外縁層の紅葉データが、窓の向こうでふわりと反転した。 オレンジと深い紅がひっくり返りながら流れ、逆再生の水面を撫でる風みたいに揺れる。 ガラス越しの光が閲覧室の床に斑を落とし、薄く湿った石の匂いが、朝の冷えた空気にじわりと溶け込んでいた。 床下の水路を走る水音が「しと、しと」と耳の底を撫でる。 その音に、開館前の静けさがさらに深く沈んでいく。
春日透真は、棚を一列ずつ撫でていった。 指先を背表紙の継ぎ目に滑らせ、配列を確かめる。 毎朝の順番どおり、戦没枠、事故枠、病死枠へと進む。 「大学量子情報事故」のラベルが目に入ったところで、手が空中に止まった。 指先が紙と布の冷えに触れる寸前で、そこで固まる。
わずかに反った背表紙から伝わるはずの冷たさが、皮膚の一ミリ手前で空気ごと凍ったように感じられる。 足元がふっと軽くなった。 床は平らなはずなのに、踏んでいる石が一枚だけ、薄く揺れたような感覚が足首に上がる。 「双子スイッチ」。 昨夜、氷室蓮と雪村沙羅が口にしたあの言葉が、まだ掌の内側にざらりと残っていた。
兄・春日悠真の記憶層に、自分の情報を挿し込む。 氷室は、エンジンの配線を入れ替えて同じ機体を別の操縦士に渡す、なんて例えをあっさり出してみせた。 その瞬間の感覚が、ふたたび足元から這い上がってくる。 透真は兄の棚から半歩離れた。 床下の水路を走る音が、低く「ごう」と腹の奥で響く。
やりかけのルーティンを中断したくて、番茶のパックをカップに落とす。 湯を注ぐと、ほうじた茶葉の香りに、金木犀を薄めたような甘さが混じり、白い湯気になって立ちのぼった。 湿った紙と布の匂いと重なり、頭上から降るみたいに鼻腔をくすぐる。 喉の奥まで温かい香りが降りてきたところで、閲覧室の扉が「コト」と小さく鳴る。 開館前のチャイムには、まだ間がある。
早いな、と胸の中でだけ言いながら、内側から錠を外した。 金属の「カチャ」という音と一緒に、冷えた空気がすっと滑り込んでくる。 秋の外気をいったんどこかで濾過したみたいな、薄く軽い香りだ。 現世の空気が量子層を通ると、こんなふうに輪郭がぼやける。 「……慎重に、おはようございます」
控えめな声とともに顔をのぞかせたのは、水無瀬紗月だった。 制服の上に灰色のパーカーを羽織り、後ろでひとつに結んだ髪が肩の上で「すっ」と揺れる。 前に見たときより、その束が少し長い。 目の下には薄くくまがのびていて、コンビニの蛍光灯に晒されたあとのような白さが頬に残っていた。 口角だけが、申し訳なさそうに上がる。
「まだ、開館前だけど……まあ、その、どうぞ」
透真は、喉にかかりそうになる早口を押しとどめて言葉を選ぶ。 紗月は「すみません、なんか、早く目が覚めちゃって。 てか、寝れてないんですけど」と、肩をすくめながら中に入ってきた。 靴底が石を踏む音を、できる限り殺そうとしているのが分かる。 廊下の冷たさが、彼女の足裏から「ひや」と伝わってくるような気がした。
「今日は……後になって、絵里さんの続き? 中では、その……」
言いかけながら、透真は受付端末に手を伸ばす。 キーボードに指先が触れた瞬間、ガラスのひんやりした感触のあとに、微かな静電気の「ぴり」が走った。 それで、紗月の言葉を遮るみたいに、「それもあるけど……今度は、ちょっと、普通に、いたいだけっていうか」と彼女は言う。 視線は窓の外に泳ぎ、外縁層の紅葉データに投げ出された。
紅葉の光が、彼女の瞳の中で小さく反射する。 けれど、焦点はどこか外れていて、目の奥に薄い霞がかかっている。 眠れていない人特有の、遠くばかり見ているような目だ。 「朝ごはん、食べた? 代わりに、何か」
自分でも唐突だと分かる問いが口から滑り出た。 紗月は一瞬ぽかんとしたあと、「え。 ここで、あー……ついに、コンビニのパン、半分」と笑おうとして、口元だけが動いた。
「半分?」
「親が、朝から進路の話モードで。 ここ来るまでに、なんか、食欲、飛んじゃったから」
言いながら、手をひらひらさせる。 黒いネイルの剥がれかけた跡が、爪の先にうっすら残っていた。 ちょうどそのタイミングで、ほうじ茶のカップを一つ、彼女の前に置く。 湯気が立ちのぼり、紗月の頬に当たって「ほわ」と白い曇りをつくった。
「どうぞ。 熱いから、気をつけて」
「ありがとうございます。 今、ここ、マジで飲み物がいちばんおいしい」
紗月は両手でカップを包み込み、指をゆっくりと沿わせる。 温度を確かめるみたいに、陶器の感触を一度握ってから、鼻先を近づけて香りを吸い込んだ。 まぶたの力が、わずかに抜ける。 湯気が頬の乾いた肌をうっすらと湿らせていった。
沈黙が長く伸びそうになって、透真は湯気の向こうから声を投げた。 「最近、寝れてないの? ここじゃなくて、家で」
自分の声が、閲覧室の石壁で小さく跳ね返り、耳に戻ってくる。 紗月はカップの縁に唇を当てて、一口だけすする。 細い「すず」という音と同時に、ほうじ茶の香りが喉を通っていくのが見えるようだった。 「うーん……寝てはいるんですけど。 夢がなんか、全部、同じで」
カップをテーブルに戻し、「ここだと、夢は?」と彼女が続ける。 透真は首を少し傾けた。 「ここだと……あんまり、見たの覚えてないです」
ちょうどそのとき、窓の外で紅葉データがひとひら、ガラスに接触した。 光が「チカ」と跳ねて、室内に小さな反射を散らす。 床下の水音は、遠くで流れる川みたいに一定のリズムを保っていた。 紗月はその音を聞きながら、「家だと、夢見が悪くて。 なんか、ずっと同じ教室で、同じ時間で止まってる感じで」と視線を宙に泳がせる。
「ここだと……逆に、誰かの声がざわざわしてるから、落ち着くんです」
「ざわざわ?」
問い返すと、彼女は眉間に少しだけ皺を寄せた。 「うまく言えないけど……静かに、機内アナウンスがずっと流れてる空港、みたいな。 人の声が聞こえてる方が、寝れるっていうか」
空港、という単語が耳に引っかかる。 離着陸のアナウンス、ジェット音、待合のざわめき。 兄と出かけた修学旅行の前夜、空港のベンチで仮眠を取ったときの光景が、唐突に脳裏に浮かんだ。 冷たい金属のベンチと、薄い毛布の境界で身体がふわふわと浮いていたあの感じ。 紗月はカップを両手で持ったまま、「ここ、変なとこですよね。 でも、ちゃんと眠れる」と笑う。
「それは……よかった、のかな」
返しながら、透真は自分の言葉の頼りなさに、少しだけ肩をすくめる。 「よかったですよ。 その後、マジで。 ……あの、ちょっと、お願いしてもいいですか」
湯気の向こうで、紗月の視線がまっすぐこちらに向いた。 黒目がちの瞳の中に、光の粒が二つ、小さく浮かぶ。 決意と、どこか諦めに近い硬さが混ざった光だ。 胸の奥で、空気がじわりと重くなる。 台風が近づく前の空気のように、耳の内側が「きゅ」と詰まった。
「お願い?」
「今日、ちょっとだけ、寝てもいいですか。 ここで。 閲覧の前に」
意外な言葉で、肩から力が抜ける。 同時に、背筋にうすい冷えが走る。 利用者を閲覧以外の目的で長時間滞在させるのは、本来マニュアルでは好ましくない。 館内の空気が「現世寄り」に傾きすぎると、量子層のバランスが崩れる、と分厚い冊子に書いてあった。 職員用の簡易ベッドを利用者に開放する行為は、真っ黒とは言わないまでも、灰色の領域に入る。
けれど、目の前の顔を椅子に縛り付ける想像をすると、喉がからからになった。 目の下の影が、こちらまで重く垂れ込めてくる。 ほうじ茶を一口飲み、自分をごまかすように舌で液体を転がす。 少し冷え始めた茶の渋みが、「きゅ」と舌の側面に貼り付いた。
「……少しなら。 職員用の簡易ベッドでよければ」
出てきた声が思ったより穏やかで、自分で少し驚く。 「いいんですか?」
「他の人には、内緒で」
人差し指を唇の前に立てると、紗月はふっと笑った。 その笑い声が、閲覧室の高い天井に「かさ」と薄く広がって消える。 簡易ベッドは、閲覧室脇の小さな和室に置いてある。 戦没枠の閲覧で遺族が取り乱したとき、一時的に身体を横にしてもらうための部屋だ。
襖を開けると、畳の乾いた匂いと、洗剤の香りに日向のぬくもりを少し混ぜたような布の匂いが鼻をくすぐった。 「わ、ちゃんとしたベッド……」
「ちゃんとしてるかは、微妙だけど」
冗談半分に返すと、紗月はパーカーの袖で鼻先を一度こすり、ベッドの端に腰を下ろした。 スプリングが「きし」と小さく鳴り、シーツの布が肌に触れて「さら」と滑る。 引き出しからブランケットを取り出し、彼女の足元にそっとかけた。 布は、長く押し入れにしまわれていた太陽の匂いと、微かな埃っぽさが混ざったような香りがする。
「ありがとうございます。 ……マジで、ちゃんとしたベッドで寝るの、久しぶりかも」
「家にも、ベッドはあるでしょ」
「ありますけど。 最近、夜はなんか……ソファで寝落ちしてて。 気づいたら朝で、親に怒られて」
語尾がだんだん小さくなる。 枕元から見上げた天井に、外縁層の紅葉データの光がかすかに揺れて映っていた。 照明を少し落としてやると、オレンジの揺らめきが天井一面を「ゆら、ゆら」と流れていく。 高度を下げて飛ぶ機体の窓から見える街の灯りが、雲の層に滲んでいる時の景色を思わせた。
「ここだと……なんか、離陸前の時間みたいで。 落ち着く」
「離陸前?」
「まだ飛んでないのに、シートベルト締めた状態でさ。 エンジンの音だけ、ぐーんって聞こえてて。 あの感じ、好きなんですよね」
耳を澄ますと、床下の水音が「ごう、ごう」と低く響いていた。 音の質がさっきより少しだけ重く、滑走路の下でエンジンがゆっくり回転数を上げているように聞こえる。 「少し、寝たら」
「はい……春日さん、出発したら起こしてください」
自分で言って照れたのか、紗月は頬を枕に半分埋めた。 呼吸のリズムが、一つ、二つと緩んでいく。 長い睫毛が静かに閉じ、束ねた髪が枕に「ふわ」と広がった。
閲覧室に戻ると、窓の外の紅葉データのオレンジが少し濃くなっている。 木枯らしの前触れのような冷たい風が水音の向こうを通り抜けた気配があった。 端末を開き、開館準備のチェックリストを流し見る。 キーを打つたび、「カタ、カタ」と乾いた音が指先から骨に響いた。 Return JSON。 昨夜、氷室が指で示したサブフォルダ名が、青白いフォントで静かに浮かんでいる。
予約の返り値。 誰かがどこかで投げた「こうしてくれ」という要求に対して、図書館がどんな応答を返したかの一覧。 ——双子スイッチも、きっとこの先で引っかかる。 そこまで開きかけたところで、和室の方から小さな寝返りの音がした。 スプリングが「きし」と鳴り、布が擦れる「しゃり」という音が続く。 画面を閉じる。
今あれを見れば、頭の中で何かがレッドゾーンに入りそうな感じがあった。 エンジンが回転数を上げすぎて、金属が軋み出す一歩手前の嫌な感覚に、胸の奥がざわつく。 閲覧室の空気は、まだ穏やかだ。 焙じ茶の香りが薄く残り、紙と布と石の匂いが幾重にも重なっている。 和室の方からは、「すぅ、すぅ」と規則正しい寝息が漏れてきた。
仮眠室の照明を落としたときの柔らかい暗さを想像しながら、透真は自分のカップの残りを飲み干す。 湯はもうほとんど冷めかけているのに、少しだけ温かさが舌先に残り、ほんのり苦さが口の中に広がった。 ——守れるものなんて、たぶん、ほとんどない。 それでも、ブランケット一枚の温度くらいなら、今ここで調整できる。 その程度のことが、胸のどこかをわずかに軽くした。
どれくらい時間が経ったのか、意識が少し遠のいたころ、閲覧室の時計の針が一メモリ動く「コチ」という音が耳を叩いた。 紙をめくる音も、足音もない。 この空間には、まだ紗月しかいない。 和室の襖を少しだけ開けると、薄暗がりの中で彼女が横を向いて寝ていた。 頬にブランケットの跡が「すじ」とくっきり残っている。
呼吸は落ち着いていて、肩の上下がゆっくりだ。 「……水無瀬さん」
声をかけると、睫毛がぴくりと震えた。 しばらくしてから、瞼がゆっくり持ち上がる。 紅葉の光が黒目の中で小さく弾けた。 「……あ、すみません。 めっちゃ寝てた」
自分の声に驚いたように目を丸くし、紗月は慌てて上体を起こそうとする。 ブランケットがずり落ち、床の冷気が足首に触れたのか、「ひや」と小さく身を震わせた。 「大丈夫? 気分悪くない?」
「ううん。 なんか……久しぶりに、ちゃんと寝た感じがします」
声のトーンが、来たときよりわずかに高い。 喉の通りが良くなったのか、言葉が息にひっかからない。 「ここ、変なとこなのに。 やっぱ、落ち着く」
「変なとこ、ね」
「だって、床から水の音するし、外の紅葉、ずっと停滞してるし。 普通じゃないですよ」
紗月の言葉に応えるみたいに、紅葉データが窓の向こうで「ひら」と形を変えた。 光の屈折が和室の白い天井に映り、オレンジ色の波がさっと走る。 透真はその揺れを見上げて、「でも、飛行機の中も普通じゃないか」とこぼした。
「たしかに。 地面から浮いてるし、空気薄いし」
「それでも、意外と寝れる」
「ですよね。 あの、エンジンの音が一定だと、逆に安心する感じ」
床下の水音が、それに合わせるみたいに「ごう、ごう」と少し大きくなった気がした。 低い唸りが、耳の奥で続いている。 紗月はブランケットを膝の上にたぐり寄せ、「……あの」と真面目な声に切り替える。
さっきまで残っていた眠気が引き、かわりに何かを決心した人の目になっていた。 「お願い、もうひとつだけ、いいですか」
透真の指先が、無意識にポケットの中の職員カードを握りしめる。 厚いプラスチックの角が、指の腹に「かち」と当たった。 「……内容によるけど」
「予約って、できないんですか」
「予約?」
「将来の、私のやつ。 死亡記録」
空気が、一瞬で重さを持った。 焙じ茶の香りがそこで止まったように感じられる。 床下の水音が、遠くに引いていく。 代わりに、耳の奥で「キン」と高い音が鳴った。 頭の中の気圧がすっと下がる。
「……君は、まだ死んでないから」
沈黙に飲み込まれそうで、透真はとにかく言葉を出した。 「死んでからじゃ遅くないですか」
紗月の声は思ったより静かだった。 その静けさには、風が止まった滑走路のような、次に何かが来る前の張り詰めが潜んでいる。 「この前、友だちのデータに『予約済み』って出てたじゃないですか。《status: reserved, by: system》って。 あれ、勝手に決まってたわけですよね。 誰かが」
喉の奥がきゅっと詰まる。 「絵里さんの件」と言いかけて、舌の上で言葉を止める。 冷めた番茶をひと口飲むと、苦味が舌全体にじわっと広がった。 「……あれは、君が決めたんじゃない。 誰かが、勝手にやったんだ」
自分の声が耳の内側で低く響く。 石壁で反射した音が、少し遅れて「低い波」になって戻ってきた。 「だから。 勝手にやられる前に、自分で決めたいって言ってるんです」
紗月は、ブランケットの端をぎゅっと握った。 指の骨が布越しにはっきり浮かび上がる。 「誰が私のこと勝手に予約したかも分かんないまま、死んでから『はい、この人と再会コースです』とか決められるの、イヤで。 だったら、今のうちに、こういうふうにしてほしいって、ここに残しときたい」
透真は、いつもの説明の癖が喉まで上がってきているのを自覚しながら、言葉を選ぶ。 「……うちの図書館は、原則として、現世で生きている人の記録を扱わない。 死亡届が出て、一定のプロセスを経てから――」
そこで一度言葉を切った。 紗月の顔に、薄い苛立ちの影が走るのが見えた。 「でも、友だちのは、もう『予約済み』なんですよね」
「それは……例外的なケースで」
「例外。 そういうのが一番怖いんですけど」
紅葉データが、窓の向こうでわずかに白んだように見えたあと、「ざわ」と細かく揺れて元の色に戻る。 オレンジの粒が天井に斑を投げる。 量子ノイズが一瞬走った、と身体で分かる。 透真は息を整え、司書端末に手を伸ばした。
タッチパネルの冷たさが指の腹を冷やす。 青白いインターフェースが浮かび上がり、キーを打つ音が「カタ、カタ」と空気を割った。 死亡記録登録フロー。 その下に、小さなサブメニュー。 Return JSON/予約管理モジュール。 カーソルをそこに合わせた瞬間、掌の内側にじんわり汗が滲む。 ひんやりしたはずのガラス面が、指先に少しだけしっとりとまとわりついた。
——生者の未来データを扱える仕様。 氷室の声が頭の中で再生される。 「ざっくり言うと、未来に飛ぶ便の仮予約みたいなもんだ」と笑っていた。 誰がどの便に乗るか、どの空港で誰と乗り継ぐか、その全体の航路を連理会が組む。 そのためのインターフェースが、このReturn JSONだ。 指先がボタンの上で止まる。 画面の青白い光が、手の甲と紗月の横顔に反射した。
彼女の頬に残る寝跡まで、やわらかい影として浮かび上がる。 「そういう仕組みは、基本的には……ない、ことになってる」
喉を絞るようにして言葉を出す。 「でも、あるんですよね。 『ことになってる』って言うってことは」
紗月の声が、きっぱりと立った。 視線が画面に向かう。 青白い光が瞳の中で細い線になって揺れていた。 「春日さん、『例外』って言った。 例外があるってことは、誰かが特別扱いされてるってことですよね。 私、特別扱いしてほしいわけじゃないです。 でも――」
言葉を探しながら、一度唇を噛む。 「でも、どうせ誰かが勝手に決めるなら、今決めたい。 私が」
最後の方で、声がわずかに震えた。 閲覧室の静けさの中で、その震えが針の先みたいに耳に刺さる。 冷めかけた番茶から、渋みの強い匂いがゆっくり立ちのぼった。 さっきまで甘さを含んでいた香りが、「きゅ」と尖る。
「誰も勝手には決めない……はずだ」
気づいたら、透真はそう口にしていた。 言いながら、自分の腹の奥が冷える。 ——嘘に近い。 兄の記憶。 婚約者の記録。 絵里の「予約済み」ステータス。 《route_rewrite_pending》のログ。 どれも、どこかで誰かが線を引き、経路を書き換えようとしている痕跡だ。
「少なくとも、俺は勝手に決めたくない」
言い直す。 喉から出た声は、さっきより静かだが、硬さを含んでいた。 「決めていいのは、たぶん本人だけで……でも、未来の本人って、今の君と同じなのか分からない。 今の君が『これがいい』って決めたことを、十年後、二十年後の君がどう思うかも分からない」
紗月は視線をテーブルに落とし、カップの縁を指先でなぞった。 磁器の固さが爪に「こつ、こつ」と伝わる。 「でも、親とか、学校とか、会社とかは、勝手に決めるじゃないですか。 進路も、制服の着方も、何時に家帰れっていうのも」
声が少しだけ強くなる。 紅葉データが窓の外で「ざわ」と大きく揺れた気配がした。 光の屈折が閲覧室の壁に、まだらな模様を撒き散らす。 「葬式のやり方とか、遺影の写真とかも、多分、勝手に決める。 『こういうのが普通だから』って」
口にされた「葬式」の光景が、透真の頭に兄の葬儀を引き戻す。 祭壇に並ぶ白い花。 線香の煙が目にしみる匂い。 親戚たちのざわめきと、「残った子の方がしっかりしないとね」と言った伯母の声。 棺の中の兄の顔をまともに見られず、視線を逸らした先に、誰かが選んだ遺影の写真があった。 自分の知らない角度で笑う兄の顔。
「私、ああいうので、また勝手に決められるの、イヤなんです」
カップの縁をなぞる指先が、わずかに震える。 陶器と爪が擦れて、「きり」と薄い音がした。 「だったら、今のうちに、『こうしてほしい』って、ここに書いときたい。 ここだったら……多分、適当に雑に扱われない気がするから」
胸の内側で、何かがきゅっと縮む。 「ここ」を信頼の場所として見ている、その眼差しの重さが、肩に降りてくる。 嬉しさと同時に、その期待に応える覚悟が自分にあるのか、喉の奥が乾いた。
「春日さんだって、誰かの記憶、守りたいんでしょ」
言葉の向きが自分に向かう。 空気が一段低くなった気がする。 「守りたいけど……書き換えたいわけじゃない」
兄の婚約者の記録に付け足された、見知らぬ女性の笑顔。 ノイズで隠された顔の輪郭。 あれを削除したい、上書きしたい衝動が一瞬、胸の内側で「じり」と燃える。 指先が膝の上で丸くなりかける。 ——それさえ、書き換えの衝動だ。
「私のも、勝手に書き換えないでくださいね」
紗月は、少しだけ笑った。 その笑いには、毛先のような小さな刺がある。 「今こう言ってることも、含めて。 『若かったからね』とか言って無かったことにされたら、マジで成仏できない」
「……分かった。 勝手には、しない」
自分の声がかすれているのに気づく。 喉の奥に、冷えた番茶の渋みが貼り付いたままだ。 「でも、今ここで『予約』って形で記録するのは――」
視線を端末に落とす。 Return JSONモジュールのアイコンが、青白く静かに光っている。 カーソルがその近くでちらちら明滅する。 「図書館の公式な仕組みとしては、扱えない。 生きている人の未来の死亡記録は、まだ『未定』っていう前提になってるから」
「未定だから、怖いんですよ」
紗月は椅子の背にもたれ、木の軋む音が「きし」と鳴る。 「未定だから、誰かが勝手に埋める。 だったら、私が埋めたい。 その紙、白紙のまま渡されるの、イヤなんです」
未定。 余白。 白紙。 自分が長いあいだ、「兄の物語の余白」みたいな存在だと感じていた記憶が、背中からじわじわ上がってくる。 誰かがそこに文字を書くのを、ただ待つだけの立場。 今、自分は逆に、誰かの余白に何かを書き込める位置にいる。 司書として、連理会に目を付けられた駒として。
——それは、仲介するふりをした暴力にもなり得る。 頭のどこかで理解していた言葉が、急に目の前の現実に変わっていく。 拳が膝の上でぎゅっと握られていることに気づき、慌てて力を抜いた。 爪の跡が掌の皮膚に残り、「痛い」という感覚が遅れて届く。
「……こういうのはどうかな」
しばらくの沈黙のあと、透真はゆっくり息を吐いた。 肺の中の空気が冷たく入れ替わる。 端末のReturn JSONモジュールからカーソルを離し、通常メニューを閉じる。 代わりに、ローカルメモのアプリを開いた。 「コト」と小さな音とともに、新しいウィンドウが現れる。
入力欄が白く光る。 『水無瀬紗月/希望する死後の縁』。 タイトル欄にそう打ち込む。 キーを叩く音が、「カタカタ」と規則正しく響いた。 「これは、図書館の公式記録じゃない。 システムにも紐づけない。 俺が勝手に覚えておくメモみたいなものだけど、それでもよければ……話を聞かせてほしい」
紗月は、一瞬ぽかんとした表情を見せ、それからゆっくり瞬きをした。 青白い光がその瞳に揺れる。 「それ、意味あるんですか」
「正直、分からない。 君が本当にここに自分の死亡記録を持ち込む日が来るかどうかも分からないし。 その時、俺がまだここにいるかどうかも分からない」
遠くの水音が、少しだけ高くなった。 「さらさら」から「ごうごう」へ、ほんのわずかな変化。 「でも……今、君が『こうありたい』って思ってることを、誰か一人くらい、ちゃんと聞いて記録しておくのは、無駄じゃないと思う。 公式じゃなくても」
紗月は、少し俯いて口元を押さえた。 笑っているのか、涙をこらえているのか、一瞬分からない。 「それ、春日さんが怒られません?」
「怒られたら……まあ、その時考える」
「そういうの、ずるいですよね。 大人の『その時考える』って」
言葉は責める調子なのに、声はわずかに緩んでいた。 ブランケットを膝の上で軽く整えながら、紗月はうなずく。 「じゃあ、書いてください。 私のわがまま」
「わがまま、ね」
「どうせ、死後くらい、わがまま言わせてほしいし」
小さな冗談が空気を少し和らげた。 窓の外の紅葉データが、さっきまでのざわつきとは違う、ゆっくりした降り方に変わる。 光の粒が、雪のようにゆるやかに下へ沈んでいった。 焙じ茶と紙の匂いが、閲覧室全体に柔らかく満ちる。
「じゃあ……どこから聞こうか」
「うーん。 まず、葬式は、あんまり泣かないでほしい。 泣いてもいいけど、なんか、演技っぽいのはイヤ」
「演技っぽい?」
「テンプレの、きれいな泣き方。 ああいうの見ると、こっちが申し訳なくなるから。 できれば、ちょっと笑ってほしい。 変な顔の写真とか、出してほしい」
キーを叩く指が、彼女の言葉のリズムを追いかける。 箇条書きにはせず、そのままの調子を文字に移していく。 『葬式では、あまり作ったような泣き方はしてほしくない。 できれば、変な顔の写真で笑ってほしい』。 入力音が、「タタ、タタ」と軽く流れる。
「遺影は、ちゃんと自分で選びたいけど……それは無理だから。 せめて、あんまり盛らないでほしい。 プリクラとか、無理」
「ああ……プリクラの遺影は、確かに……」
思わず口元が緩み、透真が苦笑すると、紗月もつられて笑った。 笑い声が紙の匂いと混ざって、ふわりと部屋に漂う。 「友だちの記録の棚の近くがいいです。 できれば。 絵里の隣がいい。 でも、それは……向こうの家の人とかもいるから、難しいのかな」
「棚の配置は、一応、死因とか時代とかで決まってるから……ただ、近くに寄せるくらいなら、調整できるかもしれない」
そこまで言って、自分が何を約束しようとしているのかが急に現実味を持って迫り、背筋に冷たい汗がにじむ。 足はちゃんと床を踏んでいるのに、身体だけが少し浮いているような感覚。 「じゃあ、『可能なら』って書いといてください。 あんまり期待して、裏切られるのもイヤだから」
『友人・水無瀬絵里の近くに棚を配置してほしい(可能なら)』。
文字を打ちながら、自分がまた一つ、誰かの未来に細い線を引いている感触があった。 公式な記録ではない。 システムにも載らない。 ただのメモだと頭で繰り返しながらも、指先の動きが滑走路に白線を引いているような錯覚が離れない。
「それから……ここに来てほしいです。 死んだあとも。 ここ、変なとこだけど、好きだから。 年に一回とかでいいから、誰かが来て、棚の前で、『あー、こいつバカだったな』って笑ってくれたら、それでいい」
声がわずかに震え、瞳の奥で光がにじむ。 「家族でも友だちでも。 春日さんでもいいですけど」
最後の一言には、うっすら冗談の色がついていたはずだ。 けれど、その奥にある素の願いが、透真にははっきり見える気がする。 『年に一度でいいので、誰かに棚を訪れてほしい。「あーこいつバカだったな」と笑ってもらえたら、それでいい。 できれば、春日さんにも。』
指先が止まる。 画面に自分の名前が浮かんだのを見て、胸の奥がじんと熱くなった。 焙じ茶の香りが、さっきより濃く感じられる。 「……いいのか。 俺で」
「誰でもいいって言ったじゃないですか」
紗月は視線をそらし、耳の先が少し赤くなった。 「ただ、なんか、春日さんは……忘れなさそうだから。 変なとこまで」
「俺のこと、なんだと思ってるの」
「記憶マニア?」
「ひどいな」
軽口のやりとりに、少しだけ救われる。 外縁層の紅葉データが、今は穏やかに降り積もっていた。 光の粒が、閲覧室に柔らかな影のレイヤーをつくる。 「……これくらいかな。 今、思いつくのは」
紗月は深く息を吐いた。 胸の上下する動きが、静かな空気の中で目に見える。 「明日になったら、また変わってるかもしれないですけど。 でも、それも含めて、ここに残しときたい」
「今の君がこう思ってるってことを、残しておく」
画面のメモ欄に、最後に一行、そう書き足す。 『これは、202X年秋、黄泉図書館閲覧室にて、水無瀬紗月本人が語った「現時点での希望」である。』 キーを叩く音が、一瞬だけはっきりと響いた。
「ありがとうございます」
紗月は頭を下げる。 髪が頬に「さら」と落ちる。 「これで、ちょっと安心しました」
「安心、できた?」
「うん。 全部は無理でも……少なくとも、誰かが聞いてくれたっていうのが」
そこで言葉が途切れ、唇が少し震える。 紗月は、照れ隠しのようにさっと立ち上がった。 「じゃあ、今日は、絵里のも、少しだけ見て帰ります。 長居すると、怒られそうだし」
「怒らないけど……まあ、学校もあるしね」
「そうそう。 今日、進路相談なんで」
ため息まじりに笑いながら、閲覧室の方へ歩いていく。 足音が石の床に「コツ、コツ」と響き、やがて棚の間に吸い込まれた。 その背中を目で追いながら、透真は端末のメモを保存する。 保存ボタンを押すと、「ぴ」という小さな音が鳴った。
同時に、画面の右下に見慣れないポップアップがふっと現れる。 『このメモを既存の記録に紐付けますか? Return JSON/local_note_attach』。 白い文字が、青白い背景の上で静かに点滅していた。 心臓が「ドク」と大きく打つ。 血管の中で、一瞬だけ氷の結晶が広がるような感覚が走る。
——紐付け。 このボタンを押せば、この非公式メモが、将来の「水無瀬紗月」の棚と何らかの形で結びつく。 まだ存在していない棚。 未定の航路。 指先が、いつの間にかそのボタンの上まで滑りかけていた。 ガラス面の冷たさが、指の腹に「ひや」と貼り付く。 背筋が、金属の棒を入れられたみたいに固くなる。
「春日さん」
閲覧席の方から、紗月の声が飛んできた。 「ん?」
「さっきのメモ。 ……私、今日言ったこと、そのまま残しておいてくださいね。 偉い人向けに、きれいに編集とかしないで」
「しないよ」
自分でも驚くほど即答していた。 紗月は、それで満足したように一度うなずく。 映像棚の方から、ケースを抜く「すっ」という音が聞こえた。 透真は指先をボタンから離し、Return JSONのポップアップを「×」で閉じる。 画面の光が一瞬暗くなり、すぐに元のメモ画面に戻った。
その間、胸の鼓動だけが、耳の内側で強く鳴り続ける。 ——これは予約じゃない。 自分にそう言い聞かせる。 これは、ただのメモだ。 公式の便名も、フライト番号も、まだ何も決まっていない。 滑走路の端で、エンジンさえかけていない段階。 それでも、機体だけは、もうそこに横たわっている。
夕方。 外縁層の紅葉データが、少しずつ暗く沈んでいく。 オレンジは鈍い銅色へ変わり、窓の向こうの光が弱くなる。 代わりに、どこからともなく虫の声のようなノイズが「チチチ」と聞こえ始めた。 秋の夜の気配が、量子層を通って館内に入り込んでくる。 閲覧室には、もう誰もいない。
床下の水音だけが、「ごう、ごう」と低い一定のリズムを刻む。 透真は、兄・春日悠真の棚の前に立っていた。 背表紙へ伸ばした指先を、ぎりぎりのところで止める。 紙と布の層の向こうから伝わってくるはずの冷たさが、空気越しに皮膚を冷やした。 端末を小脇に抱え、Return JSONモジュールを開く。
「ぴ」と小さな音がして、画面に一覧が表示される。 『未処理の予約リクエスト:0件』。 淡々とした数字。 何も決まっていないと言われているようで、逆に胸が締め付けられた。 別ウィンドウで、さきほどの『水無瀬紗月/希望する死後の縁』のメモを呼び出す。 文字の並んだ画面から、彼女の声がまだ微かに響いてくる気がする。
その隣に、兄の記録のステータス画面を表示する。 《警告 記録ID-YU-0342は現在、保全プロセス中です 一部閲覧権限が制限されています》。 画面上部には、小さなアイコンが光っている。 Return JSON/route_rewrite_pending。 誰かが兄の航路を書き換えようとしていて、そのプロセスが保留されたままになっている。 その「保留」の隙間に、自分を滑り込ませようとしている連理会。
そこで双子スイッチが使われる。 ——誰も勝手に決めない、なんて言葉は、とうに壊れている。 さきほど自分で言い直した台詞が、胸の内側でじわじわ染みていく。 自分だって、もう余白に書き足している。 紗月のメモ。 兄の記録から婚約者を消したい衝動。 例外を積み重ねる手。
「仲人じゃないふりをして、勝手に線を引いてる」
小さく漏らした声が、棚と棚のあいだから自分に返ってきた。 聞き慣れた低い声なのに、どこか他人のもののように冷たく響く。 画面の右下に、さっき閉じたはずのポップアップが、また静かに浮かび上がっていた。 『このメモを既存の記録に紐付けますか? Return JSON/local_note_attach』
白い文字が、夜モードの暗いインターフェースの上で点滅を繰り返している。 図書館の照明が落ち、棚の縁に沿って細い光のラインだけが浮かぶ。 その光が画面の白と混じり、兄の背表紙に薄い反射をつくった。 指先が、またゆっくりボタンに近づいていく。 ガラス面が「ひや」と冷たい。
——ここで紐付けてしまったら。 紗月の未来も、この図書館の行方も、たった一行のメモと一回のクリックで、違う航路に乗ってしまうかもしれない。 その予感が、胸の奥で鉛のように居座る。 エンジンがレッドゾーン手前でうなっている感覚が、耳の奥で膨らんだ。 遠くで、「チチチ」という虫の声に似た量子ノイズが、少しだけ大きく聞こえる。
「これは予約じゃない」
もう一度、自分に言い聞かせる。 声がわずかに震えた。 背筋を伸ばし、足を床にしっかりと踏みしめる。 畳ではない石の固さが足裏から「ずし」と伝わった。 画面の端で、白い文字が静かに光を放ち続ける。
『紐付けますか?』
透真は、その光から目を逸らせないまま、指先を空中で止め続けていた。
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第12章:予約されない空路 - 黄泉の図書館
外縁層の紅葉データが、窓の向こうでふわりと反転した。 オレンジと深い紅がひっくり返りながら流れ、逆再生の水面を撫でる風みたいに揺れる。 ガラス越しの光が閲覧室の床に斑を落とし、薄く湿った石の匂いが、朝の冷えた空気にじわりと溶け込んでいた。 床下の水路を走る水音が「しと、しと」と耳の底を撫でる。 その音に、開館前の静けさがさらに深く沈んでいく。
春日透真は、棚を一列ずつ撫でていった。 指先を背表紙の継ぎ目に滑らせ、配列を確かめる。 毎朝の順番どおり、戦没枠、事故枠、病死枠へと進む。 「大学量子情報事故」のラベルが目に入ったところで、手が空中に止まった。 指先が紙と布の冷えに触れる寸前で、そこで固まる。
わずかに反った背表紙から伝わるはずの冷たさが、皮膚の一ミリ手前で空気ごと凍ったように感じられる。 足元がふっと軽くなった。 床は平らなはずなのに、踏んでいる石が一枚だけ、薄く揺れたような感覚が足首に上がる。 「双子スイッチ」。 昨夜、氷室蓮と雪村沙羅が口にしたあの言葉が、まだ掌の内側にざらりと残っていた。
兄・春日悠真の記憶層に、自分の情報を挿し込む。 氷室は、エンジンの配線を入れ替えて同じ機体を別の操縦士に渡す、なんて例えをあっさり出してみせた。 その瞬間の感覚が、ふたたび足元から這い上がってくる。 透真は兄の棚から半歩離れた。 床下の水路を走る音が、低く「ごう」と腹の奥で響く。
やりかけのルーティンを中断したくて、番茶のパックをカップに落とす。 湯を注ぐと、ほうじた茶葉の香りに、金木犀を薄めたような甘さが混じり、白い湯気になって立ちのぼった。 湿った紙と布の匂いと重なり、頭上から降るみたいに鼻腔をくすぐる。 喉の奥まで温かい香りが降りてきたところで、閲覧室の扉が「コト」と小さく鳴る。 開館前のチャイムには、まだ間がある。
早いな、と胸の中でだけ言いながら、内側から錠を外した。 金属の「カチャ」という音と一緒に、冷えた空気がすっと滑り込んでくる。 秋の外気をいったんどこかで濾過したみたいな、薄く軽い香りだ。 現世の空気が量子層を通ると、こんなふうに輪郭がぼやける。 「……慎重に、おはようございます」
控えめな声とともに顔をのぞかせたのは、水無瀬紗月だった。 制服の上に灰色のパーカーを羽織り、後ろでひとつに結んだ髪が肩の上で「すっ」と揺れる。 前に見たときより、その束が少し長い。 目の下には薄くくまがのびていて、コンビニの蛍光灯に晒されたあとのような白さが頬に残っていた。 口角だけが、申し訳なさそうに上がる。
「まだ、開館前だけど……まあ、その、どうぞ」
透真は、喉にかかりそうになる早口を押しとどめて言葉を選ぶ。 紗月は「すみません、なんか、早く目が覚めちゃって。 てか、寝れてないんですけど」と、肩をすくめながら中に入ってきた。 靴底が石を踏む音を、できる限り殺そうとしているのが分かる。 廊下の冷たさが、彼女の足裏から「ひや」と伝わってくるような気がした。
「今日は……後になって、絵里さんの続き? 中では、その……」
言いかけながら、透真は受付端末に手を伸ばす。 キーボードに指先が触れた瞬間、ガラスのひんやりした感触のあとに、微かな静電気の「ぴり」が走った。 それで、紗月の言葉を遮るみたいに、「それもあるけど……今度は、ちょっと、普通に、いたいだけっていうか」と彼女は言う。 視線は窓の外に泳ぎ、外縁層の紅葉データに投げ出された。
紅葉の光が、彼女の瞳の中で小さく反射する。 けれど、焦点はどこか外れていて、目の奥に薄い霞がかかっている。 眠れていない人特有の、遠くばかり見ているような目だ。 「朝ごはん、食べた? 代わりに、何か」
自分でも唐突だと分かる問いが口から滑り出た。 紗月は一瞬ぽかんとしたあと、「え。 ここで、あー……ついに、コンビニのパン、半分」と笑おうとして、口元だけが動いた。
「半分?」
「親が、朝から進路の話モードで。 ここ来るまでに、なんか、食欲、飛んじゃったから」
言いながら、手をひらひらさせる。 黒いネイルの剥がれかけた跡が、爪の先にうっすら残っていた。 ちょうどそのタイミングで、ほうじ茶のカップを一つ、彼女の前に置く。 湯気が立ちのぼり、紗月の頬に当たって「ほわ」と白い曇りをつくった。
「どうぞ。 熱いから、気をつけて」
「ありがとうございます。 今、ここ、マジで飲み物がいちばんおいしい」
紗月は両手でカップを包み込み、指をゆっくりと沿わせる。 温度を確かめるみたいに、陶器の感触を一度握ってから、鼻先を近づけて香りを吸い込んだ。 まぶたの力が、わずかに抜ける。 湯気...