Lendo

第1章: 黄泉の図書館と量子朝靄──桜色の湯気とずれる書架

床の下から、湯気みたいな光が立ちのぼっていた。 桜色の、淡い蒸気だ。 ぽうっと屈折しながら、石でも木でもない床をじんわり温めている。 静かな「ちょろ、ちょろ」という水音が、どこからともなく響き、耳の奥で薄く揺れた。 出汁を弱火でとっている鍋が、見えないところでコトコトいっているみたいだ、と透真は思う。 春日透真は、まだ誰もいない閲覧室の真ん中に立っていた。 黄泉の図書館。 現世と重なり合った量子層の、外縁。 早番シフトの日の朝は、いつも少し肌寒い。 冷えた紙と、ごく薄く焚かれた線香の匂いが混ざり合い、喉の奥に細い膜を張る。 その上を、桜の花びらを練り込んだ飴みたいな甘い気配が、ゆっくりと溶けていく。 鼻の奥がきゅっと締まり、唾を飲み込むたび、その膜がかすかに擦れた。 透真は、小さく息を吐く。 「… … そこで、ズレてるな」 左の書架の列が、また半冊ぶん、手前ににじんでいた。 見た目の差は指先一つ分。 けれど、そのわずかな傾きが、図書館全体の味付けを変えてしまうと、研修で叩き込まれている。 肩から提げた端末を開き、棚番号と配置データを確認した。 青白い画面には、書架の位置を示す格子状のマップ。 その一角だけが、淡く点滅していた。 先輩たちは、そこを「量子朝靄」と呼ぶ。 夜のあいだに棚が勝手に散歩をして、戻りきれなかった痕跡。 透真は、棚の縁にそっと手を添えた。 ひんやり。 だが、金属でも木でもない。 湯呑みの湯気を両手ですくうときのような、触れているのに輪郭の定まらない感触が、指先から手首へとじわじわ染みてくる。 呼吸を浅くして、その感触に集中した。 画面上の位置と、目の前の棚の「居心地」を、頭の中で重ね合わせる。 肩の力を抜きながら、指だけに重さを集める。 「…結局、…ここじゃないだろ。 すぐに」 少しだけ、押した。 「ぎ…」とも「ぎゅっ」ともつかない、乾いた擦過音が、棚の中から返ってくる。 背表紙のない記憶の束同士が、互いに距離を取り直す音。 それが掌の骨にまで伝わった。 「お、春日くん。 ゆっくり朝から棚いじってると、腰やられるよ」 背後から、ゆるい声。 透真が振り向くと、先輩司書が片手に湯呑み、片手にタブレットを持ったまま、のそのそ近づいてきていた。 スリッパが床の光をこすり、ささやかな影が揺れる。 名字は聞いているが、まだ呼び捨てできるほどの距離ではない。 透真は、会釈だけ先に落とした。 「おはようございます。 …次に、一列、またずれていて」 「だよねー。 春は棚がふやける季節だからさ」 先輩は、棚の桜色の光を一瞥し、湯気に鼻を近づけるようにして、くん、と息を吸う。 まぶたが、香りを味わうみたいにゆっくり下りる。 「… …うん、今日は線香より、桜餅寄りだな」 「桜餅、ですか」 「ほら、葉っぱの塩気と、あんこの甘さの境目。 あそこがふわふわ揺れてる感じ。 そりゃ棚も迷うって」 比喩なのか、本気なのか。 黄泉の司書は、よくこういう味の話をする。 死者の記憶を扱う仕事には、温度や香り、口の中でほどける感覚で測った方が、数字より正確だと研修で何度も聞かされた。 透真は、先輩の湯呑みから立ちのぼる湯気を、目で追った。 先輩はタブレットを軽く振る。 「データ上は、その棚、三センチ奥ね。 今度は、君の指があと一節ぶん、低カロリーで」 「…足元で。 …はい」 透真は、もう一度、棚に触れた。 今度は押すのではなく、なだめるように撫でる。 しゃらり、と手のひらの中で光がほどける。 棚全体が、床の桜色の光と同じリズムで呼吸を始め、すうっと元の位置へ収まっていった。 タブレットのマップから、点滅が消える。 「おお、上手上手。 さすが双子だわ」 先輩が、湯気越しに笑った。 湯気が笑い声に揺れて、輪郭が少しぼやける。 「…中では、双子、関係あるんですか」 「あるある。 ざっくり言うとね、君ら双子みたいにパターンが似てると、この館の揺れを嗅ぎ取るのが早いの」 「はあ… …」 「マニュアルにもあったろ。 双子の記憶は、ときどき量子揺らぎで混ざるって。 外では、どっちがどっちか、本人性の保証なんて、うちのシステムにも完璧にはできないさ」 先輩は、湯呑みの縁を指でなぞった。 その爪先が、陶器のざらりとした感触を確かめるように止まり、また動く。 透真の喉の奥にも、渋い茶の味が広がる気がした。 笑うタイミングを少し迷い、口角だけを控えめに上げる。 「…そんなに曖昧で、大丈夫なんですか」 「大丈夫大丈夫。 死んだ人同士だしな。 多少混ざってたって、会いたい相手に会えりゃ、文句言わないさ」 先輩は、あっさりと言い切って湯を一口すすった。 湯気が薄く彼の頬を撫で、線香の匂いと混ざり、朝の図書館に小さな味の層を一枚足す。 透真の胸の中で何かが、きゅ、と小さく縮んだ。 「双子」「混ざる」「本人性」。 その並びが、舌の裏あたりをじわりと痺れさせる。 声にして問い返したい言葉は喉の奥で固まり、肺のあたりでうろうろしていた。 透真は、代わりに業務の段取りを掴み直す。 「…開館まで、あと二十分ですね。 当日予約のブース、確認してきます」 「あいよ。 今日は三回忌組が多いから、ティッシュ補充ね。 あ、あと——」 先輩が何か言いかけたその時、床下の桜色がふっと濃くなった。 遠くで、エレベーターの到着音が「ちん」と鳴る。 現世側からの通路が開いた合図。 透真は、胸ポケットのペンを指先で一度つまみ、深く息を吸った。 * 午前の閲覧室は、いつも薄いだし汁みたいだった。 沸き立ちはしないが、じんわり誰かを温め続ける程度の温度。 静かな音と薄い香りだけが、低く続いている。 透真は端末を片手に、ブースの列をひとつずつ見て回った。 ブースのカーテンの隙間から、すすり泣きがこぼれる。 「くぐ…」と喉を詰まらせる音。 布の向こうで、モニターの青白い光が揺れる。 そこに映されているのは、誰かの盆栽の剪定だったり、修学旅行のバスの窓だったり、社員旅行の二次会だったりした。 死者の人生は、華やかな場面だけで埋まってはいない。 味噌汁の具を切る音や、炊飯器の蓋が開く湯気の方が、遺された人の舌に長く残る。 透真は、ひとつひとつのカーテンの前で足を止め、泣き声の高さや沈黙の長さを、無意識に測った。 段取りを崩すほどの異常がないかだけ、耳で確かめる。 「春日さん?」 振り向くと、中年の女性が、老いた父親の腕を支えながら立っていた。 二人とも、喪服に近い黒。 背中には、まだ寒いはずなのに、うっすら汗の匂いが混じっている。 父親の指先は、少し冷たそうに震えていた。 「ご予約の——田所様ですね。 お待ちしておりました」 透真は、マニュアル通りの笑顔を作る。 目尻を柔らかく、声を少しだけ低く。 背筋を伸ばしすぎないように意識しながら、言葉をつないだ。 「本日は、お母様の…三回忌にあたるとのことですが」 女性が、苦笑ともため息ともつかない息を漏らす。 肩がわずかに上下した。 「ええ。 てか…お寺より先にここに来ちゃって。 罰当たりかしらね」 「皆さん、法要の前に“予習”なさいますよ。 まず、こちらで少し心をならしていかれて…」 口をついて出た言葉だった。 舌の上に、少し固い砂糖の粒を噛んだような違和感が残る。 女性は、しかしふっと笑った。 「予習、ね。 そう聞くと、ちょっと気が楽になるわ」 老父は、黙ったまま。 目だけが、棚の上のどこか一点をじっと見ている。 そこに見えない煙でも昇っているかのように、視線が動かない。 透真は二人の歩幅に合わせ、ゆっくりと予約ブースへ案内した。 カーテンを開けると、中には三人が座れる幅のソファと、正面に埋め込まれたモニター。 空調の柔らかな風が頬を撫でる。 黄泉の外縁にしては驚くほど生々しい、暖房のぬくもり。 誰かがさっきまで座っていたような、人の気配を含んだ温度だった。 「本日は、お母様の記憶データのうち、こちら——」 透真は、端末に表示されたメニューを、女性の手元のタブレットと同期させる。 画面に、いくつものサムネイルがずらりと並ぶ。 「結婚式」「新築の家」「初めてのお弁当」「孫と遊ぶ午後」。 指先が滑るたび、小さな光の四角が入れ替わる。 「こちらの『昭和六十年 三月 花見』というラベルのものが、ご希望の場面で間違いございませんか」 女性が頷く。 老父の口元が、すこしだけ動いた。 「…あの人、花より団子だったくせに、花見だけは欠かさなかったの」 「あの、田所様。 ちょうどその時——」 「え、あ、ごめんなさい。 つい」 「いいえ。 …では、こちらから再生いたします。 途中でおつらい場面などございましたら、ここをタッチして、一時停止できます」 透真は、ブースの入口近くの壁に組み込まれた、小さなボタンを指さした。 女性は真剣な顔で頷き、指先をそっとボタンに触れて確かめる。 父親は、膝の上で握った手を、さらに強く重ねた。 再生。 モニターの中に、古い桜並木の映像が広がる。 塩気を含んだ春風の音。 ブルーシートの擦れる「がさっ」という音。 焼きそばのソースと、紙コップのビールの匂いが、画面の向こうからふわりと漂ってくるようだ。 透真は、カーテンを静かに閉めた。 外から聞こえるのは、椅子がきしむ音と、老父の喉の奥から漏れるような笑い声。 それに、すぐ混じり始めるすすり泣き。 胸の中で、見えないカウンターに小さく「一」を打つ。 司書の仕事は、こういう数を積み重ねていくことだと、自分に言い聞かせる。 再会の場を整え、邪魔をせず、空気がしぼまないように温度を調整する。 祝言の仲立ちというより、用意された材料に火を入れる料理人に近い。 手元のレシピは決まっていて、火加減と盛りつけだけが、自分の裁量だ。 次の予約を確認しようと、端末をスクロールした時だった。 「春日さん」 先ほどのブースのカーテンが、そっと開く。 女性が顔をのぞかせる。 目元は赤く濡れているのに、口元だけは形を整えようとしていた。 「すみません。 …突然、この『花見』、途中で画面が止まってしまって」 透真の背筋が、かすかに固くなる。 モニターの不具合。 量子ノイズ。 どんな名前を貼っても、口の中に残る味は苦い。 「止まったタイミングは、どのあたりでしたか」 「夫が、唐揚げばっかり食べてて、母が怒ってるところまで。 そこで、画面が…」 唐揚げ。 ソースと油の匂いが、一瞬、透真の鼻の奥に蘇る。 自分の家の味とは違う。 それでも、共有された春の景色の匂いが、どこか似ていた。 「…申し訳ありません。 こちら側で確認いたしますので、少々お待ちいただけますか」 透真は、ブースの中に入り、モニターに触れた。 タイムライン上に、小さなノイズマーク。 そこから先が、まだ煮えていない出汁のように、透明なままだ。 スクロールバーの先には、何も映っていない。 「量子ノイズが発生しているようです」 言葉を口にした瞬間、その冷たさが舌に貼り付く。 透真は、端末に視線を移した。 唐揚げ。 春。 花見。 似た味わいの場面を、別の鍋からすくうように探す。 「…田所様」 カーテン越しに声をかける。 外から「はい」と返事が返ってきた。 女性の息が、カーテンの布をわずかに揺らす。 「『花見』の少し前に、『お弁当づくり』の記録がございます。 お母様が、お父様のお好みの唐揚げを、台所で揚げていらっしゃる場面です。 こちらでしたら、問題なくご覧いただけそうですが…」 言いながら、自分の舌が火加減を細かく見ているのがわかる。 唐揚げという具体は出すが、「ノイズ」「欠損」といった単語は避ける。 少し沈黙が落ちる。 ブースの外で、女性の息が揺れた。 「…昔から、彼は自分のいいところしか見せたがらない人だったから、その方が本人も喜ぶかもね」 冗談みたいな言い方。 しかし、言葉の端に混じる塩気が、透真の胸をきゅっと締めつけた。 手の中の端末が、少し重く感じる。 「承知しました」 モニターを切り替える。 台所の映像が呼び出され、熱い油の「じゅわっ」という音が、ブースいっぱいに広がる。 匂いまで立ちのぼってくる気がして、胃のあたりがすこし空腹を思い出した。 * 昼休憩の時間になると、閲覧室の桜色はほんの少し薄くなる。 外縁層の時間と、現世の昼休みが、ゆるく同期する。 利用者の気配が一段落し、音が一度、底を打つ。 透真は、職員用ブレイクルームの扉をそっと開けた。 「…失礼します」 中は、閲覧室よりすこし暖かい。 エアコンの低い風音と、電子ポットの「カチ、カチ」という保温の音。 テーブルの上には、誰かが置いていった袋入りの煎餅と、個包装のチョコレート。 その隣には、開封済みのスティックコーヒーの箱が口を開けている。 壁には、去年の花見——図書館職員たちが外縁層の桜データを背景に撮った集合写真が、ラミネートされて貼ってある。 何人かがピースをしていて、何人かは目を細めて笑っている。 そこに写る自分の顔を、透真は一瞬だけ確認してから、視線をそらした。 ロッカーから小さな保冷バッグを取り出す。 中から、タッパーとラップに包まれたおにぎりを一つ。 そして、コンビニで買ってきたインスタント味噌汁の袋。 手順はもう体に染み込んでいる。 「…今日は、鮭」 ラップを剥がすと、ふわ、と米の甘い匂いが広がる。 冷凍して持たせてもらったはずなのに、解凍後の米は意外なほどふっくらしている。 母の指の跡が、一粒一粒の間にまだ残っているようだった。 透真は、椅子に腰を下ろし、備え付けのフリースのひざ掛けを膝にかける。 肌触りは柔らかく、少し毛羽立っている。 そのもこもこが、冷えていた膝をじんわり包む。 椅子の背もたれに背中を預けると、「きしっ」と小さな音がした。 電子ポットから紙コップへ湯を注ぐと、「ざああ」という音とともに、味噌汁の粉末が溶けていく。 だしの香り——いりこなのか、かつおなのか、インスタントなりの誠実さが鼻をくすぐる。 ひと口すすると、塩気と旨味が舌に広がり、朝から緊張していた喉がふっと開いた。 おにぎりをかじると、鮭のほぐし身の油分が、米の甘さと混ざり合って、懐かしい朝ごはんの味になる。 胃の底が、ゆっくり温まっていく。 「お、春日くん、自炊勢?」 声と一緒に、ドアの開く音。 先ほどの先輩が、コンビニ袋をぶら下げて入ってきた。 袋の中からは、カップ味噌汁と、三角おにぎりのパッケージが覗いている。 ビニールが揺れるたび、安っぽいインクの匂いが漂った。 「いえ…母が冷凍してくれていて」 「おお、そういうの。 ちゃんと自分で握るとか、いい婿さんになるよ、きっと」 先輩が勝手な未来予測を口にしながら、向かいの椅子にどさっと座る。 ひざ掛けを引っぱり出して、雑に膝にかけた。 足を投げ出し、くつろいだ姿勢になる。 「…なりませんよ。 たぶん」 透真は、苦笑いを浮かべる。 「たぶん」が、いつもの癖で口からこぼれた。 指先で紙コップの縁をいじりながら、視線を味噌汁の表面に落とす。 「いやいや、黄泉の司書って、地味に婚活市場では強いって噂だよ。 安定職だし、ご先祖ケアに理解あるし」 「そんな噂、あるんですか」 「うちの親戚筋ではね」 先輩が、カップ味噌汁の蓋をぺりっと開ける。 中から、乾燥わかめとネギと、固まった味噌が顔を出す。 熱湯を注ぐと、一気に香りが立ち上った。 二人のコップから立つ湯気が、天井近くで混じり合う。 塩分の違う味噌の匂いが、狭い部屋の空気を少し塩辛くする。 透真は、その混じり合いを目で追った。 「…春日くん、早番慣れてきた?」 「まあ…一応」 「そっか。 午前の田所さんとこ、上手く回してくれてたね。 花見から弁当に切り替えたの、さすがだったよ」 誉め言葉なのか、ただの業務確認なのか。 しかし、その一言が、胃のあたりに温かいものを一つ落としていった。 背中の筋肉が、少し緩む。 「ありがとうございます」 「ね。 ここってさ、好きに料理していいキッチンじゃないからさ」 先輩が、箸代わりの木のスティックで味噌をぐるぐるとかき混ぜる。 表面にできた渦が、すぐにほどける。 「材料は利用者さんが持ってきて、レシピはマニュアルで決まってて。 俺らは、焦がさないように火加減見るだけ。 …でも、その“だけ”で、味変わるからね」 透真は、コップを両手で包んだ。 紙の薄い熱が指先に伝わる。 その向こうで、味噌汁が静かに揺れている。 揺れが、自分の呼吸と同期していく。 「…焦がしたこと、あるんですか」 「新人の頃はね。 今もたまに」 先輩は、冗談めかして笑う。 口元は緩んでいるが、目の奥までは笑っていないようにも見えた。 透真は、そこから視線を逃がすように、自分の膝のひざ掛けへ視線を落とした。 「まあ、規則っていうレシピ本もあるし。 あれ破ると、司書長に怒られるからさ」 「ですよね」 「特に、勤務後の閲覧とか。 あれ、明文化はされてないけど、ログ全部残るからさ」 箸の先で、コップの縁をコツコツ叩きながら、先輩が視線を横に流す。 壁の桜の集合写真のあたりを、なんとなく眺めるふりをしていた。 「…好きな人の昔の写真とか、つい見たくなるのは分かるけど。 ほどほどにな」 「——」 喉に味噌が引っかかったように、言葉が止まる。 コップを持つ指先が、ほんの少し強張った。 手の甲に、血管が浮き上がる。 先輩は、じっとこちらを見るわけでもなく、写真に視線を向け続けている。 その横顔から、何をどこまで見透かされているのか、透真には判断がつかない。 胸の奥が、ゆっくりざわついた。 少し遅れて、事務的な言葉が口に浮かぶ。 「業務テストの範囲で、だけですね」 「うん。 そう、それ」 先輩は、それ以上追及しなかった。 味噌汁をひと口すすり、「あっつ」と舌を出す。 蒸気が曇らせたメガネを、指でくいと持ち上げた。 「ま、うまくやりな。 レシピ通りに作るだけじゃ、料理も仕事もつまらんし」 ひざ掛けの上で、先輩の足先が小さく揺れる。 布のこすれる「さらっ」という音。 ブレイクルームは、閲覧室の冷えた空気とは違う、「生きている場所」の温度で満たされていた。 透真は、おにぎりの最後のひと口を口に放り込む。 米粒が頬の内側に張り付き、舌で寄せ集めながら噛み締める。 母の味噌汁の記憶が、薄く蘇る。 ここには、自分の居場所があるような気がした。 同時に、どこか別の匂いに包まれているような違和感も、舌の上で溶け残る。 温度は十分なのに、自分だけ別の鍋からすくわれてきたような、微かなずれだ。 ひざ掛けの布を指先でつまみ、細かい毛羽立ちをねじった。 * 閉館のアナウンスが流れる頃には、床下の桜色は夕暮れの色に変わっていた。 光は少し橙を帯び、棚の影を長く引き伸ばす。 閲覧室の中央にだけ残された薄い照明が、鍋の保温を続けているような、名残りの暖かさを漂わせる。 「本日の閲覧は、これをもちまして終了いたしました」 自動音声が、天井のスピーカーから流れた。 「ぽん」と短いチャイム。 利用者たちがそれぞれの通路へ戻っていく。 現世側へと戻る者と、黄泉の奥へと沈んでいく者。 すれ違う瞬間、わずかに冷たい風が頬を掠める。 その冷たさが、肌の表面に細い線を描く。 片づけが終わると、先輩たちは次々に退館していった。 夕飯のメニューや録画しているドラマ、子どもの宿題の話題が、エレベーターの中に流れ込む。 扉が閉まり、その会話ごと別の階層へ運び去られる。 残された閲覧室にいるのは、透真ひとり。 照明が、自動で一段階落ちる。 棚の影が濃くなり、床の光は、あたたかい鍋から、夜食前のほの明かりへと変わる。 透真は、端末を起動した。 職員用の管理画面。 キーボードを打つ指が、ほんの少しだけ、いつもより早く動く。 IDとパスワードを入力し、ログイン。 画面上部に、小さく赤い文字が点滅する。 『勤務時間外の閲覧には、管理者承認が必要です』 その冷たいフォントが、瞼の裏にまで映り込む。 「…テストデータの確認だから」 誰に向けた言い訳なのか、自分でも分からない。 小さく呟きながら、閲覧目的のプルダウンを開く。 「機器動作確認」。 そこをタップする。 赤い文字が消え、代わりに青い文字が表示された。 『業務目的を確認しました』 無表情な字面が、いいかげんな相槌みたいに見える。 「確認してないだろ」 透真は、小声で画面に突っ込む。 無機質なフォントは、もちろん何も答えない。 それでも、指は止まらない。 検索窓に、名前を打ち込む。 ——春日 悠真。 苗字は同じ。 並ぶ二文字だけが違う。 キーを叩くたび、自分の指がほんの僅かに迷う。 一文字ごとに、胸の内側で何かがざわめく。 検索結果が、画面に現れる。 利用者番号。 生年月日。 死亡年月日。 「大学量子情報研究室 事故」という、乾いた一行。 心臓のあたりに、冷水を一滴垂らされたような感覚が走る。 それでも指は止まらない。 閲覧ボタンを押す。 画面が暗転し、いくつかのサムネイルが並んだ。 「…今日は、大学から」 自分に言い聞かせる。 まずは、彼が自分の知らないところで生きていた時間から。 それから最後に、甘いデザートみたいに幼少期を。 喉の奥で唾を飲み込み、目が勝手に、ひとつのサムネイルを選んだ。 「大学三年 研究室飲み会」。 タップ。 画面の中に、狭い居酒屋の座敷が現れる。 刺身の皿、鍋、焼き鳥。 アルコールの匂いが、鼻先に残像のように舞い上がる。 パチパチと焼ける音。 誰かが「お疲れさまでーす」と言う声。 視点は、悠真の目線。 大学の仲間たちの顔が、次々と映る。 知らない名前、知らない笑い方。 けれど、その輪の中心に、よく知っている横顔がいた。 『でさ、そこ、ちゃんとシミュレーション回さないと、後で泣くの君だからな』 悠真の声。 少し酔っているのか、語尾がいつもより緩い。 「でさ」と、親しげな接続詞がやわらかく響く。 画面の向こうで、誰かが笑い、鍋の蓋を開けた。 湯気がもわっと立ち上がる。 昆布だしと鶏の旨味が混ざった匂いが、画面越しに届いてくる錯覚。 胸の奥が、すこし空洞になる。 そこに、兄の言葉や笑いが、熱いスープみたいに注ぎ込まれていく。 彼が、自分の知らない友人たちと、知らない専門用語で笑い合っている。 その距離感が、心地よい痛みを連れてきた。 同じ材料から生まれたはずなのに、全く違う食卓に並んだ料理を、遠くから眺めるような感覚。 透真は、画面から少し距離を取り、一度息を吐く。 数分、映像を眺めてから、指先で再生を止めた。 「…ごめん。 今日は、ここまで」 兄に対してなのか、自分に対してなのか。 小さな呟きが、閲覧室の空気に溶ける。 サムネイル一覧に戻ると、目はすぐに幼少期のラベルへ流れていった。 「小学校低学年 夕食」。 「夏休み 川遊び」。 「春 台所のテーブル」。 最後の一つをタップする。 画面が暗くなり、すぐに、見慣れたテーブルが映し出された。 薄い木目の天板。 少し欠けた角。 窓から差し込む春の光が、テーブルの端に四角く落ちている。 畳の青い匂いが、鼻の奥によみがえる。 実際の閲覧室には畳などないのに、映像の中の畳が、記憶の畳と重なり、匂いまで引きずり出してきた。 『とーちゃん、その醤油取ってくれへん?』 画面の奥から、母の声。 柔らかい関西寄りのイントネーション。 透真が覚えているのと、全く同じ声色と呼びかけ。 背筋が少し伸びる。 画面の中で、小さな手が醤油差しを掴む。 それは、幼い自分の手——のはずだ。 視点は悠真。 座っている位置も、窓との距離も、記憶通り。 母のエプロンの柄まで、今でも言える。 『…あ、ゆーちゃん、先に座りなさい。 冷めるやろ』 母の声が続く。 画面の中で、椅子が引かれ、双子の片割れが座る。 その顔が、モニターの中に映り込む。 幼い春日透真。 満開の花みたいな笑顔で、皿の上のハンバーグを見つめている。 ハンバーグからは、まだ湯気が立っていた。 ソースの匂いが、甘く強く鼻を刺す。 油が光っている表面に、春の午後の光が反射して、小さな湖のように揺れる。 『ソース、かけすぎんなよ』 画面のこちら側——悠真の声が、低く響く。 その声を聞いて、画面の中の幼い透真が、ちょっとむっとした顔をする。 フォークを握る指に、少し力が入った。 「…懐かしい」 思わず、声が漏れた。 胸の奥が、温かい何かでいっぱいになる。 味噌汁でも、ハンバーグのソースでもない。 もっと粘度の高い、形のない何か。 頬を撫でる春風の感触まで蘇る。 窓から入り込む風が、カーテンを「ふわり」と持ち上げ、テーブルの上のティッシュを一枚舞わせる。 そのティッシュに、視点主の手が伸びた。 ——兄の目線、のはず。 なのに、胸の奥は、自分が叱られている時みたいな恥ずかしさでいっぱいになる。 母の声が少し高くなるところ。 悠真の横目。 全部が、「自分」を中心に据えた場面に感じられた。 どうして——。 首を傾げかけた、その瞬間だった。 床が、わずかに傾いた。 波が砕ける前の凪のような、一瞬の静止。 次の瞬間、書架の列が、視界の中でゆらり、と波打つ。 棚と棚のあいだの間隔が、一瞬だけ入れ替わった。 「…え?」 声と同時に、非常灯が「ぱちぱち」と点滅し始める。 紙ではない何かが擦れ合う、ざらりとした音が、耳の奥を撫でた。 鼻先を、焦げた砂糖のような、甘くて不穏な匂いが掠める。 モニターが、唐突に暗転した。 『軽微な量子ノイズを検知しました。 閲覧を一時中断します』 無機質な文字が、画面一面に表示される。 さっきまでの台所の匂いも、ハンバーグのソースも、春風も、一瞬で奪われる。 残されたのは、冷えた紙と線香の、いつもの図書館の匂いだけ。 透真は、しばらく動けなかった。 握っていたマウスに、汗がにじむ。 手のひらがじっとり湿り、プラスチックがすべりそうになる。 背筋が、鋼に変わるように固くなった。 棚の揺れは、もう止まっている。 配置も、いつもの通りに戻っている。 床下の光も、穏やかな夕暮れ色だ。 「…また、棚が気まぐれ起こしただけだ」 自分に言い聞かせるように、呟く。 システムメッセージの下で、「再開」ボタンが点滅している。 さっき胸をよぎった疑問——兄の目線なのに、自分の恥ずかしさが染み込んでいる感覚——は、棚の揺れに攫われたみたいに遠のいていった。 透真は、深く息を吸い込む。 線香と紙と、わずかな桜餅の匂いが、肺の中に満ちる。 指先が「再開」ではなく、「終了」をクリックした。 画面が、静かな管理画面に戻る。 閲覧ログには、「機器動作確認(テストデータ)」とだけ残る仕組みになっている。 並ぶ文字列を眺めながら、透真は、唇の内側をそっと噛んだ。 柔らかい粘膜に歯が食い込み、じん、と鈍い痛みが広がる。 今日のところは、これで終わり。 そう決めたはずなのに、舌の上には、まだ消えない味が残っている。 ハンバーグソースの甘さと、焦げた砂糖の匂いと、言葉にならなかった恥ずかしさの、奇妙なブレンド。 胸のどこかで、歯車が小さく噛み合う音がした。 その音がどんな装置を動かし始めたのか、透真にはまだ分からない。 夕暮れの閲覧室は、その小さな音に気づかないふりをしているようだった。 黄泉の図書館の静かな夕餉は、いつもの献立を、変わらぬ顔で並べ続けている。

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