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第5章:にじむ火加減、ゆらぐレシピ

湿った紙の匂いが、喉の奥に薄く貼りついていた。梅雨の朝の閲覧室は、まだ人の気配がない。冷房の送風音だけが天井から「ふう」と降りてきて、白い光が棚の背表紙に帯を引く。蛍光灯の光は、きょうはどこか、ガラス越しではなく薄い水膜を一枚かませたみたいに輪郭を曖昧にしていた。  春日透真は、開館前の巡回用タブレットを片手に、通路をゆっくりと歩く。靴底が床を踏むたび、「きし」と乾いた音がして、足裏からひんやりした湿気が上がってきた。歩調が自然とゆっくりになる。香炉の前で、足が止まる。  線香は、さきほど当番の先輩が点けたばかりだ。灰皿の縁から立ち上る細い煙。いつもならまっすぐ天井へ伸びて空調の風にさらわれていくはずの筋が、きょうは途中でほどけていた。ふわ、と広がった煙が、途中から逆流するようにくるりと輪を描き、棚の隙間へ吸いこまれていく。 「…素早く……火加減、強すぎるってことはないよな」  誰にともなく呟き、タブレットの画面を親指で呼び出す。冷たいガラス面に、指の腹の熱がじわりと広がった。《線香の煙・流れが逆転する瞬間あり》 一行打ち込むと、画面の白が煙の揺らぎを映しているように見える。  通路を進むにつれ、インクと古紙の匂いに、外からしみこむ雨の冷たさが混ざり始めた。天井のどこかから、地上の梅雨空の冷気がじわじわと降りてくる。この層は現世と近い。外の天気が、ここでは味付けの塩ひとつまみみたいに効いてくる。  兄——春日悠真の棚は、通路の先でいつものように黙って立っていた。背表紙に刻まれた番号は、もう何度も指でなぞった。見なくても、舌の上で唱えられる。そこへ体を向けた瞬間、背中を「すっ」と風が撫でた。  冷たい。さっきまで重たくまとわりついていた湿気が、そこだけ抜け落ちている。皮膚にぞわりと鳥肌が立ち、耳の奥で「ぱち、ぱち」と小さな火花が跳ねる気がした。胸の奥で、何かの種に火がちろりとつく。 「……今度は、おはよう」  棚に向かって、少し砕けた声を落とす。兄に話すときだけ出る、昔のままの調子だ。 「きょう、なんか変だよ。たぶん、気のせいって言われるやつだけど」  返事の代わりに、頭上の蛍光灯が一瞬だけチカリと明滅した。背表紙の群れに白い筋が走り、床に落ちた光が水の上で揺れたみたいに「ゆら」と揺らいで、すぐに静まる。透真は、ログ用端末で兄の棚の状態を確認した。 《状態:安定》《エラー:なし》  無機質な文字列が、冷たい皿に均等に並べられた数字の料理みたいに整列している。画面を見つめたまま、唇の裏で小さく呟く。 「……中では、ですよね」  息を一度吐き出し、肩の力を抜く。棚から視線を外し、通路を離れながらタブレットにもう一行付け足した。《兄棚周辺・空気温度一瞬低下? 証拠なし》 打ち込みながら、首筋に残る冷たさをそっとさする。  カウンターに戻ると、長谷部玲央が紙コップのコーヒーをふうふうと吹き冷ましながら端末を立ち上げていた。古紙の匂いの上に、コーヒーの酸味とミルクの匂いが薄く重なる。意外に悪くない配合だ。 「おはよーございます、春日くん」  椅子をくるりと回した長谷部が、コーヒーを一口すする。「あっつ」と小さく舌を出し、口元に手をやった。 「おはようございます。……空調、きょう設定いじりました?」 「え、してないですよ。なんか暑い?」 「いや、逆に、一部だけ冷たいっていうか。光も、ちょっと……さっき」  天井の蛍光灯に視線を向ける。今は、冷たい白い光が棚にきらきら反射しているだけだ。さっき目に入った、水越しみたいな揺らぎはもう跡形もない。 「光が?」  長谷部が首をかしげ、少し目を細めて棚の方を眺めた。 「昨日より強い気がして。あと、線香の煙の流れが逆になってました」 「煙の流れ……ああ、梅雨時あるあるですよ。湿度で空調の抜け方変わるからさ。毎年、誰か一人は『結界がズレてるんじゃ』って言い出すんです」  「結界」の響きが舌の裏にひっかかり、そこだけきゅっと冷える。長谷部は笑いながら、紙コップを指先でくるくる回した。紙が「きゅ」と擦れ、その音がカウンターの木目に吸いこまれていく。 「春日くん、神経質だからさ。焦げ目の一ミリの違いも見逃さないタイプでしょ。焼き魚、ちょっと黒くなっただけで『これもう失敗だ』って思う派」 「……まあ、多少」  否定しきれずに返すと、長谷部が「ですよねー」と声を立てて笑う。 「でも、今んとこログは平常だし。気になるなら、業務日誌に一行書いときな?『煙の流れがいつもと違う』って。後で振り返るとき、意外と効いてきますから」 「もう書きました」  タブレットをちらりと見せると、「仕事早っ」と軽いツッコミが飛んでくる。そのままの調子で、長谷部は端末の時計を見て立ち上がった。 「そろそろ開けますか」  椅子のキャスターが床を「ころころ」と転がる音に、外からエレベーターの到着音が重なる。薄い鐘のような開館チャイムが館内に広がり、扉の向こうから濡れた傘の先が床を叩く「ぽたぽた」という水音と、靴底が水気を引きずる「ぺたっ、ぺたっ」という音が近づいてきた。いつもの梅雨の朝だ。だるさとルーティンの安心と、その奥でじりじり焦げつきそうな違和感の匂いが入り交じった空気の中で、一日が静かに火にかけられていく。  最初のうちは、特に大きな問題はなかった。予約票を慎重に確認し、利用者の名前を呼ぶ。端末で棚から記憶冊子を呼び出して閲覧室へ案内し、戻ってきた冊子をレセプション奥で両手のひらで軽く撫でて落ち着かせ、棚へ戻す。その一つ一つに、指先の癖と視線の巡りを染み込ませる作業は、よく覚えた料理の段取りに似ている。  ただ、スープの味が、きょうは少しぼやけている気配があった。冊子を手に取ると、紙の端にわずかな湿りが溜まっている。指先を滑らせると、「ぺと」と弱い粘りが残った。ページを開くたび、立ち上る匂いもいつもより重い。  故人の台所の湯気、線香の煙、病室の消毒液。そんな記憶の香りに、きょうはさらに、雨の日の畳の冷たい青臭さが混ざり込んでいる。閲覧は一組目、二組目と問題なく進み、戻ってきた利用者たちの頬には、それぞれ別の濡れた光が宿っていた。その涙の塩気が、受付まで薄く届く気がした。  小さなトラブルが顔を出したのは、午前の真ん中頃だ。グレーのスーツを着た中年の男性が、少し猫背のままカウンターに近づいてきた。きっちり撫でつけられた髪には、雨粒がいくつかまだ残っている。雨に濡れたウールと安価な整髪料の匂いが混ざり、湿ったままカウンターの上に漂った。  彼の手には、黄泉図書館の利用者カード。握りしめすぎたのか、角が少し白く折れ曲がっていた。 「……あの」  男性が声を潜める。その声の震えが、木のカウンター越しにも伝わってきた。 「はい、春日が承ります」  透真は椅子から立ち上がり、軽く会釈する。カウンターの磨かれた木肌に手を置くと、さらりとした冷たさが掌に広がった。 「さっき……祖母の記憶、閲覧してたんですけど」  「祖母」で、男性の喉が少し詰まる。口の端にぎゅっと力が入り、カウンターに置かれた掌が「ぎゅ」と深く沈んだ。 「途中で、切れちゃって」 「あ……映像が途切れてしまいましたか」 「はい。お盆の前に、どうしても見ておきたい場面があって……そこ、あとちょっとだったのに、いきなり暗くなって『本日はここまでです』って。そんなの、あるんですか」  透真の喉の奥がきゅっと縮む。端末を開き、男性が使っていた閲覧ブースの番号を確かめる。祖母の名前。棚番号。指先でその番号を呼び出した。  閲覧ログのタイムラインが、ずらりと並ぶ。再生開始、シーン切り替え、閲覧終了……その途中に、赤い文字列が一本挟まっていた。  《Return JSON: error_code:203, message: partial_access_only》  白い画面に黒い文字。そこに唐辛子をひと振りしたみたいに、エラーの行だけ真っ赤に染まっている。無機質な表示なのに、舌の上に粉っぽい辛味が乗ったような違和感が走る。 「現在、該当の記憶データに、一時的な不安定が発生しておりまして……」  口がマニュアルの文章をなぞる。声帯が、覚えきったレシピをそのまま読み上げるように動く。 「再同期を試みますので、少々お時間をいただければ——」 「時間は……きょうしかないんですよ」  男性が言葉を遮った。掌は音を立ててはいないのに、木の板を通してむっとした湿り気が伝わる。 「お盆前の法要で、どうしても、あの場面だけ確認したくて。あれを見ないと、孫としてのけじめが……」  「けじめ」の重さが喉に落ちる。透真は息を小さく飲み込み、端末の画面へ視線を戻した。タイムラインの先には、《partial access》のタグ。  指定された深度より先は、鍋底に焦げて張りついた具材みたいに、今はもうすくい上げられない。 「せめて、あと少しだけ。たいしたことじゃないんです。台所で、祖母が、いつもみたいに煮物つくってるだけで……それを、どうしても……」  男性の指がカウンターの縁を何度も撫でた。爪と木目が擦れて、「きい、きい」と小さな音を立てる。煮物。だしの香り。コンロの火が落ち着いた音。透真の想像の中で立ち上る湯気が、兄の記憶に出てきた鍋の場面と重なった。  大学の寮のキッチン。兄が鍋をかき回していた映像。あの記憶にも途中からノイズが走り、映像が飛んで、二度と再開できなかった。 「……お気持ちは、よくわかります」  胃のあたりが縮む。視線が揺れた。 「自分も、親族の記憶で、似たような経験が……ありまして。その時も、途中で切れてしまって」  兄だとは言わない。その名前をここで出した途端、自分の中の火加減が一気に暴れ出しそうだった。 「ただ、現状ですと、この部分だけが、安全にアクセスできる範囲で……無理に続けると、今見えているところまで焦げついてしまう可能性が——」 「じゃあ、誰が焦がしてるんですか」  男性の声が少し大きくなる。閲覧室の奥から、一瞬だけ椅子のきしみや咳払いが混ざったざわめきが起こり、すぐにまた静まった。空調の風音が耳にやけに鮮明に入ってくる。 「祖母の人生を、誰が、どこまで勝手にいじってるんですか。ここは、そういう場所じゃないんじゃないんですか」  カウンター越しに、男性の喉仏が上下するのが見えた。吐き出された言葉は、辛味よりも濃い苦味を含んでいた。深煎りのコーヒーをいきなりブラックで飲み込んだときの、胸の奥に残るえぐみ。 「……記憶そのものを、こちらの都合で書き換えることは、いたしません」  透真は、カウンターの縁を指で押さえた。木の硬さが指先に「じん」と滲む。 「ただ、保存の段階で、どうしても揺らぎが出る部分がありまして。その揺らぎの中で、比較的安定している層だけを、閲覧いただいています。きょうの不具合は、その安定した層の境目が、一時的に荒れてしまっている、そういう状態で……」 「難しい話は、わかりません」  男性は深く息を吸い込み、ゆっくり吐き出す。その息には、朝から飲んできたであろう缶コーヒーとタバコの匂いが混じっていた。 「祖母の台所は、あのままなんです。冷蔵庫の中身も、調味料の並びも。たぶん、あの煮物の味も、もう再現できない。だから、ここでだけでも、見ておきたいんです。味見みたいなもんで」  「味見」の一言が胸の内側を刺す。その比喩は、かつて自分が紗月に説明したときと同じ言い回しだ。 「……きょう中の復旧は、ちょっと難しいかもしれません」  言葉が舌の上で重く絡む。 「ただ、別の角度から、似た場面にアクセスできるかもしれません。たとえば、法要のときの記憶や、他のご家族の視点から——」 「それは、祖母の煮物じゃないでしょう」  男性の声は、さっきの鋭さを少し失っていた。鍋の底に残った焦げを指先でそっとなぞるみたいに、あきらめと執着が入り混じった響きだ。 「……申し訳ありません」  透真は、深く頭を下げる。額がカウンターの縁に近づき、木の匂いが濃くなった。耳元で、男性の息が「ふう」と落ちる。 「きょうは、一旦ここまでとさせてください。こちらでも優先して確認を進めますので、お盆までに、また改めてご予約いただければ……」  定型文の最後まで言い切る頃には、舌の上に苦味がじわじわ溜まっていた。男性はしばらく黙り、やがて「……わかりました」と小さく答え、カードを胸ポケットに滑り込ませる。スーツの生地が擦れる「しゃり」という音。背中が遠ざかり、床に残された水滴が蛍光灯の光を受けて「ぴか」と光った。  小さな跡。やがて乾いて消える。でも、その場所の冷たさは、しばらく床の中に残り続ける気がした。端末の画面には、まだ《partial_access_only》の赤い文字が浮かんでいる。透真は、息と一緒に空気を吐き出し、エラーログを別ウィンドウに保存した。  《Return JSON》とラベルのついたログ一覧フォルダに、今の記録が「ぽん」と落ちていく。  昼を少し過ぎるころ、外の雨は幾分弱まったらしい。エレベーターが開くたび、濡れたコンクリートの匂いより、柔軟剤や香水の甘い匂いが勝ち始める。制服のブレザー、チェック柄のスカート、濡れたスニーカー。  水無瀬紗月の姿が扉の向こうに見えた瞬間、透真の胸の奥で、張り詰めた太鼓の皮が「ぴん」と鳴るように緊張した。紗月はいつものようにスマホを片手に持ち、視線を床に落としたまま受付へ歩いてくる。前髪の先から、小さな水滴が「ぽと」と一粒落ちた。 「いらっしゃいませ。……水無瀬さん」  名前を呼ぶと、紗月は少し遅れて顔を上げる。目の下には薄くクマができていた。柔軟剤のフローラルな匂いと、雨上がりのアスファルトの湿った匂いが、彼女の周囲に薄い輪を描いている。 「あ……春日さん。こんにちは」  声は小さいが、その芯は前より少し強く感じられる。ここへ何度も通ううちに、彼女の声も少しずつ変わってきたのかもしれない。 「きょうも、水無瀬……絵里さんの記憶でよろしいですか」 「はい。……あの、前に見たところの、続きっていうか」  紗月はカウンターの縁を両手で掴んだ。指の関節が白く浮き、爪の先が木の表面に「こつ、こつ」と小さい音を刻む。 「わかりました。確認しますね」  透真は端末に指を走らせる。紗月の利用者IDでログインし、過去の閲覧履歴から絵里の棚番号を呼び出す。画面にデータの概要が表示された。タイトル。登録番号。深度。そして、「状態」。  その欄に、見慣れない表示があった。 《状態:reserved》  フォントはいつもと同じなのに、その単語だけ、濃いソースを垂らされたみたいに眼に刺さる。カーソルを合わせると詳細が開いた。 《Return JSON: status: reserved, by: system》  by: system。予約者IDではない。予約日時の欄もあるが、中身は「—」と空欄のままだ。 「……え?」  声が漏れる。舌先が急に乾いて、口の中の水分が引いていく。 「どうしました?」  紗月が身を乗り出す。ブレザーの生地がカウンターの角に擦れて「さり」と音を立て、彼女の柔軟剤の香りが少し強くなった。 「いえ……少し、確認します」  透真は咳払いで声の震えをごまかし、画面をスクロールする。他の項目には《閲覧制限:なし》《遺族代表承認:済》と、問題なしの表示が並んでいる。なのに、状態だけが「予約済み」。しかも「システムにより」。  背中に、じわりと冷たい汗が浮いた。さっき、兄の深度Dが「予約状態」になっていたときの画面が、脳裏に重なる。 「あの……」  紗月が、少し焦れたように口を開いた。 「まさか、また……なんか変ですか」 「すみません。現在、水無瀬さんのご友人の記憶データが、『予約済み』のステータスになっていて……」 「予約済み?」  紗月はその単語をそのまま繰り返す。驚きと苛立ちがいっぺんに沸き立つ気配が、声の高さににじんだ。 「いや、え、誰がですか。誰が予約してるんですか、それ」 「表示上は……『システムによる保全処理中』としか」  透真は、画面の説明文を目で追いながら読み上げる。細かい文字を追うたび、舌の裏に鉄の味が広がった。 「誰か個人の予約ではなく、館内の保全システムが自動的に、一時的に……」 「キモくないですか、それ」  紗月の口から、思わずという感じの言葉が飛び出す。言った途端、自分で口元を押さえかけるが、指先は途中で止まった。 「だって……死んだ後まで、勝手に予定入れられるってことですよね。『保全処理です』って言われたら、なんでもアリじゃないですか」  カウンターの縁を握る指に、さらに力がこもる。木が「みし」と鳴ったような気がした。 「誰が、何のために。友だちの記憶まで、どっか持ってかれる感じするんですけど」  「持ってかれる」という言い方が、胃のあたりでじりっと焦げをつくる。兄の記憶に並んでいた「RET」のタグ付きログ。誰かが「戻す」操作を試みていたあの画面。 「本来は……こちら側の都合で、状態を変えることは許されていないんですけどね」  半分本音が口から滑り落ちる。紗月が目を丸くし、透真を見た。 「でも、現にこういうステータスになってしまっている以上、何らかの——」 「『何らかの』って便利ですよね」  紗月は早口になる。語尾がかすかに揺れた。 「絵里、ここ来る前もそうだったんですよ。学校の先生も、親も、『何らかの事情があったんでしょう』って。見えないところにまとめて詰め込んで、終わらせようとする」  吐き出された言葉は熱いのに、どこか冷たい。冷蔵庫から出した鍋を一気に火にかけたときの、表面だけぶくぶく煮立って底はまだ冷たい、あの二重の温度に似ている。  透真は、端末と紗月の顔のあいだで視線を揺らしながら、内線の受話器に手を伸ばした。冷たいプラスチックが掌に吸いつく。 「上席に確認を取ります。少しだけ、お待ちいただけますか」 「……はい」  紗月はカウンターから手を離し、背中を丸めて一歩さがる。ブレザーの肩が小さく震えた。内線の呼び出し音が、「ぷる、ぷる」と規則正しく鳴り続ける。その電子音が、どこか外の雨の残響と混ざり合い、遠くで「ざあ」と鳴る気配がした。  数音のあと、落ち着いた女性の声が出た。雪村沙羅の声だ。 『はい、雪村です』 「春日です。閲覧室の受付からで失礼します。水無瀬さんのご友人の記憶データが、『reserved』ステータスになっていまして……表示は『system』による保全処理中と。マニュアルにないケースなので、指示をいただければと」  受話器の向こうで、紙をめくるような小さな音がする。向こうでも端末が開かれているのだろう。 『……確認しました。こちらでも同じ表示です』  沙羅の声は穏やかなままだが、語尾がほんの少しだけ短い。 『現時点では、こちらから解除できる種類の予約ではないですね』 「解除できない……上の権限の、どこかで?」 『そうなります。おそらく、技術側か、あるいは——』  一瞬だけ、声が途切れる。雑音が「じり」と挟まり、すぐに戻った。 『春日さん。その方には、「一時的な保全処理で、具体的な理由については調査中」とお伝えください。「しばらく様子を見ていただきたい」とも。……本当に、すみませんと』 「様子を見る、ですか」  受話器を握る掌に、じわりと汗がにじんだ。 『はい。きょう明日でどうこうできる種類のものではありませんので』 「……承知しました」  通話を切る指先に、わずかな躊躇が走る。「様子を見る」という言葉は、熱を出した子どもに、今は食べられないおでんの味を詳しく話して聞かせているような、浮いた優しさに聞こえた。  受話器を元に戻し、透真は紗月の前へ歩み出る。彼女は視線を床に落とし、つま先で何か見えないものをつつくように、靴底を「きゅっ、きゅっ」と動かしている。 「お待たせしました」  肺に溜まった湿った空気を一度全部押し出し、新しい空気を吸い込んでから、言葉を探した。 「現在、こちらの保全システム側で行っている処理の一環として、一時的に閲覧が制限されている状況です。具体的な理由については、今、内部で調査しています」 「……」 「解除の見込みについては、きょう明日で、というお約束はできません。ただ、こちらでも優先して状況を確認しますので、改めてご連絡差し上げる形には——」 「死んだ後まで、予定詰め込まれるとか、マジでやなんですけど」  紗月が顔を上げる。目のふちが赤く染まっている。 「生きてる時だって、誰かに勝手に決められてばっかだったのに。進路とか、塾とか。死んだ後くらい、自由にしててほしくないですか」  言葉が一つ一つ、まだ熱いフライパンに水を落としたみたいに「じゅっ」と音を立てて消えていく気がした。透真は、カウンターの上で両手の指を組み、重ねた指先に自分の脈の鼓動が「とく、とく」と伝わるのを感じる。 「……そうですね」  それ以上の言葉を探す間、数秒の空白が生まれる。カウンターの後ろで、プリンターが紙を吐き出す「ガチャガチャ」という音が、妙に大きく聞こえた。 「本来はこちら側の都合で、記憶の状態やアクセスの可否を変えちゃいけないんです」  ゆっくりと口を開く。 「それは、ここで働いている側の、ある種の信条でもあります。ただ……きょうみたいな『保全処理』という名目で、実際には何が起きているのか、正直、僕もすぐには把握できていません」  紗月の視線が、わずかに和らぐ。表面に立っていた怒りの泡が少し落ち着き、底の方へ沈んでいく。 「……ごめんなさい。怒ってもしょうがないのに」 「いいえ」  透真は首を振った。喉の奥には、さっきの男性の「誰が祖母の人生をいじってるんですか」という声と、今の紗月の怒りが二種類のスパイスみたいに混ざっている。 「怒ってもらった方が、ここもちゃんと考えますから」  言ってから、自分で少し驚く。マニュアルには書かれていない返答だ。  紗月は、長く息を吐き、スマホをぎゅっと握りしめた。硬いプラスチックが指の関節に食い込み、白く跡を残す。 「……じゃ、とりあえず、きょうは帰ります」 「はい。本当に、申し訳ありません。状況が変わり次第、ご連絡します」 「お願いします。……春日さんまで、焦げないでくださいね」  最後の一言だけ、少し冗談めいた色を含んでいた。言った本人はすぐに気恥ずかしそうに目をそらし、「じゃあ」と小さく手を振ってエレベーターへ向かう。柔軟剤とアスファルトの混じった匂いが、彼女の背中を追いかけるようにしばらくカウンターの周りに残った。  午後の残り時間は、細々した対応であっという間に焼けていった。ところどころで、小さなエラーがぷつぷつと顔を出しては消える。映像が一瞬だけざらつく。音声が半拍遅れて途切れる。香りの層がわずかに混線し、病室の匂いの中に夏祭りの焼きとうもろこしの匂いが一瞬だけ紛れ込む。  そのたびに、透真は冊子を両手で包み込み、「大丈夫です、大丈夫」と心の中で繰り返した。鍋の底から慎重に具をすくい上げるみたいに、安定している層だけをそっと戻していく。閉館のチャイムが鳴るころには、喉がかすかにひりついていた。  水をひと口飲み込む。冷たい水が食道をすべり落ちていくのが、はっきりとわかる。業務報告を簡単に入力し終え、タイムカードを切ると、透真はネクタイをゆるめた。襟元からこもっていた体温が「ふわ」と外気へ逃げていく。  職員用の簡易浴場へ向かう通路には、石鹸と湿ったタオルの匂いが漂っていた。ドアを押すと、タイル張りの狭い空間にシャワーの水音が反響する。「しゃあああ」と少し高めの音。  先に使っていた同僚がちょうど出てきて、「おつかれさまです」とタオルで髪を拭きながらすれ違った。湯気と一緒に、シャンプーの甘い匂いが流れ出ていく。  透真は制服をロッカーに掛け、Tシャツとハーフパンツに着替えた。裸足でタイルの床に立つと、冷たい石の感触が土踏まずにじんじんと染みこんでくる。シャワーのレバーをひねる。  最初は冷たい水が「ばしゃ」と飛び出し、数瞬で温度が上がる。熱めのお湯が肩と背中を叩くように降り注いだ。 「……っ」  思わず息を詰める。肌から筋肉へ、筋肉から骨の方へと、熱がゆっくり染みこんでいく。きょう一日カウンターの前で固まっていた肩のこわばりが、少しずつほどけていく感覚があった。  目を閉じると、シャワーの水音の向こうに、きょうの場面がいくつも浮かぶ。祖母の煮物を見たいと言った男性の手の強張り。紗月の白くなった指の関節。兄の棚の前でだけ感じた、不自然な冷たさ。湯で流し落とそうとしても、それらは鍋底にこびりついた焦げのように、指先ではなかなか剥がれない。  シャンプーを掌にのせ、頭皮に指を差し入れて泡立てる。指の間から「もこもこ」と白い泡があふれ出す。香料のほとんど入っていない安物シャンプーの素っ気ない匂いが鼻をかすめた。  泡を洗い流すとき、曇った鏡の方へ目をやる。くもりガラス越しに、自分の輪郭だけがぼんやり浮かんでいる。目の輪郭も口の形もあやふやで、見慣れたはずの顔なのに、どこか別人のようだ。 「……余白どころか、ぼやけた写真だな」  小さく息を漏らし、シャワーを止める。水音が消えた途端、浴場の中の音が一気にしぼみ、換気扇の「ううう」という低い唸りだけが残った。  湯上がりの肌に薄い綿のTシャツをかぶる。まだ少し湿った腕に布が「すっ」と吸いつき、すぐに体温と馴染んでいく。そのささやかな一体感に、わずかな安心が混ざる。  休憩室に入ると、布張りのソファがふわりと身体を受け止めた。腰を下ろした瞬間、クッションが「ふしゅ」と沈んで、張りつめていた腰の筋肉がゆるむ。壁際の自販機が低いモーター音を響かせながら缶コーヒーを落とし、「ガタン」と音を立てて銀色の缶が取り出し口に転がった。  プルタブを引く。「ぷしゅ」と短い音が弾け、甘苦いコーヒーの匂いが鼻を満たす。コンビニのおにぎりを開けると、ビニールが「がさがさ」と鳴り、海苔の香りが一気に広がった。 「あー、やっと座ってるね、春日くん」  長谷部が、缶のお茶を片手に入ってきた。髪はまだ少し湿っていて、首筋に水滴が一つ、二つ光っている。 「おつかれさまです」 「おつかれー。きょう、午前中の人、声デカかったね。カウンター、ちょっと揺れてたよ」 「……感じました?」 「そりゃ感じますよ。こっちの心臓まで一緒に揺れてましたもん。お盆前は毎年ピリピリするけど、今年は特に、火力強めな気がするなあ」  長谷部はソファの端にどさっと座り、お茶を一口飲む。喉が「ごくん」と鳴った。 「春日くん、細いからさ、クレーム対応するとすぐやつれちゃいそうで心配ですよ。もっと食べなよ、そのおにぎりじゃ足りないでしょ」 「いや、そんなに……」 「ほら、これも」  ポケットからスティックタイプのチョコを一本引っ張り出し、包み紙を「かさり」と鳴らしながら差し出す。 「甘いもん食べとくと、怒られた記憶が少しマイルドになるから。俺調べ」 「……ありがとうございます」  透真は、おにぎりを一口かじる。炊きたてではないコンビニ米の柔らかさ。けれど、口に広がる塩気と海苔の香りが、胃のあたりにじんわりと落ちていく。冷えた鉄板に乗せたおにぎりが、内側から少しずつ温まっていく感覚に似ていた。 「それにしてもさあ」  長谷部は天井を見上げる。蛍光灯の光が頬の輪郭に薄く反射していた。 「ログ上は全部『軽微なエラー』ってことになってるらしいけど。現場感覚としては、けっこう味変わってきてません?」 「……そうですね」  缶コーヒーを一口。甘さと苦さが舌の上で混ざり合い、さっきまで苦味だけだった口の中が少し丸くなる。 「でも、上からは、『一時的なノイズだから、大ごとにはしないで』と」 「出ました、『大ごとにはしないで』」  長谷部は口元を吊り上げて笑う。笑ったときにできる目尻の小さな皺に、うっすら疲れが滲んだ。 「まあ、組織ってだいたいそういうもんですよ。鍋が吹きこぼれるまでは、『火、ちょっと強いかな?』くらいで流したがる。吹きこぼれたら、『誰が見張ってなかったんだ』って怒る」 「見張り役……ですか」 「そうそう。俺ら、黄泉の火加減係」  冗談めかしてそう言うと、お茶を飲み干す。 「でもまあ、春日くんがそこまで気になるなら、日誌でも何でも、ちゃんと書き残しときなよ。『きょうの味はおかしいです』って。あとで、『やっぱりね』って言えるから」  「やっぱりね」の響きに、不思議な感覚がする。未来の自分が、今の自分に小さく肯定を投げかけているような。 「……はい。書きます」 「よろしい。じゃ、俺は先に上がります。明日もよろしくー。あ、黄泉にも残業代つけばいいのになって、上に言っといてください」 「検討課題として、日誌に書いておきます」  二人で笑うと、休憩室の空気が少し軽くなった気がした。ソファに沈む体の重さも、さっきより柔らかい。長谷部が出て行った後もしばらく、透真は缶コーヒーの残りをゆっくり飲み続ける。  最後の一口は、底に近いせいか少し苦い。その苦味が、きょう一日の出来事と一緒に喉の奥へ落ちていく。時計を見ると、退館までにはまだ少し時間があった。職員の多くはすでに帰り支度を始めており、事務スペースには蛍光灯が一本だけ灯っている。  半端な明るさの中で、机と椅子の影が細長く伸びていた。誰もいないタイミングを見計らい、自分の担当端末を立ち上げる。ログ閲覧用の画面を開くと、「Return JSON」というフォルダが、さっき保存したばかりのエラーでいくらか重たく膨らんで見えた。  フォルダを開き、今日一日のログを一覧表示に切り替える。白い画面に黒い文字列が縦にずらりと並び、それぞれの行には時刻と棚番号、エラーコードが記載されている。スクロールバーをつまむ指先には、さっきまで缶を握っていた温かさがまだ残っていた。  簡単なフィルタをかける。きょう発生したエラーのみ。コード「203」のみ。画面が一瞬暗くなり、すぐに新しいリストに書き換わる。  見覚えのある棚番号が、いくつも並んでいた。戦後すぐに亡くなった一般市民の棚。最近亡くなった若い世代の棚。そのあいだに、ぽつんと紛れ込むように、兄の棚の番号がある。  そのすぐ上には、水無瀬絵里の棚番号。数字と記号の列が、雨粒の縦筋みたいに画面を落ちていく。ディスプレイの光が、指の腹に「じん」と刺さった。 「……出来すぎだろ」  誰もいない事務室に、低い声が落ちる。頭上の蛍光灯が小さく「じじ」と鳴いた気がした。  カーソルを動かすと、画面の右端にひとつだけ、他と形式の違うログが点滅しているのが見えた。背景がうっすら灰色に色づき、文字が少し強調されている。 《Return JSON: route_rewrite_pending》  route。経路。rewrite。書き換え。pending。保留中。舌が口の中で乾いていき、砂漠みたいに水分を吸い取られていく感覚がした。 「経路、って……」  呟きながら、自分が何に向けて問いかけているのかわからなくなる。棚と棚を結ぶ見えない通路のことか。記憶と閲覧者をつなぐ筋道か。それとも、兄の人生と自分の人生を行き来する、あの危うい橋のことか。  誰かが、黄泉の厨房で使っているレシピそのものに手を伸ばそうとしている。背筋を冷たい指でなぞられたような予感が走った。  指先が、キーボードの上で止まる。エンターキーを押せば、もう少し詳細が見られるかもしれない。その先にどんなものが煮えたぎっているのか。今の自分に、その匂いを嗅ぐ覚悟があるのか。  喉の奥で、言葉にならない息が渦を巻く。 「……戻ってこられるのか? これ」  ほんの一滴のような声が、静まり返った事務室の空気に落ちた。窓の外では、梅雨空の鈍い闇が、まだ薄く光を含んでいる。エラーログの一覧の中で、兄の棚番号と絵里の棚番号が、並んで肩を寄せるように並んでいた。  その隣で、「route_rewrite_pending」の文字列が、消えそうで消えない火の芯みたいに、画面の端で点滅を続けていた。

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