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Okunuyor
湿った古い紙の匂いが、地下区画の重苦しい空気に混じっている。織部零は影の濃い壁際に身を寄せ、浅い呼吸を繰り返した。心臓の鼓動が肋骨を内側から叩き、その震えが指先にまで伝わる。ここは結社の「英雄」が足を踏み入れるべき場所ではない。石壁の隙間から漏れる青白い魔導灯の光が、網膜を冷たく刺した。
部屋の中央、凍てつく石畳の上に一人の青年が組み伏せられていた。昨日まで訓練場で競い合い、背中を預けていたはずの男だ。しかし、その名前を思い出そうとすると、脳裏に灰色の霧が立ち込める。輪郭が溶け、ただの記号へと成り下がっていく。
「……あ……う……」
青年の唇から、乾いた砂がこぼれるような声が漏れた。その前に立つ魔女ライラが、黒いインクのような液体が入った小瓶を掲げる。彼女が指先で空中にルーンを刻むと、周囲の湿気が一瞬で氷晶へと変わった。青年の瞳から光が引き潮のように引いていく。積み上げられた「個」の記憶が、荒れ狂う波にさらわれる砂の城のように崩れていった。零はこみ上げる吐き気を抑え込むため、自らの腕を深く噛みしめた。鉄の味が口内に広がる。
「心配いらないわ。あなたはただ、この庭を愛でるだけの無垢な庭師になるのよ」
ライラの囁きは、真綿で首を絞めるような慈愛に満ちていた。不都合な自我を削り落とし、都合の良い役割を上書きする。魂を真っさらな原野へと戻し、そこに偽りの地図を描き込む儀式。零は音を殺してその場を離れた。背中の古傷が、焼けた鉄を押し当てられたように疼く。いつか自分も、あの男のように中身を空にされ、記号として処理される日が来るのだろうか。根を張るべき大地を奪われた浮草のような心許なさが、足元から這い上がってきた。
「……逃げなければ」
誰に、何に対してか分からないまま、零は走り出した。結社の回廊は、冷たい石の迷宮と化している。監視塔のサーチライトが夜空を薙いでいたが、なぜか零の足元だけを避けて通り過ぎる。不自然なまでの静寂。誰かに導かれているような、薄気味悪い感覚が肌を粟立たせた。肺に冷たい空気を流し込み、彼は結界の薄れる境界地へと急いだ。
星屑が砂のように降り注ぐバス停留所。そこは、世界の境界線が曖昧になる場所だ。銀色の鱗粉が舞う中、水鏡燐音が待っていた。古風なドレスの裾が夜風に揺れ、彼女の硬質な瞳が零を捉える。
「……結局、またここへ来たのですね。救いようのない、愚かな人だ」
「燐音……君に、会いたかった」
零は荒い息を吐きながら、彼女の手を求めた。指先が触れ合った瞬間、全身を雷光が突き抜ける。視界が白濁し、火花が散った。零の体内に刻まれた「英雄の聖句(スクリプト)」と、彼女が纏う妖精の魔力が、互いの存在を拒絶して火花を散らす。肉体が戦場と化し、筋肉が悲鳴を上げた。
「痛むのでしょう。でも、この痛みこそが、あなたが私を求めている証拠なのですよ」
燐音は拒絶することなく、悶える零をその細い腕で抱き寄せた。彼女の体温は冬の陽だまりのように、切ないほどに温かい。
「この痛みが……僕たちが生きている証なら、いくらでも耐える」
零は必死に言葉を絞り出した。記憶がただの記録に過ぎないのなら、今この瞬間に走る熱い痛みこそが、誰にも奪えない真実だ。彼は彼女という静かな入り江の中で、嵐が過ぎ去るのを待つ子供のように震えていた。
「いい子ね、零。あなたの傷は、私が癒してあげましょう」
燐音は小さな瓶を取り出した。指先に青白い燐光を宿し、零の背中の傷に触れる。焼けるような激痛が、冷たい水に溶けるように消えていった。スズランに似た甘く、どこか毒を含んだ香油の匂いが鼻をくすぐる。彼女の膝の上で、零は深い安らぎの中に沈んでいった。
「結社は、人間を本のように書き換える。僕もいつか、白紙に戻されるんだろうか」
零は、心の底にある澱を吐き出した。
「私が、あなたを白紙になどさせません。あなたは私の、唯一の英雄なのですから」
その言葉は甘い毒液となって、零の心に浸透した。孤独が癒え、新たな依存が芽を出す。しかし、微かな眠りに落ちかけたその時、彼女のポケットから小さな硝子瓶が転がり落ちた。
月光に透かしたその瓶には、見覚えのある紋章が刻まれている。記憶の定着を促すための、あの禍々しい液体。先ほど地下区画で、魔女ライラが手にしていたものと寸分違わぬものだ。
「……燐音、これは?」
零の問いに、彼女の唇が完璧な弧を描いた。その瞳の奥には、星の光も届かない冷徹な計算が潜んでいる。彼女は優雅な所作で瓶を回収すると、零の頬を優しく撫でた。「これは、あなたの魂が崩れないための『楔』ですわ。結社の毒を、毒で制するためのもの。……疑うのですか? 私を」
水鏡 燐音の声は、ひび割れた鐘のように冷たく、それでいてどこか哀しげに響いた。彼女の指先が零の喉元をなぞる。その感触は、冬の朝に窓を叩く木枯らしのように鋭く、零の思考を麻痺させた。
「……疑いたくない。君だけは、僕を裏切らないと信じたいんだ」
零は震える声で答えた。結社という巨大な嵐から逃れて辿り着いた、この停留所だけが彼の屋根だった。彼女の腕の中だけが、唯一、凍えた根を休ませることのできる温かな土壌だと思っていたのだ。
「なら、今の痛みも、この小瓶のことも忘れなさい。英雄に必要なのは、前だけを見据える無垢な瞳だけなのですから」
燐音は小瓶を深くドレスのポケットへ沈めた。彼女の背後に広がる銀色の霧が、境界線の終わりを告げるように濃くなっていく。星屑の雨が止み、停留所の錆びた看板が、現実の重力に引き戻されるように軋んだ。
「もう行かなくては。夜が明ければ、あなたはまた結社の忠実な駒に戻る。でも、忘れないで。この痛みを知る私だけが、あなたの本当の居場所であることを」
彼女は零の額に、氷のような唇を寄せた。それは祝福というよりは、呪いの刻印に近かった。燐音の姿が霧の中に溶けていく。零は伸ばしかけた手を力なく下ろした。彼女の体温が消えた後の空気は、肺を切り裂くほどに冷たい。
一人残された零は、立ち上がろうとして足元に何かが落ちているのに気づいた。
それは、燐音が小瓶を仕舞う際に零れ落ちたのであろう、古びた羊皮紙の断片だった。零はそれを拾い上げ、遠ざかるサーチライトの微かな光に透かした。
そこには、事務的な、あまりにも無機質な筆致でこう記されていた。
『第五回・没入セッション:支払済(星屑三〇〇〇グラム)』
『対象:個体識別番号・零』
『備考:情緒的依存の強化。英雄願望の維持に成功。次回、記憶の再上書きを推奨』
心臓が、凍りついた池の氷を割るような音を立てて跳ねた。
「セッション……? 支払、済……?」
零の指が、紙片を握りつぶすように震えた。
自分が感じていた魂を焼くような痛みも、彼女の膝の上で得た安らぎも、すべてはあらかじめ計量され、対価を支払われた「サービス」に過ぎなかったのか。彼が「家」だと思い定めていた彼女の慈愛は、結社の地下で見た「庭師」への処置と同じ、精巧にデザインされた偽造品だったのか。
足元の大地が、音を立てて崩落していく感覚に襲われた。
「おい、いつまでこんなところで油売ってやがんだ、っつーの」
背後から、聞き慣れた、そして今は最も聞きたくない男の声がした。
戌亥 鉄兵が、街灯の影からゆっくりと姿を現した。彼はいつものように安っぽい煙草を燻らせ、面倒そうに首の骨を鳴らしている。その瞳には、すべてを見透かしたような、ひどく冷めた色が宿っていた。
「……イヌイさん。いつからそこに?」
「最初からだ。サーチライトの死角を作ってやったのは俺だぞ。感謝しろよ、英雄様」
鉄兵は吐き出した煙を夜風に散らした。彼は零の手の中にある紙片を一瞥し、鼻で笑った。
「見ちまったか。それはお前の『利用明細』だ。この世にタダの救いなんてねえんだよ。特に、俺たちみたいな、物語の部品として生かされてる連中にはな」
「彼女も……リンネも、結社と繋がっているんですか?」
零の問いは、喉の奥で血の味がした。
「繋がってる? ハッ、おめでてえな。あの妖精姫様は、結社にとって最高の『外注先』だ。お前みたいな出来損ないの英雄候補を、精神崩壊させずに使い潰すためのな。お前が彼女に抱いてるそのクソったれな恋心こそが、お前を結社に繋ぎ止める一番太い鎖なんだよ」
鉄兵は歩み寄り、零の手から紙片をひったくった。そして、ライターの火を点ける。小さな炎が、零の「居場所」だった証拠を灰へと変えていく。
「帰るぞ、零。葛城 枢がお待ちかねだ。明日の朝には、また新しい『英雄の物語』が書き込まれる。……安心しろ。この絶望も、どうせ綺麗さっぱり消されちまうんだからよ」
鉄兵の手が、零の肩を強く掴んだ。その手は驚くほど重く、逃れられない運命の重圧そのものだった。
零は、遠くで明滅する結社の監視塔を見上げた。あの冷たい石の迷宮こそが、彼に許された唯一の檻であり、唯一の帰るべき場所なのだ。
彼は、灰になった紙片が夜風に舞うのを、ただ黙って見つめていた。胸の奥で、何かが死に絶える音がした。それは、かつて彼が「自分」と呼んでいた、名もなき少年の最後の悲鳴だったのかもしれない。
「……行きましょう、イヌイさん。僕は、英雄にならなきゃいけないんだ」
零の言葉から、一切の感情が消えた。
歩き出した彼の背中は、夜の闇に同化し、輪郭を失っていく。彼を迎えるのは、温かな家庭でも、愛する人の微笑みでもない。ただ、冷徹な管理官が待つ、終わりのない再調整の祭壇だけだった。