——柔らかいものに沈んでいた。 けれど、頬を撫でる感触が前とは違う。 ごわごわしたビニールのベンチじゃない。 押し返してくるのは、厚みのある布団の弾力だ。 肩口までかかる掛け布団が、ずしりとした重さで胸を押さえている。 重みの中に、安心だけじゃなく、逃げ場を塞がれているような圧も紛れ込んでいた。
鼻先をくすぐる匂いも変わっていた。 薄めた桜と柔軟剤の甘さが、息を吸うたびにふわりと揺れて、肺の奥まで入り込む。 耳の奥では、遠くで「ぱら、ぱら」と紙がめくられる音が続いていた。 雨粒が窓を叩く音に似ている。 春日透真は、そこでようやくゆっくりと目を開けた。
視界の上には、淡い白光のパネルがある。 そこにも、どこか桜色が薄く滲んでいる。 崩壊前の仮眠スペースにはなかった光だ。 眩しさは抑えられていて、雲越しの朝日に似た柔らかさで肌を照らしている。 上を見つめたまま身体をわずかにひねると、マットレスが「ぎゅっ」と沈み、背中を押し返す弾力に筋肉のこわばりが反発した。 太腿の裏が鈍く重く、首の後ろには石を埋め込まれたような痛みが残っている。
走った記憶が、その痛みの輪郭から直接立ち上がってきた。 緑に染まった空。 足元から床が抜ける音。 氷室蓮の手が、こちらの胸を乱暴に突き飛ばした感触。 瞼の裏にその光景がかすかに浮かび、透真は思わず目を閉じかける。 布団の端を掴むと、指の腹に綿のふくらみが押し返してきた。 触れた瞬間、その確かさにくらりとする。 夢と現実の境目に、厚い雲を一枚挟まれているような、足場が定まらない感覚が残る。
「……そろそろ、起きるか」
自分でも聞き取りにくい声で呟き、布団を胸のあたりまで押し下げた。 肌に冷えた空気が触れた途端、肩に細かい鳥肌が走る。 仮眠室の空調は、わざと低めに設定してあるのだろう。 その代わり、布団の重さと温かさが、滑走路で身体を抑えつけるシートベルトみたいに、彼をここにつなぎ止めていた。 手を伸ばして枕元の端末に触れる。 画面に点いた光が、半分眠った眼球を刺激した。
勤務開始の一時間前。 端末のホーム画面には、「黄泉図書館/暫定再起動モード 三日目」と表示されている。 日付の下で青いリンクが点滅していた。 《新運用規約/要確認(職員全員)》の文字。 透真は、布団から腕だけ出してリンクをタップした。 青白い光が指先を横から照らし、爪の生え際を浮かび上がらせる。
《第七章 縁再配置操作に関する制限》。 文字列がずらりと並ぶ。 見覚えのある文言だった。 崩壊前、作業班の一人として、自分もその案の検討に加わっていた。 けれど、意識の途切れていた数日のあいだに、それは「検討中の案」から「決定済みのルール」に変わっている。
「死者記憶間の縁再配置(位置調整・閲覧順序変更・ラベル付与含む)は原則禁止とする」
「閲覧者本人の明示的な生前意思が存在する場合であっても、『再会』その他の縁の編集に直結する操作は慎重に回避すること」
一行読むごとに、胸の奥に小さな石がぽとり、ぽとりと落ちていく感覚があった。 画面の下部で、別のリンクが点滅している。 《再配置申請ログ》。 指先が、その文字に触れる前にわずかに震えた。 震えを押し込むようにして、押す。
画面が切り替わる。 「却下」の赤い印が縦に並んだリストが現れた。 『戦災孤児AとBの棚の近接配置希望』『三回忌に合わせた閲覧順の調整』『姉と弟の記録棚の交換』。 表示されるたび、心のどこかがひゅっと縮む。 崩壊前なら、「小さな融通」で済ませていた申請ばかりだ。 中央装置の前で自分が選んだ設定が、今この赤い行の列を作っている。
喉の奥が、乾いた布でこすられたみたいにひりついた。 仮眠室の空気が、じわじわと重くなる。 もう一度、頭の片隅の声が「それでも、図書館は落ちなかった」と囁く。 布団の白と画面の青が足元でぶつかり合い、輪郭が霞む。 透真は、端末のスリープボタンを押した。 画面がすっと暗くなり、天井の白光だけが残る。 深く息を吸い込むと、洗剤の匂いの奥に、ごくかすかに線香の残り香が混ざっていた。
どこか別の部屋の香炉から流れてきているのだろう。 春彼岸の時期。 現世の仏壇にも、そろそろ線香の煙が並び始める頃だ。 布団を押しのけて立ち上がると、足元がふわ、と一瞬軽くなった。 崩壊前ほどのねじれはないが、黄泉特有の重力の薄さがまだ残っている。 かかとが床に馴染むまでのわずかな時間、その浮遊感が胸の奥をざわつかせた。 「……行くか」
呟いて、仮眠室の扉に手をかける。 冷たい金属の感触が、体温を奪っていく。 ゆっくりと扉を開けると、外の廊下から柔らかな白い光が流れ込んだ。 そこにも、桜色が混じっている。 目を凝らすと、空中に漂う光の粒の中、ごく小さな花びらの輪郭がちらちらと浮かんでは消えた。 廊下の奥から、「しゃら、しゃら」と水が流れるような音が聞こえる。 書架の並ぶ閲覧室の方向だ。 紙の擦れ合う音や端末の微かな駆動音も、遠くで重なり合っていた。
スリッパを「ぺた、ぺた」と鳴らしながら歩いていくと、角を曲がった先で同僚司書と鉢合わせた。 灰色のカーディガンを羽織った男が、紙コップ片手に大きく伸びをしている。 「お、春日くん。 起きた?」
男が目を細めた。 まだ眠気の残る声と一緒に、湯気の立つコーヒーの香りがふわりと流れてくる。 「……はい。 一応」
透真は頷き、口元だけ少し動かした。 「どう? 新しい仮眠室、頭上にまで贅沢で。 前よりマシでしょ」
「だいぶ、飛行機のビジネスクラスくらいになりました」
口が勝手に軽口を選ぶ。 男が噴き出した。 「比喩が急にリッチだなあ。 まあ、フロアが一つ減った分、職員用に回せたって話だよ。 上も、さすがに死にかけてちょっとは反省したんじゃない?」
廊下の壁には、新しい案内表示が縦に並んでいる。 「第三区画/閉鎖中」「縁調整関連端末/施錠管理」。 何本もの矢印が、かつて開いていた扉を「立入禁止」として指していた。 透真は、その矢印の列を目で追う。 「あの辺、全部、ロックなんですね」
小さく漏らすと、男は肩をすくめた。 「縁いじり系は、今や全部『記憶調整会議』の許可制だってさ。 司書の裁量で勝手に棚動かしたら、一発レッドカード。 いやー、もう俺ら、ただの案内係ですよ」
「……それでも、残っただけ、まだ」
言葉が喉で止まった。 「マシ」というありふれた単語が、舌の上で急に重たく張り付く。 間を埋めるように、男はコーヒーをすする。 「まあさ。 落ちるよりは浮いてたほうがマシってことで。 今日、春日くん、午前はカウンターだっけ? 午後、会議だよな」
「はい。 調整会議……出ることになってて」
「ご愁傷様。 元連理会組、まだ結構、熱いからさ。 あんまり真ん中に立ちすぎないでね。 じゃ、先に行ってる」
軽く手を振って、男は閲覧室のほうへ歩いていく。 カーディガンの裾がふわりと揺れ、足音が白い光の中に溶けた。 「真ん中、か」
廊下の壁に伸びた自分の影を見ながら、透真は短く息を吐く。 肩がいつの間にか耳の近くまで上がっていた。 意識して下げると、胸の詰まりが少しだけほどける。 閲覧室へ続く扉の前で、一拍置いて足を止めた。 ドアノブに触れた指先に、金属の冷たさがじわりと浸み込んでくる。 向こう側に流れる新しい黄泉の空気を想像し、息を整えた。
「……行きます」
自分に聞かせるように呟き、扉を押し開ける。 *
閲覧室の空気は、以前よりも軽くなっていた。 重力の話だけではない。 音の響き方そのものが変わっている。 かつては、棚と棚の間に季節の層が幾重にも重なって、音が布に包まれたみたいにくぐもっていた。 今は、音がまっすぐ通り抜ける。 紙の擦れる音、端末のタップ音、遠くで誰かが咳払いをする気配。 それらが薄い膜一枚を隔てた向こう側から、驚くほどクリアに届いた。
桜色を含んだ白光が、書架の上から斜めに降り注いでいる。 光の筋の中で埃が「ふわ、ふわ」と漂い、その一粒一粒が、小さなデータ片のようにちらちら光を変える。 書架の数は、目に見えて減っていた。 以前は視界の端から端まで隙間なく並んでいた棚の列が、今は大きく間引かれ、広い通路が抜けている。 空いたスペースには、低いベンチと、観葉植物に似せたオブジェが置かれていた。 近づいてみれば、それが記憶の波形を立体化したものだとわかる。
「……まだ、図書館、だな」
思わず、声になった。 自分の声が白光に溶け、天井から柔らかく跳ね返ってくる。 カウンター席へ向かう途中、壁際に新しく置かれた灰色のキャビネットが目に入った。 鍵付きの引き出しが縦に並び、上部には「例外申請棚」とプレートが貼られている。 そこが、今の「縁いじり」のために残された滑走路なのだろう。 飛び立つかどうか、飛ばしていいかどうかを何重にも確認するための、細く長い通路。
カウンターに座ると、端末の画面が自動で立ち上がった。 朝一番の閲覧予約一覧が表示される。 名前と記録IDの列を目で追っていくうち、見慣れた文字列で視線が止まった。 ——水無瀬紗月。 予定時刻は午前十時。 状態欄には、《閲覧枠:月二回/残り1》の表示。 再起動後に導入された新しい制限だ。 一人の利用者が同じ記憶に接続できる回数が、期間ごとに厳しく区切られている。 枠を超える申請は、先ほど見た「再配置申請」と一緒に会議送りになる。
カウンター端の呼び出しチャイムが、「ピン」と短く鳴った。 開館の合図だ。 扉の開く音とともに、外から冷たい空気が流れ込んでくる。 少し湿った土の匂いが混じっている。 現世の桜並木から吹き込む風の名残が、ここまで届いたような気がした。 最初の利用者たちが、ゆっくりと入ってくる。 杖をついた老人、スーツ姿の中年男、黒いスカートの女性。 一人ひとりが自分の歩幅で、目当ての棚の方向へ歩いていった。
透真は、頬の筋肉を意識して持ち上げる。 ごく普通の司書の笑顔を作り、軽く会釈を返した。 肩甲骨のあたりに、まだ薄い痛みが張りついている。 あの日、中央装置まで走ったときに酷使した筋肉だ。 上体を動かすたび、あの緑の空の断片がちらつく。 視線を端末の端へ滑らせると、「記憶調整会議/14:00〜 第1会議室」の予定が表示されていた。 参加者リストの中、「元連理会調整係」と括弧付きの名前がいくつか並ぶ。 そこに混ざる自分の名前を見て、胸の奥が小さくざわりと揺れた。 *
会議室の窓の外を、桜の花びらが漂っていた。 もちろん、本物の花ではない。 薄く透けた花弁が空中にぽつりぽつりと浮かび、ときどき「すっ」と横に流れていく。 風というより、ゆるやかな水流に押されているような動き方だ。 遠くで「さらさら」と水が流れる音がする。 量子層のバックグラウンドノイズが、この部屋では少しだけ大きい。
長方形のテーブルの上には、紙コップとインスタントコーヒーのポットが置かれていた。 湯気がゆらゆらと立ち上る。 その向こう側に、端末の青白い光が机の列に沿って並んでいた。 参加者それぞれの前に同じ資料が映っている。 「じゃあ、始めましょうか」
司書長の姿はない。 この会議は、中堅どころの司書と、元連理会の調整係が中心だった。 三十代くらいの女性司書が、穏やかな声で口火を切る。 連理会時代のバッジは外しているが、背筋の真っ直ぐさに名残があった。 「本日の議題は、『縁再配置関連申請の却下理由の共有』と、『例外運用の線引きについて』ですね。 ……春日さん、昨日までのログの読み上げ、お願いしてもいいですか」
「あ、はい」
透真は端末に目を落とし、表示された一覧を指先でスクロールした。 スクロールバーが「すい」と滑り、その動きに合わせて手も動く。 冷たいガラス面の感触が、指先の皮膚にじかに伝わった。 「えっと……まず、『戦災孤児同士の棚近接申請』。 却下理由、『戦争被害カテゴリ内で年代順に配置済みのため、個別事情による再配置は認めない』。 次が、『三回忌に合わせた閲覧順の調整』。 これも似たような理由で……」
読み上げながら、自分の声が少し遠くから聞こえているように感じた。 口から出る言葉は間違いなく自分のものなのに、用意された原稿の行をなぞっているだけのような感覚。 一覧の中ほどで、指が止まった。 「『生前に互いの記録閲覧を希望していた戦災孤児A・Bの再会申請』……却下理由、『生前意思が互いに存在するが、縁再配置が第三者による介入とみなされるため』」
会議室の空気が、わずかに密度を増した気配がした。 コーヒーの湯気の揺れ方が変わる。 視線が自分のほうへ集まってくるのを、皮膚で感じる。 向かいに座る元連理会の女性が、静かに手を上げた。 「それ、少し話してもいいですか」
声は柔らかいのに、芯はまっすぐだった。 「はい。 ……お願いします」
透真は端末から顔を上げ、彼女に視線を向ける。 彼女は資料の該当箇所を指で軽く叩きながら言った。 「このケース、二人とも生前に『戦友の記録を、死んだあとも見たい』って希望を残しているんですよね。 本人の意思がはっきりしている縁にまで、私たちは触っちゃいけない、っていうのが今の原則なんでしょうか」
テーブルの上で、紙コップが「かた」と鳴った。 誰かの指が滑ったらしい。 コーヒーの表面に小さな波紋が広がる。 「……原則としては」
透真は喉を一度鳴らしてから、言葉を選んだ。 「本人の意思があっても、それを実現するために別人の記録の位置を動かすのは、第三者の介入になる、っていう考え方で……」
「でも、『互いに』なんですよね」
彼女がすぐに継いだ。 声のトーンは変わらない。 「AさんもBさんも、『あの人の記録を見たい』と。 お互いが望んでる。 それでも、棚を少し近づけることさえ、私たちはしない。 ……そこまで怖がる必要があるのかっていう疑問が、現場にはあります」
「怖がる、というか……」
言いながら、透真はまた肩が上がっていくのを自覚した。 耳のすぐ下あたりまで近づいたところで、意識して落とす。 言葉がそこで一瞬途切れた。 窓の外で桜の花びらデータが一枚、すっと横に流れていく。 水の音が、少しだけ大きくなった。
「……一回、やりすぎたから、かもしれません」
自分でも意外な言葉が口からこぼれた。 会議室の空気が、目に見えない波で揺れる。 「前の制度で、縁を動かしすぎた結果、誰かの現世が壊れたケースがある。 その反動で、今は……操縦桿から手を少し離そうとしている、というか」
「春日さん」
女性司書の視線が、まっすぐこちらに刺さった。 責める色はない。 静かな光が、ただ答えを探している。 「あなたは、それでいいと思ってる? 『二人とも望んでいる再会』さえ、棚の位置だけで全部断る。 ……それが、『敬意』だと」
返答の前に、喉の奥がきゅうっと狭まる。 氷室蓮がノードの中で言った言葉が浮かんだ。 「どんな選択も、春日透真として引け」。 ここで「はい」とだけ言えば楽だ。 規則を盾にできる。 けれど、それは——地面から浮き上がった機体をいつまでも滑走路脇に縛りつけておいて、乗るはずの人だけを延々と待たせるようなものだ。
「……正直に言うと」
透真は、コーヒーの湯気に目を落とした。 立ち上る白い線の向こうで、端末の光が揺れている。 「迷ってます」
会議室の空気が、少し柔らかくなった気配がした。 誰かが小さく息を吐く。 「自分の決めたルールで、こういう申請を止めてる自覚はあります。 それが全部正しいとも思ってない。 ただ……」
言葉を探す。 頭の中でいくつかの比喩が浮かんでは消えた。 「一回、雲の上まで出てしまった機体を、どこに降ろすか決めるときに。 今は、新しい着地点を増やすんじゃなくて、少し減らしたい、っていう感覚に近いです」
「減らす」
女性司書が短く繰り返す。 表情は動かない。 ただ、紙コップの縁にかかっていた指先が、そっと離れた。 「入り口や出口が多いと、誰かが勝手に他人の機体をそっちに誘導したくなるから。 ……まずは、本当に必要だと思える一本だけを残して、そこをちゃんと見張る。 その上で、『互いの意思があるケース』を、一件ずつ見ていくしかないのかなって」
「一件ずつ」
「時間も手間も、かかりますけど」
かすかな苦笑いが、口の端に浮かぶ。 「少なくとも、前みたいな、『よさそうだから近づけておきました』っていうノリは、もうやめたいです。 僕がそれをやり出すと、たぶん……止まれなくなるので」
短い沈黙が落ちた。 窓の外で、桜の花弁がまた一枚流れていく。 水の音が、さっきより少し遠ざかった。 女性司書はしばらく端末の画面を見つめ、その後で小さく頷いた。 「……わかりました。 一件ずつ、ですね」
声色には、全面的な賛同とも全面的な反発とも違う何かが混じっている。 その曖昧さが、透真にはむしろ救いだった。 「じゃあ、この戦災孤児の件は、『保留』に。 次回までに、もう少し情報を集めましょう。 ……それと」
彼女は椅子から身を少し浮かせ、会議室をぐるりと見回した。 「連理会時代の仲間にとっても、『全部の縁を最適化する』って理想は、一回棚に上げたほうがいいかもしれません。 春日さんの言う一本の滑走路に、どこまで一緒に乗れるか。 試してみる価値はあると思う」
テーブルの下で、透真の拳に力が入った。 血が止まるほどではない。 ただ、指先にじわりと圧がこもる。 否定だけで終わらなかった事実が、胸の深いところをゆっくりと温めた。 *
午前のカウンターに戻ると、予定時刻ぴったりに水無瀬紗月が現れた。 制服のブレザーの裾から、紺色のプリーツスカートが覗いている。 足元はまだ冬用のタイツだ。 彼岸とはいえ、外気はまだ冷たいのだろう。 肩までの髪を一つに結んでいて、その先が少しだけ濡れていた。 雨に当たったのか、急いでシャワーを浴びてきたのか。 近づいてきた瞬間、合成洗剤の匂いと甘いシャンプーの香りが混じって鼻を掠めた。
カウンター越しに、制服の生地が「しゃっ」と擦れる音が届く。 「……おはようございます」
紗月が、かすかに頭を下げた。 視線はカウンターの縁のあたりに落ちたままだ。 透真の顔までは上がってこない。 「おはよう。 今日は、十時からの枠で合ってるよね」
端末の予約画面を確認しながら声をかける。 「はい」
短く返ってきた声の語尾が、少し掠れていた。 「例の、友だちの記録で」
「うん。 ……そのことなんだけど」
カードリーダーの上で指先が止まる。 手の中のプラスチックカードが、冷たく滑らかな感触を返した。 「今、新しいルールでさ。 同じ記録にアクセスできる回数が、月ごとに決まってて。 紗月さんの枠は、今月は今日で最後になってる」
説明しながら、彼女の肩の線を盗み見る。 タイトな制服の肩が、ほんのわずかにぴくっと揺れた。 「……最後」
カウンターの木目に指先をそっと置き、彼女はその筋をなぞる。 「とん、とん」とリズムを刻みながら、小さく呟いた。 「なんで、ですか。 別に、その子の写真とか、持って帰るわけじゃないのに。 ちょっと見るだけなのに」
「『ちょっと』が、たくさん重なると、こっちの層の負荷が、って説明も一応あるにはあるんだけどね」
早口になりそうになる舌を、意識して抑える。 ルールの文言を、できるだけ噛み砕いて並べる。 「それだけじゃなくて。 誰かの記憶に何度も何度も降りたり上がったりしてると、現世のほうの感覚が……うまく調整できなくなる人もいて。 だから、一回一回、『どこに降りるか』ちゃんと決めてほしいって方針になった、っていうか」
紗月の唇が、わずかに尖った。 「じゃあ、私みたいなのは、もうあんまり来るなってことですか」
声は淡々としている。 けれど、その下に隠れている棘を、透真ははっきり感じ取った。 一瞬だけ視線が上がる。 そこには、かすかな怒りと、不安の色が混ざった瞳があった。 「そういうつもりじゃ」
反射的に否定しかけて、言葉を飲み込む。 否定した先になにを足すのか、自分でも決まっていない。 カウンターの奥で、呼び出しチャイムが「ピン」と鳴った。 別のブースで閲覧が終わった合図。 その短い音が、二人のあいだの沈黙を一度だけ切り裂いた。
「……なんで、ダメなんですか」
紗月が、もう一度言った。 さっきより少しだけ大きな声で。 「もう少しだけ、話したいだけなのに。 あの子のこと。 忘れたくないだけなのに。 なんで、それを決めるのが、ここのルールなんですか」
カウンター越しに見える彼女の拳は、固く握りしめられていた。 指の関節が白く浮き出る。 肩がじわじわと耳のほうへ上がりかけている。 その姿が、あの日の自分と重なった。 兄の記録に「保全プロセス中」の警告が表示された日。 閲覧を途中で切られた利用者の前で、マニュアルの文言を機械的に読み上げた自分。 今は、自分がルール側に立っている。
胸の奥に、冷たい水がすとんと落ちた。 猫の影を感じた小鳥みたいに、身体の芯が一瞬縮みあがる。 その感覚を飲み込み、声帯だけを動かす。 「……僕は」
紗月の目ではなく、鼻筋あたりを見ながら、言葉を組み立てる。 「あなたの友だちのことを、誰かの都合で変えたくないっていうのも、理由の一つです」
彼女の指が、木目の上で止まった。 「都合?」
「ここの前のやり方だとさ。 連理会も含めて、『この人とこの人を近づけたら、お互い救われるんじゃないか』って勝手に思って、棚を動かしたりしてた。 それで、誰かの現世がぐちゃぐちゃになった例が、実際に出てて」
自分の声が少し掠れた。 喉の内側まで、さっきの線香の香りが戻ってくる。 「紗月さんの友だちの記録も、きっと。 今まで何回も閲覧してもらう中で、こっち側に少しずつ負荷が溜まってる。 これ以上、別の誰かの願いまで乗せたら、どこかで……飛び方が変わるかもしれない」
紗月は黙って耳を傾けていた。 視線はまだ完全にはこちらへ向かない。 けれど、さっきの棘がほんの少し丸くなったように見える。 「だから、今は。 紗月さんが『今月はこの一回』って決めた今日の着陸を、大事にしてほしいんです。 これからの十時十分までを」
「十時十分?」
端末の予約画面の隅に、閲覧枠の終了時刻が表示されていた。 十時からの枠は十時十分まで。 その後に冷却時間が挟まる。 「その時間を、ただ一人で中に入るんじゃなくて。 ここでの前後を、少し一緒に調整するっていうのは……どうかなって」
「調整?」
「前みたいに、職員用ベッドで寝かせるとかはもうやれないけどさ」
苦い笑いが漏れた。 あのときの規則違反は、混乱の中に紛れてまだ正式には咎められていない。 「閲覧の前に、ここで少し話すとか。 終わったあと、すぐ現世に戻らないで、この待機スペースで十分くらい、一緒に空気を戻すとか。 ……そういうのなら、ルールにも触れないし」
紗月が、初めてしっかりと視線を上げた。 目が、透真の目の辺りをまっすぐ捉える。 その中に、わずかな戸惑いと、それより大きな期待の気配が揺れた。 「一緒に、って。 春日さんが、ですか」
「交代時間とぶつからなければ、たぶん」
「仕事、増えますよ」
「まあ、一応、それも仕事だから」
肩をすくめると、紗月が小さく笑った。 音になるかならないかの笑い。 それでも、唇の端が確かに柔らかく持ち上がった。 「……じゃあ。 今日は、それで、お願いします」
「うん」
利用者カードをリーダーに通す。 「ピッ」と電子音が鳴り、端末に閲覧許可が表示される。 紗月の名前と、絵里——彼女の友人の記録IDが並んでいた。 「十時になったら案内するね。 それまで、このベンチ使ってていいから」
カウンター横の小さなベンチを指さす。 紗月はそこに歩いていき、ブレザーの裾を整えた。 バッグを足元に置いてから腰を下ろすと、座面の生地が「しゃっ」と鳴る。 視線は書架の奥へ向かっていった。 そこに、友人の記録棚がある。 桜色の光が、その一帯だけ少し濃く見える。 *
長い一日が終わる頃には、身体の芯まで冷え込んでいた。 閲覧室の照明が少し落とされ、桜を含んだ光が淡くなっていく。 外縁層の季節がゆっくりと夜へ傾くときだ。 足音はまばらになり、紙の擦れる音と端末の「ピッ」という短い音だけが残る。 シフトを終えてカウンターから離れると、腰のあたりに重りをぶら下げられたような鈍さを感じた。 立ちっぱなしだった足の裏も、じんじんと抗議している。
階段を降りるたび、ふくらはぎの筋肉が「ぎゅっ」と軋んだ。 職員用通路を抜け、仮眠室エリアに入る。 朝よりも空気は柔らかく、照明の光は少し黄味を帯びている。 壁際には、新設されたシャワールームへの扉。 ドアを開けると、湯気が「もわっ」と顔にまとわりついた。 誰かが使ったばかりなのだろう。 湿った石鹸とシャンプーの匂いが、狭いスペースにこもっていた。
床に落ちた水滴が、蛍光灯の光を受けて小さな粒となって光る。 蛇口をひねると、水が勢いよく噴き出し、すぐに温度を上げていく。 手のひらに当たった瞬間、「じん」と鈍い熱が広がった。 シャワーヘッドを掴み、天井へ向けて持ち上げる。 お湯が頭から肩へとたたきつけられ、狭いブースの中でざあざあと響いた。
「……ああ」
思わず声が漏れた。 首筋を伝って流れ落ちるお湯が、固まっていた筋をほぐしていく。 肩のあたりに貼り付いていた冷気が、一枚ずつ剥がれていく感覚。 石鹸を泡立てる。 手のひらで「くしゅ、くしゅ」と擦ると、白い泡がふくらみ、その匂いが仮眠室の布団から漂っていた柔軟剤の香りと重なった。 泡を腕に、胸に、腹に伸ばすたび、自分の身体の輪郭が少しずつはっきりしていく。
髪に指を入れ、頭皮を洗う。 爪を立てないよう気をつけて、円を描くように動かす。 頭の奥に溜まっていたざわつきが、泡と一緒に流れ出ていくような気がした。 排水口から「しゃああ」と水が落ちていく音が、妙に心地いい。 湯気の向こうに、低い声が一瞬浮かんだ。 氷室さん。 「どんな選択も、春日透真として引け」
シャワーの音が、その声を上から塗りつぶしていく。 湯気が視界の端で揺れる。 目を閉じると、瞼の裏に緑色の空がちらりと映った。 足元が抜ける感覚。 伸ばされた手。 届かなかった指先。 拳を握りかけたところで、わざと手のひらを開く。 お湯が、その上をさらりと流れていく。 掴みかけた過去を、水の流れに乗せて離していくように。
シャワーを止めると、急に静けさが返ってきた。 肩から落ちる水滴の音だけが聞こえる。 壁にかかったタオルを掴み、身体を拭く。 綿のざらりとした感触が肌に絡みつき、冷えていた皮膚に布の温度がじわじわと移る。 白いガウンを羽織り、仮眠室へ戻った。
マットレスが、朝と同じくやわらかく腰を受け止める。 掛け布団をめくって身体を横たえると、「むぎゅ」と沈んだマットレスが背中を包んだ。 布団を肩まで引き上げる。 さっきシャワーで温められた体温が、布団の内側で再び広がる。 自分の温度が、ゆっくりと布団全体へ滲んでいく。 耳元では、遠くの閲覧室からのページがめくられる音が、かすかな波のように続いていた。
枕元の小さな端末が、控えめな「ピッ」で静けさを破る。 画面の端が光っている。 指先でタップすると、小さなメッセージウィンドウが開いた。 送信者:水無瀬紗月。
内容は、数行だけ。
『さっきは、ごめんなさい』
『ちゃんと、あの子を思い出せた気がします』
『戻る前に、話せてよかったです』
それだけ。 絵文字も飾りもない。 最後の「です」のあとに句点がないのが、彼女らしい。 画面の文字をしばらく見つめていると、胸の中で固く巻きついていたものが、少しだけ緩んだ。 シャワーでは流しきれなかったこわばりが、文字の線をなぞる指先からじんわりとほどけていく。
「……よかった」
布団の中に向かって、誰に聞かせるでもなく呟いた。 声が綿の中に吸い込まれていく。 今日自分がやったのは、縁そのものを結び直すことではない。 紗月と友人の記憶の位置関係を変えたわけでもない。 ただ、離着陸の前後に、滑走路の灯りを少し調整しただけだ。 それでも「よかったです」と言ってもらえた。
自分が選んだ制限の中でも、まだできることがある。 その事実が、風呂上がりの湯のように胸の奥に温かく広がる。 布団の中で身体を少し丸めた。 膝を引き寄せ、顔を枕に近づける。 鼻先に、柔軟剤の香りがもう一度届いた。 その奥に、かすかな線香の残り香が混じっている。 目を閉じる。 瞼の裏に浮かぶのは、緑の空ではなく、桜色の光が差し込む閲覧室の朝の光景だった。
縮小された書架。 灰色のキャビネット。 そこに積まれた、結論待ちの申請書たち。 すべてを救うことはできない。 心の中で静かに繰り返した。 それを認めるところから、今の自分の仕事は始まる。 飛び立てる滑走路は限られている。 けれど、その一本一本を、手を抜かずに整えることはできる。
遠くで誰かがページを閉じる音がした。 「ぱたん」。 その音を聞きながら、透真の意識は、布団の重みごとふわりと暗い空へ滑っていった。 *
目を開けると、天井の光が少しだけ明るくなっていた。 どれくらい眠ったのか、感覚が曖昧だ。 端末の時計を見れば、朝の六時半。 仮眠室の外から、誰かが足早に歩く音がかすかに聞こえてくる。 開館準備の時間が始まっているのだろう。 上体を起こすと、昨日までの重さがほんの少し軽くなっていた。 筋肉痛は残っているが、鉛を抱え込んでいるような感覚は薄れている。
布団の温もりが、まだ腰のあたりにまとわりついていた。 制服に着替え、髪を整える。 鏡の中の自分の顔は、どこかぼんやりしている。 目の下のクマは完全には消えていない。 それでも、その下の肌にうっすら赤みが戻り始めているのが見えた。
仮眠室を出ると、廊下には朝の光が満ちていた。 桜色を含んだ白光が、昨日より少しだけ強い。 床で反射した光が、足元を明るく照らす。 遠くの閲覧室からは、新聞紙を広げる音が聞こえた。 「ばさっ、ばさっ」と紙が空気を切る音が、静かな朝を小さく揺らす。
閲覧室へ続く通路を歩く途中で、例の同僚司書とすれ違う。 「おはよう、春日くん。 顔色、ちょっとマシになった?」
「……たぶん」
「よかったよかった。 あ、そうだ。 例の連理会の連中さ」
彼は声を少し潜め、片手をカーディガンのポケットに突っ込んだまま、廊下の端を顎で示した。 「あいつらの一部、正式に『記憶調整部門』に入ったって。 昨日、回覧回ってたろ」
「見ました。 肩書き、長かったですね」
「でしょ。 『元』とか『暫定』とか盛りすぎ。 ……でもまぁ、残り半分くらいは、どこ行ったのかよくわかんないらしいよ。 地下でまだ何かやってる、とか、やってないとか」
「噂、好きですね」
「こういう職場、噂がないとやってらんないからねー」
同僚はあっけらかんと言って笑った。 その笑い声が廊下に軽く響く。 「春日くんは、ビビって全部切りたがりそうだけど。 まぁ、ほどほどに。 じゃ、俺、先行ってる」
手をひらひら振って、彼は閲覧室のほうへ消えていった。 後ろに、インスタントコーヒーの香りが薄く残る。 透真は廊下の真ん中で、一度だけ深く息を吸った。 紙とインクと、微かなオゾン、それから線香の残り香が混ざった空気が肺に入る。
閲覧室の扉を押し開ける。 朝の光が書架の間に差し込み、埃の粒をきらきらと浮かび上がらせている。 その奥で新聞の紙面が「ばさっ」とめくられた。 カウンターへ向かう途中、「例外申請棚」の前で足が止まる。 灰色のキャビネットの上に、透明なプラスチックの箱。 中には、まだ処理されていない申請書のコピーが何枚か重なっていた。 紙の白が、光を受けて少し眩しい。
透真は箱の前に立ち、蓋にそっと手をかけて持ち上げる。 中から一枚の紙を抜き出した。 指先に、ざらりとした紙の手触りが伝わる。 インクの匂いが、ごく淡く立ち上る。 申請内容の文字列へ視線を落とす前に、紙の端に押された小さな印が目に入った。 二本の枝が途中で絡み合い、また離れていく図案。 そのシンボルは、連理会のマークによく似ている。
背筋に冷たいものが走った。 氷水を流し込まれたみたいに、骨の内側から一瞬で冷え上がる。 肩が反射的に上がる。 それでも手は、紙を離さなかった。 手の甲の上で、自分の脈が「とく、とく」と打っている。
まだ、終わっていない。 誰かが、ここにメッセージを忍ばせたのかもしれない。 正式に編成された「記憶調整部門」の誰かか。 地下に潜った連理会の残党か。 あるいは、そのどちらでもあるのか。 このまま紙を箱に戻し、上司に報告する。 そうすれば、印はすぐに消されるだろう。 押した本人も、何らかの処分を受けるかもしれない。
それは、安全な選択だ。 危うい雲を見つけた途端、その方向からきっぱり離れてしまう飛行のようなもの。 けれど、同じことばかり繰り返した先で、自分の視界はどうなるのか。
視界の隅で、桜色の光が揺れた。 書架の向こうで新聞を広げている老人の手が「しゃり」と紙を動かす。 紙が擦れる音が、静かな朝に溶けていった。 全部の雲を避けていたら、空の輪郭そのものが見えなくなる。 どこに積乱雲があるのかも。 どこまでなら飛べるのかも。
「……全部切り捨てたら、見えなくなる」
自分でも驚くほどはっきりした声が、喉から漏れた。 朝の閲覧室に、ぽつりと落ちる。 そのとき、背後から足音が近づいてきた。 視界の端を、灰色のカーディガンの裾がかすめる。
「ん? 何か言った?」
同僚が首を傾げて覗き込んだ。 例外申請棚と透真の手元を、交互に見る。 「いえ」
透真は口角だけを少し上げた。 「紙が、ちょっと気になっただけです」
「そ。 ……まだあいつら、何かやってるらしいしね」
彼は軽く舌打ちを混ぜる。 噂話の延長みたいな口ぶりだ。 「全部、消したほうが楽なんだろうけどさ。 まぁ、俺ら、そこまでヒマじゃないし。 上に任せよ」
ひらひらと手を振って、カウンターに向かって歩いていった。 背中が、桜色の光の中にゆっくり混ざっていく。 透真は、手の中の紙片を見下ろした。 連理会のマークに似た印が、黒いインクでそこに確かに存在している。 指先で、その上をそっとなぞった。 紙のざらつきが皮膚へ伝わる。
「……上だけに任せると、また見えなくなるからな」
小さく呟き、紙片を四つ折りにした。 折りたたんでも、マークの一部が表に残る。 そのまま胸ポケットへ滑り込ませた。 シャツ越しに、紙の固さが肌へ当たる。 通報はしない。 露骨に隠しも、しない。 ただ、自分の視界の中に留めておく。 操縦席から遠くの雲の位置を確認しながら飛ぶみたいに。
「春日くーん、今日も忙しいよー」
カウンターのほうから、同僚の声が飛んできた。 「ですよねー」というお決まりの言葉が続く。 「はい、今行きます」
返事をして、透真は例外申請棚の蓋をそっと閉めた。 箱の中には、まだたくさんの紙が残っている。 一枚一枚が、滑走路の端に並ぶライトのように見えた。 胸ポケットの中で、紙片が微かに擦れ合う。 「しゃっ」という小さな音が、自分だけの耳に届く。
すべてを救えなくても。 指先に残るざらつきを確かめながら、透真は閲覧室の中央へ歩き出した。 桜色の光が、彼の肩の上に柔らかく降り注ぐ。 遠くの書架の向こうで、誰かがページをめくる音がした。 新しい黄泉の図書館は、まだ離陸したばかりだ。 どの空へ向かうのか、自分にはまだ見えない。 それでも、操縦席に座り続けることだけは、もう決めている。
胸ポケットの紙片が、息づくようにわずかに震えた。 それに呼応するように指先が少し震える。 見えている限り、自分はまだ選べる。 その言葉が、胸の内側で静かに響いた。 朝の光は、書架と書類と人の肩の上に、等しく降り注いでいた。
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第17章:春光の滑走路 - 黄泉の図書館
——柔らかいものに沈んでいた。 けれど、頬を撫でる感触が前とは違う。 ごわごわしたビニールのベンチじゃない。 押し返してくるのは、厚みのある布団の弾力だ。 肩口までかかる掛け布団が、ずしりとした重さで胸を押さえている。 重みの中に、安心だけじゃなく、逃げ場を塞がれているような圧も紛れ込んでいた。
鼻先をくすぐる匂いも変わっていた。 薄めた桜と柔軟剤の甘さが、息を吸うたびにふわりと揺れて、肺の奥まで入り込む。 耳の奥では、遠くで「ぱら、ぱら」と紙がめくられる音が続いていた。 雨粒が窓を叩く音に似ている。 春日透真は、そこでようやくゆっくりと目を開けた。
視界の上には、淡い白光のパネルがある。 そこにも、どこか桜色が薄く滲んでいる。 崩壊前の仮眠スペースにはなかった光だ。 眩しさは抑えられていて、雲越しの朝日に似た柔らかさで肌を照らしている。 上を見つめたまま身体をわずかにひねると、マットレスが「ぎゅっ」と沈み、背中を押し返す弾力に筋肉のこわばりが反発した。 太腿の裏が鈍く重く、首の後ろには石を埋め込まれたような痛みが残っている。
走った記憶が、その痛みの輪郭から直接立ち上がってきた。 緑に染まった空。 足元から床が抜ける音。 氷室蓮の手が、こちらの胸を乱暴に突き飛ばした感触。 瞼の裏にその光景がかすかに浮かび、透真は思わず目を閉じかける。 布団の端を掴むと、指の腹に綿のふくらみが押し返してきた。 触れた瞬間、その確かさにくらりとする。 夢と現実の境目に、厚い雲を一枚挟まれているような、足場が定まらない感覚が残る。
「……そろそろ、起きるか」
自分でも聞き取りにくい声で呟き、布団を胸のあたりまで押し下げた。 肌に冷えた空気が触れた途端、肩に細かい鳥肌が走る。 仮眠室の空調は、わざと低めに設定してあるのだろう。 その代わり、布団の重さと温かさが、滑走路で身体を抑えつけるシートベルトみたいに、彼をここにつなぎ止めていた。 手を伸ばして枕元の端末に触れる。 画面に点いた光が、半分眠った眼球を刺激した。
勤務開始の一時間前。 端末のホーム画面には、「黄泉図書館/暫定再起動モード 三日目」と表示されている。 日付の下で青いリンクが点滅していた。 《新運用規約/要確認(職員全員)》の文字。 透真は、布団から腕だけ出してリンクをタップした。 青白い光が指先を横から照らし、爪の生え際を浮かび上がらせる。
《第七章 縁再配置操作に関する制限》。 文字列がずらりと並ぶ。 見覚えのある文言だった。 崩壊前、作業班の一人として、自分もその案の検討に加わっていた。 けれど、意識の途切れていた数日のあいだに、それは「検討中の案」から「決定済みのルール」に変わっている。
「死者記憶間の縁再配置(位置調整・閲覧順序変更・ラベル付与含む)は原則禁止とする」
「閲覧者本人の明示的な生前意思が存在する場合であっても、『再会』その他の縁の編集に直結する操作は慎重に回避すること」
一行読むごとに、胸の奥に小さな石がぽとり、ぽとりと落ちていく感覚があった。 画面の下部で、別のリンクが点滅している。 《再配置申請ログ》。 指先が、その文字に触れる前にわずかに震えた。 震えを押し込むようにして、押す。
画面が切り替わる。 「却下」の赤い印が縦に並んだリストが現れた。 『戦災孤児AとBの棚の近接配置希望』『三回忌に合わせた閲覧順の調整』『姉と弟の記録棚の交換』。 表示されるたび、心のどこかがひゅっと縮む。 崩壊前なら、「小さな融通」で済ませていた申請ばかりだ。 中央装置の前で自分が選んだ設定が、今この赤い行の列を作っている。
喉の奥が、乾いた布でこすられたみたいにひりついた。 仮眠室の空気が、じわじわと重くなる。 もう一度、頭の片隅の声が「それでも、図書館は落ちなかった」と囁く。 布団の白と画面の青が足元でぶつかり合い、輪郭が霞む。 透真は、端末のスリープボタンを押した。 画面がすっと暗くなり、天井の白光だけが残る。 深く息を吸い込むと、洗剤の匂いの奥に、ごくかすかに線香の残り香が混ざっていた。
どこか別の部屋の香炉から流れてきているのだろう。 春彼岸の時期。 現世の仏壇にも、そろそろ線香の煙が並び始める頃だ。 布団を押しのけて立ち上がると、足元がふわ、と一瞬軽くなった。 崩壊前ほどのねじれはないが、黄泉特有の重力の薄さがまだ残っている。 かかとが床に馴染むまでのわずかな時間、その浮遊感が胸の奥をざわつかせた。 「……行くか」
呟いて、仮眠室の扉に手をかける。 冷たい金属の感触が、体温を奪っていく。 ゆっくりと扉を開けると、外の廊下から柔らかな白い光が流れ込んだ。 そこ...