第10章: 静電気の図書館で、戦没者の記憶をなぞるひと
棚の端にそっと指を乗せた瞬間、ぴり、と細い静電気が跳ねた。 皮膚の上で、小さな魚が暴れてすぐ沈むみたいな感覚が走る。 秋への切り替えが進んだ季節データが、閲覧室の空気の味を少しずつ変えていた。 まだ夏の湿り気を引きずる量子空調の風に、炒った木の実を砕いたときのような乾いた香りが、じわりと混ざってくる。
紅葉データが、薄い薄いフィルムの切れ端みたいに空中を漂っていた。 橙の光を抱えたまま、ふわ、と沈んでは浮かぶ。 書架の背表紙を、夕方の光線が斜めに撫でていた。 遠くでは、水滴がゆっくり落ちる音が、ぽちゃん、ぽちゃん、と律儀に続いている。
紙が擦れ合う気配。 誰かの靴底がカーペットを踏む「すっ」という音。 どれも、この図書館で聞き慣れた午後の音のはずだった。 それなのに今日は、そのすべてが、波打ち際で身構える海のように、表面だけ静かに固まっているように耳に届く。
——来る。
春日透真は、棚の角から視線だけをそっと滑らせた。 戦没者枠の棚が並ぶCブロック。 中でも、「特別案件」のタグが急に増えた列が、骨のように無言で立ち並ぶ。 前の晩、職員用端末で閲覧履歴を洗ったばかりだ。 あの行と列が、頭の中でまだくっきりと光っている。
コード名LQ-REN。 戦死報告が集中した一週間分の記憶だけを、一定の周期でなぞり続けている外部委託者。 氷室蓮。 入口から真っ直ぐ伸びてくる足音が、一つ、フロアの毛布を踏みしめるように近づいてくる。
靴底は柔らかく、床を撫でるような一定のリズムを刻んだ。 香水ではない。 洗い立てのシャツの繊維の匂いと、電子機器の内部から漏れるような金属の気配が、空調の風に乗って微かに鼻先を撫でる。 透真は、慎重に一歩、前へ出た。 足元でカーペットが「ぎゅっ」と低く鳴る。
それと同時に、視線がぶつかった。 黒縁フレームのレンズに、橙色の光が斜めに差し込んでいる。 氷室蓮は、いつも通り感情の温度が読み取りにくい顔をして、軽く顎を上げただけだった。 反応は薄いが、接続は切っていない、そんな角度。
「——よく、いらっしゃいますね」
声が喉の奥で少しだけ空回りした。 乾いた歯車みたいに一瞬噛み合わず、透真はその違和感をごまかすように、敬語の形だけきっちり整える。 言葉の温度だけは、保温器の中のスープのように均一に保っておこうとする。 氷室は足を止めた。 周囲の棚の本が、彼の接近に合わせるように、背表紙をわずかに震わせた気がした。
量子層が読み込む戦死者たちの記憶が、彼の来館を覚えているかのように。 薄い揺れが、紙の奥からじわりと立ち上る。 「…突然。…ここ、気に入ってるからね」
氷室は、口元だけで小さく笑って、ぐるりと辺りを見回した。 天井近くの光を一度喉の奥まで吸い込むように、深く静かに息を吸う。 肺に収めた橙色を確かめるような仕草だった。
「季節感が、いい」
「季節感、ですか」
「うん。 ようやく、現世より、よくできてる」
軽く放った言葉なのに、その声の底には、焦げ付きが張り付いている。 あたためすぎた焙じ茶の、鍋肌にこびりついた苦さのような残滓。 透真は、まだ棚の縁から指を離せずにいた。 指先には、さっきの静電気の名残が、細い針の列みたいにびりびり残っている。 代わりに、顎が、打ちっぱなしのコンクリートのように固まっていった。
「……この列。 ここで最近、“特別案件”のタグが増えてまして」
背表紙と背表紙の間を、指先でそっとなぞりながら口を開いた。 紙の隙間から、微かな埃の匂いと、湿り気を含んだインクの香りがふっと立ち上る。 「閲覧制限と『予約済み』の付き方も、ちょっと変で。 たとえば——」
事前にチェックしておいた冊子の背を、軽く押し込む。 薄い光が「reserved / by: system」と浮かび上がった。 その表記の脇で、枝のようなアイコンが、一瞬だけ白くきらりと滲む。
静かに、氷室の視線がその光を追った。 黒目が、細く細く絞られていく。 まぶたの裏で何かを計算しているような、短い沈黙。 「よく、見てるね」
棚には触れず、距離だけ保ったままの声。 口調は相変わらず落ち着いているのに、その音の端に、量子ノイズのような小さな揺れが混じる。 「司書さんたちって、みんな、そこまでタグの癖、気にしてるわけじゃないと思ってたけど」
「……後になって、たぶん、僕が細かいだけです」
喉を通る自分の声が、塩水を飲んだときみたいに少ししょっぱい。 自分でつけた小さな傷口を、舌で確かめるような味がした。 透真は、一冊分だけ飛び出していた冊子を指で押し戻した。 カチリ、という小さな音が、棚の骨組みに吸い込まれる。
それでも棚全体が、「すん」と静まり返るような収まり方を見せる。 その全体の呼吸の中に、微妙な違和感が紛れ込んでいた。 「このシンボル、連理会の印ですよね」
消えた枝のアイコンの空間を指先でなぞりながら、声を落とす。 棚の冷たさと、薄く残る静電気のチリチリが、指の腹にまつわりついた。 「あなたの閲覧履歴と、一緒に出てきてる」
氷室は、片眉をわずかに上げた。 驚きというより、味見していない皿を差し出された料理人の顔つきに近い。 「——取り調べ?」
冗談めかした響き。 けれど舌の裏には、それだけではない硬さが隠れている。 「いえ。 ……今は確認です。 一応、司書なので」
透真は、息を一度深く飲み込んだ。 紅葉データが、一枚、肩口をすり抜けていく。 視界の端で赤と橙がゆるく混ざり、溶けていく。 「氷室さんが閲覧なさってる戦死者データと、このシンボル。 関係があるんですか」
問いを投げるとき、自分の足を半歩前に出した。 利用者の進路を、正面から遮る位置。 マニュアル上はやってはいけない立ち位置だ。 水の落ちる音が、一瞬だけ遠く薄くなる。
別の利用者が、棚の向こうでページをめくる「ぱら」という音が、かすかな牽制のように聞こえた。 氷室は、肩を少しすくめる。 「結論から言うと、関係はある」
言葉自体は出し惜しみしない。 代わりに、何を話さないかを丁寧に選んでいる。 「ただ、ここで声を張る話じゃないでしょ。 ね、司書さん」
顎の動きだけで、横へ視線を滑らせる。 そこには、老婦人が一人、手帳を握りしめて棚の背を見上げていた。 手帳から立ちのぼるインクの匂いと、古い香水の甘さが、薄く周囲に滲んでいる。
透真は、内側の唇を噛んだ。 顎に入れた力で奥歯がきしり、顎関節に鈍い痛みがじわりと広がる。 ——ここで引いたら、また「仕様」で片付けられる。 胸の奥で長く弱火にかけてきた疑念が、鍋底を突かれたみたいにぐつ、と泡を噴いた。
足元には、兄の棚の「保全中」。 絵里の記憶の「予約済み」。 戦没者棚の「特別案件」。 出汁の違いを隠そうとする鍋の蓋の匂いが、どれも似ている。 「……そこで、五分だけ、休憩、入れられます」
声を少しだけ落として、熱を抑える。 表面だけ淡々としたトーンに戻した。 「氷室さんさえよければ、職員用の休憩スペースで。 ここより、周りに聞かれにくいので」
氷室は、ふっと息を漏らした。 笑いともため息とも取れる曖昧な音。 「取り調べ室、ね」
ポケットから来館カードを取り出し、端末にかざす。 「閲覧中断・再開可」の表示が浮かび上がった。 光が指先をかすめ、瞬間だけ温度を宿す。 「まあ、コーヒーがおいしい拷問なら、付き合ってもいい」
「おいしいかどうかは、たぶん期待なさらない方が……」
自分でも予想していなかった軽口が、するりと口から出た。 氷室の肩が、ほんの僅かに揺れた。 笑い声までは出さないが、筋肉が一瞬だけ緩む動き。 その間を、紅葉データが一片、すっと二人の間を切り裂くように通り過ぎていった。 ◇
職員カウンター脇の小さな休憩スペースは、閲覧室より少しだけ温度が低い。 空調の風口が近く、冷たい風が真っ直ぐ落ちてきているせいだ。 コンクリートの床からは、氷水を張った盆のような冷気が足元にじわじわ上がってくる。 自販機の前に立つと、金属の機械臭と、かすかなオゾンの匂いが混ざり合って鼻腔をつついた。
蛍光灯の白い光が、缶の列に反射している。 表面に走るハイライトが、冷えたガラス片みたいにきらきらと瞬いた。 「何か、飲まれますか」
透真は、自分の財布の縁に指をかけた。 棚で拾った静電気と閲覧室の冷気のせいで、指先はすっかり冷え切っている。 「じゃあ……ほうじ茶」
氷室は、迷う間をほとんど挟まずに言った。 ビジネスホテルの朝食バイキングで、迷いなく味噌汁に手を伸ばす客の決め方。 「甘いのは苦手で」
「わかりました」
透真は、自分用の缶コーヒーと、ほうじ茶のボタンを続けて押した。 機械の奥で何か重いものが落ちる「ガコン」という音が、胸骨の裏側まで響く。 取り出し口に手を伸ばした瞬間、空調が不意に強まり、冷たい風が足首を撫でて通り過ぎた。 肌がぞくりと波打つ。
指先に触れた缶は、それとは対照的に熱い。 蒸した肉まんを素手で掴んだときのような熱さが、じわじわと皮膚に染み込んでくる。 「熱っ……」
小さな声が、反射的に漏れた。 缶のざらついた金属表面が、指の腹にぴたりと張り付く。 冷えと熱の落差に、手の震えがさっきより少し大きくなる。
「大丈夫?」
氷室が、眉を僅かに寄せてこちらを見る。 その視線には、事務的な気遣いと、それだけではない何かが薄く混ざっているように見えた。 その正体までは掴めない。 「だい、じょうぶです。 一応」
透真は缶を持ち替えて、ほうじ茶の方を氷室に差し出した。 缶の口元から、焙じた茶葉の香りがふわりと立ち上る。 炙った砂糖がわずかに焦げたような香ばしさが、冷えた空気の中で丸く広がった。
「どうぞ。……これなら、現世よりは、ましな味だと思います」
「ハードルの上げ方、うまいね」
氷室は片手で缶を受け取り、ラベルをまじまじと眺めた。 金属に触れた指先から熱が伝わったのか、彼の表情がほんの少しだけ緩む。 体が、掌から腕へと登ってくる熱の経路を覚えているような仕草だった。
「プシュッ」。 缶を開ける音が、二つ重なって弾ける。 炭酸ではないのに、その瞬間だけ空気が跳ねた気がした。 透真は缶コーヒーを唇に当てる。 先に、甘い香料の匂いが鼻の奥をくすぐった。
一口含む。 舌の上に、苦味と甘味が不器用に折り重なって落ちてくる。 高級な豆の輪郭はどこにもない。 それでも、その粗さが、疲れた舌には妙にしみた。 喉を滑り落ちる熱が、さっきまで張り詰めていた空気を、一瞬だけ洗い流してくれる。
胸の中に広がる円は小さいが、確かに熱い。 冷房に奪われていた感覚が、皮膚の裏側から少しずつ戻ってくる。 「……ねえ」
ほうじ茶を一口飲んだあと、氷室がぽつりと言った。 焙じた茶葉の香りが、彼の息に混ざって、かすかにこちらへ流れてくる。 さっきより少し柔らかくなった匂いだった。 「利用者と職員がこんなに長話してるの、上の人が見たら、怒られたりしない?」
「怒られ……ますね、たぶん」
答えながら、缶の縁を親指でぐっと押し込んだ。 金属が「ぺこ」と情けない音を立てて凹む。 指先に、最初の抵抗と、その後の諦めたような柔らかさが伝わった。 「それでも、聞きたいことがあるので」
氷室は、そのへこんだ部分をじっと見つめた。 新しい調理法を提示されて、その可能性を頭の中で組み立てている料理人の目つき。 「連理会の人として、話してくださるなら」
ほうじ茶の湯気が、二人の間に薄い膜を作る。 その揺らぎの向こうに見える氷室の輪郭が、少しだけぼやけた。 「……連理会ね」
氷室は缶を軽く傾け、中の液体を揺らした。 金属越しに、かすかな「ちゃぷ」という音が伝わってくる。 「まあ、今日は、その話をしに来たと思ってもらっていい」
「じゃあ、単刀直入に聞きます」
透真は、震えかけた声を押し込めるように、缶を両手で包み込んだ。 熱は、まだ缶の中でしっかり生きている。 「連理会は……何をしている集団なんですか。 ここに保存されている、死者の記憶に対して」
棚の静電気とは違うざわつきが、背中をなぞった。 背骨の一つ一つが、冷水に触れたようにきゅっと縮む。 「それから——」
舌が乾いていく。 さっきまで甘ったるく感じていた缶コーヒーが、急に色の抜けた水みたいに薄く感じられた。 「あなたたちは、兄の記憶に、何をしたんですか」
春日悠真。 名前を発音する前に、その二文字が舌の裏で熱を帯びる。 氷室は、ゆっくりと息を吐いた。 ほうじ茶の香りが、もう一度ふわりと立ち上る。 その奥に、ごく薄い金属の匂いが混ざった。
「ざっくり言うとね」
いつもの口癖。 そのフレーズが口から出たことで、透真の心拍が少しだけ落ちる。 台所で「塩、ひとつまみ」と言われた時の、工程の見通しがつく瞬間に近い。 「連理会は、死者の縁を、少しだけ“ましなかたち”に並べ替える人たちだよ」
天井の蛍光灯が、一瞬だけちらりと瞬いた。 光がわずかに揺れて、その影が氷室の横顔に、落ち葉の影にも似た模様を落とす。 「ましな、かたち」
「人ってさ」
氷室は缶を両手で包んで、指先をゆっくり動かす。 缶の熱が皮膚に移り、金属の表面にうっすら指の跡が残る。 「選ばなかった方の縁のことばかり、いつまでも噛みしめる生き物なんだよね。 あのとき別の大学に行っていれば、とか。 別の人と結婚していれば、とか」
彼の声には、遠い記憶を噛み砕くような硬さが混ざっていた。 固いパンの耳を、歯でざくざく切り落とすときの音が頭に浮かぶ。 「黄泉の図書館は、その“結果”をそのまま保存してくれる場所。 で、連理会は、その周りで、罪悪感のバランスを、少しだけ調整しようとする。 残された人たちの顎が、噛み締めすぎて壊れない程度にね」
顎、という単語に、自分の顎関節の重さが急に意識の表面に浮かんだ。 さっきまでのきしみが、またゆっくり蘇ってくる。 「……薬みたいなもの、ってことですか」
「そう言ってもいい」
氷室はあっさり頷いた。 頷く動きに合わせて、缶の中の液体が再び「ちゃぷ」と揺れる。 「過ぎた後悔を、少し薄める。 過剰な執着を、少しだけ引き上げる。 死者同士、生者と死者の縁を、今より少し“楽な配列”に整理する。 僕らの宣伝文句で言うなら——『死者の縁の再配置による最適化』」
最適化。 舌の上で転がしてみると、冷蔵庫から出したばかりのプリンみたいに、ひやりとした言葉だった。 スプーンで乱暴に割ったときの、崩れていく形の感触だけが生々しく残る。 「でも、それって」
缶の熱はとっくに落ち始めている。 ぬるくなった金属が、汗ばんだ掌にべたりと張り付き、妙に重い。 「その人の人生を……誰かが書き直すってことですよね」
声が自然と低く沈んだ。 廊下の向こうから、カートを押す車輪の「ぎい」という音が、薄く届く。 「黄泉では、レシピをいじらないっていう建前のはずです」
母の味噌汁。 兄が好んだ唐揚げ。 完成した料理に、後から知らない誰かが勝手に調味料を振りかけていく光景が浮かぶ。 口の中に、塩をかけすぎた料理の記憶が広がった。 「書き直す、ってほど大げさじゃない」
氷室は、軽く肩をすくめてみせる。 ただ、その目は笑っていない。 「読みやすく整えるだけさ。 誤字を直して、段落を分けて、見出しをつける。 その程度」
「誤字を直すつもりで、意味まで変わってしまうこともあります」
透真は、缶を握る手に力を込めた。 金属がさらにぺこりと凹む。 骨と筋肉の緊張が、缶越しに露骨に伝わった。 「僕の……兄の記録には、“婚約者”なんてフィールドが、事故の直前に追加されてました」
缶コーヒーの苦味が、急にきつくなる。 喉の奥が焼けるような感覚。 飲み込めない何かが、そこに引っかかる。 「顔はノイズで隠されてましたけど。 あんな“見出し”、誰かの誤字ですよ」
氷室は、一瞬だけ視線を落とした。 指先で缶のラベルの端をなぞる。 一文字ずつ読み取るような、慎重な動きだった。 「……君の兄さんの話は、たぶん、ここでちゃんとした方がいいんだろうね」
ほうじ茶の液面が、彼の手の中で小さく揺れた。 温度差で立ち上るわずかな蒸気が、またふわりと宙に溶ける。 「まず、前提として」
さっきより低く、しかし輪郭のはっきりした声。 休憩スペースの壁紙に、その音がゆっくり染み込んでいく。 「君の兄さんの記憶に最初に触れたのは、連理会じゃないよ」
心臓の奥が、ぴたりと冷えた。 さっき缶の熱で温められていた場所に、冷水を流し込まれたような感覚が走る。 「——図書館、だって言いたいんですか」
喉の奥が自然と詰まった。 抑えたつもりでも、語尾が少し尖る。 「図書館“そのもの”じゃない」
氷室は、ゆっくり首を振った。 メガネのレンズに、蛍光灯の線が細く走る。 「ここの“古い司書”だ。 外からの圧力をさばくために、先に傷をつけた」
古い司書。 その二文字が、胸の中のいくつかの顔を順番に浮かび上がらせる。 鏑木宗一郎。 雪村沙羅。 名前だけ知っている古参の職員たち。 喉の奥が、ぎち、と軋んだ。
空気が急に薄くなった気がする。 吸い込んだ息が、胸の中にうまく入ってこない。 「——どういう、意味ですか」
舌の先が少し痺れている。 缶コーヒーの味が、途端に形を失った。 「君の兄さんはね」
氷室は、ほうじ茶をもう一口含んだ。 喉を通る液体の音が、妙にはっきり聞こえる。 「ここの量子基盤に、最初に自分の理論を刻んだ研究者の一人だ。 図書館の“設計者”とまではいかないけど、初期レシピにかなり深く関わってた」
透真の頭の中で、兄の笑顔がいくつも重なった。 研究室の白い蛍光灯の下で笑う顔。 居酒屋の黄色い裸電球の下で、ジョッキを掲げる顔。 夕方の公園の、茜色の光を受けた横顔。 「事故のあと」
氷室の声が、ほんのわずかに低くなる。 わずかながら、そこに個人的な何かが混ざった気配。 「ここには、君の兄さんの残した“痕跡”が、そのまま残った。 現世側では、企業と研究機関と国家が、それを取り合い始めた。 黄泉の図書館を、誰のものにするかっていう争いだね」
廊下の向こうで、誰かの咳払いが一つ。 乾いた音が、壁を伝って届く。 図書館というより、現世のオフィスの空気を思わせる響きだった。 「そのとき、ここを守ろうとした“古い司書”がやったこと」
氷室は、一度言葉を切った。 手の中のほうじ茶の缶を見下ろす。 視線は今ではなく、少し古い時間の上を滑っているように見えた。 「君の兄さんの記憶の、一部を先に“保全”して、外から見えにくくした。 ……代わりに、別の“属性”を表に出した」
「婚約者、ですか」
目の前で、湯気がゆらゆら揺れる。 その向こうで、兄の棚に浮かんだ「engagement」の文字が、真っ黒なインクで上書きされたように鮮明に蘇る。 「結婚予定者の存在。 家族としての縁。 そういった“個人的な事情”は、外部の人間が手を出しにくい。 少なくとも、企業のエンジニアや官僚には、面倒な要素だ」
氷室の説明は、どこか事務的な響きだった。 だからこそ、その一つ一つが、口の中に粉を噛むような苦さを残す。 「君の兄さん自身は、その“婚約者”フィールドを望んでいたわけじゃない。 あれは、防波堤として追加された“味付け”だよ。 ここから見れば、だけど」
「防波堤、って言い方、便利ですね」
透真の声は、自分でも驚くほど静かだった。 静かさの分だけ、胸の内側で何かが煮え立っているのがはっきりわかる。 「誰が、その味付けをしたのかは、教えていただけないんですか」
「それは」
氷室は、ほうじ茶の缶を軽く回した。 中の液体が円を描き、その擦れる音が「くる」と小さく響く。 「君が信じたい相手かもしれないから、今はやめておく」
空調の風向きが、わずかに変わった。 さっきよりほんの少しだけ暖かくなる。 その変化とは裏腹に、透真の首筋を、冷たい汗が一筋ゆっくりと流れ落ちた。 「ただ、はっきり言えるのは」
氷室は缶を口から離し、透真をまっすぐ見た。 メガネの奥の瞳が、蛍光灯の反射で薄く白く光る。 「最初の傷をつけたのは、連理会じゃない。 ここの誰かだ。 連理会は、その傷口に、あとから“薬”を塗っただけ」
「……薬って、便利な比喩ですね、本当に」
透真は、自分の手の中の缶を見下ろした。 ぬるくなったコーヒーが、缶の中で重たく揺れている。 さっきは救いのように感じられた甘さが、今は舌をただべたつかせるだけだ。 「毒と薬は、量とタイミングの違いだけだろう」
氷室は、淡々と言った。 その声が、薄い壁に当たって、微かに跳ね返ってくる。 「連理会は、ある意味で、毒を薄めるための仕組みでもある。 君の兄さんも、あのままじゃ“間違った縁”に縛られたままだった」
「間違った、縁」
一語一語が、舌の上で粗く引っかかった。 兄の人生のどこに「間違い」があったと言うのか。 それを誰が決めるのか。 「事故の日に、兄と僕が、入れ替わってなければ」
自分の声が、さらに低く落ちる。 缶の金属が、掌に食い込むほど強く握りしめた。 表面がゆっくりと歪み、「きい」と小さな軋みが上がる。 「“間違った縁”って、そういうことですか」
「それも、一つだろうね」
氷室は、否定しなかった。 ただ、その瞳が一瞬だけ揺れる。 湯気の向こうの像が、わずかに滲んだ。 「君が、君のまま生き残ったことも。 君の兄さんが、ここに痕跡を残して死んだことも。 どちらも“起きてしまった現実”だ。 その後の縁を、どう並べ直すかを考えるのが、連理会の仕事」
「……じゃあ、あなたたちは、兄に何を足したんですか」
透真は、缶の側面を親指で撫でた。 冷たくも熱くもない中途半端な温度が、皮膚にぬるりと張り付く。 「婚約者だけじゃないでしょう」
氷室は、ほんの少し目を伏せる。 口を開くまでの間が、いつもより長い。 「君の兄さんの“罪悪感”を、少し薄めた」
ぽとり、とその一言が落ちる。 「君から見て、どうだったかは知らないけどね」
舌の上に、急に塩辛さが広がる。 それはコーヒーのせいではない。 兄の葬儀で親戚に言われた「残った子の方がしっかりしないとね」という言葉が、塩を振りすぎた漬物みたいに、今でも口の中に居座っている。 「罪悪感を、薄める」
——じゃあ、自分の罪悪感は。 その問いが喉の奥まで上がってきて、そこで引っかかった。 壁の向こうから、カートの軋む音がまた近づいてくる。 「ぎい、ぎい」と古い車輪が、ゆっくり床を撫でた。
「図書館が最初に兄をいじったって、言いたいんですか」
透真は、もう一度たしかめた。 その言葉を口にすることで、何かが決定してしまうような感触がある。 それでも、聞かずにはいられない。 「“図書館”じゃない」
氷室は、はっきりと言い切った。 いつもの「ざっくり」とは違う線の引き方。 「“誰か”だよ。 組織はいつも、誰か一人の選択を、看板の陰に隠してくれる」
その言葉が、休憩スペースの空気の比重を少し変える。 焙じ茶の香りが薄れ、代わりに古い紙とインクの匂いが強くなった。 閲覧室から流れ込む匂いだ。 古い司書。 「誰か一人の選択」という言い回しが、鏑木の静かな目と、雪村沙羅の柔らかい笑みを、交互に頭の中に呼び出す。
誰かが、自分の知らない台所で、兄のレシピに勝手に手を加えた。 そのイメージに、胃のあたりがぎゅっと縮んだ。 壁の上部に埋め込まれた小さなパネルが、「休憩残り一分」と青く点滅する。 電子音が鳴る前の、光だけの予告。
「……氷室さんは、本当に、連理会の人なんですか」
時間が少ないのはわかっていた。 だからこそ、最後にそこだけは聞いておきたかった。 図書館の職員としては危うい質問だと理解しながら。 缶の中に残ったコーヒーの最後の一口を、まだ飲み込めずにいる。
氷室は、すぐには答えなかった。 メガネのレンズに、蛍光灯と、開けっぱなしのドアの向こうから差し込む橙色の光が、二重に映り込む。 そのあいだに、彼の視線が一瞬だけ泳いだ。 鼻先の内側で、自分の心臓が小さく縮む。 蛇の影を見た鼠のように。
「ピ」。 電子音が短く鳴った。 休憩終了の合図。 「少なくとも」
氷室は、口元に薄い笑みを浮かべた。 いつもより、少しだけ自嘲に近い味が混ざった笑い。 「連理会の“ふり”をする役は、うまくやってるつもりだけどね」
「ふり……?」
問い返そうとした瞬間、休憩スペースのドアが外側から少し開いた。 隙間から別の職員の姿と、新鮮なコーヒー豆の香りが一瞬だけ流れ込んでくる。 「あ、すみません、使ってました?」
若い司書の声。 「すぐ出ます」と反射的に返す自分の声。 氷室は、空になったほうじ茶の缶を、回収ボックスに軽く放り込んだ。 金属同士が当たる「カラン」という乾いた音が、妙に遠くまで伸びていく。
「続きは」
ドアに向かって一歩踏み出しながら、振り返らずに言った。 「次、君の兄さんの目で世界を見てから、にしようか」
双子スイッチ。 その単語を出さず、意味だけ置いていく言い方。 喉の奥で、コーヒーの最後の一口がやっと動いた。 苦味と甘味が、今度はえぐみになって喉を削っていく。
空になった缶を握りつぶす。 金属が「ぐしゃ」と短く悲鳴を上げた。 掌に伝わる抵抗が、決意とも諦めともつかない感情と一緒に、骨の芯まで染み込んでいく。 ◇
シフトの終わりに、兄の棚の前に立つのは、もうほとんど儀式になりつつあった。 今日の閲覧室は、夏から秋への移行がうまくいったのか、紅葉データが程よい間隔で漂っている。 夕方のような橙色の光が、静かにフロアを満たしていた。 紙の匂いと、金木犀に似た甘い香りが、薄く層を重ね合っている。
端末にログインすると、画面の奥で、水滴の音がまた始まる。 ぽちゃん、ぽちゃん。 遠くの水面に落ちる雫が、見えない波紋を作っている気配。 検索窓に「YU-0342」と打ち込む。 兄の記録ID。 キーの上で、指先がわずかに震えた。
エンターキーを押す「カチ」という音と同時に、画面に兄の名前が浮かび上がる。 春日悠真。 黒い文字が、白い光の上にくっきりと刻まれた。 「……アクセス、深度L-3」
口に出して、自分に確認する。 そこまで潜らなければ、婚約者フィールドや改竄ログには届かない。 指先が、深度選択のスライダーに触れた。 ガラスの滑らかな感触。 そこに宿る、先客の体温のようなぬくもり。
画面がふっと暗転した。 すぐ別のウィンドウが立ち上がる。 『アクセス経路変更提案:双子一致率を利用した補完モード』
見慣れないメッセージ。 文字の下には、小さな枝のシンボルが白く光っている。 連理会の印。 そのすぐ隣には、図書館内部用の極秘タグ——通常は司書長クラスしか触れない「INTERNAL-ONLY」の記号が薄く重なっていた。
枝と、館内タグ。 連理会と、黄泉の図書館。 画面の光が、透真の顔を真っ白に照らす。 指先が、ガラスの上で止まったまま動けない。 ——誰が、このモードを。
水滴の音が、一瞬だけ止まったように感じた。 閲覧室のどこかで、紙がめくられる音が「ぱらり」と響く。 兄の名前の下で、枝のアイコンが静かに点滅を繰り返していた。 火加減を上げろ、と誘うように。 それとも、この鍋から目を離すな、と無言で告げるように。
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第10章: 静電気の図書館で、戦没者の記憶をなぞるひと - 黄泉の図書館
棚の端にそっと指を乗せた瞬間、ぴり、と細い静電気が跳ねた。 皮膚の上で、小さな魚が暴れてすぐ沈むみたいな感覚が走る。 秋への切り替えが進んだ季節データが、閲覧室の空気の味を少しずつ変えていた。 まだ夏の湿り気を引きずる量子空調の風に、炒った木の実を砕いたときのような乾いた香りが、じわりと混ざってくる。
紅葉データが、薄い薄いフィルムの切れ端みたいに空中を漂っていた。 橙の光を抱えたまま、ふわ、と沈んでは浮かぶ。 書架の背表紙を、夕方の光線が斜めに撫でていた。 遠くでは、水滴がゆっくり落ちる音が、ぽちゃん、ぽちゃん、と律儀に続いている。
紙が擦れ合う気配。 誰かの靴底がカーペットを踏む「すっ」という音。 どれも、この図書館で聞き慣れた午後の音のはずだった。 それなのに今日は、そのすべてが、波打ち際で身構える海のように、表面だけ静かに固まっているように耳に届く。
——来る。
春日透真は、棚の角から視線だけをそっと滑らせた。 戦没者枠の棚が並ぶCブロック。 中でも、「特別案件」のタグが急に増えた列が、骨のように無言で立ち並ぶ。 前の晩、職員用端末で閲覧履歴を洗ったばかりだ。 あの行と列が、頭の中でまだくっきりと光っている。
コード名LQ-REN。 戦死報告が集中した一週間分の記憶だけを、一定の周期でなぞり続けている外部委託者。 氷室蓮。 入口から真っ直ぐ伸びてくる足音が、一つ、フロアの毛布を踏みしめるように近づいてくる。
靴底は柔らかく、床を撫でるような一定のリズムを刻んだ。 香水ではない。 洗い立てのシャツの繊維の匂いと、電子機器の内部から漏れるような金属の気配が、空調の風に乗って微かに鼻先を撫でる。 透真は、慎重に一歩、前へ出た。 足元でカーペットが「ぎゅっ」と低く鳴る。
それと同時に、視線がぶつかった。 黒縁フレームのレンズに、橙色の光が斜めに差し込んでいる。 氷室蓮は、いつも通り感情の温度が読み取りにくい顔をして、軽く顎を上げただけだった。 反応は薄いが、接続は切っていない、そんな角度。
「——よく、いらっしゃいますね」
声が喉の奥で少しだけ空回りした。 乾いた歯車みたいに一瞬噛み合わず、透真はその違和感をごまかすように、敬語の形だけきっちり整える。 言葉の温度だけは、保温器の中のスープのように均一に保っておこうとする。 氷室は足を止めた。 周囲の棚の本が、彼の接近に合わせるように、背表紙をわずかに震わせた気がした。
量子層が読み込む戦死者たちの記憶が、彼の来館を覚えているかのように。 薄い揺れが、紙の奥からじわりと立ち上る。 「…突然。…ここ、気に入ってるからね」
氷室は、口元だけで小さく笑って、ぐるりと辺りを見回した。 天井近くの光を一度喉の奥まで吸い込むように、深く静かに息を吸う。 肺に収めた橙色を確かめるような仕草だった。
「季節感が、いい」
「季節感、ですか」
「うん。 ようやく、現世より、よくできてる」
軽く放った言葉なのに、その声の底には、焦げ付きが張り付いている。 あたためすぎた焙じ茶の、鍋肌にこびりついた苦さのような残滓。 透真は、まだ棚の縁から指を離せずにいた。 指先には、さっきの静電気の名残が、細い針の列みたいにびりびり残っている。 代わりに、顎が、打ちっぱなしのコンクリートのように固まっていった。
「……この列。 ここで最近、“特別案件”のタグが増えてまして」
背表紙と背表紙の間を、指先でそっとなぞりながら口を開いた。 紙の隙間から、微かな埃の匂いと、湿り気を含んだインクの香りがふっと立ち上る。 「閲覧制限と『予約済み』の付き方も、ちょっと変で。 たとえば——」
事前にチェックしておいた冊子の背を、軽く押し込む。 薄い光が「reserved / by: system」と浮かび上がった。 その表記の脇で、枝のようなアイコンが、一瞬だけ白くきらりと滲む。
静かに、氷室の視線がその光を追った。 黒目が、細く細く絞られていく。 まぶたの裏で何かを計算しているような、短い沈黙。 「よく、見てるね」
棚には触れず、距離だけ保ったままの声。 口調は相変わらず落ち着いているのに、その音の端に、量子ノイズのような小さな揺れが混じる。 「司書さんたちって、みんな、そこまでタグの癖、気にしてるわけじゃないと思ってたけど」
「……後になって、たぶん、僕が細かいだけです」
喉を通る自分の声が、塩水を飲んだときみたいに少ししょっぱい。 自分でつけた小さな傷口を、舌で確かめるような味がした。 透真は、一冊分だけ飛び出していた冊子を指で押し戻した。 カチリ、という小さな音...