第8章: 時を止めた図書館と、ラップをかけられた記憶の皿
金属のトレイが「カン」と鳴った。音は一度きりなのに、閲覧室の奥にまで細い波紋が走り、予約端末の脇に置いたペン立てがわずかに震える。量子層の空気は夏のはずなのに冷蔵庫の中みたいにひやりとして、なのに指先だけがじっとり汗を噴いていた。蛍光灯代わりの光子パネルが、油がはねるように「パチッ」と瞬き、棚のラベルに細い影を刻む。
春日透真は画面の文字をもう一度見た。素早く浮かんだステータスは――閲覧不可:予約済み。表示された名前を心の奥に押し込むみたいに、喉の奥で転がしながら読む。水無瀬紗月の友人の記憶データ、そのスロットだけが、知らない誰かに前菜だけ先に持っていかれた皿みたいに、気づけばしっかりラップされている。
「……今では、おかしいな」
声が、砂漠を歩いた後みたいに乾いてこぼれた。舌の裏側に苦みがにじみ、煮詰めたコーヒーを冷めきった鍋底ごと舐めたような味が広がる。慎重にスクロールしていく指先が、液晶の上で微かに震えた。公式にはあのデータはもう解放されているはずで、前回の異常終了も量子ノイズとして処理され、調整済みと報告を受けている。
今日の紗月の来館時間に合わせて、透真は朝一番で動作確認まで終えていた。前菜の仕込みまでは滞りなく済ませたつもりだったのに、目の前の画面は、受付で皿を突き返す審査員みたいに「出来ません」と冷たく返してくる。予約者欄に目を落とせば、そこには何も書かれていない。空欄だ。だがロックは固く、蓋だけきっちり閉まって中身のラベルだけ剥がされた瓶のように、手を伸ばす隙間がどこにも見当たらない。
透真は端末の縁を強めに押さえた。冷たい金属の感触が皮膚を通って骨まで降りていき、背筋に冷えが這い上がる。量子層の夏に似つかわしくない線香の匂いが、またかすかに混じった気がして鼻腔をくすぐった。盆が近いせいか、とぼんやり思う。現世で焚かれた煙が薄く流れ込んで、黄泉のこの層まで染みてきているような気配だった。
「時間……」
壁のアナログ時計に視線をやる。のちに思い返せば、長針は紗月の来館予定時刻の一分前を指したまま、そこから先へ進むのを惜しんでいるように見えた。秒針が「チッ、チッ」と刻むたび、胸の奥がリズムに合わせて上下する。まるで、焼き上がりが心配で何度もオーブンの窓を覗き込む新人パティシエのような気分で目を離せない。
このまま黙ってやり過ごすか。あるいは、似たような記憶を差し出して、代わりの皿でごまかすか。頭の中の調理台の上で、用途の違うボウルがいくつも入り乱れて転がっている。その足元で――いや、喉の奥で何かが焦げた匂いを立てながら、音もなく弾けた。
前に、他の利用者のデータが途中で焼け落ちかけたときの会話が、頭上で再生される。「誰が焦がしてるんですか」という声と、それをごまかす自分の曖昧な返事。あのときは表面だけ撫でて火元を確かめなかった。今度は違う。透真は端末から手を離し、閲覧室をぐるりと見渡した。
椅子の布がこすれて「すりすり」と微かな音を立てる。ページをめくる「ぱらり」。遠くの棚で本が戻される「とん」。外から聞こえる換気扇の「ゴー」という回転音。どれも、いつもの図書館の日常を形作る音で、本来なら安心を運んでくるはずなのに、今日は頼りない。火力の弱いコンロが、なかなか湯を沸かせず唸っているように聞こえた。
紗月が来る前に確認できる相手は、一人。雪村沙羅。名前だけ胸の中で呼んで、透真は呼吸を整え、背筋を伸ばす。司書カウンターから奥のスタッフ用通路へ向かう足音が、石畳に落ちる雨粒のように「コツ、コツ」と続いた。
通路の壁には夏特有の湿気がうっすら貼りついていて、指の背で触れると「ぺたり」と肌に吸い付く感触が残る。やがてバックヤードの扉を押し開けると、空気が変わった。閲覧室より、わずかに温度が高い。コピー機の熱と古い紙の酸っぱい匂いがこもっていて、そこに淹れたての緑茶の蒸気が混じっている。湯呑の縁を舌でなぞるような湿った香りが、鼻の奥にふわりと広がった。
「春日くん? どうしたの」
湯気の向こうから声が滑ってきた。雪村沙羅が湯呑を片手にコピー機の前に立ち、茶色の瞳がじわじわとこちらの様子を味わうように動く。白いブラウスの袖口の先が少しだけ濡れていて、さっき水回りで何かを片付けてきたのだろうと透真は察する。喉に引っかかっていた言葉を、小皿に小分けするみたいに、一つずつ口の中で並べ替えた。
「雪村さん。あの……一件、確認したいことがあって」
湯呑を持つ彼女の指先に、薄い茶の色が映り込んでいる。湯気が「ふわり」と立ち上って、バックヤードの冷えた空気と混ざり合う。沙羅は湯呑をコピー機の上にそっと置いて、少し首を傾げた。
「珍しいね。春日くんの方から来るなんて。何か、焦がしそうな案件?」
口元に浮いたいたずらっぽい笑いが、透真の胃のあたりをじくじくと刺す。「焦がす」という言葉は、この仕事では重く響きすぎるが、妙に正確でもあった。
「……閲覧予約の件です」
胸ポケットから薄い端末を取り出す。画面には先ほどと同じく「閲覧不可:予約済み」が居座っていた。透真はそれを向けながら、端末の縁を指先でなぞる。冷たさがじわじわと戻ってきて、指の節まで染みる。
「このデータ、今日の午後に閲覧予定の利用者さんの分なんですけど。予約者欄が空白のまま、ロックされていて」
沙羅の視線が画面を辿っていく。瞳の奥で温度がわずかに変わった気配がしたが、表情は、湯呑の表面に張った薄い茶の膜のように滑らかで崩れない。
「……ふうん」
ひとつ短く息を吐く。熱いものを舌の先にだけ乗せたときのような鋭い吐息だった。その間を埋めるように、コピー機のブザーが「ピッ」と鳴り、紙が「ガシャガシャ」と排出される音が続く。
「システム側の予約じゃないね。連理会ルートも、企業からのロックも、ここには出るはずだから」
彼女は画面を指先で軽く叩いた。細い指が当たるたび、「コツン」と硬い音が返る。
「じゃあ……」
透真の喉が一気に乾いた。言葉が粉になって舌の上でまとまらず、散らばっていく感覚がする。
「じゃあ、誰が――」
問いを最後まで出し切る前に、バックヤードの扉が「ギィ」と鳴って開いた。廊下から湿った夏の風が一筋流れ込み、線香と紙の匂いに、外のアスファルトの熱気が混じって押し寄せる。蒸された空気が肌にまとわりつく。
「おつかれさまでーす……って、あ、邪魔しました?」
長谷部玲央がファイルの束を抱えたまま顔をのぞかせた。額に細かい汗が浮かび、シャツの背中が肌に張りついているのがここからでも分かる。外層の熱と冷えた量子層との温度差が、そのまま彼の身体の表面に刻まれていた。
「邪魔ってことはないけどね」
沙羅が笑いながら言う。声は軽いが、その奥に、スープの火加減を慎重に見極めるときのような緊張が混じっていた。
「春日くんが真面目な顔して相談に来たとこ」
「おお、レア案件。なんか、恋バナとかだったら俺、華麗に退散しますけど」
長谷部は冗談を飛ばしながら、ファイルを棚に「ドサッ」と置く。紙の束の重みが空気を押し下げたみたいに、部屋の温度が一段下がった気がした。インクと紙の匂いがむっとせり上がり、鼻の奥を「つん」と刺激する。
「恋バナではないです」
反射的に言い返す。耳たぶがじわっと熱を帯び、声がわずかに上ずった。
「予約データのロックが、仕様と違う形でかかっているので」
「仕様と違う、ねえ」
長谷部が透真の肩越しに端末を覗き込む。髪からは、シャンプーと汗が入り混じった夏特有の生っぽい匂いが漂った。
「……ああ、これか。例の高校生の子のやつ?」
透真は小さく頷いた。喉の奥で「ごくり」と音がして、自分の唾を飲み込むのさえ、少し抵抗を感じる。心臓が、フライパンの上で跳ねる油のように「じゅっ、じゅっ」と落ち着きなく打ち続けていた。
「図書館側で、こういうロックをかけることって、ありましたっけ」
誰にも主語を向けない形で、熱い鍋にそっと水滴を落とすみたいに控えめなトーンで問いを投げる。沙羅は視線を少しだけ天井に上げた。光子パネルの白い光が睫毛に「きら」と反射する。普段なら舞台用のポーズに見えるその考え込む仕草が、今日はどこか素に近かった。
「……公式には、ないよ」
ひと呼吸おいてから、言葉を足す。
「ただ、図書館の中枢側の防衛アルゴリズムが、自動的にやることは、あるかもしれない」
「防衛……」
透真の指先が、端末の縁をぎゅっとつかむ。爪の白い部分がじわっと広がった。
「誰から守ってるんですか」
自分でも驚くほど低い声が出た。煮詰まったソースの底を木べらでゆっくりこそげるときの鈍い音に似た響き。
「利用者からか。それとも……」
春日悠真の記憶改竄。その一件が、鍋の底から「ぐつぐつ」と吹き上がる泡のように脳裏で膨れ上がる。紗月の友人の記憶も同じ手で触れられているかもしれない、という予感が焦げた煙のように立ちのぼり、鼻の奥を刺した。
沙羅は、まっすぐに透真を見た。刺さる感覚ではなく、熱いスープの中に身体ごと沈められていくような、逃げ場のない視線だった。
「春日くん」
穏やかな声。けれど語尾がいつもより短く切れて、包丁の刃先だけ音もなく立てたときの緊張を帯びる。
「あなたは、何から守りたいの?」
問いを投げてから、彼女は再び湯呑を手に取った。底に残っていた緑茶を一口で喉に流し込む。喉の動きに合わせて、渋みを含んだ香りが「ふわ」と広がった。
「利用者さん? その人の記憶? それとも……」
言葉をそこで切り、伸ばした指先で透真の胸のあたりを、空気越しに軽く指す。触れてはいないのに、その一点だけ密度を変えられたように息が詰まった。
「あなたのお兄さん?」
名は口にしない。だが、刃を皮一枚残して差し込むような言い回しで、輪郭だけ鮮やかに突きつける。透真の背中を冷たい汗が「すうっ」と滑り落ちた。背骨が氷柱に変わったかのように固くなり、肩の筋肉がぴくりと震えてシャツがぴたりと肌に貼り付く。
舌の上に、古い記憶の味が勝手に蘇る。葬儀の日の薄い昆布だし。冷えきった白飯。箸で口に運んだものの、喉がかたく閉じて通らなかった感覚。
「……それは、業務と関係ない話です」
ようやく押し出した言葉は、自分でも分かるほど味気ない。脂を落としすぎてコクを失ったスープのように平板だった。
長谷部が、空気の重さに気づいたのか、わざとらしく咳払いを挟む。
「えーと。俺がここに居ていい空気なのか怪しくなってきたんで、一回引きますね」
軽口とともにファイルを抱え直す。その笑いは軽いが、目尻にほんの少し慎重さがにじんでいた。
「春日。あとで閲覧室の方、手伝うから。……ね?」
最後の「ね?」で、長谷部はちらりと目を合わせてくる。その視線には、薄い塩気みたいに「無茶しすぎるなよ」という含みがあった。扉が「ギィ」と鳴って閉まり、再びコピー機と冷蔵庫のモーター音だけが「ブーン」と響く空間に戻る。
沙羅は湯呑を机に戻した。陶器が木の板に触れて「コト」と乾いた音を立てる。
「業務と関係、大いにあると思うよ」
言葉を一つ一つ、まな板に並べるみたいにゆっくり置いていく。
「だって、あなたの執着が、何を焦がして何を守ろうとしているのか。そこを知らないと、私たち、火加減を間違えるから」
「執着……」
口の中で転がす。苦みと甘みが混じった濃いエスプレッソみたいに、しばらく舌に貼りついて離れなかった。
「お兄さんの記憶データ。あなた、勤務時間外にも閲覧してるでしょう」
責める響きはない。だが、その指摘は、オーブンの扉を不意に開けられたときのような眩しさを伴って胸に刺さる。
「ログを全部見てるわけじゃないけどね。……ただ、目につくの」
光子パネルの光が沙羅の頬に柔らかな影を作る。揺れるその影が、彼女の中の迷いをなぞっているようにも見えた。
「若い司書が、特定の一冊に何度も手を伸ばしているのは。匂いで分かるものよ」
「匂い……ですか」
「ええ。黄泉の図書館の棚ってね、触れられた回数で、少しだけ香りが変わるの。ご存じ?」
知らなかった。反射的に、透真は壁の向こうの棚を振り返る。見えない向こう側に、無数の記憶が、本の姿で並んでいる。紙とインクと、そこに焼き付いた生活の匂い。線香、香水、料理。すべてが混じり合って「黄泉臭」としか言いようのない空気を形作っていた。
「あなたのお兄さんの棚だけ、少し、濃いのよ。焼き目がつく直前のパンみたいな香り」
沙羅は肩をすくめる。
「美味しいかどうかは、別の話だけど」
噛み締めていた歯のせいで、透真は口の中に金属の味を覚えた。握りしめた拳が白くなっていることに遅れて気づき、意識して指をほどく。血が戻る「じんじん」という感覚が指先に広がった。
「……仕事に支障が出ていると、お考えなら」
一音一音を確かめるように発音する。包丁をまな板に垂直に落とすみたいに、まっすぐに。
「閲覧制限をかけていただいても構いません。ただ、今は――」
喉の奥が急に狭くなる。紗月の顔が浮かんだ。カウンター越しに差し出した紙コップの麦茶を、いつも両手で受け取る仕草。表面に浮いた水滴が、指先に冷たく張り付いていたあの感触。
「今は、その利用者さんのデータが優先です」
自分でも驚くほど、言葉の輪郭がはっきりしていた。胸の中で熱したフライパンに油を注ぎ込んだときの「ジュッ」という音が鳴り響く。
沙羅はしばらく透真を見つめる。瞳の奥の温度を測りながら、この若い司書がどのくらいの火力に耐えられるか計算しているような眼差しだ。
「……分かった」
やがて短くそう告げる。唇の端に、かすかな笑みが戻る。
「防衛ロックのログ、私の方でもう一度見てみる。中枢の台所事情を、ちょっと覗いてみないとね」
「台所事情、ですか」
「中立性なんてものは、綺麗なレシピカードみたいなものでね。実際の厨房は、油はねと焦げ付きで、いつもごちゃごちゃしてるの」
コピー機の上に置いてあった小さな鍵束を手に取る。金属同士が触れ合って「しゃらり」と冷たい音を立てた。
「ただし」
鍵束を指でくるくる回しながら振り向く。
「この件に深入りするなら、自分の執着の味見も、ちゃんとしておいて」
「自分の、執着の……」
「味見」という言葉が舌の上でくすぐったく跳ねる一方で、胃のあたりは濃すぎる出汁をそのまま飲まされたようにきりきりと痛んだ。
「お兄さんのこと。あなたが彼をどうしたいのか。作り方を他人任せにしたまま、鍋の前には立たない方がいい」
沙羅の声には、柔らかなタオルと細い針金の両方が混ざっている。彼女自身も、自分のレシピで誰かを壊したことがあるのだろうと透真は思う。熱した鍋の柄に一度手を焼いた人間特有の、無意識の慎重さが指先の動きに現れていたからだ。
「……分かりました」
それしか言いようがなかった。首筋にじっとり浮いた汗に、空調の冷たい風が「すっ」と流れ込んでいく。背筋が自然と伸びた。
「じゃあ、ひとまず閲覧室に戻りなさい。水無瀬さん、もう来ているかもしれないわ」
沙羅が軽く手を振る。いつもの優しい司書のしぐさ。だがその手のひらの内側に、別の火種がいくつも隠されているのを、肌が警戒心として感じ取る。
バックヤードを出ると、閲覧室の光がぐっと強くなる。光子パネルが夏の陽射しみたいな明るさで「ぎらり」と輝き、棚と棚の間の空気は熱の代わりに細かい量子のざわめきで満たされていた。耳を澄ますと、「ざざ……」という小さなノイズがどこかで途切れず続いている。
カウンターの前には水無瀬紗月が立っていた。制服の上に薄いカーディガンを羽織り、手にはペットボトルの麦茶をぎゅっと握っている。ボトルの表面に浮かんだ水滴が「つー」と彼女の指に伝い、手首へと冷たい線を描いていた。
「春日さん」
顔を上げた紗月の瞳の色は、いつもより一段沈んで見えた。外の熱気から冷えた室内に急に入ったせいか、頬に薄い紅が残っている。
「今日も……あの、お願いしていいですか」
声には、微かな震え。だがそれは怯えだけでなく、何かを飲み込んで踏みとどまろうとする熱を含んでいる。舌足らずな甘さはなく、甘さを抑えたビターチョコレートのような響きだった。
「はい。一応、確認は――」
いつもの説明を口にしかけて、透真は言葉を飲み込んだ。喉の奥で「ぐっ」と音がした。砂糖を入れ忘れたコーヒーを、間違ってそのまま出してしまいそうになったときの感覚。今日は、ごまかせない。
「実は」
深く息を吸う。冷たい空気が肺に流れ込み、内側からざっと洗い流していく。外の熱風とは違う、澄んだ冷気。その差が意識に輪郭を与えた。
「お友達の記憶データ、現在、閲覧に制限がかかっていて」
紗月の指がボトルを「ぎゅっ」と強く握り込む。薄いプラスチックがきしむ高い音が、耳に鋭く刺さった。中の麦茶が「ちゃぷ」と揺れ、小さな気泡が透明な壁をゆっくり上っていく。
「制限……」
少し間を置いてから繰り返す。声の温度がすっと下がる。氷を一欠片グラスに落としたときの、澄んだ音が背後に重なったように感じた。
「この前みたいに、ノイズとか、そういう」
「それとは、少し違います」
カウンター下の端末を操作しながら答える。指先がキーの表面を滑る「カチカチ」という打鍵音が、心の揺れを抑えるためのリズムになっていく。
「予約済み、という状態で。通常、外部の機関や連理会、あるいは中枢の調整でロックがかかるときに出る表示です。ただ、今回は予約者欄が空白で」
紗月の喉が「こくり」と動いた。彼女は麦茶を一口飲む。冷たい液体が喉を通る音がかすかに届き、ペットボトルがわずかにへこむ感触が、彼女の指を通じて伝わっているだろう。
「じゃあ、誰が、予約したんですか」
刃先で紙を切るような鋭さで問いが飛ぶ。いつもの、タメ口と敬語が混ざる柔らかい話し方ではなく、輪郭のはっきりした声。塩味を強めたスープのようにキリッと締まっていた。
「それを、これから調べます」
透真は、あえてそう断言した。曖昧な言い回しを飲み込んで、代わりにはっきりした約束をテーブルの上に置く。胸の中で「カチッ」と何かが定位置にはまる音がした。
「分からないままには、しておきません」
紗月が顔を上げて透真を見る。驚きが、瞳の奥に小さく浮かぶ。いつもは、自分の罪を苦笑まじりに語る彼女が、その瞬間だけ息を呑んで真顔になった。
「……いいんですか。そういうのって、あんまり突っ込んじゃダメなやつなんじゃ」
「本来は、そうかもしれません」
透真は口元に苦笑を浮かべた。カウンター越しの透明なアクリルに、自分の顔がぼんやり映る。いつもより幾分やつれて見えて、火加減ばかり気にして自分の皿を空にし続けている料理人の顔だとふと気づく。
「でも、前に言いましたよね」
紗月の視線を真正面から受け止める。視線がぶつかった瞬間、彼女の睫毛がかすかに震えた。
「ここは、誰かの人生を、ただ眺めるだけの場所じゃないって。……なら、焦げそうなところを見て見ぬふりするのは、違う気がして」
言葉にしているそばから、胃のあたりが細い刃物でなぞられるように痛む。自分自身に約束を課している自覚があった。その約束が軽くないことも。火にかけた鍋から目を離さないと決めるのは、他の皿を犠牲にする覚悟とセットだ。
紗月は、下唇をそっと噛んだ。歯の間に挟まれた部分が白く浮かぶ。
「……じゃあ、待ちます」
声は小さいが、芯がぶれない。
「今日、ここに来るって決めたの、自分だし。味見ぐらい、自分でしないと」
「味見」という言葉が二人の間に落ちる。さっき沙羅が使った比喩を、別の口から聞く。黄泉の図書館の空気のどこかが、目に見えない厨房とつながっているような錯覚がした。
「ありがとうございます」
頭を下げてから、カウンターの端のピッチャーから紙コップに麦茶を注ぐ。氷が「からん」と澄んだ音を立て、冷たい水滴が紙の表面にじわじわ染み込んでいく。その音で、自分の喉の渇きにも気づかされた。
「よかったら、こちらも。少し時間をいただくので」
紗月は、小さく笑った。笑みは薄くて、端にほんの少しだけ甘さが戻る。
「じゃあ、麦茶二杯目。塩分補給ってことで」
紙コップを受け取り、ペットボトルと一緒に両手で抱え込む。その手がわずかにふらつき、コップの縁から一滴だけ麦茶がこぼれてカウンターに落ちた。「ぽと」と小さな音がする。
反射的に布巾を掴み、指先でその滴を拭う。布越しにも伝わる冷たさが、皮膚をきゅっと引き締める。
「すみません」
「いえ。……そういうのは、こぼしていいんです」
自分の口から出た言葉に、自分自身が一番驚いた。何を言ってるんだ、と心の中で突っ込みながらも、どこかで腑に落ちる感覚がある。こぼせるものは、こぼしていい。こぼせないものだけが、ここに沈殿して残る。
紗月が閲覧室のソファ席へ歩いていく。カーディガンの裾がふわりと揺れ、足元のカーペットが「ふかふか」と鈍い音を返した。背中を見送りながら、透真はカウンター内の別ルート用端末へと手を伸ばす。中枢への直通ライン。普段は滅多に触らない。厨房で言えば「シェフを呼ぶ」のと同じ合図だ。
指がボタンの上で浮いたまま固まる。押せば、もう後戻りはできない。内規のグレーゾーンの線を踏み越えることになる。
――でも。
兄の記憶が改竄されたとき。透真はこのボタンを押さなかった。押せなかった。あのとき躊躇して宙に止まった指の感触が、いまもぬめる油のように指先にこびりついている。
「……一応、やる」
誰にも届かない声で呟き、ボタンを押した。指先に微かな振動が「ビリ」と走る。量子層の奥で巨大な歯車が動き出す気配が伝わってきて、遠くから「ざざざ」というノイズが押し寄せてくる。夏の夕立が来る前の空の気配に少し似ていた。
数秒後、端末の画面に簡素なテキストが浮かぶ。
――中枢管理:雪村。
喉がきゅっと締まる。無機質なシステム名が出ると思っていた。厨房の奥には顔の見えない自動調理機が仕切る領域が広がっているとばかり想像していたのに、そこに表示されたのは、さっきまで隣の部屋で茶を飲んでいた人間の名前。
「……雪村さん?」
思わず声に出る。その瞬間、バックヤードの扉が「コンコン」と軽く叩かれた。紗月のノックとは違う、一定のリズムで落ち着いた音。
「春日くん、中枢、つないだ?」
板一枚隔てた向こうから沙羅の声。木の繊維を通ってきても分かる穏やかな調子だが、さっきより一段温度が高くなっているのを肌が感じ取る。
「今、画面に、雪村さんのお名前が」
言いかけて、言葉が喉の網に絡まる。電話の向こうで厨房の金属音を聞いてしまった見習いのような混乱が頭の中で跳ね回る。扉がもう一度、「コン、コン」とリズミカルに叩かれた。
「開けてもいい?」
「はい」
短く答える。取っ手が回り、「ギィ」と音を立てて扉が開いた。沙羅がカウンターの内側を覗き込むように立っている。手にはさっきの鍵束。金属が指の間で「ちり」と鳴った。
「さっき言ったでしょう」
端末の画面をちらりと一瞥して、口元に笑みを浮かべる。
「中枢の台所事情、覗いてくるって」
「中枢管理……雪村って」
透真の声は、自分でも分かるほどかすれていた。喉に砂糖抜きのホットミルクが膜を張っているみたいに、重く張り付いている。
「ここ、昔からね。司書の一人が、中枢側の『味見役』を兼任するの」
沙羅は鍵束を軽く持ち上げた。
「外からの注文と、中の状態とのバランスを見ながら、どの棚にどれくらい火を入れるか決める人。……今は、たまたま私がその役目」
「たまたま、ですか」
言葉の輪郭をなぞるように繰り返す。舌先がじわっと痺れた。知らないうちに唐辛子をひとつまみ口に入れられたような感覚。
「じゃあ、この『予約済み』も」
画面を指さす。紗月の友人のデータ名。その横に並ぶ「閲覧不可:予約済み」。
「図書館が、自分で火を止めたんじゃなくて」
息を止めて、最後まで言う。
「誰かが……中から、止めたってことですか」
沙羅の視線が一瞬だけ泳いで、すぐ戻る。そのごく短い揺らぎを、焦げ目の色の違いを見分けるのと同じくらい鮮明に、透真の目は捉えた。
「全部が全部、私じゃないよ」
前置きの言葉に、わずかな苦みが混ざる。
「図書館のアルゴリズムが、自衛として動くこともある。あなたのお兄さんのときみたいにね」
兄の話題を、砂糖を加えるタイミングのような絶妙なタイミングで差し込んでくる。
「でも、この『予約済み』については――」
鍵束を握る指先に力がこもる。金属が「きゅ」と短く鳴る。
「図書館だけのせいにするのは、フェアじゃないかもしれない」
全部を白状するには足りず、完全に否定するには薄すぎる、微妙な濃さのスープのような言い方。瞳の奥に、一瞬だけ古い痛みが影を落としたように見えた。昔、誰かのためにレシピをいじって、鍋ごと台無しにしたときの記憶が顔を出しているのだろう。
「どういう意味ですか」
声は静かだった。怒鳴る代わりに、静かさがじわじわ広がる。怒りが一定の水位を超えたときの、自分の癖を透真はよく知っている。
「そのデータ、ね」
沙羅は画面に表示された名前を指先でそっとなぞる。その指は冷たいはずなのに、そこに触れた字面がほんのり温度を帯びたように錯覚する。
「初回の閲覧申請が上がってきたとき、私、ちょっと迷ったの。アクセスを通すかどうか」
「……水無瀬さんの申請、ですか」
「ええ。中学生からの親友で、自殺で亡くなった子。彼女の罪悪感の色が、申請書の文面からもう匂っていてね」
淡々とした口調。その均一な温度の中に、微かな震えが混ざる。似たようなケースを別の火加減で扱ってしまった過去の残り香。
「前にも似たケースがあったのよ」
沙羅は、視線を閲覧室の奥へと少し外す。見えないはずの過去の光景を、そこに重ねるみたいに。
「戦死した夫の記憶を、何度も見に来る人。そこに、戦友の記憶を、私が『偶然』のふりをして混ぜたことがある」
透真は、以前聞いたことのある話を思い出す。善意の仲介が、誰かの日常を崩した出来事。鍋の中身を良かれと思って混ぜ合わせた結果、誰の舌にも合わない料理になってしまった話。
「そのとき、私はレシピをいじる快感に酔っていたんだと思う」
自嘲気味な笑いが、小さく漏れる。胸の奥で古い脂が熱せられて「じゅう」と音を立てたように感じた。
「だから、水無瀬さんの申請が上がってきたとき、同じことを繰り返したくなかった」
「それで……?」
「あなたを間に挟んだ」
沙羅は透真の目を見据える。
「春日くんのフィルターなら、私よりずっと穏やかだと思ったから。私は、火力が強くなりすぎる癖があるからね」
自分が、誰かの人生の鍋の前に、知らないうちに立たされていた。その重さが、じわじわと肩にのしかかる。同時に、どこかで求めていた役割でもあったのかもしれないと、胸の奥のどこかが静かに認める。兄の鍋の前には立てなかった分、別の鍋の蓋を見張ろうとしていた自分。
「ただ――」
沙羅は、画面から指を離した。
「彼女の友人のデータに、外部から妙な香りが混ざってきたのも、事実」
「妙な香り……」
「企業の検証用コピーが、戻ってきたときの匂い。あなたも、嗅いだでしょう?」
問いかけに合わせて、兄の記憶に混じっていた知らない婚約者のシークエンスを思い出す。紗月の友人の言葉に、ときどき滑り込む人工的な甘さ。手作りのソースに市販のドレッシングを勝手に混ぜられたような、不自然な味。
「だから、私は、『予約済み』にした」
声のトーンがわずかに低くなる。オーブンの扉をしっかり閉めるときの、重い音に似ていた。
「これ以上、外から勝手に味を足されないように。これ以上、彼女が、変えられた味だけを食べさせられないように」
「……水無瀬さんに、説明もなく?」
指先がカウンターの縁をきつくつかむ。磨かれた木の感触が皮膚に食い込み、汗が「じわり」と滲んで木目に染みていく。
「それは」
沙羅は、喉の奥で何かを飲み込む気配を見せた。
「私の、逃げよね」
淡々とした声だからこそ、言葉がよく沈む。
「説明したら、きっと彼女は、『味が変わってもいいから、見せてください』って言うと思った。……昔、戦死した夫の記憶を見ていたあの人みたいに」
涙で味覚が狂ったまま、熱いスープを口に流し込む人の姿が、沙羅の頭の中に再生されているのが透真にも分かる気がした。
「だから、中枢はロックをかけた。名義は、図書館。実行は、私」
沙羅ははっきりと言い切る。低い温度の言葉の中に、焦げ臭さが混じっていた。
「中立っていうレシピカードを、破いたのは、外の連理会や企業だけじゃない。ここにいる私たちも、もう何度も、破ってる」
胸の奥で、背表紙の弱ったレシピ本を乱暴に引き抜いたときのような「ばき」という感覚が走る。長いあいだ大事にしてきたカードが、湿気でふやけたままだったことを今さら知ったような感覚。
「じゃあ、兄の記憶に、外から何かが混ざったときも」
声が震えた。
「図書館は、何もしていなかったんですか」
すぐには答えが返ってこない。沙羅はカウンターの上の紙コップを取り、そこに残った麦茶を一口飲んだ。冷たさを確かめるような、慎重な動き。
「……何も、していなかったわけじゃない」
紙コップの側面を指で少し潰す。「くしゃ」と情けない音がした。
「春日家から、正式に依頼があったの」
空気が薄くなる。吸い込んだはずの冷たい空気が喉元で消え、肺に届かない。耳の奥で「キーン」と高い音が鳴り続ける。
「お兄さんの記憶データを、できるだけ『穏やかな形』で保存してほしいって」
言葉が、湯に溶かした砂糖みたいにゆっくり広がる。甘いのか苦いのか、もう判別がつかない。
「事故の詳細や、研究室の内部事情。そういうものは、家族がこれ以上噛みしめなくていいように、少し味を薄めてほしいって」
カウンターの縁から指の力が抜けた。つかんでいた手が「だらり」と下がる。足裏の感覚が遠くなり、床が柔らかく沈むスポンジみたいに頼りなく思える。
「その依頼を、受けたのは――」
沙羅は、自分の胸にそっと手を当てる。
「他でもない、私」
鍋蓋を床に叩きつけたような大きな響きなのに、声のトーンは少しも荒れなかった。閲覧室の奥で誰かが椅子を引く「ぎい」という音がしても、現実感はなかなか戻ってこない。
「あなたのお兄さんの記憶。あれは、最初から『中立』なんかじゃない」
静かな炎を湛えた瞳で、沙羅が透真を見つめる。
「私たち司書が、春日家のタテマエと、あなたのお父さんとお母さんのホンネと、いろんな味を混ぜて、一番飲み込みやすいスープにしようとした結果よ」
喉に焼けるような痛みが走る。胃の底がひっくり返りそうになるのを必死に抑え込み、唾を飲み込む。金属と煙の味が、舌の上に広がった。
「じゃあ、彼が毎晩見ていた兄の姿は」
一度、言いかけた一人称を飲み込み、言い回しを換える。視点のレールを外れそうになった感覚を、無理やり元の位置に押し戻す。胸の内側で「ギシギシ」と軋む音がした。
「誰が作ったレシピなんですか」
沙羅はためらわない。
「あなたの家族と、私と、そして――」
カウンター下の別の端末を指差す。そこには「連理会監査ログ」と名付けられたフォルダが、他のアイコンとは違う色味で浮かんでいた。
「外から差し出された『うま味』を、私が混ぜた」
連理会。死者の縁を最適化しようとするあの集団。彼らの差し出す「うま味」が、どれほど危ういものかを、透真は最近になってやっと理解し始めている。一瞬舌を喜ばせて、後から全体の味を壊す化学調味料のようなものだ。
「春日くん」
沙羅は、彼の名をゆっくり呼んだ。焦げかけた鍋を前にしたときの最後の確認に似た声。
「それでも、あなたは『中枢』に入ってくる?」
鍵束が手の中で「じゃらり」と鳴る。金属の冷たさと重みが、音に紛れて伝わってくる。厨房の奥の扉を開ける鍵。そこに足を踏み入れれば、もう以前と同じ味ではいられない。
閲覧室の方から、麦茶の氷が「からん」と鳴る小さな音が聞こえた。紗月が紙コップを握り直したのだろう。待っている。自分の罪と、友人の真実の味を。
透真は喉の渇きを覚え、乾いた唇を舌でなぞる。冷たい空気が舌先に触れて、金属と煙と、わずかな出汁の香りが混じった味を運んできた。指先が、自然と鍵束へと伸びていく。
沙羅の目を見る。
「……入ります」
鍋の中に落ちる野菜のように、その言葉が「ぽとり」と落ちた。沙羅は一瞬だけ目を細める。その表情には、安堵と、これから焦げ付きの後始末をしなければならない覚悟の両方が滲んでいる。
「じゃあ、厨房へようこそ」
鍵束から一本を選び出す。銀色の小さな鍵が光子パネルの光を受けて「きらり」と光った。その先に開く扉の向こうで、どんな味と焦げ目が待っているのか。透真にはまだ分からない。
遠くの量子層から「ざざ……」というノイズが一段と強まる。エンジンがうなりを上げるような低い震えが足元から伝わってきた。背後の閲覧室では、紗月の麦茶の氷がもう一度「からん」と鳴る。その音が最後のベルのように耳に残った直後、沙羅が鍵を回す「カチリ」という音が、図書館の夏の空気を鋭く切り裂いた。
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第8章: 時を止めた図書館と、ラップをかけられた記憶の皿 - 黄泉の図書館
金属のトレイが「カン」と鳴った。音は一度きりなのに、閲覧室の奥にまで細い波紋が走り、予約端末の脇に置いたペン立てがわずかに震える。量子層の空気は夏のはずなのに冷蔵庫の中みたいにひやりとして、なのに指先だけがじっとり汗を噴いていた。蛍光灯代わりの光子パネルが、油がはねるように「パチッ」と瞬き、棚のラベルに細い影を刻む。
春日透真は画面の文字をもう一度見た。素早く浮かんだステータスは――閲覧不可:予約済み。表示された名前を心の奥に押し込むみたいに、喉の奥で転がしながら読む。水無瀬紗月の友人の記憶データ、そのスロットだけが、知らない誰かに前菜だけ先に持っていかれた皿みたいに、気づけばしっかりラップされている。
「……今では、おかしいな」
声が、砂漠を歩いた後みたいに乾いてこぼれた。舌の裏側に苦みがにじみ、煮詰めたコーヒーを冷めきった鍋底ごと舐めたような味が広がる。慎重にスクロールしていく指先が、液晶の上で微かに震えた。公式にはあのデータはもう解放されているはずで、前回の異常終了も量子ノイズとして処理され、調整済みと報告を受けている。
今日の紗月の来館時間に合わせて、透真は朝一番で動作確認まで終えていた。前菜の仕込みまでは滞りなく済ませたつもりだったのに、目の前の画面は、受付で皿を突き返す審査員みたいに「出来ません」と冷たく返してくる。予約者欄に目を落とせば、そこには何も書かれていない。空欄だ。だがロックは固く、蓋だけきっちり閉まって中身のラベルだけ剥がされた瓶のように、手を伸ばす隙間がどこにも見当たらない。
透真は端末の縁を強めに押さえた。冷たい金属の感触が皮膚を通って骨まで降りていき、背筋に冷えが這い上がる。量子層の夏に似つかわしくない線香の匂いが、またかすかに混じった気がして鼻腔をくすぐった。盆が近いせいか、とぼんやり思う。現世で焚かれた煙が薄く流れ込んで、黄泉のこの層まで染みてきているような気配だった。
「時間……」
壁のアナログ時計に視線をやる。のちに思い返せば、長針は紗月の来館予定時刻の一分前を指したまま、そこから先へ進むのを惜しんでいるように見えた。秒針が「チッ、チッ」と刻むたび、胸の奥がリズムに合わせて上下する。まるで、焼き上がりが心配で何度もオーブンの窓を覗き込む新人パティシエのような気分で目を離せない。
このまま黙ってやり過ごすか。あるいは、似たような記憶を差し出して、代わりの皿でごまかすか。頭の中の調理台の上で、用途の違うボウルがいくつも入り乱れて転がっている。その足元で――いや、喉の奥で何かが焦げた匂いを立てながら、音もなく弾けた。
前に、他の利用者のデータが途中で焼け落ちかけたときの会話が、頭上で再生される。「誰が焦がしてるんですか」という声と、それをごまかす自分の曖昧な返事。あのときは表面だけ撫でて火元を確かめなかった。今度は違う。透真は端末から手を離し、閲覧室をぐるりと見渡した。
椅子の布がこすれて「すりすり」と微かな音を立てる。ページをめくる「ぱらり」。遠くの棚で本が戻される「とん」。外から聞こえる換気扇の「ゴー」という回転音。どれも、いつもの図書館の日常を形作る音で、本来なら安心を運んでくるはずなのに、今日は頼りない。火力の弱いコンロが、なかなか湯を沸かせず唸っているように聞こえた。
紗月が来る前に確認できる相手は、一人。雪村沙羅。名前だけ胸の中で呼んで、透真は呼吸を整え、背筋を伸ばす。司書カウンターから奥のスタッフ用通路へ向かう足音が、石畳に落ちる雨粒のように「コツ、コツ」と続いた。
通路の壁には夏特有の湿気がうっすら貼りついていて、指の背で触れると「ぺたり」と肌に吸い付く感触が残る。やがてバックヤードの扉を押し開けると、空気が変わった。閲覧室より、わずかに温度が高い。コピー機の熱と古い紙の酸っぱい匂いがこもっていて、そこに淹れたての緑茶の蒸気が混じっている。湯呑の縁を舌でなぞるような湿った香りが、鼻の奥にふわりと広がった。
「春日くん? どうしたの」
湯気の向こうから声が滑ってきた。雪村沙羅が湯呑を片手にコピー機の前に立ち、茶色の瞳がじわじわとこちらの様子を味わうように動く。白いブラウスの袖口の先が少しだけ濡れていて、さっき水回りで何かを片付けてきたのだろうと透真は察する。喉に引っかかっていた言葉を、小皿に小分けするみたいに、一つずつ口の中で並べ替えた。
「雪村さん。あの……一件、確認したいことがあって」
湯呑を持つ彼女の指先に、薄い茶の色が映り込んでいる。湯気が「ふわり」と立ち上って、バックヤードの冷えた空気と混ざり合う。沙羅は湯呑をコピー機の上にそっと置いて、少し首を傾げた。...