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Okunuyor
意識の輪郭が、鋭利な光のメスで削り取られていく。視界の端で踊るのは、一本の白銀の針。それは神経の奥底を直接突き刺し、不都合な記憶を一切の容赦なく摘出していった。
「動かないで、零。もう少しで、あなたは完璧な英雄になれるわ」
耳元で囁く声は、真綿のように柔らかく、それでいて氷のような冷徹さを孕んでいる。葛城枢は、手術台に横たわる僕の髪を慈しむように撫でた。彼女の指先からは、常に消毒液と高価な香水の混じった、逃げ場のない香りが漂う。
僕は言葉を返そうと唇を震わせたが、声は喉の奥で星屑となって霧散した。
思考の海に、真っ赤な炎が揺らめく。燃える家、泣き叫ぶ幼い声、そして鉄錆に似た血の匂い。それらは「悪」として定義され、脳内から組織的に抹消されていく。代わりに流し込まれるのは、黄金色の凱旋、民衆の歓喜、正義という名の甘い麻薬だ。
「さあ、目を開けて。世界があなたの帰還を待っているわ」
枢の微笑みが、暗闇の中で唯一の太陽のように輝いた。その光に焼かれながら、僕は僕であったはずの残骸を捨て去った。
王都の石造りの街並みは、晩秋の冷気を撥ね退けるほどの熱気に包まれていた。中央通りを埋め尽くす群衆の叫びが、地鳴りとなって鼓膜を揺らす。
「我らが英雄、織部零に栄光あれ!」
「魔女の災厄を退けた、若き獅子に祝福を!」
白銀の甲冑に身を包んだ僕は、飾られた馬車の上で、重厚な剣をゆっくりと掲げた。
「皆さんの声が、僕の力になります。この平和を守り抜くことを、ここに誓いましょう」
喉の筋肉が、あらかじめ書き込まれた台本を忠実に再現する。自分のものとは思えないほど滑らかな声だった。沿道から舞い散る金吹雪が、金属質な匂いを伴って鼻腔を突く。何千、何万という視線が、物理的な圧力となって僕の肉体を押し固めていた。人々の「英雄であれ」という祈りが、希薄な僕の存在をこの世界に繋ぎ止める唯一の楔だった。
ふと、この視線が途絶えたら自分はどうなるのか、という場違いな思考が脳裏をよぎる。
馬車が広場に差し掛かった時、僕は群衆の中に「異物」を見つけた。
狂乱する人々の中で、その少女だけが彫像のように静止していた。深いフードを目深に被り、唇を固く結んでいる。
彼女の瞳が、僕を射抜いた。
それは英雄を崇める熱狂の色ではない。深い底から湧き上がるような、悲痛な拒絶。まるで、屠殺場へ引かれていく犠牲者を見るような、憐れみの眼差しだった。
その瞬間、胸の奥に埋め込まれたはずの「燃える記憶」が、鋭い棘となって疼き出した。
「……あ……」
声にならない吐息が漏れる。少女の姿は、馬車の進行とともに人混みの奥へと消えていった。だが、彼女の視線が残した冷たい感触だけが、いつまでも肌にこびりついて離れなかった。
パレードが終わり、僕は王城の一角にある控え室へと逃げ込んだ。重厚な樫の扉を閉めた瞬間、外の世界の喧騒が嘘のように遠のく。誰の視線も届かない、完全な空白。
安堵のため息をつこうとして、僕は異変に気づいた。
視界が不自然に揺らめいている。
自分の手を見下ろすと、指先が淡い光を放ちながら、砂時計の砂のようにさらさらと崩れ始めていた。
「……また、これだ……」
震える手で、テーブルの上の祝杯を掴もうとする。しかし、指先は硬質なガラスの感触を捉えることなく、虚空をすり抜けた。
ガシャン、という音は響かない。
グラスは床を透過し、そのまま底なしの虚無へと沈むように消え去った。
観測者がいなくなった途端、僕の肉体はその質量を失い始める。
「量子ナラティブ」――魔女結社が僕に施した、残酷な魔法の代償。人々に語られ、信じられ、見つめられることでしか、僕は実体を維持できない。誰にも読まれていない本のページが白紙に戻るように、僕は世界から消去されようとしていた。
膝をつこうとしたが、床という概念さえも僕を受け止めてはくれない。影が背中を這い上がるような、得体の知れない恐怖が全身を支配した。
このまま星屑となって、秋風にさらわれてしまうのか。
鏡を見ようとしたが、そこには磨かれた銀の板があるだけで、僕の姿は映っていなかった。僕は、僕自身の存在を、自分一人では証明できない。
肺が空気を求め、喘ぐように喉を鳴らす。しかし、酸素という物質さえも、形を失った僕の肺を素通りしていった。
意識が暗い宇宙の深淵に引きずり込まれそうになったその時、カチリ、と硬質な機械音が静寂を切り裂いた。
窓枠に、一羽の鳥が止まっている。
真鍮の歯車が剥き出しになった、時計仕掛けの使い魔。その眼球に埋め込まれたレンズが不気味に回転し、僕の姿に焦点を合わせた。
『見つけたわ、迷子の子羊さん』
鳥の嘴は動かない。代わりに、僕の脳内に直接、あの女の声が響いた。
レンズが赤く発光した瞬間、全身に猛烈な痛みが走る。バラバラになった肉体の破片を、一本の太い針で無理やり縫い合わせるような感覚。
「あ、が……っ!」
質量が、強引に僕の輪郭へと戻ってくる。床の冷たさが膝を打ち、空気の重みが肺を圧迫した。物理的な実体を取り戻した衝撃で、僕は激しく咳き込んだ。
『良い子ね、零。世界があなたを見ている限り、あなたは不滅よ』
枢の声は、満足げに細められた。
『たとえ誰もいなくても、この鳥が、そして私があなたを見ている。安心して演じ続けなさい』
時計仕掛けの鳥は一度だけ羽ばたき、再び静止した。その無機質なレンズは、一秒たりとも僕から視線を逸らさない。それは救済であると同時に、決して逃げられない檻でもあった。
僕は床に這いつくばったまま、乱れた呼吸を整える。汗が石畳に落ち、小さな水たまりを作った。自分がまだ「物」として存在していることに、吐き気を伴う安堵を覚える。
「……演じる、か」
自分の声を確かめるように呟いた。その声は、先ほど広場で誓いを立てた英雄のものとは似ても似つかない、掠れた音だった。
「よう、生きてるか、英雄様よ」顔を上げると、扉の影から戌亥 鉄兵が姿を現した。使い古された革のコートからは、安煙草の苦い匂いと、雨上がりの土のような、ひどく現実的な生活の香りが漂ってくる。彼は手に持った紙袋を無造作にテーブルへ置くと、床にへたり込んだままの僕を、ひどく冷めた、それでいてどこか値踏みするような目で見下ろした。
「……戌亥さん」
「顔色が真っ白だ、っつーの。まるで、さっきまで幽霊にでもなってたみたいじゃねえか」
戌亥は僕の震える指先を一瞥し、鼻を鳴らした。彼は僕の「状態」を知っている。僕が人々の視線を失えば、ただの光の塵に還ってしまう、脆い虚像であることを。彼は棚から予備のグラスを取り出し、僕が落として消し去った祝杯の代わりに、水差しから冷たい水を注いだ。
「ほら、飲め。実体を持つのも楽じゃねえな」
差し出されたグラスを受け取る。指先はまだわずかに透けていたが、戌亥の無遠慮な視線が僕をこの世界に繋ぎ止めていた。彼の視線は、枢のような支配的な熱を持たない。ただ、そこにある石ころを眺めるような、無機質で、だからこそ確かな質量を持った観測。
「ありがとうございます。……パレードは、成功だったんでしょうか」
「ああ、大盛況だったよ。お前が剣を掲げるたびに、女どもは悲鳴を上げ、男どもは救世主の再来だと拝んでた。完璧な『英雄』様だったぜ」
戌亥の言葉には、隠しようのない皮肉が混じっていた。
僕は水を一口飲み、喉の奥を焼くような渇きを癒やす。
英雄。
魔女結社が作り上げ、民衆が熱狂的に受け入れた、偽りの偶像。
僕の記憶の中には、確かに邪悪な魔物を討ち倒し、国を救った栄光の断片が刻まれている。黄金の光に包まれた戦場、仲間たちの歓喜、そして王から授かった勲章の重み。
だが、その輝かしい記憶に触れようとするたびに、胸の奥で別の「何か」が暴れ出す。
それは、紅蓮の炎に包まれた村の光景だ。
泣き叫ぶ人々。
僕の剣が貫いたのは、本当に魔物だったのか。
あの時、僕を見つめていた少女の瞳。パレードの群衆の中にいた、あの悲痛な眼差し。
それらが、結社の用意した「正しい物語」の隙間から、毒のように漏れ出してくる。
「……戌亥さん、僕は本当に、あの戦場で……」
「よせ。余計なことを考えるのは、寿命を縮めるだけだ、っつーの」
戌亥は僕の言葉を遮り、部屋の隅を指差した。
「それより、あいつが待ちかねてるぜ」
視線を向けると、影の溜まった部屋の隅で、小さな毛玉がもぞもぞと動いていた。
魔女から与えられた愛玩用の魔獣、「ポポ」だ。
ポポは僕の視線に気づくと、短い足でトコトコと駆け寄り、僕の膝に飛び乗ってきた。
その体は驚くほど柔らかく、生きている証である確かな体温が、服越しに伝わってくる。
「キュゥ、」
ポポは僕の顔を覗き込み、濡れた鼻先を僕の手に押し当てた。
この生き物には、僕を「英雄」として崇める知性はない。
僕が世界を救ったかどうかも、結社が何を企んでいるかも、ポポには関係がない。
ただ、目の前にいる「僕」という個体を認め、暖かさを求めて寄り添ってくる。
僕は震える手で、ポポの柔らかな毛並みを撫でた。
指先が毛の奥に沈み込み、リズミカルな鼓動が掌に響く。
それは、どんな豪華な控え室よりも、どんな熱狂的な歓声よりも、僕に「自分はここにいる」という実感を与えてくれた。
ポポの体温は、冷え切った僕の魂にとって、唯一の避難所のようだった。
「……ポポ、君だけだね。僕を、ただの僕として見てくれるのは」
小さく零した言葉は、誰にも届かない独白だった。
戌亥は既に興味を失ったように、窓の外を眺めながら新しい煙草に火を付けている。
時計仕掛けの鳥は、依然として窓枠で静止し、その無機質なレンズをこちらに向けていた。
僕はポポを抱きしめ、その小さな命の重みを噛み締める。
たとえこの肉体が、誰かに語られなければ消えてしまう物語の産物だとしても。
この腕の中にある暖かさだけは、書き換えられた記憶ではないと信じたかった。
窓の外では、まだ遠くで民衆の歓声が響いている。
僕は、次の「舞台」が始まるまでのわずかな間、この小さな毛玉が与えてくれる、偽りのない安らぎに深く沈み込んでいった。