春の光が、ガラス越しに滲んでいた。 ロビーの床には、薄い水の膜が張っている。 革靴のかかとをそっと下ろすたび、ぱしゃ、と輪が広がり、すぐに消えた。 頭上からは、桜の花びらと雪片を混ぜたような光の粒が、ふわふわと降ってくる。 空調の風には、お線香に似た甘い匂いがうすく混じり、鼻腔の奥をかすかにくすぐった。
春日透真は、制服の襟を指先でつまんで真っすぐにし、胸ポケットのカードキーがきちんと収まっているか確かめる。 手のひらに挟んだ案内用の量子カードは、じっとりと汗を吸って、ビニール越しにぬるい。 指を少し動かすだけで、カードの角が手の中で不安そうに揺れた。 ロビーの奥で、地上のエレベーターの到着音がかすかに響く。 ぴん、と金属を弾くような澄んだ音が、耳の奥に細い線で刺さってくる。 その瞬間、背筋のどこかに小さな電流が走り、肩の筋肉がぎゅっと固まった。
扉が開く。 中から、見慣れた二つの影が滲む光の中へ出てきた。 父のスーツの肩は、以前より少し落ちて見え、布地の皺が重く垂れている。 母は、柄の古いエコバッグを胸に抱きしめ、指の関節に力を入れすぎて白くしていた。 靴底が水の膜を踏むたび、ぽちゃん、ぽちゃんと波紋が広がり、三人の足を一瞬だけつなぐ。
透真の口が、訓練通りに動く。 「——本日はご来館ありがとうございます」
自分の声が、天井に跳ね返って重く落ちてくる。 いつもより少し高く、硬く聞こえた。 母がきょとんと目を丸くし、それから肩をすくませるようにふっと笑う。 「なにそれ、透真。 ちょっとよそ行きすぎない? 外では、そんな喋り方してるの」
「……ああ、いや。 癖で。 つい出た。 まあ、来館ありがとうございます、で合ってるけど」
耳の後ろがじん、と熱くなる。 ごまかすように、カードを読み取り口にかざした。 淡い青い光が、ぴ、と瞬いて、カードの表面を撫でる。
父は、ロビー全体をゆっくり見回していた。 ガラスの向こうでゆらゆら歪む現世の空、頭上から降る光の粒、薄く煙るような空気。 目の動きは、工事現場の視察でもしているみたいにひとつひとつを検分していく。 「テレビで見た騒ぎは……それでも、もう収まったんだな? 慎重に見ても」
低い声に、かすかな掠れが混じっていた。 ニュースの映像を、喉の奥でなぞるような音色だ。 崩れ落ちる棚、割れた光、紙の渦。 透真は、肺の奥で息を一度止め、それからゆっくり吐き出した。 「一応、はい。 安全対策と、規約の見直しは全部終わりました。 外縁も、もう一度絞り直されて……前より、少し静かです」
その単語を選んだとたん、胸の奥で別の音が起きた。 静か、とは程遠いあの夜の音。 金属の軋みが鼓膜の裏で再生され、棚の悲鳴が喉の奥をざらつかせる。 雪と蝉の声が一度に降った、あの異常なざわめきが、耳の奥で薄く震えた。
母が近づき、乾いた指先で透真の頬をじっと見つめる。 視線が頬の色にとどまり、目の下のクマに移り、制服の皺へとすべる。 指先は伸びきらず、触れたいのに遠慮しているように空中で止まった。 「ちゃんと食べてる? この前電話したとき、声、なんかくたびれてたよ」
「食べてるよ。 たぶん。 食堂もあるし」
「寝てる? ちょうどその時も、変な時間に電話しちゃったけど」
「まあ、普通に。 シフト制だし、ちゃんと回してもらってるから」
母の視線はまだ、この場所に馴染みきれていない。 光とガラスと水、その境界をきょろきょろ追いながら、足元の水膜にそっと体重を預ける。 靴底に伝わる冷たさに、足首が小さく跳ねた。
父がふう、と息を吐く。 乾いた春風がトンネルを抜けるときみたいに、細く長く抜ける音だった。 「ここまで、一人で通ってたのか」
ガラスの向こうで、現世のビルの輪郭が水底の建物みたいに揺れている。 そのどこかの窓の向こうが、自分のワンルームのある街の空へつながっている。 そう思うと、足もとから現実の距離感が崩れていく。
「まあ、職場なんで」
それしか出てこない。 言葉の短さが、言い訳の代わりに喉に貼りついた。 母がエコバッグを抱え直す。 布が胸もとでくしゃりと鳴り、柔軟剤と家の台所の匂いがふわりと周囲に広がった。
「きょうは……ゆっくり、その、どういう流れになるの? 私たち、初めてだからさ」
誰も、悠真の名を口にしない。 ロビーの空気の中でその名前だけが、刃物みたいに光っている気がして、舌がそこへ触れるのを本能的に避けている。
透真は、案内用のカードを操作しながら、胸の奥のピストンに意識を向けた。 深く息を吸い込み、心臓のリズムと呼吸を揃える。 「今日は……その、兄貴の棚に案内します。 先に、新しくできた閲覧規約の説明をしてから、『未完アーカイブ』のエリアへ。 そこで本を開いて……そこから先は、一緒に見てもらう感じです」
「未完」と自分の口で言った瞬間、舌の上でざらりとした違和感が走る。 母の眉が、ぴくりと跳ねた。
「未完って……何? ここで言うときの」
父も横から視線を寄せ、短く問いを重ねる。 聞き慣れない担当部署の略称を会議で出されたときと似た、わずかに身構えた声。 「えっと、その説明も含めて、向こうでちゃんと話します。 ここで立ち話するより、実物見てもらったほうが早いと思うから」
通路のゲートが、透明な羽を開くように左右に割れた。 頭上から降る光の粒が通路の中で密度を増し、白い霧の帯になって揺れる。 足元の水膜はそこから先で途切れ、乾いた灰色の床に切り替わっていた。
「行きましょう」
透真が一歩踏み出す。 半拍遅れて、父と母の靴音が後ろから追いかけてきた。 三人分の足音が壁に反射し、重なって、ゆったりとした律動に変わる。 重い機体が滑走路へゆっくり向かっていくときの動き。 胸の奥で、同じリズムが微かに鳴った。 ◇
『未完アーカイブ』のエリアは、他の書架より一段暗かった。 照明の数は同じなのに、光の質だけが違っている。 普通の棚の上では、春の午後の光が紙と紙のあいだにふわりと入り込む。 ここでは、光が厚みを持った液体みたいに、背表紙にまとわりついていた。
文字の端にはかすれや削れが走り、ところどころ白い筋がむき出しのまま残っている。 棚の奥から、ぽたり、ぽたり……と水滴のような音がした。 けれど、数える前に、音は唐突に途切れる。 規則正しい滴りになる前に、何か見えない手で止められたような、不自然な断ち切れ方だ。
近づくほど、金木犀と墨が混ざった匂いが濃くなる。 秋の夕方の縁側で、お線香と古本を同時に吸い込んでいるような静けさが、鼻から肺に重く降りてくる。 棚の端には透明なパネルが浮かび、淡い光で説明文を映していた。 『未完アーカイブ——崩壊時に損傷、または意図的編集の履歴を持つ記憶冊子を、安全のため部分保存とした棚です。 編集ログを保持したまま、現状を固定しています。 再編集および巻き戻しは不可。 閲覧は遺族および当事者に限ります』
透真は、まず目で文字を追い、それから息を一度飲んでから、噛み砕いた言葉に変えていく。 「ここが……崩壊のときに影響を受けたり、前から強い編集が入ってた本を置いてる棚です。 事故を繰り返さないように、これ以上の書き換えとか、深掘りは止めてあります」
「凍結」という言葉が喉の裏に浮かんだが、飲み込み、胸の内側だけで転がした。 氷室蓮が、その単語を嫌がりながらも使っていた記憶がある。 氷の中なら壊れない。 けれど、もう動けない。 「本人が望んでない可能性もあるから……っていう考え方に変わりました」
最後の一文は、パネルにはない。 自分があの夜に押したスイッチの意味を、どうにか家族にも触れさせたくて、こっそり紛れ込ませる。
父がパネルへ顔を近づける。 眼鏡のレンズに薄い文字の光が映り込み、レンズの縁が青白く縁取られた。 「前は、『編集ログがあればいつでも元に戻せる』って説明受けたはずだぞ。 家族が許可すれば、全部、元に戻せる。 そういう話だったと思うが」
袖口の布が、腕を組む動きに合わせてかさりと擦れた。 声はわずかに低く落ちている。 「仕様が……変わりました。 崩壊があって、それで」
「仕様、ねえ……」
父が、短く息を吐く。 口元が、笑いともため息ともつかない形に歪んだ。 会議で後出しのルールを聞かされたときに見せる顔と似ている。
母の視線は、背表紙に刻まれた名前の列をたどっていた。 指先が、ある一点で止まる。 「……あ」
そこに、見慣れた字がある。 『春日 悠真』。 右下には、小さなアイコンが淡く灯っていた。 半円の輪の中に、細い線で描かれた翼の記号。 その下に、ごく小さく「未完」の文字。
母の口元がきゅっと引きつり、頬の筋肉が片側だけ震えた。 喉が一度、大きく上下する。 「なんで……“未完”なんて。 途中で終わっちゃったみたいじゃない。 あの子の人生、そんな……」
棚の木材に乗った声が、わずかに反響して跳ね返る。 奥のほうでしていた水音が、一瞬ぴたりと止まった気がした。
透真は、兄の名前に指を伸ばす。 背表紙の紙は、ひやりとしていた。 指先だけ冷水に浸したみたいに、温度が奪われていく。 「ラベルの名前は……確かに、もうちょっと何とかできたかもしれないです。 でも、これは、内容そのものを否定してるわけじゃなくて。 ここから先は『今の形』を基準に、あんまりいじりすぎないっていう……目印です」
説明するうちに、言葉が少しずつ早く滑り出す。 沈黙を怖がる癖が、胸の中で動き始める。
棚の端に、小さな注釈が浮かんでいるのを見つけて、息が喉で止まった。 『一部の記憶片は、ご遺族および図書館との合意により削除済みです(巻き戻し不可)』
合意。 削除済み。 巻き戻し不可。 目で追った文字が、そのまま胃のあたりに落ちていった。
父の視線も同じ場所にたどり着き、眉間に深いしわが刻まれる。 「合意って……俺たちが、頼んだってことか?」
金木犀の香りが、急に濃く感じられた。 空気自体の重さが増したようで、肺の奥がきゅっと縮む。 「……たぶん、事故のあとに。 ここじゃなくて、地上で説明受けたときの。 あのときの書類に、紛れてたんだと思う」
まだ「黄泉の図書館」という名前も知られてなかった頃の説明会。 食堂みたいな部屋で、白いスライドと薄い折り畳み椅子。 疲れた顔の父母が何枚も紙にサインしていた光景が、断片的に頭の中へ浮かび上がる。 「全部をそのまま残しておくと、誰かが……壊れちゃう可能性がある記憶について。 そういうのだけ、事前に相談して。 削るか、ぼかすか、選ぶっていう」
舌が乾いていく。 唾液が追いつかず、口の中に金属の味が薄く広がった。
母が、低くぽつりともらす。 「高校のときも、途中で何か諦めたみたいな顔してたこと、あったよね……私、気づいてたのに、ちゃんと訊かなかった」
春の夕方の廊下。 部屋のドアが少しだけ開いていて、その隙間から見えた兄の背中。 机の上に積まれた模試と、開きっぱなしのノート。 ドアの前で立ち尽くしていた母の姿が、透真の記憶にも薄く重なった。
「俺も……兄貴が何考えてるか、わかったふりして、そのままにしてた」
指先で背表紙の縁をなぞりながら、小さく吐き出す。 声は棚の奥へ吸い込まれ、静かに消えた。
父はしばらく黙っていたが、やがて低く言う。 「とにかく……見せてくれ。 『未完』でもなんでも、ある分だけ。 そこから考える」
歯のあいだから押し出されたその声は、了承というより、前に進むための苦い一歩の音だった。
透真はうなずき、兄の本をそっと引き抜いた。 紙が棚から離れるとき、さら、と乾いた擦れが指先に伝わる。 表紙の色は、以前見たときよりわずかに褪せているように見えた。 ◇
閲覧卓は、丸い翼を半分広げたような形をしていた。 白木の天板の中心から薄い水膜が立ち上り、光を受けて縁に小さな虹を浮かべている。 手を近づけると、ひやりとした湿気が肌に薄くまとわりついた。
透真は、兄の本を卓の中央に置いた。 紙が木に触れた瞬間、こつ、と乾いた音が弾む。 父と母が左右に腰を下ろすと、椅子のクッションがゆっくり沈み、座面の布が身体の形に馴染む。 母の膝の上には、柔らかな花柄のハンカチが畳まれて乗っている。 布から立ちのぼる柔軟剤の甘い香りが、古い紙と柑橘の皮の残り香と混ざり、胸の奥に鈍い熱をこしらえた。
「開きます」
透真は表紙に指を置き、肺の中の空気を一度すべて吐き出す。 肋骨の内側が空になった感覚のまま、ゆっくり吸い直す。 胸の中のピストンが再起動するような感覚を確かめてから、ページをそっと開いた。
透明な水面が、卓の上いっぱいに広がる。 音を立てない波紋が、内側から外側へ向かってすうっと伸びていく。 水面の奥から、薄い色が立ち上った。
春の河川敷。 シートの上に並んだ、手作りのおにぎりと唐揚げ。 頭上から、桜のデータが薄いピンクの雪のように降っている。
兄と自分と、両親。 四人分の笑い声が重なって、耳の中でざわざわと心地よく反響した。
「……このときの」
母がハンカチを握る指に力を込めた。 関節が白く浮き出ている。 「お花見。 お父さんが、途中で電話ばっかりしてた日」
映像の中で、過去の父が少し離れた場所でスマホを耳に当てている。 川風の音と誰かの声に「はい」「ええ」と短く返しながら、視線は桜ではなく対岸のビル群を追っていた。
隣で、兄がオーバーに肩をすくませて笑ってみせる。 その大げさな動きが、記憶の中の兄と寸分違わず、透真の胸の奥にじくり、と鈍い痛みが走る。
「このときも、俺は仕事の電話ばかりしてたな」
今の父が、映像を見ながら苦笑混じりに呟く。
画面の中では、電話を切ったばかりの過去の父が戻ってきて、何事もなかったようにおにぎりを取る。
「でも、あの子はずっと楽しそうだったよ」
母が、少しだけ口元を緩める。 兄が自分と母のあいだに割り込むように腰を下ろし、「交換」と言いながら唐揚げを二つつまんで見せている。
音声データのノイズが風の音と混じって「ざざっ」と揺れた。
透真は、カード端末の端を指先で軽く払う。 再生速度がほんの少し落ち、笑い声が引き伸ばされて、桜の花びらの落ちる軌道が目で追える速さになる。
場面が、やわらかく揺れながら別の水面に切り替わった。 蛍光灯の白。 机の上に積み重なった赤本。 受験前夜の、透真の部屋。
兄がドアにもたれ、片肩で壁を支えながらこちらを見ている。 Tシャツとジャージ、髪は少し寝癖で跳ねていた。 『でさ、もし片方だけ落ちたらどうする?』
気楽そうに投げられたその一言が、部屋の壁紙と同じように自分の胸の内側に張りついていた。
ハンカチが、母の口もとに持ち上がる。 目の縁で、小さく光が揺れた。
「こんな細かいことまで……覚えててくれたんだね」
映像の中で、兄が机の端に腰を下ろし、問題集の余白に落書きをしている。 ペン先が描くのは、飛行機。 滑走路から飛び立つ瞬間の機体が、鉛筆の線で何度も描き直されていた。
「ありがとうね、悠真」
母が画面へ小さくつぶやく。 声は水面に吸い込まれ、音の輪紋だけが残る。
視界の端で、細い文字列が流れているのに気づいた。 画面の右下、淡いグレー。 『20xx-02-14 23:12 閲覧制限設定(感情負荷高)/春日家代表者署名』『20xx-03-01 10:03 感情負荷軽減フィルタ適用/司書担当ID-***』
細かいログの行が連なっている。 透真は、そこから目をそらした。 父と母の位置からでは、おそらく読めないほど小さい。
場面がまた揺れ、塾帰りの夕方へ飛ぶ。 コンビニの前の黄色い街灯。 兄と自分が、肉まんを半分こして食べている。 湯気が春の冷たい空気へ立ちのぼり、頬に触れていく。 口の中に熱と肉汁の重さが広がり、記憶が咀嚼の感覚まで再現してきた。
父が腕を組み直す。 スーツの生地が、きゅ、と短くこすれた。 「……こういうのは、ありがたいな」
声には、少しだけ掠れが混ざった。
やがて、映像の季節が冬へ近づいていく。 雪の匂い、乾いた冷気。 大学構内の階段。 透真の胸の奥で、ばねが限界まで押し込まれる。
この先に、例の実験の日がある。
映像が研究棟の階段の手前まで進んだところで、水面がふっと暗転した。 真っ黒な画面の中央に、白い文字が浮かび上がる。 『この先の記憶片は、保存および共有の合意により削除済みです』
音はない。 ただ文字だけが、そこに在る。
父の呼吸が目に見えて荒くなった。 背もたれがぎしりと鳴る。
「ここが、一番知りたいところだろう」
低く硬い声が、水面に石を投げ込んだみたいに落ちた。
「誰が、『合意』したんだ。 これは」
画面の端には、「合意:春日家代表者/図書館スタッフ」と、ぼかされた文字列が小さく浮かんでいる。 自分の名前だけが読めないように、わざと加工されている。 崩壊後に決まった新しい仕様だ。
「……あのときの、話し合いの中で。 たぶん」
喉の奥がひりつき、空気が通るたびに砂が擦れるような痛みが走る。 「全部を残すと、誰かが壊れるって……そう判断して、サインしたんだと思う」
父の顔を見たら、言葉がそこで折れてしまいそうで、真正面を向かないまま続ける。
閲覧室に沈黙が落ちる。 天井の光が、蛍光灯の白から、春の外気みたいな柔らかい白にゆっくり色を変えた。 室内の温度が、ごくわずかに低くなったように感じる。 肌の上を撫でる空気が冷え、腕に薄い鳥肌が立った。
母のすすり泣きが、ハンカチ越しにくぐもって聞こえる。 小さく、くくっ、と切れ切れに。 ハンカチは、柔軟剤と涙の匂いを吸って、きっと端が湿り始めている。
「こんな終わり方……あんまりだよね」
絞り出された声が、テーブルの縁で震える。 「途中でぷつっと切れて。 続きがないなんて」
透真の脳裏には、別の画面が浮かぶ。 連理会の中枢で覗いた深層ログ。 実験室へ入る前、鏡の前でネクタイを直し、怖さを隠すようにふっと笑った兄の横顔。 その映像は、この閲覧卓には載っていない。
父は暗い画面を睨むように見つめていた。 口の端は真一文字に固く結ばれている。
「生きてるあいだに、もっと話しておけばよかったな」
ぽつり、と落ちた言葉だけは、水滴と違って途中で途切れず最後まで届いた。
母は、少し間を空けてから、ハンカチの下でかすかに笑った気配を見せる。 涙に濡れた皺が、ほんの少しだけ緩んだ。
「今からでも、透真相手なら、間に合うよ」
茶化すようでいて、どこか本気の声。
「聞かれて困る話のほうが、多いけど」
透真が、冗談に逃げるときの癖で肩をすくめる。 自分の声に、少し軽さを混ぜた。 父の口元も、一瞬だけ緩む。
「それは……まあ、お互いさまだ」
暗転の画面は消えないままそこにある。 それでも、その手前に映っていた兄の背中や笑い声、食卓の光景は、確かにここに残っている。 そこまでは、誰の手も届いていない。 ◇
閲覧を終えると、卓の上の水膜が静かに沈んでいく。 水音ひとつ立てず、翼をゆっくり畳むような動きで消えた。 本を閉じるとき、紙の縁が指先にざらりと引っかかる。 以前より、端の感触が荒くなっている。 削られた部分の名残が、細かいささくれになって残っているように思えた。
「……ちょっと、休んでいきませんか」
本を抱えたまま、透真はふたりのほうへ向き直った。 自分の声が思ったより低く出て、胸板のあたりで響く。 「職員用の、簡単なカフェスペースがあるんです。 お茶くらいなら出せるから」
父が時計に目を落とし、眉尻をわずかに上げる。 「仕事中に、親なんか連れていって大丈夫なのか」
「今日はちゃんと申請出してあります。 特別閲覧付き添いって扱い」
事務的に返すと、父の口の端がまたかすかに動いた。 苦笑とも、呆れともつかない揺れ。 それでも、さっきまでのきしむような緊張とは違う空気が、そこに混ざる。
母は、まだ目元をハンカチで押さえながらも、こくこくとうなずいた。 「お茶……飲みたい。 ちょっと、座りたい」
「じゃあ、こっちです」
透真は兄の本を胸に抱え、カフェスペースへ続く廊下に出た。 靴音が、閲覧室の静かな反響から、わずかにざわついた気配のある区画へと移っていく。 壁の色も、ざらりとした白から、木目の見える薄いベージュに変わった。 ◇
カフェスペースは、空港ラウンジをぎゅっと縮めたような造りだった。 大きな窓の向こうに、量子外縁の空が広がっている。 現世の薄い水色に、こちら側の桜色の霞が溶け合い、雲の輪郭が柔らかくぼやけていた。 風の音はしないのに、窓の奥で大気だけがゆるやかに流れているのが、視界の端で感じ取れる。
部屋の隅には、小さな電気ポットと、紙コップが積まれた木製の棚。 ポットのそばに、ほうじ茶のティーバッグが箱ごと置かれている。 箱を開けると、香ばしい茶葉の匂いがふわっと広がった。
透真はポットのスイッチを押す。 カチ、と短い音がして、じわじわと湯が温まり始める音が静かな空間に沁みこんでいく。 空気が、少しずつ温かい側へ寄っていくように感じられた。
「そこ、座っててください」
窓際のソファを顎で示す。 クッションは見た目以上に柔らかく、母が腰を下ろすと、じわりと沈み込んで布が小さくきしんだ。
透真は棚からフリースのブランケットを一枚引き抜く。 灰色の地に薄い雲の模様。 手のひらで撫でると、ふかふかと指の腹が埋まる。 ストーブのダイヤルを一目盛り上げると、温風が低い音とともに吹き出し始めた。
「……失礼します」
言葉を添えながら、母の肩にブランケットをそっとかける。 布越しに伝わる肩の骨の細さと、かすかな震え。
「ちゃんとこういうこと、気が回るんだね」
母が照れたように笑い、言葉の端に少し誇らしさを滲ませる。
「仕事柄、です。 利用者さんに風邪ひかせると怒られるので」
軽く返すと、母の肩が小さく揺れた。 ブランケットの下で、笑いがこぼれている。
ポットの沸騰音が、ぴーっと小さく鳴って止まり、白い湯気が口から息を吐くみたいに立ちのぼる。 紙コップにティーバッグを入れ、お湯を注ぐ。 とぽとぽと落ちる音が紙の底に響き、ほうじ茶の香りが一段と濃くなった。
「父さんも、どうぞ」
湯気の立つコップを差し出すと、父が両手で受け取る。 指先がわずかに震え、その震えごと紙の熱が腕へ伝わっていく。
「ありがとな」
ぶっきらぼうな声。 それでも、その一言の端に柔らかいものが乗っている。
透真も自分の分を注ぎ、テーブルに三つのコップを並べた。 木の天板を指先でなぞると、人の手脂を吸ってきたような、ほんのりした温かさが指の腹に残る。
「ちょっと着替えてきます。 ジャケット、汗臭いままだと嫌だろうから」
母が「あら」と目を丸くする。 「そんなの気にしないよ」
「俺が気にするので」
そう言ってロッカー室へ向かう。 ドアを押すと、紙と布と洗剤が混ざった匂いが少しこもっている。
崩壊前から着ている制服ジャケットには、自分の汗と紙の粉と、うっすら金木犀の匂いが染みついていた。 肩の布をつまむと、硬く乾いた感触が指先に残る。
ジャケットを脱いでロッカーに掛け、替えのシャツを取り出す。 洗いたての白い布からは、洗剤と日光の匂い。 袖を通すと、しゃりっと糊の利いた冷たさが肌を撫で、すぐに体温で柔らかく変わる。 上から薄いカーディガンを羽織る。 毛糸が腕の形に沿って、やわやわと張り付いた。
鏡に映る自分の顔をのぞき込む。 さっきより頬に血の気が戻っている。 目の下の影は消えないままだが、その奥に詰まっていた何かが、わずかに軽くなった気がした。
カフェへ戻ると、ほうじ茶の匂いがさらに濃く部屋を満たしていた。 ストーブからの温風が足首を撫でる。 母はブランケットに包まり、両手でコップを抱えている。 父はテーブルに肘をつき、窓の外を静かに見上げていた。
「お待たせしました」
透真は席に戻り、コップを両手で包み込む。 紙越しの温度が指先にじんじんと沁み込み、冷えていた感覚が少しずつ戻ってくる。 ひと口すする。 舌に香ばしい苦味が広がり、喉を滑り落ちて胃のあたりに小さな火を点けた。
「結局、本当のところはわからないままだな」
父が空を見たまま、ぼそりと漏らす。 現世の水色と、こちらの桜色がガラスの向こうで薄く重なり、カップの中の茶色とは別の層を作っていた。 「事故の前の日、あいつが何考えてたかとか。 ここで何がどうなったのかとか。 今日見た分じゃ、やっぱり……穴が空いたままだ」
コップを握る指がまた微細に震え、湯気がその隙間を縫って立ち上る。
母はコップを包んだまま、テーブルの木目に視線を落としていた。 目の周りは赤いが、呼吸はさっきより落ち着いている。
「ごめんね、透真ばっかりに。 ここで、ずっと……」
言葉を途中で切り、顔を上げた。 「でも、やっぱり全部見たかったっていう気持ちも、どうしても残っちゃう」
謝罪と未練が、彼女の声の中で絡まり合っていた。
「俺も……全部を追いかけられるなら、追いかけたかったです」
透真は、コップの縁を見つめたまま言う。 紙の口縁を親指でなぞると、少しふやけたところが柔らかく指に引っかかった。 「ただ、その……自分もここで仕事してるから。 どこまで開けるのが正しいかっていうのを、考えちゃう。 兄貴のことだけじゃなくて、他の人の本も含めて」
本当は、「自分の罪悪感のために兄貴を解剖したくない」という言葉をそのまま出したかった。 喉の奥で丸まり、別の形を探している。
母が、カップを唇に運び、熱さに少し眉を寄せた。 ブランケット越しに、ストーブの熱が肩から背中へじんわり移っていく。
「……あのときさ」
母がぽつりと切り出す。 目はコップの茶色い液面に固定されたままだ。 「『どっちかが死んだら、もう片方に代わりに生きてほしい』なんて、言ったこと、あったよね。 あれ、本当に……ごめんね」
テーブルの上に、昔の言葉が突然落とされた。 中学生の自分と兄。 親戚の集まりで「双子は便利ね」と笑われたあと、母が半分冗談のように言ったあの台詞。 あのとき笑って流した笑いの感触まで、耳の奥で蘇る。
「……あれ、ずっと重かったです」
透真は、感情の色をなるべく混ぜない音で答えた。 自分でも驚くほど平らな声。 「でも、たぶん。 それだけが理由じゃない。 俺が勝手に、『兄貴みたいにはなれない』って決めてたから、余計に」
指先が無意識にコップの縁をたどる。 紙の表面が少し柔らかくふやけていて、爪にひっかかった。
「兄貴の代わりに生きる、っていうより……兄貴の人生に、誰かを乗せ直すみたいなことを、ここがやろうとしてて。 俺も、その一部になりかけたから」
氷室蓮の横顔が、すぐそこに立ち上がる。 低い声で「兄として再起動するのは甘い」と言ったときの冷静な目。 あの硬い視線に、自分が救われた瞬間を思い出す。
父が、少し居心地悪そうに視線を逸らし、窓の霞へ目を向けた。
「代わりなんて、最初からいないさ」
仕事の文書では絶対に書かない種類の言葉が、短く口から落ちる。 「悠真の代わりも、お前の代わりも。 どっちも」
その一言が、テーブルの木目の隙間に染み込んでいくように感じられた。
母が小さく微笑む。 目尻の皺は涙で濡れ、その下にうっすら笑いの線が重なっている。
「ふたりとも、自分で飛ぶしかないってことだね」
飛ぶ、という音に、透真の胸がかすかに反応する。 図書館の閲覧装置に乗るとき感じる、離陸前のふわっとした揺れ。 兄が描いた飛行機の落書き。 それらが細い線で一瞬だけつながり、胸の奥に一本の航路の図が浮かんだ。 ◇
三つの紙コップが、どれも半分ほど空になったころ。 ストーブの温風は部屋の隅々まで行き渡り、ブランケットの下の母の肩から、見てわかるほど冷えが引いている。
透真は、自分のコップの底を見つめた。 湯気がほとんど消え、底に残る茶色が揺らぎもしない。
「……悠真の本のことなんだけど」
胸の中で何度も形を変えていた言葉に、ようやく手を伸ばす。 さっき温めたほうじ茶の余韻が、肺の奥で小さな支えになっている。
父と母の視線が同時にこちらへ向いた。 ふたりの目の奥に、さっき閲覧卓で見た映像の光がまだ薄く残っている。
「これ以上は、戻さないつもりでいます」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。 言葉が空気に出た瞬間、カフェの空気がわずかに揺れる。
「兄貴の人生を……俺たちが、書き直しすぎちゃいけない気がしてて。 欠けたままでも、ここまで戻ってきてる分を、一緒に持っていけたらいいなって」
図書館の専門用語を避け、「人生」という言葉を選んだ。 口に出した瞬間、胸のあたりが少しくすぐったく、同時に怖くなる。
父がコップをテーブルに置く。 紙と木が触れ合って、こつ、と小さな音が響く。 彼は、そのまましばらく黙っていた。
沈黙の間に、エコバッグの中で飴の包み紙がかさりと鳴る。 母が手探りで何かを探したようだ。
「それは……本当に、悠真のためなのか」
父が正面から問う。 声は低く、大きくはないが、その奥にはっきりした怒りとも不安ともつかない感情が詰まっている。 「お前が、これ以上掘り返したくないだけじゃないのか」
言葉が胸の真ん中に突き刺さる。 それでも、そう言ってくれることに、どこか救われる自分もいた。 距離を測らない直球を、父から受け取ることは、これまでほとんどなかったからだ。
母が、ブランケットを握る指に力を込める。
「私もね……忘れちゃうのが、こわいの」
視線はテーブルの木目に落ちたまま。 「欠けたままだと、少しずつ薄くなっていく気がして。 今日みたいに映像で見れば思い出せるけど、その映像が途中で終わってたら、その先のことを、いつか全部、自分の中で勝手に作っちゃうんじゃないかって」
兄を忘れることへの恐怖。 彼の輪郭が胸の内でぼやけていくときの焦り。 透真は、その感覚を自分のものとして知っている。 父母も同じ不安を抱えていると、自分の中で改めて輪郭づけられる。
「……たぶん、全部を取り戻すことと、忘れないことは、違うと思うんです」
透真は、言葉と呼吸のあいだにゆっくりと空白を挟みながら話し始める。 「全部を知ろうとすると……怖いものも、全部見ることになる。 俺も、ここでいろんな本の『全部』を見て、壊れそうになった人を見てきました。 こっちは仕事だから、まだ線を引けるけど」
閲覧室で、細部を追いすぎて立ち上がれなくなった遺族たちの姿がよぎる。 雪村沙羅が、そういうときに巧妙に場面を切り替えていった手つき。 優しさと暴力の境い目。
「兄貴のことを全部、ここで戻すっていうのは……兄貴の人生を、俺たちの都合で設計し直すことに、すごく近い気がしてて」
父が眉を寄せる。 「設計」という単語に、仕事の感覚がちらりと影を落とす。
「だから、その……『未完』のままでも、覚えておきたいところを何度も読み返していけば……いいんじゃないかって思ってます」
自分でも比喩に逃げていると感じながら、空の話を持ち出した。 「飛行機って、航路を全部、地図の上で線引きしてから飛ぶけど、実際の空は、その通りにならないじゃないですか。 風とか気流とか、いろいろあって。 図面通りに無理に飛ぼうとすると、かえって危ない。 ある程度、空の流れに合わせながら、でも目的地の方向だけは見失わない、みたいな」
手の中で、紙コップがわずかにしなった。
「兄貴の本も、全部をきれいな直線でつなぎ直すんじゃなくて……今残ってる航路だけを、ちゃんと覚えておく。 途中で切れてるところは、切れてるものとして一緒に眺める。 それで、年忌とか彼岸のたびにここに来て、『未完』のつづきを何回でも読めたらいいなって」
そこまで言って、口を閉じた。 心臓が、耳のすぐそばで大きく打っているように感じる。
カフェの窓の外で、誰かの本が閉じられる音がした気がした。 ぱたん、と乾いた一音。 実際の音なのか自分の想像なのか判別がつかない。 それでも、その響きが今の時間にひとつ区切りをつける合図に思えた。
父は長い沈黙のあと、椅子に深く座り直した。 スーツの布がさら、と擦れる。
「……難しいことを言うようになったな」
苦笑ともため息ともつかない声。 「現場で見てるお前が、そこまで言うなら。 今日は、それでいい」
「今日」という条件が、その言葉にしっかりついている。 完全に飲み込んだわけではない。 それでも、今この場では息子の判断を信じるという、小さな合意の形。
「また……考えるかもしれないけどな」
付け足されたその一文に、父の癖が滲む。 すぐに結論を固めず、揺らぎを残しておくやり方。
母がブランケットを握ったまま、こくりとうなずく。
「じゃあ……またお彼岸のころにでも、連れてきてね」
その口から、「未完」という言葉が自然に出てきた。 さっきは拒んでいたラベル。 「未完のつづき、何回でも一緒に読むから」
声には、悲しみだけでなく、ほんの少しだけ楽しみに似た響きが混じっていた。 図書館に「また来る」と言ってくれる利用者に、透真は何度も救われてきた。 それを今日は、自分の家族から受け取っている。
ほうじ茶を飲み干すと、紙コップの底が舌に触れた。 紙の繊維のざらつきが、最後の味として微かに残る。 ◇
帰りのロビーで、父がふいに透真の肩を軽く叩いた。 ぱん、と乾いた音。 少年のころ、キャッチボールのあとに同じ場所を叩かれた記憶が立ち上がる。
「お前の仕事……難しいけど、いい仕事だな」
視線は合わせず、ガラス越しの空のほうを向いたまま投げられた言葉。
透真の喉の奥で、いくつもの返事が渋滞する。 「ありがとう」と「そんなことない」と「まだよくわからない」がぶつかり合って、どれも出口を見つけられない。
彼は、ほんの少し顎を引いてうなずいた。
「……うん」
たったそれだけが声になった。 けれど、その一音が胸の内側で長く反響する。
母は、エレベーターに乗り込む前にくるりと振り返った。
「ちゃんと寝るんだよ」
高校のころから何度も聞いた台詞。 図書館で働き始めてからも、電話のたびに繰り返されてきた。 この日常の心配が、兄の話をしたあとにも変わらず戻ってくることが、いちばんの救いかもしれない。
「たぶん、寝ます」
わずかに笑いを混ぜて返すと、エレベーターの扉が閉まりかけ、母の顔が細い隙間に挟まったみたいに見えた。
「またね」
扉が閉じる。 エレベーターの降下音が遠ざかり、ロビーの床の水膜が、三人分の足跡をつないだ波紋をゆっくり飲み込んでいく。 ◇
ひとりになったロビーで、透真は深く息を吸った。 お線香に似た匂いが肺の奥へ入り込み、胸の内側に少し重さを残す。 吐き出すとき、さっき言い切れなかった幾つかの言葉も一緒に流れ出ていくような感覚があった。
兄の本は、まだ腕の中にある。 未完のラベルが光を吸い、その縁から薄くにじませている。 紙の重みをもう一度確かめるように抱え直しながら、透真は通路を『未完アーカイブ』の棚へ向かった。
歩くたび、靴底が床に触れて、こつ、こつ、と静かな音を刻む。 さっきより、その音がほんの少し軽い。 足首にかかる重力が、一枚分だけ薄くなったように感じた。
棚の前に立ち、兄の背表紙を元の場所へ差し込む。 紙と木が触れ合い、するりと小さな音が耳を抜ける。
視線が、背表紙の右下へ吸い寄せられた。 以前は、そこに連理会の枝の刻印がうっすら残っていた。 二本の枝が絡み合うマーク。 崩壊前に嫌というほど見せつけられた記号。
今、その位置には、新しい図書館の印だけが灯っている。 丸い輪の中に、開いた本と羽根のような線。 その光が、古い刻印の上にそっとかぶさるように浮かんでいた。
枝のマークは、完全には消えていない。 上から別の光で封じ込められ、痕跡だけが薄く透けている。 塗りつぶされた航路図の下に過去の線が微かに見えるみたいに。
全部は戻さない。 けれど、完全には手放さない。
透真は、その中途半端な印をじっと見つめた。 指先でそっとなぞる。 表面は滑らかだが、指の腹にはごく小さな段差が触れた。 それが、自分が押したスイッチの跡そのもののように思える。
ふと、自分自身の未来の棚が、まだこのどこにも存在していないことに気づく。 ここに並ぶのは、すでに飛び終えた航路の本ばかり。 自分の本は、まだ離陸すらしていない。 どの棚に、どんなラベルで置かれるのか。 誰の指が、その背表紙に触れるのか。
黄泉の空間の奥で、誰かの本がそっと閉じられる音がした。 ぱたん、と乾いた小さな一音。 ひとつの旅が終わる印。 その音が消えたあとも、透真の胸にはひとつの問いが、静かに残り続けていた。
——俺の本は、どこに置くんだろう。
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第18章:未完の空路 - 黄泉の図書館
春の光が、ガラス越しに滲んでいた。 ロビーの床には、薄い水の膜が張っている。 革靴のかかとをそっと下ろすたび、ぱしゃ、と輪が広がり、すぐに消えた。 頭上からは、桜の花びらと雪片を混ぜたような光の粒が、ふわふわと降ってくる。 空調の風には、お線香に似た甘い匂いがうすく混じり、鼻腔の奥をかすかにくすぐった。
春日透真は、制服の襟を指先でつまんで真っすぐにし、胸ポケットのカードキーがきちんと収まっているか確かめる。 手のひらに挟んだ案内用の量子カードは、じっとりと汗を吸って、ビニール越しにぬるい。 指を少し動かすだけで、カードの角が手の中で不安そうに揺れた。 ロビーの奥で、地上のエレベーターの到着音がかすかに響く。 ぴん、と金属を弾くような澄んだ音が、耳の奥に細い線で刺さってくる。 その瞬間、背筋のどこかに小さな電流が走り、肩の筋肉がぎゅっと固まった。
扉が開く。 中から、見慣れた二つの影が滲む光の中へ出てきた。 父のスーツの肩は、以前より少し落ちて見え、布地の皺が重く垂れている。 母は、柄の古いエコバッグを胸に抱きしめ、指の関節に力を入れすぎて白くしていた。 靴底が水の膜を踏むたび、ぽちゃん、ぽちゃんと波紋が広がり、三人の足を一瞬だけつなぐ。
透真の口が、訓練通りに動く。 「——本日はご来館ありがとうございます」
自分の声が、天井に跳ね返って重く落ちてくる。 いつもより少し高く、硬く聞こえた。 母がきょとんと目を丸くし、それから肩をすくませるようにふっと笑う。 「なにそれ、透真。 ちょっとよそ行きすぎない? 外では、そんな喋り方してるの」
「……ああ、いや。 癖で。 つい出た。 まあ、来館ありがとうございます、で合ってるけど」
耳の後ろがじん、と熱くなる。 ごまかすように、カードを読み取り口にかざした。 淡い青い光が、ぴ、と瞬いて、カードの表面を撫でる。
父は、ロビー全体をゆっくり見回していた。 ガラスの向こうでゆらゆら歪む現世の空、頭上から降る光の粒、薄く煙るような空気。 目の動きは、工事現場の視察でもしているみたいにひとつひとつを検分していく。 「テレビで見た騒ぎは……それでも、もう収まったんだな? 慎重に見ても」
低い声に、かすかな掠れが混じっていた。 ニュースの映像を、喉の奥でなぞるような音色だ。 崩れ落ちる棚、割れた光、紙の渦。 透真は、肺の奥で息を一度止め、それからゆっくり吐き出した。 「一応、はい。 安全対策と、規約の見直しは全部終わりました。 外縁も、もう一度絞り直されて……前より、少し静かです」
その単語を選んだとたん、胸の奥で別の音が起きた。 静か、とは程遠いあの夜の音。 金属の軋みが鼓膜の裏で再生され、棚の悲鳴が喉の奥をざらつかせる。 雪と蝉の声が一度に降った、あの異常なざわめきが、耳の奥で薄く震えた。
母が近づき、乾いた指先で透真の頬をじっと見つめる。 視線が頬の色にとどまり、目の下のクマに移り、制服の皺へとすべる。 指先は伸びきらず、触れたいのに遠慮しているように空中で止まった。 「ちゃんと食べてる? この前電話したとき、声、なんかくたびれてたよ」
「食べてるよ。 たぶん。 食堂もあるし」
「寝てる? ちょうどその時も、変な時間に電話しちゃったけど」
「まあ、普通に。 シフト制だし、ちゃんと回してもらってるから」
母の視線はまだ、この場所に馴染みきれていない。 光とガラスと水、その境界をきょろきょろ追いながら、足元の水膜にそっと体重を預ける。 靴底に伝わる冷たさに、足首が小さく跳ねた。
父がふう、と息を吐く。 乾いた春風がトンネルを抜けるときみたいに、細く長く抜ける音だった。 「ここまで、一人で通ってたのか」
ガラスの向こうで、現世のビルの輪郭が水底の建物みたいに揺れている。 そのどこかの窓の向こうが、自分のワンルームのある街の空へつながっている。 そう思うと、足もとから現実の距離感が崩れていく。
「まあ、職場なんで」
それしか出てこない。 言葉の短さが、言い訳の代わりに喉に貼りついた。 母がエコバッグを抱え直す。 布が胸もとでくしゃりと鳴り、柔軟剤と家の台所の匂いがふわりと周囲に広がった。
「きょうは……ゆっくり、その、どういう流れになるの? 私たち、初めてだからさ」
誰も、悠真の名を口にしない。 ロビーの空気の中でその名前だけが、刃物みたいに光っている気がして、舌がそこへ触れるのを本能的に避けている。
透真は、案内用のカードを操作しながら、胸の奥のピストンに意識を向けた。 深く息を吸い込み、心臓の...