Okunuyor

Chapter 4: 書き

鉄錆の匂いが肺の奥にこびりついて離れない。訓練場の砂埃は、天窓から差し込む陽光に白く濁り、視界を遮っていた。織部零(オリベ・レイ)は、重厚な訓練用大剣の柄を握り直す。使い古された革のざらついた感触が、小刻みに震える指先に伝わった。 「……ふう、静かに」 熱を帯びた吐息が、重苦しい大気に溶けていく。 正面では、魔女結社が調整した自動訓練人形が、無機質な駆動音を立てて構えをとっていた。それは、かつて零が討伐したとされる「魔獣」の挙動を精密にトレースする。記録によれば、彼はこの怪物と同じ個体を、たった一振りで両断したはずだった。 「さあ、零。あなたの『英雄譚』を再現して。記録に刻まれた通りに」 訓練場の上層、強化ガラスの向こうから、冷ややかな声が降ってきた。葛城枢(カツラギ・カナメ)だ。彼女は白い軍服の襟元を指先で整え、隙のない微笑を浮かべて彼を見下ろしている。その眼差しは、慈愛に満ちた母親のようでもあり、試験管の中を覗き込む学者のようでもあった。 零は短く頷き、大剣を正眼に構える。背筋を伸ばした瞬間、背中の古傷がぴりりと引きつった。公式記録では、この傷は魔獣の爪を正面から受け止めた際に刻まれた「名誉の証」とされている。人々の盾となり、身を挺して平和を守った救世主。頭の中に定着させられた記憶が、そう誇らしげに囁いた。 「ハッ!」 一歩、踏み込む。 舞い上がった砂埃を裂き、大剣が弧を描いた。人形が放つ鋭い刺突を最小限の動きで受け流す。そのまま体を深く捻り、必殺の型――「魔獣殺し」の旋回斬りへと繋げようとした、その時だった。 背中の古傷が、焼けた鉄を押し当てられたような激痛を放つ。 筋肉が硬直し、神経が意志を裏切って悲鳴を上げた。 「う、ぐっ……!」 肺から空気が漏れ、視界が歪む。特定の構えを取ろうとするたび、肉体が激しい拒絶反応を示した。それは深い土の下で眠っていた根が、無理やり引き抜かれるのを拒んで暴れているかのようだった。心臓の鼓動が耳元で早鐘を打つ。ドクン、ドクンと、自身の血流が牙を剥いて内側から突き上げてくる。零は膝を突きそうになるのを、剣を支えにして辛うじて堪えた。 「零? どうしました。動きが止まっていますよ」 枢の声が、鼓膜を冷たく叩いた。彼女の観察眼は、零のわずかな脈拍の乱れさえも見逃さない。監視の視線が、皮膚をじりじりと焼く。 (……来るな。思い出すな) 内側の何かが警報を鳴らしていた。だが、痛みは奔流となって意識を塗り替えていく。 白濁した砂埃の訓練場が、一瞬にして別の風景へと変貌した。 そこは、冷たい雨が降りしきる泥濘の地だった。空は低く、重苦しい灰色に閉ざされている。零は膝をついていた。それは今日の訓練のような誇らしいものではない。絶望と喪失感に打ちひしがれ、指一本動かせない惨めな姿だった。 背後に、誰かの気配がした。信頼していたはずの、温かな温もりを持つ誰か。 だが、その気配は氷のように冷え切り、剥き出しの殺意へと変わる。 「……すまない」 低い声が雨音に混じった。直後、背中を鋭利な刃が貫く。正面からではない。無防備な背後から、心臓を狙って、冷酷に。 「あ、が……っ!」 現実の零が、短い悲鳴を漏らした。 冷たい雨の感触が肌にこびりついて離れない。泥の匂い。血の鉄臭さ。自分を刺した者の、憐れみすら含まない冷徹な眼差し。 「零、あなたの経歴に傷をつけてはいけません」 枢の声が、フラッシュバックを強引に切り裂いた。 気づけば、彼女はガラスの向こうではなく、すぐ近くまで歩み寄っていた。その後ろには、監視役の戌亥鉄兵(イヌイ・テッペイ)が、退屈そうに耳を掻きながら立っている。だが、その鋭い眼光は零の異変を正確に捉えていた。 「記録こそがあなたの魂なのです。不完全な挙動は、あなたの存在そのものを否定することになります」 彼女の手が、零の頬に触れた。指先は驚くほど冷たく、精巧な義手のようだ。 「再調整が必要かもしれませんね。記憶の整合性を、もう一度確認しましょうか」 再調整。その言葉が耳に届いた瞬間、背筋に凍りつくような寒気が走った。意識が真っ白な光に飲み込まれ、自分という器の中身が書き換えられていく、あの感覚。それは魂を削り取られるのと同義だった。 零は奥歯を噛み締め、無理やり唇の端を吊り上げた。 「……いいえ、大丈夫です。枢さん」 荒い呼吸を整え、大剣を杖代わりにして立ち上がる。 「古傷が、少し疼いただけだ。英雄の証が、次の戦いを求めているのかもしれません」 皮肉を込めて告げると、枢は目を細めた。 「そう。それならいいのですけれど。あなたは私たちの最高傑作。綻びなど、あってはならないのですよ」 彼女は満足げに頷くと、踵を返して去っていった。その背中を見送りながら、零は自分の手が小刻みに震えているのを見つめる。 鉄兵が、すれ違いざまに吐き捨てるように呟いた。 「おい、英雄様。あんまり無理すんじゃねえぞ。壊れた玩具の修理代は、俺の給料から引かれるんだからな」 「……わかっているよ、鉄兵さん。僕は壊れたりしない」 「だといいがな。お前のその顔、今にも砂の城みたいに崩れそうだぜ」 鉄兵は鼻を鳴らし、枢の後を追っていった。 一人残された訓練場で、零は再び剣を握る。だが、もう構えを取ることはできなかった。背中の傷が、心臓の鼓動に同期してドクドクと熱い拍動を繰り返している。それは「公式の記憶」という名の檻を、内側から突き破ろうとする真実の鼓動だった。 訓練の後、零は逃げるように施設を抜け出した。監視の目は至る所にあるが、鉄兵が酒を飲み始める時間帯には、わずかな死角が生じる。 向かったのは、学園の北端にある廃庭園だった。枯れた噴水と蔦の絡まる東屋。ここは彼にとって、唯一「英雄」という重い外套を脱げる場所だった。 冷え込む夜気が、火照った体を優しく撫でる。冬の訪れを告げる風が、枯れ葉を鳴らして通り抜けていった。月光が、青白い刃のように庭園を照らし出している。 「……また、ここに来たのね」 静寂を破ったのは、鈴を転がすような、だが硬質な声だった。 東屋の影から、一人の少女が姿を現す。水鏡燐音(ミカガミ・リンネ)。敵対する妖精族の姫であり、彼を殺そうとした暗殺者。銀色の髪を夜風になびかせ、凛とした佇まいで零を射抜いた。 「君こそ、まだこの街にいたんだね。捕まれば、ただでは済まないはずだ」 警戒しながらも、零はどこか安堵している自分に気づく。彼女の瞳には、結社の人間に共通する「管理された光」がない。そこにあるのは剥き出しの敵意と、それ以上に深い哀しみだった。 「妖精は、一度決めた獲物を逃さないわ。あなたの命を奪うまで、私はどこへも行かない」 「それは困るな。僕はまだ、自分の正体すらよくわかっていないんだ」 自嘲気味に笑い、東屋の柱に背を預けた。痛みが再び、背中を這い回る。 顔を歪めた零を見て、燐音は不機嫌そうに眉を寄せた。 「……無様な英雄様。その傷、疼いているのでしょう?」 「わかるのかい?」 「妖精の鼻を舐めないで。あなたの体から、歪んだ記憶の匂いがするわ。無理やり継ぎ接ぎされた、醜い布切れのような匂い」 彼女はゆっくりと歩み寄り、零の目の前で立ち止まった。月光に照らされた肌は、透き通るように白い。燐音は懐から小さな包みを取り出すと、それを突き出した。 「これ、食べなさい」 「……何だい、これは」 「星蜜飴。私たちの故郷で、傷ついた戦士に与えられるものよ」 零は訝しげにその包みを見つめる。 「毒じゃないだろうね。妖精の贈り物なんて、初めてだから」 「死にたいなら毒だと思って食べればいいわ。……そんな顔でいられると、殺す気が削がれるのよ」 燐音は顔を背けたが、差し出した手は引かなかった。零は小さく笑い、その包みを受け取った。包みを解き、琥珀色の小さな塊を口に含んだ。 瞬間、暴力的なまでの甘みが舌の上で爆発する。それは単なる砂糖の味ではない。凍えた芯を溶かすような、陽だまりの温もりに似た芳醇な蜂蜜の雫。喉を通り抜ける熱が、荒れ狂っていた背中の痛みを静かな微熱へと変えていく。 「……驚いたな。これほど温かい味がするなんて」 「あなたの体は、嘘をつくのが下手ね。心は偽りの物語を信じようとしても、肉体がそれを拒絶して悲鳴を上げているわ」 燐音の言葉は、鋭い針のように零の胸を刺した。彼女はそれだけ言い残すと、夜の帳へと溶けるように姿を消した。 自室に戻った零は、重い足取りで鏡の前に立った。 シャツを脱ぎ捨て、肩越しに背中を覗き込む。鏡に映るその場所には、醜く盛り上がった傷跡が刻まれていた。 公式の記録では、最前線で魔獣の爪を受け、名誉の負傷を遂げたことになっている。だが、鏡の中の真実は異なっていた。 傷は、鋭利な刃物によって「背後から」深く、正確に心臓を狙って貫かれた形をしている。 指先でその痕跡をなぞると、冷たい雨の記憶がフラッシュバックした。泥にまみれて跪く自分と、背後に立つ冷酷な影。 零は確信する。自分は英雄として死んだのではない。英雄という虚像を完成させるために、背後から「殺された」のだ。

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