の光景が、脳裏に浮かぶ。 白い蛍光灯。 床一面を這う配線。 ビーカーのガラスの匂い。 金属棚の冷たさ。 気づけば透真は拳を握っていて、爪が掌に食い込んでいた。 皮膚の内側に溜まった熱が、じわじわと盛り上がる。
「……体験、だけなら」
湯気の隙間から漏れるみたいに言葉が出た。 自分の声だとすぐには思えないほど小さい。 雪村が、即座に顔を上げる。 その目に一瞬だけ驚きが走り、すぐ沈静した。
「春日くん」
「本格的な接ぎ木は……まだ決められません。 でも、体験だけなら、どういうものか……見ておいた方がいいのかもしれないって」
言いながら、膝のあたりが微かに震える。 制服の布が「ぶる」とわずかに揺れ、足首のあたりが急に冷えた。 床のわずかな傾きが、さっきより大袈裟に感じられる。
こんなことを言う自分がたまらなく嫌だった。 兄の人生に自分の舌の跡を残したいだけのような気がして。 兄として生きるなんて話ではなく、「兄に近づける自分」の味を覚えたいだけなのかもしれない。 そう思うと、浅ましいという言葉が頭のどこかでぐつぐつ煮立った。 鍋底に張りついたオコゲが、箸でこそいでもしつこく残るように。
「体験版ってことですね」
氷室が短く笑う。 皮肉よりも、肩の力が抜けた音だった。 「バージョン0.1。 接続時間を制限して、兄さんの外縁だけ撫でる。 あなたの情報は、触れるだけで流し込まない」
「そんな生やさしいもんじゃないけど」
雪村が、小さく息を吐いた。 「……でも、完全拒否よりは、あなたの“味”が見える。 どこまで火を強くしていいか、見当がつく」
彼女は椅子を軽く引いた。 金属と床が擦れ、「きい」と高い音が立つ。 紅葉が、その振動に応じてひとしきりざわめいた。
「座れそう?」
椅子の前に立つと、膝がかすかに笑う。 重力が右斜め下へ引っ張っていくようで、床の傾きがやけに意識に食い込んだ。 「……座ります」
声が震れないように、ゆっくり息を吐いてから吸う。 香の匂い、土の匂い、紅葉の甘さ。 肺のなかに全部まとめて押し込む。 腰を下ろすと、背もたれがふわりと背中に沿った。 木とも布ともつかない手触りで、長年人に触れられてきた椅子特有の馴染んだ温度がある。
「手を、ここへ」
雪村が示したのは、台の端に浮かぶ透明なインターフェースだ。 薄い水面を切り取って空中に張ったような光の板。 触れれば破れそうで、それでも厚みがあるように見える。 透真は右手を伸ばし、数センチ手前で止めた。 そこから漏れる冷気が、指先にまとわりつく。 冷蔵庫から出したばかりのガラスボウルに近づけたときの、あのひんやりした層が肌にまとわりついた。
「怖ければ、やめてもいいですよ」
左側から氷室の声。 振り向くと、ラックにもたれたまま腕を組み、こちらを見ていた。 表情は平板に近いが、視線だけがまっすぐ突き刺さってくる。 用意された逃げ道が、逆に背中を押す。
「……いえ、大丈夫、です。 一応」
口癖の「一応」が勝手にくっつく。 自分の言葉の軽さと重さが、短いあいだ噛み合わなかった。
透真の指先が透明な板に触れる。 ひやり、と冷たい。 けれどガラスの硬さはなく、薄く凍った水面に触れたみたいに、じわじわと沈んでいく。 指を中心に、光の波紋がゆっくりと広がった。 それが腕へ、胸の奥へと染み込んでくる。
「接続、開始します」
雪村が端末に触れる。 「ぴ」「ぴ」と短い電子音が二度鳴った。 天井の灯りが、わずかに青白く変わる。 光の温度が一段下がったような感覚。 手術室のライトを思わせる、冷たい明るさだ。
耳の奥で、別の音が立ち上がる。 住職の読経。 「なーむ……」という低い声が、一定のリズムで波のように押し寄せてくる。 その背後から「ぶうう」という換気扇の唸りが重なった。 大学の実験室の音だ。 二つの音が鍋のスープみたいに混ざり、耳の中で煮詰まっていく。
線香の匂いが急に強まり、鼻の奥をつんと刺す。 甘いはずの白檀が、刺激物のように粘膜を逆撫でした。 そこへ、夏の蝉の声が割り込んでくる。 「じい……じい……」という遠い鳴き声が、秋の紅葉の中でありえないほど鮮やかに響いた。
季節が口の中でめちゃくちゃに混ざる。 冷たい麺に熱い汁をかけたような、違和感のある熱と冷たさが同時に喉と胃を撫でた。
目を閉じても光がまぶたを叩く。 映像が押し寄せる。 白い廊下。 見慣れた大学病院のようでいて、どこか違う光の質。 視点がほんの少し高い。 兄の目線のようでもあり、自分でもあるような不安定な位置だ。
手元を見る。 指が、自分より二本分長い気がした。 爪の形がわずかに角ばっている。 見慣れているようで、どこか他人の手だ。
場面が跳ねた。 実験室。 配線の上に、ペットボトルが一本転がっている。 ラベルは兄の好きだったスポーツドリンクのままなのに、味の記憶がついてこない。 モニターが赤く点滅し、「ピー、ピー」と警告音が響く。 そこへ、読経の声がねじこまれていた。 不自然な混ざり方だ。
画面の端にノイズが走る。 白い線が枝状に伸びて、視界の端から端へと絡みつく。 連理会の印に似ているが、もっと粗く、ざらついている。
「——っ」
胸の奥で何かがざくりと切れる音がしたような感覚。 空気が吸えない。 指先が震え始め、透明な板の上で木の葉みたいに小刻みに揺れる。
「春日くん、一旦——」
雪村の声が遠くから響く。 その背後で、水音が急に高くなった。 「ざばあっ」と鍋から湯が溢れるような音が耳を叩く。 紅葉データが一斉に天井へ舞い上がる感覚があった。 足元で漂っていた葉が、逆方向に吸い上げられていく。 赤と橙の帯が視界の隅を縦横に走り抜けた。
床がかすかに揺れる。 地震と呼ぶには弱い。 スープの表面を指で軽く弾いたように、部屋全体が一度「ぴくり」と震えた。
「安全プロトコル、オン」
雪村の声が、今日一番鋭くなる。 端末を叩く指先が、「ぱん」と乾いた音を立てた。 次の瞬間、耳が塞がれたように、すべての音がいったん消える。
それから、読経も換気扇も蝉も、まとめて遠くへ引いていった。 匂いも一緒に薄れる。 鼻を刺していた線香がふっと遠のき、代わりにいつもの土と紅葉の匂いが、時間を巻き戻すように戻ってくる。
指先から、透明な板の感触が離れる。 水から手を抜いたときのように、冷たさがするりと剥がれ、ぬるい空気が隙間に入り込んだ。 透真は勢いよく息を吸う。 肺がきしむ。 乾いたスポンジに水が急に吸い込まれたときのように、胸の内側がぐいっと膨らんだ。
「ここまで」
耳元で雪村の声がする。 さっきより少しだけ低い調子だった。
「もう切ったわ。 接続は全部終わってる」
透真はゆっくりと目を開いた。 視界が一瞬ぼやけ、紅葉の赤がにじむ。 天井の灯りは、さっきより心持ち暖かい色に見えた。
氷室が、少し離れたところからこちらを見ている。 腕は組んだまま。 だが、肩の線がさっきより前に寄っていた。 今にも歩み寄りそうで、踏みとどまっている姿勢だ。
「……どうです」
氷室が問う。 いつもの「ざっくり言うと」は出てこない。 透真はしばらく口を動かせなかった。 舌が、自分のものではないみたいに重い。 喉の奥から、小さな声だけが押し出される。
「……気持ち悪い、です」
それが、やっとの感想だった。 二日酔いの朝のように、胃の中に昨日の酒と脂がまだ溜まっている感覚に近い。 こめかみがじんじんと熱を帯びてくる。
「でも」
続けようとして、口を閉じる。 舌先が上顎に当たって止まり、さっき見えかけた映像だけが脳裏でしつこく流れた。 兄の視点かもしれない廊下。 実験室の風景。 あれは薄皮一枚、表面を撫でただけ。 それでも、確かに触れてしまった。
兄に、触れた。
それを認めた途端、胸の奥がきゅうっと縮む。 嬉しいのとも違う。 罪悪感だけとも違う。 焦げた鍋底をスプーンでこそぎ取って舐めたときの、あのいけない快感に少し似ていた。 そんな自分に気づいて、さらに胃のあたりがきしむ。
「吐き気が出る前に、今日はここまでにしましょう」
雪村が、椅子の背を軽く叩く。 音に合わせて、決して譲らない線が声の中に見えた。
「春日くん、立てる?」
「……はい。 たぶん」
足に力を込めると、膝が一瞬ぐにゃりとした。 床の傾きが、さっきより増したように感じる。 世界がすこしだけ横に滑った。
氷室が、ためらうように半歩近づいた。 「肩、貸しましょうか」
「いえ、大丈夫です。 一応」
反射的に返してしまう。 我ながら変なタイミングだと感じて、口の端がかすかに動いた。 氷室の口元も、ほんの少しだけ同じように歪んだ気がする。
「じゃあ、せめて、これ」
彼は台の端に置いてあった薄い膝掛けをひょいとつかむ。 地味なチェック柄で、実験室の風景とはちぐはぐな温かさを持っていた。
「頭を冷やしたあとくらい、身体は温めないと」
その言い方が意外に柔らかくて、透真は一瞬拍子抜けする。 いつもは冷静な理屈と皮肉をひとまとめに投げてくるのに、今は、ほうじ茶に砂糖をほんの少しだけ落としたような丸みがあった。
「……ありがとうございます」
膝掛けを受け取り、軽く会釈する。 布の感触は薄いのに、手のひらにじんわりと熱が広がった。
「休憩コーナーへ行きましょう。 ここは、さっきの匂いや音がまだ残りすぎてる」
雪村が扉の方を指す。 扉の縁には、紅葉のデータがうっすら貼りついていた。 誰かが油のついた手で触れたあとみたいに、淡い光沢の跡を残している。
半地下の廊下に出ると、匂いが変わる。 土の湿りを残したまま、そこへ香ばしい番茶の香りが重なった。 煎った茶葉が焦げる直前の香りが濃く漂う。 鼻腔の奥が、ふっと緩んだ。
小さな休憩コーナーには丸いテーブルがひとつ、椅子が三脚。 片隅には電気ポット、急須、湯のみが整然と並ぶ。 ついさっき誰かが使ったのか、急須の口から細い湯気がまだ立っていた。
いつもなら、お茶は誰かが淹れてくれる側だ。 だが今回は、体内にさっきの接続でまとわりついた熱とざらつきがまだ残っていた。 何か別の匂いと音で、塗り替えたくなった。
「あの」
声を出すと、喉がきゅっと締まる。 それでも続ける。
「……お茶、淹れます」
雪村と氷室が同時にこちらを見る。 ほんの一拍、意外そうな目。 それから雪村は、ゆっくり笑った。
「お願いしていい?」
「うん。 俺も、飲みたい」
氷室の返事はいつもの「です・ます」ではなかった。 声の調子が少し軽くなる。
透真は急須を手に取った。 陶器の冷たさが指に伝わる。 蓋を開けると、中から炒り米を混ぜたような香ばしい茶葉の匂いがふわっと湧いた。 ポットから湯を注ぐと、「しゅわ」と小さな音を立てて茶葉が踊るのが見える。
湯のみを三つ並べる。 白い縁が蛍光灯の光を柔らかく跳ね返す。 とろりとした琥珀色が順に満たされていく。「とく、とく」と落ちる音は、さっきラックの奥で聞いた水音と似ていて、しかしここではずっと現実に寄っていた。
一つ目を雪村へ。 二つ目を氷室へ。 三つ目を、自分の前に。
湯のみを両手で包む。 掌に熱が染み込んでいく。 さっきの冷たいインターフェースの感触が、少しずつ記憶の端へ追いやられた。 陶器のざらつき、縁の厚み、掌に乗る重さ。 全部、地に足のついた手触りだ。
口元へ近づけると、番茶の香りに混じって、外から金木犀の匂いが微かに入り込んできた。 外縁層の庭に咲く小さな黄色い花の気配が、量子の隙間を縫ってここまで流れ込んでいる。
一口、含む。 熱い。 舌の上を滑り、喉を通っていく。 冷えていた内臓の奥に、じんわりと火が入る。 胃が小さく伸びをしたような感覚があった。
「……うまい」
思わず漏れた言葉に、自分で驚く。 氷室が、それに反応して笑った。
「レシピはシンプルですけどね。 茶葉と、お湯と、時間」
「時間」
雪村が、その言葉をゆっくりなぞる。 湯のみの茶の表面が小さく揺れた。 彼女の指先が器の側面でわずかに震えたのかもしれない。
「記憶も、似てるかもしれない。 材料と火加減と、時間。 誰が、どのタイミングで蓋を開けるかで、味が変わる」
「さっきのは、ちょっと沸騰しかけてましたけど」
氷室が冗談めかして言う。 口元は笑っているのに、目の奥に残る緊張はまだほどけきっていない。 湯のみの縁をなぞる指が、わずかに動いていた。
「テスト版0.1だから。 次からは、火加減もっとシビアに見る」
「“次から”がある前提で話さないでほしいんですけど」
気づけばそう返していた。 声がさっきより軽い。 番茶の熱が喉の筋肉を解いたのかもしれない。
「決めるのは、春日くんよ」
雪村が湯のみを持ち上げながら言う。 湯気が頬を撫でていく。 その下の肌が、一瞬だけほんのり色づいたように見えた。
「今日の体験で、ますます嫌になったなら、それも正直に言って。 ここでやめるのも、ちゃんとした選択肢」
「……でも、兄さんの中に、まだ何か残ってるのは、わかったでしょう」
氷室が静かに続ける。 「あなたが触れる前から、図書館と外部と連理会とで、いろんな味が足されてる鍋だ。 そのまま誰かに勝手に片付けさせるか、それとも、最後に自分の匙で確かめるか」
匙という言葉が、意外な重さで胸に沈む。 戸籍の書類がふっと頭をよぎった。 兄が死んだあと役所から届いた紙。 新しいページに「除籍」と小さく印字された行。 母が鉛筆で印をつけた場所。 家族の名前が並ぶ欄に、一本線が引かれたような感覚。
自分は、そこに残された方の名前だ。 今度はその線を、自分の手で動かそうとしているのか。 兄と自分の間に、新しい矢印でも書き加えるつもりなのか。
湯のみの茶の表面に、小さな波が立った。 指先がわずかに震えていたからだ。 木の葉の揺れと同じリズムで、縁から反射する光が揺れる。
「……考えます」
絞り出せたのは、それだけだった。 「時間をください。 急に火を止められても、中までちゃんと火が通ったかどうか分からないので」
自分でも、何を言っているのか分からない比喩だ。 それでも、雪村も氷室も笑わなかった。
「いい言い方だと思うけど」
氷室がぽつりと言う。 「中まで火が通る前に切り分けると、生焼けで食中毒を起こす。 よくある失敗だ。 時間を置くのは、悪くない」
「時々、冷めすぎても困るけどね」
雪村が肩をすくめる。 「冷めて固まった脂は、剥がすのが大変」
三人のあいだに、小さな笑いが生まれた。 鍋の底から立ち上る小さな泡みたいな、静かな笑い。 番茶の湯気がゆらゆら揺れて、三人の顔の間を行き来する。 外縁層からの金木犀の香りが、その上を薄く滑っていった。
閲覧室の奥から、ページをめくる音と水のかすかな音が混ざって聞こえる。 湯のみを飲み干す。 底に残った茶渋が、細い輪になっていた。 時間の跡のように思える。 飲む前の舌と、飲んだあとの舌は、もう同じではない。
椅子から立とうとしたとき、膝にわずかな重さを感じた。 さっきよりはマシだ。 体の重心が、少しずつ自分のところへ戻ってきている。
そのとき。
「……あ、そうだ」
雪村が思い出したように端末を取り出す。 半地下で使っていたのと同じ透明な板だ。 指で画面をなぞると、「すっ」と乾いた滑りの音がする。 黒い文字が次々に浮かび上がった。
「さっきの簡易スイッチの記録——ほら、あなたの“同意ログ”が、もう基盤に返ってきてる」
端末が、レシピノートを伏せて差し出されたみたいにテーブルの上へ置かれる。 透真は無意識に顔を近づけた。 画面には、先ほど見た括弧とコロンの単純な行とは違い、長い行がいくつも並ぶ。
{
"actor": "春日 透真",
"target": "記録ID-YU-0342",
"mode": "twin_switch_trial",
"consent": "provisional",
"timestamp": "… … "
}
無機質な文字列。 なのに、舌の上に苦味とわずかな甘みが同時に広がるような感覚があった。 「provisional」。 暫定。 同意。 指先が端末の縁で、ほんのわずかに震える。 木の葉が風を受けた時みたいに。
自分の名前と兄のIDが、一本の行でつながっている。 その間を区切るのは、コロンとカンマだけ。 それなのに、その細い行が、戸籍の線よりも重く見えた。
「……もう、戻れないんですか」
声は驚くほど静かだった。 湯のみの底の茶渋を見つめるような目で、画面から目を離さずに問う。
雪村も氷室も、すぐには答えない。 沈黙のあいだに、廊下から紅葉データがひとひら、休憩コーナーへ入り込んできた。 エアコンの風に乗り、「ふわ」と三人の間を漂う。 赤と橙の境目が光を透かし、テーブルに影を落とした。
葉の影と、端末の上の文字列。 二つが同じリズムで、ゆっくり揺れている。
番茶の残り香が薄く漂うなかで、その問いだけが、鍋の底に沈んだ具のように動かないまま、静かに時間を溜めていた。
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第11章:火を分ける匙 - 黄泉の図書館
半地下へと続く階段は、閲覧フロアとは違う匂いがした。 湿った土の冷たさ、その上に、炊きたての新米から立つ湯気のような、柔らかな温度が薄く重なっている。 鼻の奥のどこかで、遠くの線香の残り香が絡みつき、層をなしてとどまっていた。 一段降りるごとに、空気の味がひそかに変わっていくのを、春日透真は舌の裏で確かめようとしていた。
手すりを握り直す。 掌がうっすらと湿っていることに気づくのは、数段あとになってからだ。 金属の冷たさが、汗を挟んで指にざらりとひっかかった。 そのとき、前からふいに声が落ちてきた。
「足元、少しだけ変になりますからね」
先を行く雪村沙羅は、振り返らない。 歩調は軽いのに、声だけが慎重に落ちていた。 「変になるって……足元が、どう」
問い返した自分の声が、壁に吸い込まれていく。 少し遅れて、背後で氷室蓮が息を吐きながら笑う気配がした。 「重力の味が、ちょっとねじれてるだけですよ。 ざっくり言うと」
軽く言うな。 喉の奥へ上がってきた言葉を呑み込むと、胃のあたりがゆっくり熱を帯びた。 最後の一段を降りた瞬間、世界がほんのわずかに斜めへ滑る。 床は水平のはずなのに、身体が右足側へ、すこしだけ流されていくようだった。 胸の内側で、太鼓の皮をぴんと張りつめたような張力が生まれる。
姿勢を直そうと肩を引いたとき、スーツの裾をかすめて紅葉の葉が一枚、ふいに落ちてきた。 ふわり。 空中を漂いながら、しかし床に落ちきらない。 赤と橙のあいだの色をした薄膜のような葉が、足首の高さで、ひら、ひらと不規則に浮いていた。
見惚れているうちに、葉は空調の風とも違う揺らぎに乗って動き出す。 図書館特有の量子のざわめきが、見えない水面のうねりみたいに足元に広がり、そのうえを具材のように紅葉が回り始めた。 耳を澄ますと、壁一面に並ぶ黒いラックの奥から、「とく、とく」と低い水音がする。 湧き水を小さな鍋で静かに温めているような音で、その合間に、遠い閲覧室でページがめくられる「ぱさっ、ぱさっ」という擦れが薄く重なっている。 乾いた紙の息遣いが、この半地下まで続いていた。
「ここが、例の……今度は、その……」
透真は、喉のあたりで言葉を探してつかえさせた。 厨房なのか、実験台なのか、うまく形にならない。 代わりに、雪村の声がすっと入り込む。
「半地下実験閲覧室。 中枢の“仮台所”みたいなところ、と思ってくれればいいわ」
彼女は黒檀のようなラックの列のあいだを、身体ごとするりと通り抜けていく。 袂の代わりに揺れるカーディガンの裾が、紅葉データをふわ、と撫でた。 甘く焦げた砂糖をほんの少し焦がしたような匂いが、その瞬間だけ濃くなる。
部屋の中央、頭上のあたりに、銀色の台と椅子が一脚ずつ。 ぽつんと据えられたそれは、カウンター席が一つだけの小さな店を連想させた。 客は一人分。 腰を下ろせば、目の前の料理人が何かを調えてくれる。 ただ、その皿に盛られるのは料理ではなく、記憶だ。
喉の奥がからからに乾く。 唾を飲み込む音がやけに大きく響いた。 「あの……それでも、ここで俺は、何を」
「双子スイッチの、場を見てもらうだけですよ。 まずはね」
氷室が横から追い抜き、台に片手を置いた。 指先で軽く叩く。 「コン、コン」と、金属なのにどこか柔らかさを含んだ音が返ってきた。 まな板の端を指で弾いたように、しなりのある響きが空気に染み込む。
「“だけ”って言い方は、あまり好きじゃないのだけれど」
雪村は、台の脇に立つ透明な端末を顎で示した。 彼女の肩越しに見えるディスプレイは、まだ何も映していない真白な面だ。 「ここから先であなたが話すこと、選ぶことは、すべて記録として残ります。 館の基盤に、そのまま戻る形で」
戻る。 その一語が、透真の心臓を内側から強く叩く。 鼓動が一回分、音を立てて弾んだ気がした。 「戻るって、どういう……もっと、その」
「調理ログってイメージした方が早いかもですね」
氷室が、ひょいと端末の前にしゃがみ込む。 指を滑らせると、白い画面に黒い記号が一行だけ浮かび上がった。 { } という器だけの行だ。
「JSON形式で。 誰がいつ、どんな条件で“同意したか”、最低限の材料だけ、基盤に返す。 レシピの一部みたいなものです」
「じぇいそん……その、」
聞き慣れた技術用語が、この部屋では別の質感をまとって聞こえる。 括弧とコロンとカンマの列。 乾いた記号なのに、誰かの決断を詰め込んだ瓶のラベルのようにも見えた。
雪村が静かに続ける。 「大きな介入をするときは、どうしても必要なの。 あ...