Lendo

第4章: 黄泉エレベーターと、七回忌の朝に焼ける目玉焼き

目玉焼きの縁が、じゅっ、と小さく跳ねた。 黄身だけが、ゆらりと震えている。 白身の端がうっすら焦げて、垂らした醤油の筋がじわじわと茶色に沈んでいった。 ワンルームの空気はもう、油と醤油とインスタント味噌汁の匂いで重くなり始めている。 窓の外の空は薄く曇って、春の雲が湯気みたいにかたちを決めないまま漂っていた。 テーブルの端。 炊飯器の横に、小さな写真立てが立てかけてある。 紙皿とピザと安い缶ビール。 大学の研究室の打ち上げの一場面らしい雑然とした背景の真ん中で、春日悠真が笑っていた。 その肩にぴったりくっつくように並んでいるのが、自分――春日透真だ。 透真は箸を持ち直し、小さく息を吸う。 「……いただきます」 声にすると、狭い部屋の空気が一瞬だけ縮んだように感じた。 指先に、昨夜洗ったばかりの木箸のなめらかな感触が戻る。 それから、手を伸ばして写真立ての向きを自分の方へ変えた。 兄の笑顔が朝の光を受けて、少し白く褪せた色に見える。 「今週じゃないから。 まだ」 誰にともなくこぼして、味噌汁をひと口すする。 粉っぽい旨味が舌にまとわりつき、のどの奥をゆっくりと流れ落ちた。 命日は来週。 数日前に届いた七回忌の案内状の封筒が、ゴミ箱の縁から少し顔を出している。 湯飲みを置いたとき、机がかすかに鳴った。 その音に、大学の実験室の異様に白い蛍光灯の明かりが重なる。 鼻の奥に、消毒液と金属の匂いがよみがえり、舌の上から味噌汁の塩気がすっと引いた。 透真は箸を置き、写真立ての前で両手を合わせる。 線香の代わりに、味噌汁の湯気が指の間をくゆった。 額をかすかに下げ、呼吸だけが静かに上下する。 「行ってくる。 一応」 低く告げて頭を下げる。 顔を上げると、写真の中の兄の笑顔が、さっきよりも少し遠くに滲んだように見えた。 ◇ 量子エレベーターのドアが閉まると、耳の奥がきゅっと詰まる。 地下鉄とも高層ビルのエレベーターとも違う圧が、足元から這い上がってくる。 靴裏の下で、空気の密度が、茹で上がる前の湯みたいに静かに変わっていく。 ふっと体が軽くなり、表示が「地上」から「黄泉層」に切り替わった。 ドアが左右に開く。 冷房でも暖房でもない、中途半端な温度の風が頬を撫でた。 紙と線香、それにどこかの寺で嗅いだ金木犀の香りが薄く混じっている。 黄泉の図書館の外縁層。 書架の向こうで、淡い桜色の光がゆらゆらと揺れているのがガラス越しに見えた。 花びらというより、鍋の表面に浮いた脂が、ゆっくり形を変えながら消えていくみたいだ。 「おはようございます」 受付カウンターへ向かう通路で、すれ違う司書たちに軽く会釈する。 靴底が床を打つたび、遠くからかすかな水音が返ってきた。 見えないどこかで、静かな水面がそっと波打っている。 「おー、春日くん、おはよー」 カウンターの内側で、長谷部玲央が椅子を半回転させ、片手の紙コップをひょいと持ち上げる。 いつもの動きだ。 「おはようございます、長谷部さん」 「ほら出た。 だからさ、その呼び方固いって。 玲央でいいって何回……いや、もういいや。 はい、これ」 紙コップを差し出してくる。 近づけた途端、コンビニのドリップコーヒーの香りがふわりと立ちのぼった。 焙煎の苦味と、さっきまで嗅いでいた線香の残り香が混ざり合い、落ち着きのある匂いに変わる。 「ありがとうございます。 でも、勤務前は――」 「カフェイン控えめ。 たぶん」 冗談めかして笑いながら、玲央がカップを押しつけてくる。 透真は観念して受け取った。 紙コップ越しの、少しぬるい温度が指先に染みてくる。 「顔、なんか……煮詰まってますよ?」 玲央がじっと覗き込んでくる。 スープの味を見極めるときみたいな、慎重な視線だ。 「そんな……急にですか」 「急じゃないよ。 前から。 今日は特に、って感じ。 年忌とか?」 コーヒーをすする音が、短く空気を切った。 その言葉が胸の奥に刺さり、内側で小さく縮む感覚が走る。 「……来週、兄の」 喉の奥に固いものが引っかかり、言葉がそこで止まった。 味噌汁の塩気が、妙なタイミングで口の中にもどってくる。 「そっか」 玲央はそれ以上踏み込まない。 代わりにカウンター端の端末を指さした。 「午前、一番の予約は、お寺さん。 三十三回忌のとこね。 あ、春日くんとこも、ちゃんとお坊さん呼んでる?」 「えっと……実家の方で。 一応、うちは檀家なので」 答えながら、自分の声が少し上ずっているのがわかる。 実家の仏間が脳裏に浮かぶ。 仏壇の前で、線香の煙がゆらゆらと立ちのぼる。 父の背中。 母の横顔。 その隣に、ぽっかり空いた椅子。 大学三年の冬。 研究室の実験室。 防護ゴーグルの向こうで白く光るライト。 警告音。 金属同士がぶつかる甲高い音。 「春日くん?」 「……はい」 気づけば、目の前には端末の青白い画面。 さっきからぼんやりと見つめていたらしい。 玲央が、少し眉を上げて覗き込んでいる。 「大丈夫? なんか変な匂いしない? 焦げてるとか」 「匂い、ですか?」 鼻から深く息を吸い込む。 紙。 線香。 コーヒー。 さっきまでまとわりついていた消毒液の幻も、金属の味も、今回は戻ってこなかった。 「……大丈夫です。 ただの寝不足で」 「そ。 じゃあ、その黄泉カフェインで中和しといてください」 玲央が笑い、端末を操作する。 今日の日付と利用者の名前が閲覧予約一覧に並んだ。 透真はその画面に視線を滑らせながら、ひとつだけ自分用の予定を打ち込む。 ――春日 悠真。 閲覧者:職員テスト閲覧。 レイヤ:浅層。 キーボードを打つ指が、一瞬止まった。 その下、未入力の欄がぽっかり開いている。 深度:D。 事故当日前後を示すラベル。 喉の内側が、急にからからに乾いた。 ◇ 開館のチャイムが、柔らかな電子音で鳴る。 閲覧室のドアが静かに開き、最初の利用者たちがふわりと中へ入ってきた。 線香の香りがほんの少しだけ濃くなる。 午前中の予約はいくつかあるが、最初の一時間はまだ余裕がある。 他の司書たちが利用者へ向かうのを横目に見送りながら、透真はカウンター裏の職員ログイン画面を呼び出した。 青白い光が、指先の関節を細かく照らす。 キーボードのぱちぱちという乾いた音が、静かな閲覧室に溶けていく。 奥の書架の間からは、いつものかすかな水音。 棚に保存された記憶の波が、鍋の中身のようにゆっくりと対流している様子が、音だけで伝わってきた。 「……業務テスト、です」 小さくつぶやき、自分に言い聞かせる。 兄の名前を検索欄に打ち込んだ。 「春日 悠真」。 エンターキーを押すと、画面に一覧が現れる。 大学の講義。 研究室の実験風景。 居酒屋の打ち上げ。 実家の食卓。 頻繁に閲覧されている記憶ほど、浅いところに浮かぶように並んでいた。 透真はスクロールをゆっくりと進め、もっと下、色のトーンが暗く沈んだラベルを探す。 ――201X年12月。 ――実験室周辺。 ――アクセス制限:深度D。 カーソルを合わせた瞬間、指先から少し体温が抜けた。 規則では、クリックではなく申請。 そう決められている。 胸の内側で、何かがじりじりと焦げ付くような感覚が広がる。 その焼け跡を、舌で確かめたくなる衝動が、指先に集まってきた。 申請ボタンの上に指を滑らせる。 クリック。 短い電子音がピッと鳴った。 すぐに別の音が重なる。 カン、と乾いた拒絶の音。 〈深度D以上の閲覧には、遺族代表または司書長権限による許可が必要です〉 〈当該記憶ブロックは現在“予約”状態につき、一部アクセスがロックされています〉 表示された文字列を、透真は二度追った。 舌の上に苦味がじわじわ広がる。 焦がした出汁をそのまま飲み込んだときのような、のどの引っ掛かり。 「……予約?」 声が漏れる。 空調の風に紛れて、誰の耳にも届かない程度の小ささだ。 予約状態。 この図書館で、その記憶ブロックを一定時間他者の閲覧からロックする機能。 年忌法要に合わせた集中的な閲覧や、研究用の確保によく使われる。 表示のどこにも、誰が予約をかけたのかは出ていない。 ――誰が。 兄の事故当日前後の記憶を。 今、この時期に。 胸の真ん中がじわじわと熱を帯びる。 背中にじっとり汗がにじんだ。 空調はいつも通りなのに、肌を撫でる乾いた風がそこだけ浮き上がる。 「春日くん、どうしたの?」 肩越しに声が落ちてきた。 振り返ると、当番リーダーの司書が立っている。 四十代前半くらいの男性。 黒縁の眼鏡の奥の目が、笑っているのかどうか読みづらいタイプだ。 「いえ、その……利用者の方から質問があって。 予約状態について」 舌が乾いて、言葉がぎこちなくほどける。 リーダーが端末の画面を覗き込んだ。 青白い光が、眼鏡のレンズに薄く反射する。 「ふうん。 深度Dか」 「はい。 その、深いところの閲覧って、どういう条件で……」 「公式の答えは、『遺族代表からの申請』と、『司書長の特別許可』」 リーダーはカウンターの内側に入り、透真の隣に並んだ。 コロンの柑橘系の香りが、線香の残り香と重なる。 意外と香りどうしはぶつからず、層を成していた。 「予約は?」 「……誰がかけたか、ここからは分からなくて」 「まあね。 わざと見えないように作ってある」 画面の端を指で軽くトントンと叩く。 細い指先が、軽い箸のようなリズムを刻んだ。 「利用者には『予約枠』って説明してるけど、実際に押さえられるのは、遺族代表と研究部門と……あとは上の人たち」 「上、ですか」 「司書長とか、その代理とかね」 言葉の温度は淡々としている。 「兄」とも「君」とも結びつけないまま、一般論として。 それでも、透真の胃の底はすとん、と沈んだ。 深い鍋の底に、うっかり具材を落としたみたいな感覚。 「……もし、ですけど」 声が自分の意思より先に出た。 「誰かが、その……勝手に記憶を書き換えたら。 戻せるんですか」 リーダーの指が、ぴたりと止まる。 空調の音が不自然なほど大きく耳に入ってきた。 背後の書架からの水音も、一瞬遠のいた気がする。 「改竄の話?」 柔らかな声の温度が、わずかに下がった。 火から外した鍋が、さっとぬるくなるときの感じ。 「まあ、原則で言うとね」 リーダーはカウンター下の棚から一冊の冊子を取り出した。 黄泉の図書館職員向けガイドライン。 何度も読み込まされてきた紙の束だ。 指で該当箇所を示しながら、読み上げる。 「『司書は、中立の管理者である』。 ここ」 「……はい」 「『記憶データの改竄は、一切禁止』。 これはもう知ってるよね」 「一応」 「で、『量子的異常その他による波形崩れが発生した場合でも、原本波形への完全復元は保証されない』」 その一文をなぞるときだけ、リーダーの声がほんの少し硬くなる。 紙面から、乾いたインクの匂いが立ち上がる。 ざらついた紙の感触が、透真の指先に伝わった。 「完全には、戻せない」 「……そういう仕様、なんですね」 「仕様。 そう。 料理で言うとさ、一回焦げた味は、どんなに洗ってもどこか残る、みたいな」 その比喩が出た瞬間、透真の胃袋がきゅっと縮む。 焦げた鍋の内側に、兄の顔が浮かぶような感覚。 「家族でも、改竄は……」 「請求できない。 『ここ消して』『こうだったことにして』はね」 リーダーは冊子を閉じ、ぽん、と軽く叩いた。 紙の匂いがふわっと空気に散る。 「うちは、仲人みたいなもんよ。 ただの橋渡し。 勝手に結婚式の流れを変えるのは、仲人の仕事じゃない」 「仲人……」 「縁を取り持つだけ。 メニューを決めるのは本人たち」 肩をすくめて笑う。 料理を見守るだけの人、というニュアンスがその笑顔に混じる。 「春日くんは、どうなの」 「どう……とは」 「今の質問、『誰か』じゃなくて、『自分の家』の話?」 視線が、ほんの少しだけ鋭くなる。 それでも声の調子は変わらない。 肺が、うまく空気を扱えなくなる。 吸うか吐くか、そのどちらかだけを繰り返すみたいに。 「……兄の、事故の時の記憶が」 乾いた喉から、やっと言葉が絞り出される。 「ちゃんと残ってるのか、確認したくて」 リーダーは黙り込んだ。 部屋の隅の加湿器が、ごぼごぼと小さな音を立てる。 「怖いわけだ」 ぽつりと拾ってくる。 驚きでも皮肉でもなく、ただの確認として。 「焦げたところごと、鍋ごと捨てようとする人もいるからね。 中のもの、まるっと」 「……」 「うちは、その包丁を持たないし、持てない。 『戻す』って言葉は、そこらへんとセットで考えないと」 リーダーは机の引き出しから小さな紙片を取り出した。 指先でくるりと裏返す。 表側には、ペンで一文だけ書かれている。 「『司書は黒子であるべし』」 「……そんな条文、ありましたっけ」 思わず口が滑る。 責任者がくすっと笑った。 「今作った。 非公式」 「紙に勝手に増やすの、規則違反じゃないですか」 「データじゃないからセーフ。 紙は、味見」 短いやりとりの隙間に、少しだけ空気が通った。 胸の奥の痛みは消えない。 ただ、その表面に薄い冷たい膜が張る。 「君が見たいのは、『元のままの兄さん』?」 「……たぶん」 「でもさ、『元のまま』って、どこまで?」 責任者の声は穏やかなままだ。 目だけがすこし深くなる。 「君が覚えてる兄さんと、ここに保存されてる兄さん。 どっちも、いろんな味がもう混ざってる」 「味、ですか」 「兄さん自身が見せたい顔。 周囲の目線。 事故のあとに家族が思い返した時の色。 そういうの全部」 責任者は加湿器から立ちのぼる湯気をじっと見つめた。 白い煙がゆらゆらと形を変えながら天井へ消えていく。 「だから、もしどこかで誰かが、勝手に塩を振ったとしても」 言葉を選ぶように、間を置く。 「完全に『塩を抜く』のは無理。 それでも、『いつ誰が塩を入れたか』を探す仕事は、ある」 紙片を指先でくるくる回しながら、ふっと笑う。 「それが、うちにおける黒子の仕事かな」 「……黒子、ですか」 「表には出ないけど、一連の流れは見てる。 ただ、自分で皿をひっくり返したらアウト」 比喩が、妙にしっくり落ちてくる。 兄の記憶に手を突っ込んでかき混ぜたい衝動。 それを、ひっくり返さずに見続けなきゃいけないという怖さ。 その二つが、胸の内側でぶつかり合う。 「春日くん、今日は帰ったら、ちゃんと現世で飯食べなさい」 「……はい」 「兄さんの棚のことは、もう少し時間かけて。 火加減、急に強くすると吹きこぼれるから」 言葉に柔らかな圧が乗る。 コンロのつまみをそっと弱火に戻すみたいな声。 「はい」 返事をしたとき、ようやく肺の奥まで空気が入り込んだ。 ◇ 閉館時刻を告げるチャイムが鳴る。 閲覧室の明かりが一段階落ち、桜データの光が闇の中でいっそうくっきり浮かび上がった。 利用者たちが静かに帰っていき、最後の背中がエレベーターの中に吸い込まれると、館内からほとんど音が消える。 「お疲れー」 長谷部玲央が大きく伸びをする。 肩の関節がぽきぽきと鳴った。 「お疲れさまでした」 「春日くん、今日は残業?」 「少し、ラウンジで休んでから帰ります」 「偉いじゃん。 帰る前にちゃんと休憩挟むなんて。 じゃ、俺は現世の満員電車っていう地獄鍋に戻ります」 ひらひらと手を振りながら、玲央はエレベーターへ向かう。 コーヒーの香りが、ほんの少し後に残った。 透真は静まり始めた閲覧室を背に、職員用ラウンジへ歩き出す。 廊下の照明は少し落とされていて、足音が柔らかく床に沈む。 自販機の低いモーター音が、遠くからくぐもった唸り声のように聞こえた。 ラウンジのドアを開けると、空気の温度がふっと変わる。 閲覧室よりわずかに暖かく、湿度も高い。 ソファがいくつか並び、壁際には小さなキッチンカウンターと自販機。 テーブルの上には、誰かが置いていった煎餅の袋がひとつ、そのまま口を開けている。 笑いじわのように折れたビニールから、醤油と砂糖の匂いが薄く漂った。 ソファの背には、薄手のブランケットが数枚掛けられている。 透真は、一番端のグレーのブランケットを手に取る。 指先に、起毛した生地のふわりとしたざらつきが絡みついた。 棚からマグカップを出し、ポットから湯を注ぐ。 ほうじ茶のティーバッグを落とすと、香ばしい茶葉の香りが立ち上がった。 湯気が指の甲をかすめ、わずかな熱が皮膚の上に残る。 ソファに腰を下ろし、ブランケットを膝から肩までかける。 布の重みが、身体の輪郭をゆっくりなぞるように落ち着かせた。 マグカップを両手で包み込み、ひと口すする。 焙じられた茶葉の香りが鼻へ抜け、苦味とわずかな甘味が舌に広がる。 冷えていた胃のあたりが、少しずつほどけていく。 目を閉じる。 すぐに、別の光景が頭の中に滲んだ。 大学の実験室。 白すぎる光。 ディスプレイを流れる数列。 想定より高い値に、誰かが「あれ?」と笑う声。 次の瞬間の、耳をつんざく警告音。 何かが弾ける匂い。 熱いのか冷たいのかわからない空気のひやりとした触感。 そこから先は、いつも途切れる。 記憶の鍋の蓋が、音もなく降りる。 マグカップを握る手に力がこもり、陶器の縁が指に食い込んだ。 唇の端に、ほうじ茶の苦味がひりりと残る。 「――あれ、春日くん?」 ラウンジのドアが開く音と一緒に、声が飛び込んできた。 入ってきたのは、長谷部ではない。 年の近い女性司書だ。 髪を後ろでひとつに結び、ボーダー柄のセーターを着ている。 紙コップを片手に持ちながら、透真を見つけて目を丸くした。 「すみません。 場所、取ってましたか」 「いやいや。 どうぞ」 「なんかさ、黄泉の方が現世より居心地良さそうな顔してるね」 彼女は笑いながら向かいのソファに腰を下ろす。 クッションが、ぼふん、と空気を吐いた。 「そう、ですか」 「うん。 さっき受付で見たときより、だいぶ『いい出汁出てます』って顔してる」 妙な表現に、喉の奥で笑いがこみ上げた。 さっきまで残っていた苦味が、少しだけ薄まる。 「……疲れてるだけですよ」 「みんな疲れてるよ。 でもさ、春日くんの疲れって、なんかいい意味で余白ある感じ」 紙コップの湯気をふうっと吹きながら、彼女は続ける。 「ぎっちぎちに予定詰まってる人の方が見てて心配になるじゃん。 春日くんみたいな、余白残してる人がいると、ちょっと安心する」 「余白……ですか」 「やだ? あだ名」 「いや……」 言葉とは裏腹に、苦笑いが漏れる。 嫌だと言い切るほどの力も、喜ぶ余裕も、今はどっちも足りない。 余白。 ずっと自分でつけてきたラベルだ。 兄というメインの皿の隣に、はみ出さないよう控えめに置かれた飾り。 皿からはみ出さないことだけ意識してきた。 「そういうとこ、みんな書き込みたくなるんだよね」 彼女は指で宙をなぞる。 まな板の上で何かを切るみたいな動き。 「余白に、ちょこちょこ『ここおいしかった』とか『おかわり希望』とか」 「そんな……」 否定しながらも、そのイメージがどこか温かい場所に落ちていった。 兄のレシピの余りじゃなく、自分の余白に誰かが何かを書き込む。 それは、別の味になるのかもしれない。 「現世帰るの、だるい?」 「……満員電車は、少し」 「わかる。 あのぎゅうぎゅう感。 ここみたいにふわっと浮いてくれればいいのにね」 彼女が天井を指さす。 薄い光の層が、ラウンジの天井すれすれにかかっている。 現世と黄泉層の境目を示す、ほとんど透明な膜。 見上げると、遠い空の色がほんの少しだけ混じっているように見えた。 「まぁ、帰りたくなかったら、ここに布団敷いて寝たら? 就業規則には、ダメって書いてないし」 「いや、それは……たぶん怒られます」 「じゃあ、ブランケット二枚までならセーフ」 彼女の笑い声が、湯気みたいに軽く広がっていく。 それにつられて、透真も口元が緩んだ。 肩に掛かるブランケットの重さが、さっきよりも心地良く感じられる。 しばらく他愛ない話をして、彼女は紙コップを飲み干した。 「じゃ、私はもう一仕事行ってきます」 立ち上がると、ソファのクッションがゆっくりと元の形に戻る。 「お大事にね、余白くん」 「……ありがとうございます」 ドアが閉まると、ラウンジにまた静けさが落ちる。 自販機のモーター音と、どこかで清掃ロボが走る小さな駆動音だけが耳に残る。 マグカップの底には、ほうじ茶の細かい茶葉が少し沈んでいた。 ◇ 透真は膝の上に簡易端末を置く。 ブランケット越しに感じる、硬い重み。 画面を起動すると、青白い光が布地に反射して、淡い模様を作った。 今日一日の業務ログが一覧で並ぶ。 利用者の閲覧履歴。 棚の安定度の推移。 指を滑らせながら、ルーティンとして眺める。 そのまま閉じるはずだった。 ――春日 悠真。 自分ではない方の名字と名前が、画面の中に現れる。 午前十時二十八分。 深度Dへのアクセス試行。 ステータス:拒否。 理由:権限不足。 行の右端に、小さな灰色の文字がついていた。 通常インターフェイスでは見ない、短いタグ。 『RET.』 指がぴたりと止まる。 RET。 リターン。 戻す。 誰が。 何を。 どこへ。 透真は、呼吸を一度止めて、そっとタグの上をタップした。 画面が、一瞬だけぴくりと揺れる。 次の瞬間、ふっと暗転した。 心臓が、内側からどん、と叩かれたように跳ねる。 手の中の端末が、わずかに重くなった気がする。 〈権限外アクセスです〉 無機質なメッセージが表示され、すぐにログイン画面へと切り替わった。 天井の蛍光灯が、ジジッ、と微かなノイズを漏らした気配がする。 透真は息をゆっくり吐き、再度ログインし直した。 さっきと同じログを探してスクロールする。 視線が滑り、止まる。 ――春日 悠真。 ――深度D。 ――ステータス:拒否。 行はそこにある。 けれど右端のタグは消えていた。 RETの痕跡は、どこにもない。 文字をなぞった指先が、じわっと汗ばんだ。 喉の奥がひどく乾く。 マグカップを持ち上げて口をつけるが、ほうじ茶はもうすっかり冷めていた。 舌の上に残るのは、わずかな渋みと、底に溜まった茶葉のざらつきだけだ。 バグ報告フォームを開こうとした指が、中途で止まる。 兄の名前。 深度D。 RET。 その三つを並べて報告した瞬間、どこかで何かがこちらへ向き直る光景が、脳裏にちらついた。 蓋をされた鍋を、自分から勢いよく開けるみたいな動き。 画面には、ブランケットの灰色がぼんやり映り込んでいる。 その上に乗る青白い光の中に、自分の顔が薄く浮かんだ。 さっき余白くんと呼ばれた顔。 目の下の影。 結び切れない言葉の痕。 RET――戻す。 誰かが、どこかで、すでにその動詞を使っている。 図書館の規則のさらに上から手を伸ばして。 中立という看板の上から、別の味を振りかけるみたいに。 透真はブランケットの布地を、指先できゅっとつまんだ。 柔らかな毛羽立ちが爪の間でつぶれる感触だけが、やけに鮮明だ。 「……戻したいのは、俺だけじゃない?」 自分の声が、ラウンジの空気に透明なひびを入れる。 加湿された温もりの下側に、薄い氷の層がひっそり横たわっているような冷えが、皮膚の内側でひろがった。 RET。 三つの文字が舌の上で転がる。 甘いのか苦いのか、まだ判別できないままの味。 透真はそっと端末を閉じ、マグカップの底に沈んだ茶葉の影を、もう一度覗き込んだ。 蓋の下で静かに煮えている鍋の中身を想像するみたいに。 ブランケットを丁寧に畳みながら、心のどこかで、別の誰かの手つきをはっきり意識し始めていた。 台所の外側から伸びてくる、見えない手。 鍋の縁にそっと触れている、知らない誰かの指先を。

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