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読書中
ガス台のつまみをひねるみたいに、閲覧室の明るさがじわじわと絞られていく。 日勤最後の利用者が扉を抜け、「ぴっ」と短く電子ベルが鳴った。 閉室十五分前。 片付けと点検の時間だ。
天井の蛍光灯が、水底から見上げた光みたいにゆらゆら揺れる。 白かったはずの光が少し黄ばんで、棚の影が通路の先まで長く伸びる。 湿った紙と線香と、今日はそこに、濡れた土の匂いまで混ざっていた。 梅雨から夏へ移る夕方の、むっとする空気が、建物の壁を抜けて入り込んだようだった。
春日透真は、片付け用のワゴンを押しながら、閲覧端末の列を一つずつ確認していく。 画面の右上に、「ログアウト済み」「ログアウト済み」と表示が並ぶ。 ただの確認作業。 味見前のキッチンをとりあえず片づけているときの、いつもの手順をなぞる。
それなのに、胸の奥だけが落ち着かない。 火を止め忘れた鍋が、弱火のままじわじわと泡を立て続けるときの、あの落ち着かなさが、脈のたびに内側を叩いてくる。 兄の棚の前を通るたび、埃ひとつない背表紙たちの間から、ひやりとした向きの違う空気が漏れてきて、耳の奥で、ぴき、と小さく筋が軋んだ。 そして、その手前の端末にだけ、薄い青色の通知が残っていた。
「職員用保全ログ閲覧権限:有」
その文字列が、画面の中央にぽつんと浮かんでいる。 透真は、ワゴンの取っ手から片手を離し、そっと端末に身を寄せた。 「…今度は、…保全ログ?」
喉の奥から零れた声は、自分でも驚くほど掠れていた。 さっきまでこの席を使っていたのは、中堅の同僚のはずだ。 画面右上、まだ完全に消えていない記録IDの一部が、幽霊みたいにそこに残っている。
《YU-》
胃のあたりが、そこだけ熱湯を流し込まれたようにじりっと熱くなった。 兄の識別子。 指先はそれでも迷いを知らない顔で、「続行」のボタンに滑っていく。
軽いタップ音。 端末があっさりログインを引き継ぎ、画面上部の表示が「春日 透真」に書き換わった。 それと同時に、スピーカーから、無表情な女の声が流れ出す。
『警告。記録ID-YU-0342は現在、保全プロセス中です。閲覧権限は一部制限されています』
ぴ、と控えめな警告音。 透真は、短く息を吐いた。 保全中の表示。 さっき、利用者の祖母の記憶で見たばかりの文言が、兄のIDと並んでいる。
「うわ、また出てる」
背後から、間延びした声が降ってきた。 振り向くと、さっきまでここに座っていた同僚司書が、マグカップを片手に立っている。 髪を無造作にかきあげ、透真の肩越しに画面を覗き込んだ。
「春日くんとこも“保全中”? ここまで最近多いよねー、これ。上の方でなんかやってるらしいけど、俺らには関係ないって」
「…その、ええ、まあ」
透真は、喉の奥を無理やりまっすぐにして、事務口調を捻り出した。 声だけは、いつも通りを装う。 「滅多に見ない表示だから、ちょっと気になって」
「気にしたら負けだよ、こういうの。俺らは、ちゃんと火加減見るだけ」
同僚は、冗談半分で言いながら、マグカップを軽く振った。 淹れたてのインスタントコーヒーの匂いがひと呼吸分だけ通路に広がり、すぐ線香と湿紙の匂いに押し流される。 「じゃ、ロッカー寄って帰るわ」
ひらひらと手を振って、ぱたぱたと軽い靴音を響かせながら、廊下の奥へ消えていった。 背中が棚の角を曲がって完全に見えなくなるのを待ち、透真は、肺の奥に溜め込んでいた空気をゆっくり吐き出した。
保全中。 しかも、上の方。 兄の記録に、また誰かが道具を突っ込んでいる。
ワゴンの取っ手を握る手のひらに、じわりと汗が滲む。 指先がプラスチックの表面で少し滑った。 業務規定では、身内の記憶の深層閲覧は、業務外で行うことを固く禁じている。 それでも、ここまで匂いを立てて目の前に置かれて、何も見ずに通り過ぎられるほど、舌は冷めていなかった。
「……後になって、一応、確認だけ」
誰にともなく、自分に差し出す言い訳のように、呟きがこぼれる。 兄の鍋の蓋を、今だけ少し持ち上げて、中の様子を覗くだけ。 そこまで、と心の中で線を引く。
透真は、ワゴンを通路の端へ寄せ、椅子を引いた。 腰を下ろすと、座面の冷たさが布越しに背骨に伝わる。 端末に自分の認証を通し、兄の記録IDを打ち込んだ。 キーボードに落ちる指先のリズムが、いつもよりほんの少しだけ早い。
画面が一瞬暗くなり、すぐに白いインターフェースが浮かび上がる。 黒い水面の真ん中に、白い皿が音もなく置かれたような、唐突な明るさ。 リストには、見慣れた文字列が並ぶ。
《春日 悠真/死亡時年齢:24/記録層:D-3》
その下に、小さな赤文字。 《状態:保全中(再構成プロセス進行)》。
喉の内側が砂を詰められたみたいに乾く。 唾を無理に飲み込み、「閲覧」のボタンに親指を落とした。
『警告。現在の状態での閲覧は、記録の一部欠損および表示エラーを伴う可能性があります。それでも続行しますか』
女声が、淡々とした調子で告げる。 「はい」のボタンの上で、指先がわずかに震えた。 湯気の立つ鍋の蓋に、素手で触れようとするときの、あの一瞬のためらいを無視して押し込んだ感覚。
画面の縁がかすかに揺らぎ、閲覧室の蛍光灯の光まで、それにつられてふらふらと震えて見えた。 棚の隙間から流れ込んでくる重い湿気が、足首のあたりにまとわりつく。 線香と土の匂いの奥に、まだ雨の落ちていない空の匂いが混ざる。
タイムラインが現れた。 年代ごとに区切られた、兄の人生の一覧。 幼少期。 中学。 高校。 大学。 事故の日。 病院。
何度も何度も舌に乗せてきた料理の名前を、メニュー表で見直しているような感覚だった。 透真は、スクロールバーを事故直前の時期まで、一気に滑らせる。 指先に、じっとりと汗が噴き出す。 本来の目的地は、別のはずなのに。
「…やがて、…深層検索モード」
呼吸を整えるように呟き、画面右上にある小さな歯車アイコンをタップした。 職員用マニュアルの隅に、「通常業務では使用しないこと」と強調されていたモード。 完成品を眺めるのではなく、レシピの文を一行ずつばらして眺めるやり方。
パスワードを打ち込む。 指が迷いなく進んでいく。 研修で一度きり触っただけのはずなのに、筋肉が記憶していた。
画面は、ほんの刹那だけ漆黒になり——次に立ち上がったのは、無数の行と括弧とコロンの列だった。 四角く区切られた文字列がぎっしりと積み重なり、上から見下ろした書類棚みたいに見える。
「タイムスタンプ……場所タグ……ここまでは、見慣れた構造」
独り言が、小さく空気を震わせる。 視線が行をたどるたび、灰色のラインがその後を追い、行間に波紋のような揺らぎを残した。 ところどころに、小さな朱色の点が明滅している。 除外マーク。 保全中の印。
スクロールを少しずつ送る。 大学の研究室。 飲み会。 家族旅行。 病室。 行の端に並んだタグに、見覚えのある地名や日付がぶら下がっている。
その途中。 不意に、見慣れないセクションが、ひっそりと挟み込まれていた。
"縁属性": {
漢字二文字が、英文の並びの中にぽつねんと浮かんでいる。 箸置きのようだ、と透真は思った。 主菜の横にさりげなく置かれているのに、目立たずにはいられない小さな道具。
「……“縁属性”? こんなセクション、前からあったか」
胸の奥がざわりと波打つ。 カーソルを合わせた瞬間、「ぴっ」と小さな警告音が鳴った。 それでも「展開」をタップする。 行が下へ向かって開いていく。
"family": {...}
"friendship": {...}
"colleague": {...}
見なかったことにしろ、とどこかで声が囁く。 視線は、その忠告を滑り落ちるように無視し、さらに下へ。
"engagement": {
行頭の脇で、朱色の印が点滅していた。 除外指定。 システムが、自動スクロールでカーソルを上へ押し戻そうとする。 透真は、スクロールバーを逆方向に掴み、ぐっと引き下ろした。
「……"engagement"」
口の中でそっと転がす。 英単語を舌に乗せた瞬間、そこに日本語の意味がじわりと染み出す。 婚約。
指先が、汗と皮脂で粘ついた。 兄に、婚約者。 肺に入ってくる空気が急に薄くなり、胸郭が広がりきらない。 視界の端で、蛍光灯がゆっくりとぐにゃりと歪んだように見えた。
それでも、項目を開く。 "status": "registered",
"partner_id": "—暗号化—",
"registered_at": "20XX-07-22T14:03:17Z"
冷たい文字列たち。 その中で、"registered" の六文字だけが、舌の上にザラザラした砂のような後味を残した。 正式登録済み。
「兄さん……そんな……」
言葉が、喉の途中で崩れた。 家族の誰からも、聞いていない。 兄の記録ファイルにも、婚約者の欄など影も形もなかった。 葬儀で配られた略歴にも、その文字はなかった。
それなのに、この項目だけが、知らないあいだにメニューの欄外から滑り込んでいる。 厨房の脇に立っていたはずの自分が知らないまま。 透真は、"registered_at" の横に並ぶ数字の列を、人差し指の腹でなぞった。
7月22日。 事故の少し前。 嫌になるほどよく晴れた、あの夏の日付。
『権限不足。詳細情報の閲覧は制限されています』
女声が、温度のない調子で言い放つ。 ぴっ、とまた警告音。 行間に、モザイク状のノイズが走った。
奥歯が自然に噛み合わさる。 キーボードの縁を握った拳に力が入り、骨の輪郭が皮膚の下で白く浮き上がった。 指先がわずかに震える。
「……詳細はいらない。映像を」
自分の声が、いつもより低い位置から響いた。 構造ビューを見ていると、頭の中で辛すぎるソースだけをずっと舐め続けているみたいで、胃の奥がむかむかしてくる。 文字ではなく、皿に盛られたものの色と匂いで確かめないと、味が判断できない。
"engagement" ブロックをタップし、「関連映像へ」を選ぶ。 端末が一瞬ぴくりと固まり、画面の隅に強制終了の小さな警告がちらりと顔を出しかけた——次の瞬間、全面が黒で塗りつぶされた。
黒い皿のなかに、ゆっくりと色が滲み広がっていく。 自分の視界ではない高さに、世界がぴたりと焦点を合わせた。 畳の青い匂いが、一気に鼻腔を満たす。 鼻先を、煎茶の湯気がくすぐる。 梅干しのかすかな酸味が、舌の奥にちくりと触れた。
和風旅館の個室だ、と透真は、感覚の連なりだけで理解した。 低い座卓。 障子越しの夏の光が、強すぎる白で視界の向こう側を塗り潰している。 遠くで、蝉が「じ——」と鳴き始め、途中でぶつん、と音が断たれた。
座卓の向こう。 若い女性のシルエットが、座布団の上に正座している。 肩までの髪。 帯の有無がノイズに飲み込まれて、浴衣なのか淡いワンピースなのか定まらない。 顔の輪郭は見えるのに、ピントが合いそうになる度に、目元だけが雪の粒子に変わって崩れ落ちていく。
口元の笑い皺ははっきりしている。 肌の色も、指の動きも見える。 なのに、こちらを向いて笑っているはずの視線だけが、ノイズの向こうに隠されている。
音も、どこかで別の層とぶつかり合っていた。 彼女の声が聞こえた瞬間、その背後で遠い読経の声が薄く重なる。
『……これで、本当に“婚約者”ってことでいいのかな、悠真くん』
冗談めかしている。 けれど、湯気に包まれた声の端には、気恥ずかしさを隠しきれない揺れが混じっていた。 兄の声が、それにすぐ応じる。
『いいだろ。戸籍出すとき、黄泉の図書館のデータとも照合されるって、先生が言ってたろ? ちゃんと登録しとかないと』
昔見た動画と同じ声色。 けれど、笑いに紛れて、どこか張り詰めた響きが紛れ込んでいるように聞こえる。 透真の胸の奥で、古い傷が指で押されたみたいにむず痒く疼いた。
『……そうだけど。なんかさ、変な感じ。死んだ後まで、ここのメニューに載るってことでしょ、私』
彼女は両手で茶碗を包み込む。 細い指。 障子の外の光が、その指先に透けて血の気を浮かび上がらせる。 椀の縁が、兄の視界の下の方でふるりと揺れた。
『嫌なら、やめても——』
『嫌じゃないってば』
言葉がぶつかって重なり、ノイズの波にさらわれかける。 画面の中を、ざざざ、と吹雪のような白い粒が横切った。 彼女の顔が、一瞬だけ全部見えそうになった。
その瞬間。 ゆっくりと、別の音が映像の上から覆いかぶさってくる。 低く、湿った本堂の空気を震わせる読経。 葬儀の日の僧の声。
焼香の香りが、旅館の煎茶の上から厚く塗り重ねられる。 畳の青さが後ろへ押しやられ、線香の煙が鼻の奥を刺す。 障子の向こうにあった夏の光が、暗い本堂の天井の板張りにすり替わった。
兄の視界が、ふっと浮き上がる。 床から離れ、天井の穴を見上げるような、現実感の薄い浮遊感。
「……やめろ」
声が、閲覧室の和室ではなく、映像の中に向かってこぼれた。 誰かが、ありえない混ぜ方をしている。 夏の湯豆腐の鍋に、葬式の煮しめをそのままぶち込むみたいな乱暴さで、記憶同士をかき混ぜている。
端末の画面右上に、赤いカウントダウンが立ち上がった。 『この閲覧セッションは、保全プロセスのため自動終了します。残り時間:30秒』
数字が、30、29、28……と容赦なく減っていく。 蝉の声が途中で途切れながら遠くで鳴り続け、どこからともなく雨だれの音が混ざり始める。 障子の紙に、雨粒そっくりのノイズが穴を開けていく。
兄の視界の中で、女性の手が座卓の上に伸びた。 小さな紙箱。 フタが開き、中から銀色のリングがひとつ取り出される。
兄の右手が差し出される感覚が、透真の左薬指にそのまま重なった。 ひやりとした金属が、関節を越えて静かに滑り込んでくる。 冷たさが皮膚を切り裂いて、骨の芯にまで染みていく。
現実の透真の指先が、椅子のひじ掛けを掴んだままぴくりと震えた。 熱い鍋に、いきなり冷水を落とされたときの、あの瞬間の音もない跳ね方。
『これで、登録完了、だね』
彼女の声が笑う。 口元だけが、ノイズの隙間からはっきりと浮かび上がった。 左右がほんの少し歪んだ、不器用な笑い。 きっちり整えられた笑顔ではない。 それが、かえって胸に刺さる。
その顔が、透真のどの記憶フォルダにも存在しない。 名前も、声も、仕草も、一度も見たことがない。
「……誰だよ」
胸の底から突き上がった言葉が、喉を擦りながら外に出た。 兄の人生の、こんな近い位置に座っている人間を、自分は一度も知らされていなかった。 弟だから全部知っているつもりだった自分の姿が、急に滑稽に思えてくる。
カウントダウンの数字が「5」を割った。 端末の警告音が、さっきより短く鋭くなる。 「ぴ、ぴ、ぴ」。
『セッションを終了します』
機械的な声と同時に、映像がぶつりと切れた。 黒い皿の上に熱い料理を投げ出されたまま、蓋だけ乱暴に閉められたような断ち切られ方。 匂いも、温度も、一瞬でゼロに戻される。
画面は、構造ビューに逆戻りしていた。 "engagement" の行は、さっきより濃い灰色で塗りつぶされ、朱色の除外マークが点滅速度を上げている。
『保全プロセスのため、当該セクションの閲覧は一時停止されました』
女声が、事務的に告げる。 喉元が、紐で絞られたみたいにきゅっと縮んだ。 椅子から立ち上がろうとした瞬間、足元がぐらりと傾く。
床が、数センチ沈み込んだような感覚。 椅子の脚がきしみ、重心の置き場が分からなくなる。 視界の端が、じわりと暗くなった。
「っ——」
息が詰まる。 無理やり膝を伸ばして立ち上がると、頭の中の血が一度に引いていくような耳鳴りがした。 蛍光灯が、本当にぶらぶらと揺れたように見える。 雷の鳴る前の静寂が、建物全体に降りてきたみたいだった。
ここに座り続けてはいけない、と身体が先に判断していた。 火は消したのに、コンロの金属盤からじりじり伝わってくる余熱が、まだ皮膚の内側を焼いている。 透真は、端末の電源を落とし、ふらつく足取りで閲覧室を出た。
廊下へ一歩踏み出した、その瞬間——。
「わっ!」
何か柔らかいものにぶつかり、身体が前に倒れかける。 制服の布が胸もとに当たって、その向こう側から腕が伸び、透真の身体を支えた。 シャンプーの、柑橘に似た淡い香り。
「ちょ、春日さん! 危ないって」
耳元で、水無瀬紗月の声が跳ねた。 高校のブレザーの肩口が、視界のすぐそばにある。 彼女の手が、片方は透真の腕、もう片方は背中に回り込み、半ば抱きとめるような格好になっていた。
「ご、ごめん。足、ちょっと……」
靴底が、廊下の床を空振りした感覚がまだ足裏に残っている。 紗月の眉が、きゅっと寄った。
「ちょっとどころじゃないから。今、完全に倒れかけてたから」
彼女の指先が、シャツの布越しに背中の筋肉を掴んでいる。 体温が、掌を通してじわじわ伝わってくる。 エアコンの風が肌を冷やす廊下で、その温度だけが浮き上がっていた。
「——ほら、とりあえずこっち。歩ける?」
「ああ……一応」
「“一応”ってさ、便利だけど信用できない言葉だよね」
鼻で笑いながらも、紗月の手は離れない。 透真の腕を自分の肩に回させ、自分の身体を半歩前に出した。 身長差のせいで、ほとんど体重を預けることになり、数歩歩いたところで、紗月が小さく「やば」と息を呑むのが伝わる。
距離の近さに、自分で驚いたのだろう。 それでも腕は緩まない。 肩の位置だけを、ほんの数センチだけずらした。
「休憩の和室、空いてるはず。立てる? 無理だったら、私、引きずるから」
「それは……さすがに悪い」
「悪いとかいいから。倒れられたら、こっちが困るし」
言葉は軽いのに、支える腕はしっかりしている。 廊下の蛍光灯の下、紗月の横顔の輪郭が、心持ち硬くなっているのが見えた。
和室スペースは、閲覧室のさらに奥。 冷たいタイルの感触から、少し柔らかいビニール床へ。 障子枠をくぐった瞬間、畳の弾力が足裏を押し返してきた。
「ほら、ここ。座って」
紗月は、ポットとカップ麺の空き箱が置かれた低いテーブルの横に、透真を座らせた。 古びた畳の草いきれが鼻をくすぐる。 片隅の棚には、開封済みのスナック菓子の袋がいくつか置きっぱなしになっている。
一角のテーブルには、インスタント味噌汁のパックが半分破られたまま置かれ、味噌と出汁のしょっぱい匂いが空気に紛れていた。 エアコンの「ぶうん」という低い唸り。 均一な冷気が、さっきまでの閲覧室のぬるさを嘘みたいに消していく。
「水、飲みます?」
紗月が、紙コップに水を注いで差し出した。 透真は「ありがとう」と受け取り、一口流し込む。 冷たさが喉を通って食道を降りていく筋道が、やけに鮮明にわかる。
「倒れるかと思ったよ、さっき。……顔、真っ青だった」
紗月は畳の上にあぐらをかき、少し身を乗り出した。 制服の肩がすぐ目の前にあり、手を伸ばせば触れられそうな距離だ。
「大丈夫……たぶん。ちょっと、眩暈が」
「大丈夫な人はね、廊下であんな顔して歩かない」
わざとらしく眉を吊り上げてみせてから、紗月は視線を少し落とした。 言葉を選ぶような沈黙が、半拍ほど間に挟まる。
「……家族のこと?」
喉の奥に、さっきの煎茶と梅干しの味が戻ってきた気がした。 兄の声。 知らない女性の笑い声。 指にはめられたリングの冷たさ。
「……兄の記録が」
そこで言葉がつかえた。 どこまで話していいのか、頭の中のマニュアルがばらばらめくれて、ページが指からすべり落ちるような感覚。
規定違反。 職務秘密。 このまま黙っていれば、頭の中の鍋底が真っ黒に焦げつく未来が、ぼんやりと見える。
「おかしくて」
喉をすり抜けて出てきたのは、その一語だけだった。 紗月は「ふーん」と短く相槌を打ち、軽く首をかしげる。
「おかしい、って。味、変わった?」
その言い方に、透真の口元がほんの少し緩んだ。 「……そんな感じ」
「前までと違う味が混ざってるなら、誰かが勝手に調味料足したんでしょ」
紗月は、テーブルのカップ麺の空き容器を指でつついて言った。 冗談めかしているが、その下に、彼女なりの怒りや不安のざらつきが隠れているのが、肌で分かる。
「知らない“婚約者”なんて、出てきて」
声が畳に吸い込まれていくように低く落ちた。 自分の声なのに、別人のものみたいにかすれている。
「婚約者」
紗月が、その単語を小さく繰り返す。 それから、口角をわずかに持ち上げた。
「……いいじゃん、それ」
「よくは、ないだろ」
「春日さんの知らない兄ちゃんのフォルダ、ひとつ見つかっただけかもしれないし」
紗月は、テーブルを指で「とん」と叩いた。 そのリズムに合わせて、エアコンの風がふっと強まる。 「うちなんかさ、親の昔のアルバム見るたびに『誰この人?』って謎の人出てくるよ。海で肩組んでる男とか、浴衣で並んでる女の人とか。聞いても、はぐらかされる」
笑って話す。 ただ、その笑い声のどこかで硬いものが鳴っていた。 家族のことを話すときに混ざる、独特の苦味。
「親だって、全部は話さないでしょ。……兄ちゃんも、さ」
「でも……」
透真は、紙コップを握りしめた。 紙がくしゃ、と音を立てて凹む。 「“記録”は、勝手に増やしちゃいけない」
図書館の職員らしい、固い言葉が口から転がり出る。 自分で言いながら、肩にかかった制服の重さが急に意識されて、少し嫌になる。 けれど、その言葉から離れると、自分が立っている床が消えてしまいそうだった。
「うん、まあ。勝手に増やされるのは、ムカつくよね」
紗月は、あっさり肯定した。 そのまま、ほんの少しだけ身体を寄せてくる。 気づけば、彼女の肩が透真の二の腕にそっと触れていた。
「でもさ」
声の温度が、少し柔らかくなる。 「全部春日さんが抱え込んで、春日さんが壊れたらさ。そしたら、誰も兄ちゃんのこと、ちゃんと覚えてられなくなるじゃん」
「……壊れたりは、しないよ」
反射的に返事が出た。 そのすぐ後ろで、心の中だけで「たぶん」と小さな文字が付け足される。
「自分の火加減見ないで、他人の鍋ばっかり覗いてたらさ。いつの間にか、自分んとこ真っ黒になるって」
紗月は、畳に片手をついて、ぐっと身を乗り出した。 距離が一気に縮む。 髪から、ふわりとシャンプーの香り。 その動きに合わせて、指が背中へ伸びかけた。
抱き寄せる一歩手前で、紗月は「あ」と短く息を呑み、すっと身体を引いた。 「ごめ。近すぎた」
「いや……」
否定の言葉が喉で絡まり、うまく形にならない。 さっきの一瞬だけ、誰かにぎゅっと抱きしめられたような感覚が、肩甲骨のあたりに残っていた。 久しぶりに触れた他人の体温が、焦げつきかけていた心の底を、一瞬だけ冷ましていく。
「とりあえず、今日はちゃんと飯食って、寝てください」
紗月は、急に事務的な口調になった。 「お兄さんのことも、その婚約者? のことも、記録のことも。全部まとめて考えようとしたら、頭パンクするから」
「……そう簡単に、切り分けられない」
「だから、まずはご飯」
紗月は、カップ麺の空き容器をひょいと持ち上げて見せる。 「人間、空腹だとロクなこと考えない。って、友達がよく言ってて」
「友達」という言葉のところで、紗月の表情にほんの一瞬だけ影が落ちた。 彼女がここに通ってくる理由が、頭をかすめる。 だが、紗月はすぐにいつもの顔に戻した。
「……私、そろそろ帰らないと。門限、あるんで」
「ああ、そうか。ごめん、引き止めて」
「引き止めてるの、どっちか分かんないけどね」
紗月は立ち上がり、制服のスカートの裾を軽く払った。 そして少しかがみ、透真の視線の高さに合わせる。
「また来るから。春日さん、ちゃんと生きててね。死後の予約、勝手に入れたりしないでよ」
軽口のようでいて、どこか真剣な響きが混じる。 その一言が、喉に固く詰まっていた何かを、少しだけほぐした。
「入れないよ。……たぶん」
紗月は「それ、信用できないんだよなあ」と笑った。 「じゃ、お先に。変なログとか、見すぎないように」
ひらりと手を振り、障子を開ける。 廊下から冷えた空気が流れ込み、シャンプーの香りがすっと薄くなった。 足音が遠ざかっていく。
和室にひとり残されると、音が急に大きく感じられる。 エアコンの唸り。 遠くで細く鳴く救急車のサイレン。 窓の隙間から、濡れたアスファルトの匂いが忍び込んできた。
外で、夕立が降り始めたらしい。 トタン屋根を叩く雨音が、低く一定のリズムで続く。 「ざあ、ざあ」。
透真は、ゆっくりと深呼吸をした。 肺に入った空気が冷たくて、胸の内側が少し痛い。 頭の中には、さっきの構造ログの画面が、細部までくっきり残っていた。
"縁属性"。
"engagement"。
"status": "registered"。
端末を再び開く。 職員用のログインをやり直し、同じ画面を呼び出そうとする。 指が慣れた順番でキーを叩く。
だが、保全中セクションのスクリーンショット機能は、きれいに封じられていた。 『当該画面は保存・外部出力が制限されています』
また、女声。 淡々とした抑揚の無さが、さっき以上に腹の奥を刺激した。
「……ですよね」
呟きが、畳の上に落ちる。 画像として持ち出すことはできない。 それでも、まるごと諦める気にはならなかった。
透真は、胸ポケットから細いメモ帳を取り出す。 ボールペンをノックする。「カチッ」。 静かな和室に、その音だけが妙に大きく響いた。
記憶を、紙の上に移し替えていく。
"縁属性"
"engagement"
"status": "registered"
"registered_at": "20XX-07-22T14:03:17Z"
アルファベットと数字を、一字一字なぞるように書き写す。 手書きの線は心許なく震えていて、端末のフォントよりずっと不安定だ。 その頼りなさが、逆に現実を掴んでいるように感じられた。
ペン先が紙を擦るたび、「カリカリ」と乾いた音がする。 雨の「ざあざあ」と、エアコンの「ぶうん」と、その音が重なり合う。 畳の匂いと、窓の外の濡れたアスファルトの匂いが、喉の奥で渦を巻いた。
兄の人生に、いつの間にか盛りつけられた一品。 本人が注文したのか、誰かが勝手に皿に乗せたのか。 少なくとも、その作業台に自分はいなかった。
無意識に噛んでいた指先に、鈍い痛みを感じて、慌てて歯を離した。 手の甲に、薄く歯型が残っている。 皮膚の下で、怒りに似た熱がじわじわ広がる。
「兄さんの人生に、勝手に“婚約者”なんてフィールドを足したのは、誰だ……」
和室の空気に向かって、低く問いが投げられる。 返ってくるのは、雨音だけ。 トタン屋根を叩くリズムが、少し強くなった気がした。
誰かが足した。 保全プロセスの名目で、兄の記録のレシピを書き換えた誰かがいる。 そこまでの結論が、ほとんど確信の形をとり始めていた。
怒りの隣で、胸の奥に別の熱が生まれつつあるのを、自分で自覚する。 歪んだ希望。 ここまで手を入れているなら、そこには必ず手順と痕跡が残っているはずだ。
料理の手順書を逆さから辿れば、どの調味料がいつ足されたか分かる。 その発想が、自然に頭に浮かんだ。
「……でも、記録をいじったなら、どこかに“返り値”が残ってる」
プログラムの講義で聞いた言葉が、口の中で形を取り直す。 計算を投げたなら、必ず返ってくる値がある。 その返り値——ログのどこかに、改竄者の手つきが刻まれている。
「ログは、嘘をつかない……はずだ」
ペン先を、メモ帳の端にぐっと押しつけた。 インクが、じわりと紙に滲み、黒い点をつくる。 その小さな点が、鍋底にこびりついた焦げのように見えた。
ページの上には、さっき書いた文字列が並んでいる。
"engagement": "registered"
透真は、その行をじっと見つめ続けた。 外の雨音が、少しずつ弱まっていく。 サイレンの音も遠ざかり、かわりに、どこかの家の夕食の匂いが、窓の隙間から微かに紛れ込んできた。
醤油を熱した匂い。 生姜の香り。 誰かの台所が、現世のどこかで確かに動いている気配。
黄泉の図書館の和室の畳の上で、透真はペンを握り直した。 ログを遡る。 兄の記憶をこね直した誰かの手順を追いかける。
何を失うことになるのか。 どこまで自分の鍋を焦がすことになるのか。 その代償の味だけは、まだ、舌の上で想像もできないままだった。