湯気が、棚と棚のあいだを這い上がっていくように見えた。 朝の閲覧室。 梅雨明け前の湿気が、量子層の空気にうすく溶けている。 黒い床材の板には、細長い水面のような反射が「ゆらゆら」と揺れ、足裏の感覚だけが勝手に水を踏んでいる錯覚をつくる。 それなのに、靴底は乾いたままだった。
春日透真は、貸出カウンター脇で端末に指を走らせながら、その揺らぎを視界の端で追っていた。 視線は画面にあっても、胸の奥では昨夜からのざわつきが、弱火の鍋みたいに底で「こつこつ」と音を立てている。 頭のどこかで、婚約者、という言葉が何度もひっくり返る。 兄・悠真の。 端末のログに浮かんでいた「縁属性/engagement」の文字列が、焦げついた味噌のかけらみたいに舌に貼りついて離れなかった。
名前の隣にあった「保全中」。 無理やり蓋をされた映像の記録。 和風旅館の懐石の湯気と、葬儀の線香の煙が、現実ではありえない角度で絡み合って立ち上る。 その光景が、まぶたの裏にまだ薄く残っていた。 それでも、今日も彼はフロア担当だ。 兄の鍋に手を突っ込む前に、目の前の厨房を回さなきゃならない。
指先で入館ログの一覧を開く。 今日の予約は、午前に戦死者枠が多く並んでいた。 今度は太平洋戦争期、海上での戦没。 ドキュメントIDと閲覧予定者番号が、一件ごとに紐づいてスクロールしていく。 その流れの途中で、指がぴたりと止まった。
——氷室 蓮。
見慣れた名前が、午前十時の枠にまたあった。 利用者区分の欄には、薄い灰色で「外部」。 それだけ。 端末の光が、指先に滲んだ汗を拾って「ぬら」と滑る。
彼は、胸の奥を押さえるように深く息を吸った。 湿気と線香の残り香が、肺の中に入り込んでくる。 舌の奥に、さびた金属を噛んだような味が広がった。 「——午前の予約、確認終わりました」
自分の声を確認するように呟いた瞬間、背後から長谷部玲央の声が飛んできた。 振り返ると、長谷部がトレーに紙コップを三つ載せて、いつもの少し猫背の姿勢で近づいてくる。 インスタント味噌汁のふやけた香りが、「ふわ」と空気を撫でて鼻先に届いた。 「おつかれ、春日くん。 ここまでで、今日、戦没枠多いねえ。 夏だからかなあ、お盆前だし」
「… そこで、… そうですね」
曖昧に返事をしながら、また画面へ視線を落とす。 氷室蓮の名前の右側には、対象記憶の欄に見慣れた戦死者名が並んでいた。 艦名も海域もばらばらだが、死亡年月日だけがある期間にぎゅっと集まっている。 外の世界のどこかで、その数週間だけ火力を上げられて、鍋を一気に煮詰められているみたいな偏りだ。
「春日くん? その後、」
「いえ。 開館アナウンス、してきます」
長谷部の言葉をやんわり遮って、短く頭を下げる。 カウンターのマイクに手を伸ばした瞬間、喉の内側がきゅっと乾く。 「本日も… … ご来館ありがとうございます。 これより、黄泉の図書館、閲覧室を開館いたします」
スピーカーから、自分の声が薄い膜になって広がる。 その振動に合わせて、床の水面の反射が「ゆら」と揺れた。 湿った光が、足元で細かくほどけていく。 ◇
十時ちょうど。 ガラスの自動扉が、空気を押し分けるように静かに左右へ開く。 最初に入ってきた年配の夫婦に軽く会釈を返し、二組目の親子にはいつもの手順で受付カードを渡す。 呼吸のリズムを意識して、瞬きの間隔を整える。 三人目の影が、扉の向こうから伸びてきた。
背の高い男。 淡いグレーのジャケットに両手を突っ込んだまま、歩幅を崩さず入ってくる。 髪は黒に近い茶色で、よく見るとところどころに白いものが紛れ込んでいた。 ネクタイはしていないが、襟元のボタンはきちんと留められている。 薄いフレームの眼鏡越しの視線が、一瞬だけ館内をぐるりと撫でた。
氷室蓮——端末で見た名前と、目の前の輪郭が形を重ねる。 夏の厨房に、突然知らない料理人が入ってきて、まな板の前に陣取ったような感覚が腹の底を走った。 打ち合わせのない新入り。 火加減を読めない他人の手。 氷室は歩幅を変えずに受付へ近づき、カードを差し出す。
「いつもお世話になってます」
低めの、よく通る声。 音量は抑えめだが、声の筋がまっすぐ通っている。 営業スマイルの挨拶というより、ビジネスホテルのフロントで交わされる決まり文句を、余計な感情を乗せずに言っているように聞こえた。 春日透真は、カードを両手で受け取り、端末のリーダーにかざす。
「ご来館ありがとうございます。 … … ええと、氷室 蓮様でよろしかったでしょうか」
「はい」
無駄のない返事。 語尾は平坦だが、角は立っていない。 端末の画面に、利用者情報の欄が開く。 「職業」は空欄だった。 「利用目的」の欄に、小さな文字で「調査」とだけある。
「本日は、どのような記憶をご利用でしょうか」
いつもの台詞を口にしながら、ほんの少しだけ語尾の高さを変える。 「… 最近は、同じ方面の記憶が多いようですが」
氷室の視線が、わずかにこちらへ滑ってきた。 そのあとで、柔らかい笑みが薄く浮かぶ。 「ええ。 次第に、同じ戦域の方たちを、集中的にですね。 少し、調べものの一環で」
「お仕事で、ですか」
喉の奥でいったん止めたはずの言葉が、勝手に転がり出た。 言い切った瞬間には、規定を思い出している。 現世での事情に深入りしてはいけない。 それでも舌はもう引き返せない位置にいる。
氷室は、首をほんの少しかしげた。 「仕事… と言えば仕事ですし、個人的な関心でもあります。 … … ざっくり言うと」
「… … そうですか」
うまく煙に巻かれた、という言葉を飲み込む。 鍋の蓋に手を伸ばしたら、逆にそっと抑えられた感じだけが手のひらに残る。 蒸気だけが、蓋の隙間から「しゅう」と漏れてくる。 春日は端末を操作し、予約済みの戦死者記憶を割り当てた。 艦名と海域、死亡年月日が氷室の利用枠に紐づいていく。
「閲覧席は、戦没記憶エリアC-3をご用意しております。 … … 本日は海上戦没者が続きますので、匂いなど気になるようでしたら、お声がけください」
「匂い」
氷室の眉が、興味を示すようにわずかに持ち上がる。 視線が春日の顔をきちんと捉えた。 「潮の香りと… … あと、場所によっては油の匂いが強くなることがありますので」
「なるほど」
短くうなずく。 「こちらの仕様には、だいぶ慣れてきました。 大丈夫です」
仕様、という言い方。 この館の仕組みを、自分の台所の機材の配置みたいに把握している人間の口ぶりだ。 「ご不明点あれば、いつでも」
春日が頭を下げると、氷室は小さく礼を返し、閲覧席の方向へ歩いていった。 靴音はほとんど鳴らない。 床の水面の反射だけが「ゆら、ゆら」と、その足跡を追いかけて揺れた。 ◇
海上戦没者用の閲覧席が並ぶエリアC-3は、他のエリアより空気が重い。 線香の甘い煙に、潮の塩気が混ざる。 遠い波打ち際の匂い。 鉄が錆びる寸前の、湿った金属の気配。 朝一番のまだ空いている時間なのに、その一角だけ空気が「ねば」と指に絡みついてくる。
書架整理用のカートを押しながら、春日透真はゆっくりとそのエリアへ近づいた。 氷室蓮は、指定された席に座っている。 背筋は自然に伸びているが、肩の力は抜けていた。 目の前の記憶カプセルから、薄い光が立ち上り始めている。 インジケーターランプが「ち、ち」と小刻みに点滅した。 閲覧開始前の、呼吸を整えるようなリズムだ。
春日は棚に並んだカプセルを一つ手に取り、中のラベルを確かめるふりをしながら、視線だけを氷室の席へ滑らせた。 席前のパネルには——駆逐艦××乗員。 死亡年月日、昭和二十年五月。 二人目の枠には、別の艦の乗組員。 それも、同じ月。 同じ月の一点を、火力を集めて炙り続けるような選び方だった。
「春日さん? 」
耳元でインカムが震え、小さな声がした。 反射的に肩がわずかに跳ねる。 「はい。 C-3、巡回中です」
「朝の点検ログ、送っといてくださいねー。 あと、戦没枠、匂い強かったら換気入れてください」
「了解です」
自然と声が少し低くなる。 氷室の耳に届くだろうかと、無意識に距離を測っている自分に気づく。 インジケーターの点滅が、さっきより速くなる。 「ちちち」というリズムが、熱した油がはねる音を連想させた。
閲覧が深度に入りかけた瞬間。 閲覧席の上空が「ぐにゃ」と曲がる。 蛍光灯の白い光が、水槽越しに見ているみたいに遅く揺れ、棚の縁に緩い虹色の歪みが走った。 耳の奥で、細い音が鳴り始める。 蝉の声に似ているが、もっと高く、もっと細く、耳の内側を「じりじり」と焼いてくる。
——普通の閲覧じゃない。
頭のどこか冷めた部分が、淡々と判断を下した。 これまで何度も見てきた戦死者の閲覧では、海の記憶なら青と灰色が混じった重たい光が立ち上る。 今、氷室の席から立ち上るのは、白くて乾いた光だ。 沸騰直前の湯気のような、透明なのに圧を含んだ揺らぎ。
棚の隙間をすり抜けて、潮の匂いが急に濃くなる。 鼻の奥が「つん」と刺激され、喉に塩の粒が貼りついたような違和感が生まれる。 足元の水面の反射が、一瞬、本当に濡れているみたいに冷たく見えた。 春日は、カートの取っ手を握り直す。 手のひらにじっとり汗が滲み、握力に合わせて指の骨がきしむ。
——ログ。
左手をポケットに滑り込ませ、さりげなく端末を呼び出す。 閲覧席ごとの環境ログ一覧を開いた。 氷室蓮の席番号をタップした瞬間、画面に「ざざ」とノイズが走る。 「当該利用者の閲覧権限は、外部委託枠内です」
無機質なメッセージが、青白い画面の真ん中に浮かぶ。 詳細ログを開こうと指を滑らせると、グレーのバーが「ぴ」と跳ね、そこから先がマスクされた。 外部委託——。 館内マニュアルの索引で一度も見たことのない単語だった。
見慣れない業者の冷凍庫が、厨房の壁の向こうに勝手に増設されていて、その中身だけ誰にも見せてもらえないような、ひやりとした感覚が背中を撫でる。 光の屈折がさらに強まった。 蛍光灯の輪郭が淡く溶けて消え、代わりに天井近くに薄い水面が張られたようなきらめきが揺れる。 氷室の輪郭が、その向こう側で少し滲んだ。
環境確認。 名目はそれでいい。 この揺らぎに何も言わずに背を向けたら、焦げる匂いに気づきながら鍋を放置するような後味だけが残る。 春日はカートを一歩押し出し、閲覧席の正面にゆっくり回り込んだ。 覗き込んでいるとは思われないギリギリの距離で足を止める。
「失礼いたします」
声が、思ったより近くで響く。 氷室のまぶたが、かすかに動いた。 「照明が… … 少し不安定でして。 閲覧に支障は、ありませんか」
いつもよりゆっくりと、言葉を切っていく。 心臓の鼓動が、耳の奥の蝉のノイズと競うように「どくどく」と早まる。 氷室は記憶カプセルから視線をほとんど外さないまま、口を開いた。
「——大丈夫です」
低く、安定した声だった。 周囲の光が不規則に揺れているのに、その声だけは冷えた金属の棒のようにぶれない。 「こちらの仕様には、慣れていますので」
また仕様。 やはり、この揺らぎを「この図書館の機能の一つ」として知っている言い方だ。 氷室の横顔には、驚きも警戒も浮かんでいない。
「外部委託枠のほうのプロトコルですよね」
さらりと添えられた一言に、春日の手の中の端末が「ぴく」と震えた気がした。 画面は動いていないのに、掌の皮膚だけが反応する。 「… … 恐れ入ります。 私ども、現場レベルでは詳しい仕様までは把握しておらず」
喉が乾き、舌が上顎に張りつきそうになる。 視界の端に映る床の水面が、瞬きの合間に真っ白に蒸発したように見えた。 氷室は小さく笑う。 バカにする笑いではない。 フロアスタッフがキッチンの奥を知らないことを、当たり前だと思っている人間の笑い方だ。
「そうですよね。 すみません。 … … 支障はありません。 続けさせてください」
「かしこまりました」
春日は軽く頭を下げ、足を返した。 戻る自分の足音が「とん、とん」と、普段より大きく耳に響く。 足元のひやりとした感覚が、歩くごとに少しずつ引いていく。 背中に氷室の視線は感じない。 鼻の奥には、潮の匂いだけがしっかり残っていた。 扉の向こうで、別の鍋だけが高温で煮立っているのに、こちら側には音も匂いもほとんど届かない、そんな閉ざされた圧力が、背中越しにじわりと忍び寄る。 ◇
休憩時間までの長さが、いつもより伸びたゴムみたいに感じられた。 十一時半。 戦没枠の利用者が一段落して、閲覧席に立っていた光が少し落ち着く。 耳の奥の蝉のノイズも、「じ… … 」と細く延びるだけになった。 春日は当番表どおり、十五分の休憩をもらう。
インカムを外し、スタッフ用通路を抜けると、ひんやりした空気が頬にまとわりつく。 湿った熱気の閲覧室から、冷房の効きすぎた休憩室へ。 灼けたコンロ台から冷蔵庫の中へ身体ごと飛び込んだような落差に、肌が「ぞわ」と反応した。 蛍光灯の白い光がステンレスの流し台を「ぎら」と照らし、自販機が「ウィーン」と低く唸って冷気を循環させている。
ポケットの中の手が、小刻みに震えていた。 光の揺らぎと、「外部委託枠」という聞き慣れない言葉が、まだ骨の奥でくすぶっている。 自販機の前に立ち、並ぶボタンを見下ろす。 コーヒー、緑茶、スポーツドリンク。 どの味を選んでも、胃の中の重たい鍋は簡単には軽くなりそうになかった。
胃の奥に沈んでいるものが、ぬるい出汁のように動かない。 ——温かいもの。
頭の中の、料理人の感覚がそう告げた。 冷えた台所では、火を起こさないと手が動かない。 春日は「ほうじ茶(HOT)」のボタンを押す。 指先が「かち」と乾いた音を立てた。
缶の落ちる音。 「ガタン」。 取り出し口に紙コップが「すとん」と落ちる。 蓋を開けると、焙じた茶葉の香りを含んだ湯気が「ふわ」と立ち上り、鼻の奥を撫でた。 その匂いだけで、胃の重さがほんの少しだけほどけていく気がする。 春日は紙コップを両手で包んだ。 熱が掌から腕へ「じん」と伝わり、冷たくこわばっていた指がゆっくりと開いていく。
休憩室のソファ席には、先客が一人。 薄いグレーの膝掛けを半分だけ膝にかけ、ノートを広げている女子高生。 水無瀬紗月。 黒い制服の襟元から覗く首筋、無造作に結んだ長い髪。 ペン先がノートの上を「さらさら」と走るたび、小さな文字が一行ずつ増えていく。
彼女の周りだけ、冷房の冷たさがわずかに和らいでいるような感じがあった。 静かなガスコンロが一口だけ、とろ火で灯っているみたいな温度。 気づかれないように反対側の端に腰を下ろそうとしたところで、視線が正面からぶつかる。
「あ」
紗月がペンを止めた。 目線が一瞬慌てて泳ぎ、それからすぐ戻ってくる。 「春日さん」
ほうじ茶の湯気が、彼女の声に引かれるようにそちらへ「ふわ」と流れた。 「… … こんにちは。 今日は、午前のご利用だったんですね」
紙コップを持ったまま軽く会釈をして、春日はソファの端に腰を落とす。 クッションが「ふか」と沈み、背中の力がじわりと抜けた。 布地の柔らかさが、さっきまで張りつめていた肩のあたりまで伝わってくる。
「うん。 … … てか、さっき廊下ですれ違ったけど。 春日さん、めっちゃ忙しそうだったから」
紗月が小さく笑う。 笑い方は少し固いが、目の端に心配の色がにじんでいる気がする。 「そう、見えました? 」
「見えました。 なんか、湯気出てた」
「湯気」
思わず吹き出しかけて、喉の奥で笑いを押しとどめる。 紙コップの縁から立ちのぼるほうじ茶の香りが、鼻をくすぐった。 「今日は、戦争の記憶ばかりで… … 少し、酔ったみたいで」
言葉にしながら、自分でその逃げ方に気づいている。 兄のことも、氷室のことも、口に出すには火が通り切っていない。 だから「戦争の記憶」という大きな鍋の中に、一度まとめてしまう。 紗月は、小さくうなずいた。
「そういう日もあるんですね、図書館でも」
彼女の指先が、膝掛けの端をつまんで「すり」と撫でる。 目線はノートの上に落ちているが、意識ははっきりこちら側に向いている。 「… … ほうじ茶ですか? 」
「ええ。 冷えるので」
「だよね。 ここ、冷房強すぎる」
肩をすくめて笑うと、紗月は膝掛けを少し持ち上げた。 「これ、よかったら使ってください。 さっき、職員さんが忘れてったやつ、勝手に借りてるだけだけど」
膝掛けの端を差し出す動きが、鍋の蓋をちょっとずらして、いい匂いの湯気を分けてくれるみたいに見えた。 「… … ありがとうございます。 でも、水無瀬さんも寒いでしょう」
「半分でいいです。 … … ほら」
言葉より先に、膝掛けの半分が春日の膝に「ぽす」と落ちる。 フリースの毛足が、スラックス越しにふわりと触れた。 想像よりずっと軽くて、柔らかい。 冷えたふくらはぎの筋肉が「じわ」と溶けていく。
「風邪ひいたら、… … あの、悠真さん、怒りそうだし」
言いよどみながらも、紗月は兄の名前を出した。 その音が、ほうじ茶の温度と一緒に胸の奥に染み込んでくる。 「怒る、かな… … 。 まあ、たぶん、説教はされますね」
軽口で返したつもりが、喉の奥に小さな塊ができる。 紗月は彼の表情をちらりと見てから、そっと視線をノートへ戻した。
「… … もし、自分の記憶も誰かが覗くならさ」
ペン先をくるくる回しながら、紗月がぽつりと続ける。 切り出し方が唐突で、その分だけ本音に近いと感じられた。 「ほどほどにしてほしいなって、思うんですよね。 全部見られるのも、やだし」
「そう、ですね」
春日は紙コップの縁に唇を寄せる。 熱い液体が舌の上を滑り、焙じた香りが口の奥に「じん」と広がる。 咽喉を通り、胃に落ちたところで、さっきまでの重さとは違うあたたかい重みが宿った。
「でも」
紗月が、声を少しだけ落とした。 「覗いてほしい部分も、ちょっとはあるかも。 … … ここまでは、見てって言えるとこだけ」
彼女の指先がノートの端を「きゅ」とつまむ。 その仕草は、レシピ本の大事なページにだけ付箋を貼っておくみたいだった。 「水無瀬さんは、どこまで… … 見てほしいですか」
自分の口から出た問いに、春日は一瞬だけ驚く。 彼女の「死後」を、勝手にイメージしているような後ろめたさが喉をひやりと撫でた。 それでも、言葉はもう引き返せない。 紗月は少しの間、ペン先を止める。
「んー… … 」
視線が空中を彷徨い、やがてノートの一角に落ち着いた。 細かい文字が、びっしりと並んでいる。 箇条書きのようで、レシピの作り方のようにも見える。 「… … ちゃんと笑ってたとこは、見てほしいかも。 あと、なんか、どうでもいい日常のやつ。 コンビニのアイスの話とか」
「大事ですよ。 アイスの話」
「ですよね。 … … あとは、」
言葉がそこで途切れる。 代わりに、ペンの先でノートの余白を「とん」とつついた。 「… … まあ、そのうち、ちゃんと予約しに来るかもしれないし」
「予約」
聞き返した自分の声が、思ったより尖っている。 紗月は慌てて手を振った。 「あ、違う。 今すぐとかじゃなくて。 … … もし、自分の番が来たら、どうしてほしいか、ちゃんと決めときたいなって。 誰に何を見せるかとか」
「… … なるほど」
死後のレシピを、自分で書いて棚に置いておきたい。 そんなイメージが頭の中に浮かぶ。 「将来の死亡記録予約」という言葉が、まだ火を入れていない鍋みたいに静かに脳裏に置かれた。
「図書館の人ってさ」
紗月が、膝掛けの上を指でなぞりながら続ける。 「そういうの、もし誰かが持ってきたら… … ちゃんと、守ってくれるんですか」
「決めたレシピを、ですか」
「うん」
ほうじ茶の湯気が、二人のあいだで細く揺れる。 春日は紙コップの表面に映る自分の顔を見下ろした。 湯気に歪んで、輪郭が少しぼやけている。
「… … 守りたいと思っています」
言葉にしてしまうことが、少し怖かった。 守れるかどうか、本当は誰にもわからない。 それでも、火加減を任された料理人が「焦がすかもしれません」とは言えない。 紗月は短く笑った。
「じゃあ、ちゃんと考えときます。 … … 春日さんが困らない程度に」
「いえ。 困るくらいが、ちょうどいいのかもしれません」
口に出した瞬間、自分でも不思議な返事だと思う。 困らない仕事なんて、そもそも料理じゃない、という感覚が、胸のどこかで小さな火を灯した。 休憩時間を知らせるアラームが、「ピッ」と乾いた音を立てる。 冷房の風が膝掛けの隙間から入り込み、足首の皮膚をひやりと撫でた。
「そろそろ戻ります」
「うん。 … … 無理しないでくださいね」
紗月が、さっきより真剣な顔で言う。 その言葉が、ほうじ茶とは別の温度で喉の奥を温めた。 「ありがとうございます。 水無瀬さんも」
春日は膝掛けをそっと返し、立ち上がる。 ソファが「ふか」と元の形に戻った。 背中に、ほうじ茶の香りとフリースの柔らかさだけが、しばらく薄くまとわりついていた。 ◇
午後の閲覧室は、外の時間より少し遅れて夏へ傾いていく。 ガラスの向こうの外縁層には、まだ雨の影は見えないのに、遠くから水音が「さらさら」と届く。 床の下を流れる水脈が、どこかで増水しているのかもしれない。 氷室蓮は、午後も同じ席へ戻ってきた。
午前とは別の戦死者枠が、端末画面に並ぶ。 艦名も海域も変わっているのに、死亡年月日はやはり昭和二十年のある週に集中していた。 一枚の大皿の上に、同じ季節の料理だけを並べているような偏り。 春日は閲覧席から少し離れた棚の影に立ち、カートの上で記憶カプセルを並べ替えるふりをしながら、空気の変化に耳をすました。
氷室が閲覧を開始した途端、光の屈折がまた強くなる。 今度は午前より深く、動きが遅い。 水中から見上げた太陽のように、蛍光灯が「ゆら、ゆら」と歪む。 耳の奥のノイズも濃くなった。 蝉の声に、どこか遠い爆発音が重なっているような、「じりじり、ぱち」と混ざり合う音。
鼻腔の塩気が強まり、舌の付け根に鉄の味が張り付いた。 春日は端末を開き、環境ログのリアルタイム表示に切り替える。 温度、湿度、量子揺らぎの強度。 いくつものグラフの線のうち一つが、急激に跳ね上がっていた。 氷室の席番号だ。
詳細ログを開こうとして、また同じグレーのバーに弾かれる。 「当該利用者の閲覧権限は、外部委託枠内です。 現場端末からの詳細参照は制限されています」
今度も、文言は冷たく揺らがない。 画面の隅に、小さな英数字の組み合わせが一瞬だけ点滅した。 「LQ-——」。 その先がノイズに「じ」と滲む。 春日は画面に顔が近づきすぎないように気をつけながら、目を凝らした。
ノイズはすぐに収まり、文字列は消える。 皿に残ったソースの筋を、布巾でさっと拭き取られたあとに、うっすら残る跡だけ見逃したような悔しさが胸に残った。 「春日くん」
インカムから同僚の声が飛んでくる。 現実に急に引き戻される感覚。 まな板の上の包丁から視線を離した瞬間の、落差と似ていた。 「午後の閉館アナウンス、文章ちょっと変わってるらしいから、あとで共有するねー」
「… … はい。 ありがとうございます」
口が自動的に返事を作る。 意識の半分は、まだC-3の席に留まっていた。
「そういえばさ」
同僚の声色が少しくだける。 「戦没枠のなかに、外部委託って表示出てるやつなかった? 」
「… … あります」
胸の奥が、「きゅ」と縮む。 鍋の縁を掴んだ指先に、力が入りすぎる。 「うち、そんな枠、ありましたっけ」
あくまで素朴な疑問として口に乗せる。 自分の声が、ほうじ茶の湯気みたいに柔らかく広がるよう意識する。 「あー、それ多分“上”の特別案件ですよ」
同僚の声が、ほんの少しだけトーンを落とした。 背後で紙の擦れる音が「ぱさぱさ」と混ざる。 「俺たちは気にしないでって話。 詳しいことは、司書長とか雪村さんのレベルだと思う」
「… … そうですか」
口の中に、薄い苦味がじわりと広がる。 コーヒーを飲んだわけでもないのに。 「うん。 変なログ出ても、エラーじゃないから。 あんま深掘りしないでくださいねー。 じゃ、あとで」
通信が切れる。 「ピッ」という短い音が、やけに冷たく聞こえた。 深掘りしないでください。 現場の料理人には、レシピの一部を見せないほうが安全だと、どこかで誰かが決めている。 そんな構図が、言葉の裏側から顔を覗かせる。
光の屈折は、やがて静かになった。 蝉のノイズも、潮の匂いも、少しずつ薄れていく。 氷室は午後の枠を終えたらしく、席から立ち上がった。 閲覧後の利用者によくある、ふらついた足取りではない。 現世と黄泉の間でまだ揺れている人間の歩き方ではなかった。
スイッチをきっちり切り替えた人の歩き方。 厨房から事務室に戻るときの、プロの足取り。 氷室は受付にカードを差し出した。
「本日も、ありがとうございました」
声には疲れがほとんど混ざっていない。 「こちらこそ、ご利用ありがとうございます。 またのご来館をお待ちしております」
春日は、表情だけはいつもの司書の笑みを貼りつけて返した。 喉の奥では、さっきのほうじ茶の温度をもううまく思い出せない。 氷室は、扉の前で一度だけ振り返った。
視線が、閲覧室の奥のどこか、特定できない一点を「すっと」撫でる。 火口に視線を走らせて、火加減を確認する料理人の目。 「… … 環境、安定するといいですね」
ぽつりと落とした言葉に、春日は一瞬、声を失う。 「ええ」
絞り出すように返事をすると、自動扉が「すー」と閉まった。 残されたのは、空調の低い唸りと、床下で流れる水のせせらぎだけだった。 ◇
夕方。 利用者がほとんど帰った閲覧室は、昼間の熱気が嘘みたいに静かになる。 照明は半分に落とされ、端末の青白い光だけがテーブルと指先を照らしていた。 ガラス壁に、その光が薄く「ふわ」と映り込む。 外縁層の向こうでは、雨音が「ぽつ、ぽつ」と鳴り始めている。
床下の水のせせらぎと重なって、遠くの大鍋が静かに沸き始める音にも似ていた。 春日透真は、閲覧履歴用の端末にログインする。 司書権限で見られる範囲は限られているが、簡易ログなら利用者の名前と日付、対象記憶のタイトルくらいは追える。 今日の日付で絞り込み、「氷室 蓮」の名前でフィルタをかけた。
画面に、いくつかの行が並ぶ。 対象記憶名——「○○艦乗員 □□太郎」「△△艦 通信兵 ××健一」… … 。 春日は、各行の死亡年月日を目で拾って並べ替える。 全て、同じ月。 同じ週。 戦域は太平洋の、ある海域周辺に偏っていた。
ポケットから小さなメモ帳を取り出す。 紙の上にボールペンで名前と日付、海域を走り書きしていく。 ペン先が紙を「かりかり」と掠め、インクの跡が細い線を引く。 端末の光が、書いたばかりの文字のインクを「きら」と照らした。
行の右端に、小さなアイコンが並んでいる。 通常利用者の履歴には現れない欄だ。 ただのチェックマークにしか見えないが、そこへカーソルを乗せると、小さなポップアップが現れた。 「委託コード:LQ-REN-——」
そのアルファベットの並びに、視線が吸い寄せられる。 LQ-REN。 REN——。 氷室蓮の「レン」の音が、頭の中で「れん」と跳ね返った。 偶然というには、出来すぎた並びだった。
図書館のどこかで、誰かが大量の仕込みをしている。 戦死者たちの記憶を、一つの皿に盛りつけるために、黙々と下ごしらえを進めている。 その調理場の壁の端に、この「LQ-REN」というコードが紙テープで貼られている——そんな光景が脳裏に浮かぶ。 春日は、ポップアップの下にある「詳細」ボタンに指を伸ばした。
クリック。 灰色の読み込みバーが「する」と伸びていく。 次の瞬間、画面が真っ白に塗り替えられた。 「権限が不足しています。 詳細情報へのアクセスは、上位管理者に限定されています」
無機質な文字列が、皿一面に流された白いソースみたいに、画面いっぱいに広がる。 端末の青白い光が、皮膚の内側まで冷やしてくるようだった。 春日は指先に力を込める。 ペンを持っていないほうの手が、膝の上で「ぎゅ」と拳を作っている。 関節が白く浮き上がった。
自分だけ、レシピの一番大事なページを丸ごと抜かれている。 厨房で働いているのに、砂糖と塩の置き場所だけ教えてもらえない。 身体のどこかが、じわりと熱くなり、同時に胃のあたりが冷たくなるような矛盾した感覚が広がる。
外縁層の雨音が、次第に密度を増していく。 「ぽつ、ぽつ」が「ざあ」に変わる寸前の、手前の厚み。 ガラス壁を伝って流れ落ちる水滴の筋が、白い画面に重なってぼんやり映り込んだ。 インカムから、小さなノイズが漏れる。 同僚の声が、「閉館アナウンス、お願いします」と囁いた。
喉の奥に、ほうじ茶の残り香がかすかに残っている。 膝にはもう膝掛けはない。 けれど、その柔らかさの感触が、皮膚の内側に「うすく」残っていた。 図書館が、誰かの仕事場になっている可能性。 兄の改竄記憶。 外部企業。 氷室蓮。
三つの鍋から立ち上る湯気が、天井のどこかで絡まり合い、ゆっくり一つの曇りになりかけている。 春日透真は、真っ白な画面を見つめたまま、唇を固く結んだ。 指先が、端末の縁を「きゅ」と掴む。 この館の奥で、いまどんな編集作業が進んでいるのか。 誰が、どの火加減で、何を削り、何を継ぎ足しているのか。
雨音と水のせせらぎが、静まり返った閲覧室を満たしていく。 その中で、春日の胸の内側だけが、まだ姿の見えない炎でじわじわと熱を帯びていった。
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第7章:戦場の湯気 - 黄泉の図書館
湯気が、棚と棚のあいだを這い上がっていくように見えた。 朝の閲覧室。 梅雨明け前の湿気が、量子層の空気にうすく溶けている。 黒い床材の板には、細長い水面のような反射が「ゆらゆら」と揺れ、足裏の感覚だけが勝手に水を踏んでいる錯覚をつくる。 それなのに、靴底は乾いたままだった。
春日透真は、貸出カウンター脇で端末に指を走らせながら、その揺らぎを視界の端で追っていた。 視線は画面にあっても、胸の奥では昨夜からのざわつきが、弱火の鍋みたいに底で「こつこつ」と音を立てている。 頭のどこかで、婚約者、という言葉が何度もひっくり返る。 兄・悠真の。 端末のログに浮かんでいた「縁属性/engagement」の文字列が、焦げついた味噌のかけらみたいに舌に貼りついて離れなかった。
名前の隣にあった「保全中」。 無理やり蓋をされた映像の記録。 和風旅館の懐石の湯気と、葬儀の線香の煙が、現実ではありえない角度で絡み合って立ち上る。 その光景が、まぶたの裏にまだ薄く残っていた。 それでも、今日も彼はフロア担当だ。 兄の鍋に手を突っ込む前に、目の前の厨房を回さなきゃならない。
指先で入館ログの一覧を開く。 今日の予約は、午前に戦死者枠が多く並んでいた。 今度は太平洋戦争期、海上での戦没。 ドキュメントIDと閲覧予定者番号が、一件ごとに紐づいてスクロールしていく。 その流れの途中で、指がぴたりと止まった。
——氷室 蓮。
見慣れた名前が、午前十時の枠にまたあった。 利用者区分の欄には、薄い灰色で「外部」。 それだけ。 端末の光が、指先に滲んだ汗を拾って「ぬら」と滑る。
彼は、胸の奥を押さえるように深く息を吸った。 湿気と線香の残り香が、肺の中に入り込んでくる。 舌の奥に、さびた金属を噛んだような味が広がった。 「——午前の予約、確認終わりました」
自分の声を確認するように呟いた瞬間、背後から長谷部玲央の声が飛んできた。 振り返ると、長谷部がトレーに紙コップを三つ載せて、いつもの少し猫背の姿勢で近づいてくる。 インスタント味噌汁のふやけた香りが、「ふわ」と空気を撫でて鼻先に届いた。 「おつかれ、春日くん。 ここまでで、今日、戦没枠多いねえ。 夏だからかなあ、お盆前だし」
「… そこで、… そうですね」
曖昧に返事をしながら、また画面へ視線を落とす。 氷室蓮の名前の右側には、対象記憶の欄に見慣れた戦死者名が並んでいた。 艦名も海域もばらばらだが、死亡年月日だけがある期間にぎゅっと集まっている。 外の世界のどこかで、その数週間だけ火力を上げられて、鍋を一気に煮詰められているみたいな偏りだ。
「春日くん? その後、」
「いえ。 開館アナウンス、してきます」
長谷部の言葉をやんわり遮って、短く頭を下げる。 カウンターのマイクに手を伸ばした瞬間、喉の内側がきゅっと乾く。 「本日も… … ご来館ありがとうございます。 これより、黄泉の図書館、閲覧室を開館いたします」
スピーカーから、自分の声が薄い膜になって広がる。 その振動に合わせて、床の水面の反射が「ゆら」と揺れた。 湿った光が、足元で細かくほどけていく。 ◇
十時ちょうど。 ガラスの自動扉が、空気を押し分けるように静かに左右へ開く。 最初に入ってきた年配の夫婦に軽く会釈を返し、二組目の親子にはいつもの手順で受付カードを渡す。 呼吸のリズムを意識して、瞬きの間隔を整える。 三人目の影が、扉の向こうから伸びてきた。
背の高い男。 淡いグレーのジャケットに両手を突っ込んだまま、歩幅を崩さず入ってくる。 髪は黒に近い茶色で、よく見るとところどころに白いものが紛れ込んでいた。 ネクタイはしていないが、襟元のボタンはきちんと留められている。 薄いフレームの眼鏡越しの視線が、一瞬だけ館内をぐるりと撫でた。
氷室蓮——端末で見た名前と、目の前の輪郭が形を重ねる。 夏の厨房に、突然知らない料理人が入ってきて、まな板の前に陣取ったような感覚が腹の底を走った。 打ち合わせのない新入り。 火加減を読めない他人の手。 氷室は歩幅を変えずに受付へ近づき、カードを差し出す。
「いつもお世話になってます」
低めの、よく通る声。 音量は抑えめだが、声の筋がまっすぐ通っている。 営業スマイルの挨拶というより、ビジネスホテルのフロントで交わされる決まり文句を、余計な感情を乗せずに言っているように聞こえた。 春日透真は、カードを両手で受け取り、端末のリーダーにかざす。
「ご来館ありがとうございます。 … … ええと、氷室 蓮様でよろしかったでしょうか」
「はい」
無駄のない返事。 語尾は平...