足音が、薄く温められた床を「コツ、コツ」と叩いていた。 ちょうどその時、上階へ向かう通路は、外縁層の冬をまだ引きずっていた。 壁に沿って流れる光の筋は、雪片と桜の花びらの中間みたいなノイズになって、白い廊下をちらちらと染める。 鼻をくすぐるのは紙の乾いた匂いと、どこかで焙煎した豆の残り香が混じったような、季節の定まらない空気だ。 喉の奥に、細い氷の欠片が引っかかったような冷たさがまとわりつく。 管理端末フロアの扉が、自動で「スッ」と横に滑った。
窓のない高層オフィスを思わせる乾いた空気が、顔の皮膚を一枚だけ薄く剝がすみたいに当たる。 なのに足元だけ、床下からじんわりと熱が立ち上っていて、残雪の下から地熱が滲んでくる春先の滑走路を踏んでいるような感覚だった。 壁一面には、水平に走る淡い光の縞。 近づくと、その一本一本が細い文字列になっている。 視線を滑らせるたび、「ピッ」という小さな電子音が耳の奥で弾け、鼓膜の内側にかすかな振動を残した。 喉の乾きが、そこに砂を撒かれたみたいに強まる。 「春日さんですね」
声に振り向くと、端末フロア担当の管理係が一人、カウンターの向こうに立っていた。 白い手袋に薄いタブレット。 どこにも力の入っていない口元と、光を均等に反射するだけの瞳。 蛍光灯の白さを、そのまま人の形に固めたみたいな印象だった。 「はい。 一時出張の説明って、伺ってましたけど」
自分の声が、乾いた空間に少し浮いて響いた。 マスクの内側で吐息が反射し、こもった温度だけが現世を思い出させる。 鼻先に自分の呼気がかかり、レンズがうっすら曇った。 「ええ、形式上は。 ようやく、… … その間、その前に、こちらを確認していただく必要があります」
管理係が指先で端末を弾いた。 目の前の空中に、薄い本の形をしたデータが「フッ」と現れる。 透ける背表紙を指でそっとつまむと、手袋越しでもわかる冷たさが骨まで染み込んできた。 指先に、微かな静電気が「パチ」と走る。 タイトル行に目を落とした瞬間、肺が一瞬だけ空気の吸い方を迷う。 ——水無瀬紗月 仮死時記録/閲覧制限付き。 文字が白地の上で淡い青にじんで見え、視界の端で壁の光の縞がざわりと震えた気がした。 耳の奥の電子音が、「ピー…」と細く伸びる。 「… … たちまち、これは」
声が出た時、喉がさびた蝶番みたいにきしんだ。 舌の位置が妙に意識に上る。 冬の朝、氷点下の滑走路で無理やり深呼吸した時の肺の痛みが、胸の奥にじわりと戻ってきた。 「記録管理上は、『例外的試験保存』に分類されます」
管理係は、会議資料の一行を読み上げるみたいなトーンだった。 目線だけが、手元の画面と虚空を行き来する。 「現世側での事故の際、一時的に意識レベルが低下した状態で… そして、… 量子接続が行われまして。 その時のデータを、図書館側で一冊分として仮保存したものです。 本人は覚えていないはずです」
「ちょっと待ってください。 ここで、生者のデータは扱わないって… … それが原則ですよね」
掌に乗った本データの重みが、急に具体的な質量を帯びる。 冷たさが、皮膚の上で窮屈な手錠みたいに締まっていく。 背筋に、細い氷柱を一本ゆっくり差し込まれる感覚が走った。 「原則としては、はい」
管理係はあっさり認めた。 足元を見もしないまま、わずかに視線だけを横へ動かし、遠くの規程集を透かして見るような目つきになる。 「ただ、こちらは連理会および現世側コンソーシアムとの共同プロジェクトに関連する、極めて限定的なテストケースです。 現在は、死亡予定日時も確定しておりませんし、“現世側存命”ステータスで凍結されています」
死亡予定日時。 耳の内側にぬるりと入り込んで離れない単語だった。 外側からイヤーマフでぎゅっと塞がれたような圧迫感が一瞬広がる。 「… … 本人の意思は、どうなってますか」
想像よりずっと静かな声が出た。 怒鳴る代わりに音量を絞っていく、いつもの癖が喉の奥で勝手に働く。 拳を握ると、手袋の布が「キュッ」と擦れ、関節が布越しに硬く当たった。 「その確認のためのプロセスです」
管理係が、ほんの少しだけ声のトーンを変えた。 程度としては、書類のフォントサイズを一段階変えるくらいの差だ。 「現世側での正式な同意取得は別ルートで実施済みです。 ただし、本人はここでの保存の詳細までは認識していません。 今回、仮死時記録の継続保存か解放(=消去)かを決めるにあたり、黄泉側での代理人として立ち会う司書が必要だと判断されまして」
管理係の視線が、こちらの肩から首筋、目元へと一度なぞる。 体温を測るみたいな長さだった。 「推薦されたのが、春日さんです」
胸の奥で、弦が限界まで引き絞られる感覚がした。 指一本触れたら、すぐにでもぷつりと音を立てて切れそうな。 「… 近くで、… どうして、僕なんですか」
「同一利用者との継続的な関わり、閲覧履歴、過去の相談記録。 いろいろな指標を並べた結果です」
管理係は紙のような形をした光の板を掲げる仕草をした。 そこには、水無瀬紗月の閲覧記録が、淡い桃色のバーで時間軸に沿って連なっている。 その脇に、僕の名前が小さく添えられていた。 「君なら、ということで」
「君なら」。 喉に浅い棘が一本刺さる。 兄の事故のとき、研究室の教授も似たような言い回しをした記憶が、冷蔵庫の奥に忘れた容器みたいに、ふいに意識の端で蓋を開ける。 「… … 分かりました。 一応、立ち会います。 ただ」
本データのタイトルに視線を戻す。 淡く青にじんだ「仮死時記録」の四文字が、視界の中央で小さく揺れた。 指先の静電気がまだ残っている。 「僕が決めるんじゃなくて、彼女の今の選択に、できるだけ沿う形で… … 静かに、という前提で」
「そのように、運用してください」
管理係はうなずいた。 微笑と呼ぶには足りない、口元の筋肉のわずかな動きが一瞬だけ見える。 冷却された機体の側面を指で撫でたときのような、硬い安心感と冷たさが同時にあった。 「閲覧相談ブース、三番をご用意しました。 春日さんのカードをかざせば、セッションが始まります」
足元の暖かさが、途端に意識の表面に浮かび上がる。 溶けかけた雪解け水の上を歩き、離陸前の誘導路をじわじわ進んでいるような足取りで、本データを胸に抱え、フロアを後にした。 ◇
閲覧相談ブースの前に着くころには、指先の冷たさも少しずつ和らいでいた。 「3」と表示された扉にカードをかざす。 「ピッ」という認証音のあと、薄い扉が左右に開いた。 中に入った途端、空気の質が変わる。 肌に触れる湿度が一段階上がり、紙と金木犀の芳香剤が混ざった匂いが、静かに鼻腔を満たした。 その奥に、甘いハーブの香りがうっすら差し込んでいる。
小さな部屋。 磨かれた木のテーブルが一つ。 向かい合う形で二つの椅子。 壁面には、鏡代わりにもなる黒いスクリーンがはめ込まれている。 天井近くに埋め込まれた空調が、静かに「サァー」と風を送っていた。 風は、春先の陽だまりのような柔らかさと、冬の朝の名残みたいな冷たさを交互に運んでくる。 露出した手首の産毛が、その度合に合わせて細かく逆立ったり寝たりした。
備え付けのロッカーを開ける。 中から、薄いグレーの司書用カーディガンと、折り目のくっきり残った白いシャツが現れた。 洗剤の、少し柑橘を混ぜた匂いがふわりと漏れる。 さっきまで着ていたシャツの袖をまくると、前の崩壊の時に濡れたまま乾ききっていない布の冷たさが、腕にぴったりと貼り付いていた。 指で布をつまむと、「ぴちゃ」と湿った音がする。 肌から布が剝がれる瞬間、隙間に冷気が滑り込んできて、腕中に鳥肌が走った。
新しいシャツに腕を通す。 布地はまだ固く、冷蔵庫から出したばかりのシーツみたいにひんやりしている。 ボタンを一つずつ留めていくうちに、自分の体温がゆっくりと生地に染み込んでいくのが分かった。 襟元に指を滑らせると、「サラッ」とした感触とともに、洗剤の匂いが鼻先をかすめる。 カーディガンを羽織る。 肩に布の重みが乗った瞬間、内側からじわじわと温もりが広がり、固まっていた肩甲骨まわりの筋肉が少しだけ緩んだ。
テーブルの端に備えつけられた自動抽出機のボタンを押す。 「ゴボゴボ」と小さな水の音。 続けて、「シュー」と湯気の上がる音がして、透明なカップの中で淡い黄色の液体が揺れた。 カモミールに似た香りが、金木犀と混ざり合って、部屋の空気をやわらかく押し広げていく。 カップを両手で包むと、熱が掌から手首、前腕へと、ゆっくり滑走路を走るジェットのように伸びた。 皮膚の内側で固まっていた筋肉が、少しずつほどける。 一口喉に流し込む。 温かい液体が食道をつうっと滑り落ち、胃のあたりでふわりと重さに変わる。
テーブルに手を置いた。 磨かれた木は、指先に滑らかで、わずかに人肌に近い温度を持っている。 そのすぐ横に置かれた量子端末のガラスは、対照的に冷たい硬さを保っていた。 指で境目をなぞる。 「ツッ」と感触が変わり、爪の縁がわずかに引っかかる。 現世と黄泉の間にある薄い境界線に触れているような感覚が、背骨のあたりをすっと撫でていく。 スクリーンに映る自分の姿は、新しいシャツのおかげで多少は整って見えた。 目の下の隈はまだ薄い影になって残り、黒髪の前髪がそこで一度だけ跳ねている。
髪を手ぐしで整え、小さく息を吐く。 マスクの内側で呼気が温く反射し、その湿り気が頬に触れた。 利用者の前で崩れすぎない顔。 その仮面を用意する行為は、相手のためというより、自分の骨組みを維持するための支えに近い。 本データをテーブルの中央に置く。 背表紙には小さく、「試験保存プロジェクト:連理会/企業コンソーシアム共同」と刻印されていた。 文字列に視線が触れた途端、胸のあたりで何かが「キュッ」と縮む。
兄の事故報告書の端に並んでいたロゴや、氷室 蓮の名刺のレターヘッドが、頭の隅で重なった。 舌に、ほんの少し苦味が広がる。 ハーブティーのせいだけではない。 深く息を吸い込むと、金木犀とカモミールと洗剤と紙の匂いが肺の奥まで満ちた。 吐き出すとき、胸の中に溜まっていた靄が、薄い膜を剥がすみたいにわずかに軽くなる。 「… … よし」
誰にともなく呟き、端末にカードをかざす。 「ピッ」という音。 スクリーンが夜明け前の空のような淡いグレーに染まり、そこから少しずつ色が浮かび上がっていった。 ◇
彼女が現れた瞬間、空気の匂いが反転した。 制服のブレザーについた雨の匂い。 駅のホームに立ち込める、鉄とオイルの混ざった金属臭。 それが、さっきまでの金木犀と紙の匂いの上に薄い膜のように「ふわっ」と重なり、鼻腔の奥の温度を変える。 空調の風が一度だけ強くなり、彼女の髪の先が「さら」と揺れた。 「… … あ、なんか、久しぶりな感じします」
スクリーン越しに現れた水無瀬 紗月は、首をすくめるようにして笑った。 制服は冬服。 ブレザーの下から、グレーのセーターの裾が少しのぞいている。 タイツの表面が、画面越しにもわかる鈍い光で足のラインをなぞっていた。 頬は前より少し痩せたように見えるが、目の下の影は薄くなっている。 「お待たせしました。 … … 現世は、どうですか」
いつもの入口の挨拶に近い問いを口にした。 カップから立ち上る湯気がスクリーンの手前で揺れ、自分の声がその煙に乗って彼女の方へ流れていくような錯覚が生まれる。 「てか、図書館の方が先に大変になってましたよね。 ニュースとかには出ないけど」
紗月は、視線を周囲に泳がせながら言った。 ブースの壁を、初めて入った部屋を見回すみたいに見ている。 その瞳の動きに合わせて、壁の光の縞が「ゆら」とわずかに揺れた。 「こっちは、まあ… … 滑走路を減らして、なんとか飛んでる感じです」
自分でも妙な比喩だと思いつつ、喉を通って出ていった。 彼女の口元が、くすっと緩む。 「滑走路… … 。 へえ、なんか、かっこいいですね」
「かっこよくはないですよ。 離着陸の本数を減らしてるだけで」
「でも、ちゃんと飛んでるんですよね」
彼女の視線が、まっすぐこちらに向く。 そのまっすぐさに、胸の奥がじん、と熱を帯びた。 カップの熱が指から掌の内側へすべり込んでくる感覚と重なる。 「… … たぶん、なんとか」
曖昧な言葉を選び、そこから話題を少しずつずらす。 「進学の方は、どうですか。 願書とか」
紗月は、ほんの少し顔をしかめた。 唇の端を引きつらせるようにして、声を出す前に一度咳払いをする。 「ゴホッ」という乾いた音が、スピーカー越しに胸骨を震わせる。 「願書か… … 。 一応、書いたんですけど」
「一応」。 自分の口癖と同じ言い回しに、喉の奥で苦笑がこみあげる。 「書いた、けど? 」
「出してないです。 てか、まだ封筒に入ってないっていうか。 机の上で、ずっと滑走路待ち」
両手で紙飛行機を飛ばす真似をして、彼女は笑った。 袖口から滴った水滴が、画面の下の方で光る。 雨で濡れた布の匂いが、また少し強くなった気がした。 「理由、聞いてもいいですか」
「… … うち、母親が、看護学校行けって、ずっと言ってて。 なんか、死ぬ人のそばで働く仕事が、向いてるんじゃないかって。 友だちの… … えりのこともあって」
「えり」と口に出した瞬間、紗月の声がわずかに震えた。 スクリーンの映像が、一瞬だけノイズを噛む。 「ザッ」と細い音が走り、すぐに元に戻る。 「私も、最初はそれでいいかなって思ってたんですけど。 最近、なんか… … 違うかなって」
「違う? 」
「死ぬ人のそばにいるの、怖いなって。 … … てか、生きてる人のそばにいるのも、だいぶ怖いんですけど」
最後だけ、冗談めかした調子で言い足した。 けれど指先は、見えないテーブルの縁を強く掴んでいるみたいにわずかに白くなっている。 彼女の息がマイクに当たり、「ふう」と小さな音を立てた。 金木犀の香りの中に、鉄っぽい匂いが一瞬だけ混ざる。 線路の匂い。 以前、夜の駅でホームを見下ろした時に感じた、あの乾いた鉄の冷たさが喉の奥に蘇った。
「ここに来る人たちは、終わった話を持ってくることが多いですけど」
言葉を選びながら、ゆっくり口を開く。 舌の上に残るハーブの甘さが、妙に重く感じられた。 舌先を上顎に軽く押しつけて味を薄める。 「紗月さんのは、まだ途中の話ですよね。 滑走路の上をタクシー中というか。 だから、その… … 今、怖いって思ったなら、それも含めて、願書の行き先を決め直しても、いいんじゃないかと思います」
説教の温度にならないよう、語尾を少し柔らかく落とす。 紗月は、「はあ」と小さく息を吐いた。 冷たい空気の中で白い吐息が見える場面を、頭が勝手に描く。 ブースの空調が一瞬冷たく傾いたせいだろう。 「決め直す、か… … 。 なんか、めんどくさいですね」
「めんどくさいですよ。 たぶん、何回も滑走路に戻されますし」
自分で言って、喉の奥から短い笑いが漏れた。 胸の裏側で固まっていた筋肉が、わずかに緩む。 「でも、ここに来てる間くらいは、離陸と着陸の話じゃなくて、地上でどこ走るかの話をしてもいいかなと思って」
「… … 地上の話」
彼女は、壁に視線をやる。 光の縞が、その視線を追いかけるように揺れた。 「地上、けっこうデコボコですよ」
「図書館の廊下よりは、まっすぐです」
「それ、褒めてます? 」
短いやりとりの間に、ブースの空気が少しだけ柔らかくなった。 ハーブティーの湯気もまだ残っている。 カップに口をつけると、さっきより温度は下がっているのに、不思議と喉の奥がもう一段深いところから温まる。 紗月が、ふと鼻をひくつかせた。 「… … なんか、この匂い、夢で何回も嗅いだ気がして」
その言葉に、背中の筋肉が反射的に固くなる。 舌が口内で一瞬止まり、歯と歯の間に挟まった空気が動かなくなった。 「本の匂いですか? 」
なるべく何でもない質問みたいに尋ねる。 指先がカップを握る力を少しだけ増し、陶器が「キュッ」と小さく鳴いた。 「本と… … なんか、金木犀? と、機械の匂い。 … … 変ですよね。 うちの部屋、金木犀なんか置いてないのに」
スクリーンの向こうで、紗月は自分の制服の袖口を鼻に近づけた。 しっとりと濡れた布地が、画面の手前で細かく揺れる。 そこから、雨の匂いがまた少し立ち上った気がした。 「夢の話って、案外、いろんな匂いを混ぜて持ってきますから」
「そうですかね… … 。 でも、一回、なんか、息が止まったみたいに、全部が遠くなった夜があって」
彼女の声が急に細くなる。 壁の光の縞が、一瞬だけ水面の反射みたいに「ゆらゆら」と揺れた。 その揺れに合わせて、耳の奥で「ピッ… … ピッ… … 」と規則的な電子音が鳴った気がする。 心電図の音。 病院の夜。 「あれ、夢だと思ってたんですけど。 なんか、今ここにいると、ちょっとだけ… … 」
言葉が途切れる。 紗月は、自分の胸のあたりを指先で押さえた。 布越しに胸骨をなぞった時、彼女の表情に、ほんの一瞬だけ陰が差す。 弦がまた強く引かれた。 胸の内側で、「キリキリ」と細い悲鳴が上がる。 兄のプロトタイプ実験。 モニタ越しに見た彼の心電図。 あの時の「ピー… … 」という警告音が、遠くの塔からのサイレンみたいに耳の奥で蘇る。
「… … そういう夢を見る人、けっこういますよ」
自分でも無理があると分かっている言葉を、慎重に選んで口にした。 彼女の顔色を不用意に変えないように。 自分の心拍を、テーブルの木目に押し付けて落ち着かせるように、指先でぎゅっと抑える。 「勉強で睡眠不足だったとか、そういうのも関係しますし」
「まあ、そうですよね。 模試前、徹夜とかしてたし」
紗月は、無理に明るい調子を作って言い、視線をこちらに戻す。 目の奥に残っているわずかな不安の色が、スクリーン越しにも伝わってきた。 ハーブティーをもう一口飲む。 少し冷めた液体が舌の上で広がり、薄い甘さと、金属めいた後味を残して喉の奥へ落ちていく。 胃のあたりが、静かに重くなった。 ◇
紗月が、現世からの連絡に対応するため一時的に席を外すことになった。 映像がふわりと薄まる。 スクリーンの中の彼女の輪郭が、「ザザッ」とノイズを挟みながら淡くなっていく。 声も、雨の匂いも、駅の金属臭も、少しずつ遠ざかる。 代わりに、ブースの中の紙と金木犀の匂いが戻ってきた。 空調の音が、急に近くで鳴っているように大きく聞こえる。
テーブルの上の本データに視線が落ちた。 背表紙に指をかける。 冷たさが、再び指先にまとわりつく。 指を滑らせ、「パラ」とページを開いた。 インデックス画面が立ち上がる。 白地の上に、淡い青と桃色の光が重なって文字列を縁取っていた。 いつもよりも微かに滲んで見える。 春霞の向こうから文字を覗き見ているみたいだった。
——記録名:水無瀬紗月/仮死時記録プロトタイプ。 ——死亡予定日時:■■年■月■日(未確定・凍結)。 ——ステータス:黄泉側利用者/現世側存命。 喉の奥で、何かが「ゴクリ」と勝手に動いた。 舌が一瞬、上顎に貼り付き、唾液の膜がそこに張る。 指先に力が入り、端末のガラスが「ギュッ」ときしんだ。 ページの下部。 小さなフォントで、「解放=消去」と「継続保存」という二つの選択肢が並んでいる。 その右端に、「立会司書:春日 透真」の文字。
胸骨の裏側に、冷たい指が一本滑り込んでくるような感覚がした。 肺が小さく縮む。 空調の風が、突然止まったように感じられる。 実際には回っているはずなのに、部屋の音がすべて遠のき、代わりに図書館の別の閲覧室のざわめきが、水の向こうから聞こえてきた。 「ざわざわ」という低いノイズ。 ハーブティーのカップから立ち上る最後の湯気が、「すう」と細く伸びて、空中でほどけて消える。
——僕が、「解放」に触れれば、この仮死時記録は黄泉から切り離される。 消える。 彼女の「死にかけた未来」は、図書館の棚から退役する。 ——「継続保存」を選べば、この本は、いつか誰かの手によって、また開かれるかもしれない。 その誰かは、連理会かもしれないし、企業かもしれない。 あるいはもっと別の、見知らぬ誰か。 視界の端に、兄の未完の本の影がちらついた。
あの時、僕は、補完しないことを選んだ。 欠けたまま残すことを引き受けた。 それは、兄の人生を「筋の悪い嘘」で上書きしないためだった。 今、目の前にあるのは、生きている誰かの「未確定の終わり方」だ。 ここで保存を続けることは、彼女の死にかけた瞬間を、誰かのためにストックしておくことになる。 いつか、「役に立つ」かもしれないからと。
その発想自体が、喉の奥で酸っぱく跳ね返った。 拳を握ると、骨が「ミシ」と鳴る。 手首から肘にかけての筋肉が一斉に強張り始める前に、指を開き、空中でゆっくりと一度、深呼吸をした。 肺に入った空気が冷たくて、胸の内側がきゅっと窮屈になる。 その窮屈さを、自分のものとして抱え込むように、一度飲み込んだ。 画面の「解放=消去」の欄は、まだ白いままだった。
指先が自然にそちらへ伸びかけて、途中で止まる。 ガラスから、わずかな静電気が「ピリ」と伝わってきた。 ——どっちを選んでも、何かを失う。 それでも、少なくとも、誰かの役に立つかもしれないからといって、生きている誰かの「死にかけた未来」を、ここで標本みたいに囲い込んでおくことだけはしたくない。 舌の上の甘さが、いつのまにか褪せていた。 代わりに、薄い苦味が広がっている。 カモミールの名残と、自分の血の味が混ざったような。
スクリーンの中で、薄まっていた紗月の輪郭が、また少しずつ濃くなり始めていた。 雨の匂いが戻ってくる。 ホームの鉄の匂いも。 指先を、画面からいったん離す。 決めるのは、この次の会話の後だ。 ◇
「すみません。 母からで」
紗月が戻ってきた。 携帯電話を持つ仕草は映らないが、「すみません」の言い方で、受話器の向こう側の顔までぼんやり想像できた。 声の端に、少しだけ疲れた笑いがぶら下がっている。 「大丈夫です。 … … お母さん、何か? 」
「進路の話でした。 タイミング良すぎて、笑いました」
笑いながらも、彼女の頬はうっすら赤い。 呼吸が少し早く、胸の上下が画面越しにも分かる。 空調の風が、また温度を変えた。 今度は、春の午後みたいな暖かさが勝ち、首元の汗腺がゆっくり開いていく。
「この前、言ってましたよね」
テーブルの端に置いた自分の指を眺めながら、声を出す。 爪の先が木の表面をかすかに「トントン」と叩き、そのリズムが心拍とずれて、かえって落ち着く。 「将来の… … 死亡記録を、予約しようとしたって」
スクリーンの中で、紗月の肩が「ピク」と跳ねる。 目線が一瞬、下に落ちた。 唇の端が、自分で自分を噛むようにわずかに動く。 「覚えてたんですね」
「一応、そういう話は覚えてます」
「… … あれは、その。 バカですよね、マジで」
苦笑とも自嘲ともつかない笑いが、スピーカーからこぼれた。 彼女の指が、自分の髪をくるくるといじる。 細い指が、濡れた髪に「キュッ」と引っかかった。 「でも、その時は、怖かったんです。 自分が、勝手に終わってくのが。 誰にも何にも言わないで、なんか、勝手に線路に吸い込まれそうな感じがして」
「線路」という単語が部屋の空気を揺らした。 同時に、足元の床の下から、低い振動のような音が「ゴォ… … 」と一度だけ響く。 遠くを走る電車の重い響きに似ている。 すぐに消え、空調の一定の風音だけが戻ってくる。 「だから、先に決めておけば、ちょっとはマシかなって。 自分の終わり方。 … … 変ですか」
舌が上顎に張り付いたまま動かない。 喉の奥に、小石をひとつ飲み込んだみたいな固さが広がる。 空気が、その石の周りを無理やり流れていく。 兄の棚。 未完のページ。 自分の名前が差し込まれかけたままの付箋。 あの時、僕はそこから指を離した。
「変… … というより」
言葉を探しながら、指先でテーブルの木目をなぞる。 滑らかな感触の途中で、小さな傷に触れた。 「ザリ」とした感触が指に残る。 「パイロットが、目的地の天気予報を全部チェックしてから飛びたい、って言うのに、少し似てるかもしれません」
「天気予報」
「嵐に巻き込まれたくないから、どこに嵐があるか先に知りたい。 でも、予報は予報で、全部は当たらないし、飛んでる間にも変わるから、本当は、その都度、進路を変えるしかない。 … … 死亡記録の予約って、多分、長期予報を石に刻んでしまうみたいな感覚に近いと思うので」
そこで一旦口を閉じる。 自分の比喩が少し長くなりすぎたのを、舌の裏側が先に察知していた。 紗月は、じっとこちらを見ている。 目の奥にさっきまでの冗談の色はなく、代わりに、何かを測るような静かな光が宿っていた。 「じゃあ、どうしたらよかったんですかね、あのとき」
「どう、って決めるのは… … 僕じゃないですけど」
自分の指先がテーブルを叩くリズムを少し早める。 「トン、トン、トン」。 心臓の鼓動とは別のテンポで、胸の中のざわつきをずらす。 「怖いなら、今の紗月さんが、『どんなふうに終わりたくないか』を、たぶん、時々書き換えてもいいと思います」
「終わりたくない、方」
「はい。 例えば、『誰にも相談しないで終わるのは嫌だ』とか、『誰かのせいにしたまま終わるのは嫌だ』とか。 そういうのを、その時々でちょっとずつ書き換える」
言いながら、自分の言葉が自分自身に返ってきているのを感じる。 兄の死を自分のせいだけにしておきたいという、あの歪んだ執着。 それもまた、「どんなふうに終わりたくないか」のひとつだった。 「ここに、予約として固定しておくより、その方が、ずっと面倒で、でも、生きてる感じがすると思うので」
スクリーンの中で、紗月の喉が動く。 唾を飲み込む音がマイクを通してかすかに届いた。 「コクリ」という小さな音。 「面倒って言い切るんですね」
「たぶん、面倒ですよ」
少し笑う。 空気が、ほんの少し軽くなった。 金木犀の香りが、さっきよりはっきりと鼻腔をくすぐる。 空調の風も、春の午後の温度を保っていた。 「でも、その面倒さは、こっちに残しておいた方がいい。 死後の方に持って行って、誰かに編集してもらうんじゃなくて」
最後の一文だけ、声が少し低くなる。 スクリーンの中の文字列を見ている自分の視線と、紗月を見ている視線が、頭の中で重なった。 「… … もし、また線路に吸い込まれそうになったら、どうしたらいいですか」
紗月がぽつりと言った。 目はどこにも焦点を合わせていない。 スクリーンの向こうで、視線が空中をさまよっている。 床の下で、さっきと同じ低い振動が一度だけ響いた。 「ゴォ… … 」。 今度は少し短い。 すぐに静かになり、代わりに自分の呼吸の音がやけに大きく耳に届く。
指先が再び端末の画面へ伸びる。 「解放=消去」の欄が、白く待っている。 スクリーンから伝わる微かな静電気が、皮膚に「チリ」と刺さった。 「そうなりそうだなって思う前に」
言葉を置くように、一語一語出す。 舌の動きを意識しながら、肺に溜めた空気を少しずつ吐き出す。 「今の紗月さんが、決め直すんだと思います。 その時も、その前も、何度でも」
指先が、「解放=消去」の文字に触れた。 画面が、一瞬だけ暗くなり、直後、柔らかな春の光を思わせる淡い色合いが画面全体に広がる。 金木犀の香りが、ふっと濃くなった。 空調の風が、ほんの少しだけ暖かくなる。 「ここに“予約”を書き込んでおくより、その方が、ずっと面倒で、でもちゃんと生きてると思うから」
「解放済」という小さな表示が、画面の片隅に現れた。 それが淡く光り、すぐに背景に溶け込んでいく。 胸の奥に積もっていた氷が、ゆっくりと溶けて冷たい水になり、重さを持って沈んでいくような感覚があった。 紗月は、しばらく黙っていた。 唇を噛み、目が少し潤んでいるのが画面越しにも分かる。 けれど、涙は落ちない。 代わりに、彼女は深く息を吸った。 「すう」と吸い込む音がマイクに乗る。
「… … 面倒くさすぎません? それ」
「はい」
即答した瞬間、自分でも可笑しくなって、喉の奥から笑いがこぼれた。 紗月も、遅れて笑う。 笑い声がブースの壁に柔らかく反響し、音が丸くなって返ってくる。 「でも、そうやって面倒くさがれるくらいには生きててほしいです」
そう言ってから、少し照れくさくなり、視線をカップに落とした。 ほとんど冷めきったハーブティーを一口飲む。 今度はほとんど味がない。 それでも、喉を通るぬるい感触だけは確かだった。 ◇
「願書の話に戻るんですけど」
セッションの残り時間を知らせる小さな数字が、スクリーンの端で点滅し始めていた。 残り数分。 滑走路の端が見えてくる時間帯だ。 「はい」
「出すときは、誰かのせいにしないで、自分で出してくださいね」
できるだけ軽い調子で言う。 冗談の枠に入れておく。 言葉にまとわりつく重力を少しだけ減らすみたいに。 「ひど。 プレッシャーかけてきません? 」
「プレッシャーというか… … 飛行計画の責任者は、自分で、というか」
「比喩多いですよ、春日さん」
くすくす笑いながら、紗月は肩を揺らした。 その動きに合わせて、制服の布が「サラサラ」と擦れる音がわずかに聞こえる。 「じゃあ、出す前に、ここで愚痴ってもいいですか」
「愚痴くらいなら、いつでも。 死亡記録より、愚痴のアーカイブの方が容量多いですから」
「そんな図書館、いやだ」
笑い声が、二人分、ブースの中でふくらんだ。 空調の風も一緒に笑っているみたいに、強さをかすかに変える。 金木犀の香りが、少しだけ遠ざかる。 代わりに、紙の匂いがくっきりと浮かび上がった。
「… … でも、ありがとうございます」
紗月は、ふっと真顔に戻って言った。 かすかな雨の匂いが、また鼻をくすぐる。 「ここ来ると、なんか、離陸前にチェックされてる感じがして。 ちゃんと生きてるかどうか」
「検査、厳しすぎませんでした? 」
「ギリ、通してくれてるから、いいです」
笑顔のまま、彼女の輪郭が少しずつ薄くなっていく。 スクリーンの中で、雨の匂いと駅の音が遠ざかる。 心電図のような電子音が、最後に一回「ピッ」と鳴ったような気がした。 「また、来てもいいですか」
消えかけた輪郭の中から、その声だけがはっきりと届く。 「… … ええ。 滑走路が空いてる限りは」
そう答えると、紗月は最後にもう一度笑った。 その笑顔が、春の空に切れ間を見せる雲みたいにスクリーンの中に残像を残し、静かに消えていく。 ブースの中には、再び紙と金木犀と、冷めきったハーブティーの匂いだけが残った。 空調の音が、一定のリズムに戻る。 カップの底に残った少量の液体が、テーブルを動かすたびに「チャプ」と揺れた。 ◇
本データを抱えて、閲覧室の奥へ歩いた。 通路には、残雪と桜吹雪が混ざり合ったような光の粒が、静かに舞っている。 足元には、溶け残った霜のような白いノイズが薄く積もっていて、歩くたびに「ジョリ、ジョリ」とかすかな水音がした。 靴底に触れる感触は、薄い氷膜の上に張った水を踏むのに似ている。 冷たいのに、どこか柔らかい反発が返ってくる。
棚が並ぶ列の間を進む。 ラベルの文字列が、ところどころ歪んでいる。 先の崩壊の余波が、まだ残っているのだろう。 光の縁取りが、心臓の鼓動に合わせているかのように、少しずつ揺れて見えた。 「未来予定棚」と書かれた札のある列の前で、足を止める。 棚の角に指を触れると、「ひや」と冷たい。 冷却された機体の翼に触れたときのような、硬くて滑らかな冷たさだった。
水無瀬紗月のラベルを探す。 目を細めて、一段ずつ目でなぞっていく。 文字がところどころ霞んでいる中で、淡く色の抜けた背表紙が目に入った。 ——水無瀬紗月/仮死時記録(解放済)。 インクが長い時間を経た本みたいに、少し薄くなっている。 指で背表紙をなぞる。 厚みはもうない。 ただの表面。 中身はもう存在しない。 それでも、「ここに一度、本があった」という痕跡だけは、木目の上に貼ったステッカーの跡みたいに残っていた。
そのすぐ横。 背表紙もラベルもない、空きスペースが口を開けている。 棚板の木目だけが見えていた。 そこにもし、いつか何かが差し込まれれば、新しいタイトルが刻まれるのだろう。 視線を少し遠くへやる。 別の列。 そのずっと奥に、「春日家/未来予定棚」と書かれた影が、ぼんやりと見える。 距離があるせいで、文字は読み取れない。 ただ、あそこにも同じような余白が、口を開けていることだけは分かった。
近づきすぎると、何かが変わってしまいそうで、足は動かなかった。 視線だけを横目に滑らせ、すぐに戻す。 胸の中で、どこかの航路図が、まだ線を引かれないまま広がっている。 ——自分の名前を、あの棚に刻ませないまま、この図書館で働き続けるのか。 それとも、いつか、自分でそこに差し込む日が来るのか。 答えは、どこにも記載されていない。 少なくとも、今は。
棚の間を吹き抜ける風が、「サァ… … 」と音を立てた。 春の夕方のような柔らかい暖かさと、黄泉の冬の名残の冷たさが、一緒になって頬を撫でる。 光の粒が、雪とも桜ともつかないまま、ゆっくりと舞い上がった。 耳の奥で、「ゴォ… … 」という低い音が聞こえた気がした。 遠くの滑走路で、どこかの機体が離陸を始める音。 まだ誰の便名も知らされていない、そのサウンドを聞きながら、僕は、淡く色あせた「解放済」の背表紙と、隣の余白を見上げていた。 風は、図書館の奥から吹いてくる。 冬と春が重なり合う、その風の中で。
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第19章:滑走路の余白で - 黄泉の図書館
足音が、薄く温められた床を「コツ、コツ」と叩いていた。 ちょうどその時、上階へ向かう通路は、外縁層の冬をまだ引きずっていた。 壁に沿って流れる光の筋は、雪片と桜の花びらの中間みたいなノイズになって、白い廊下をちらちらと染める。 鼻をくすぐるのは紙の乾いた匂いと、どこかで焙煎した豆の残り香が混じったような、季節の定まらない空気だ。 喉の奥に、細い氷の欠片が引っかかったような冷たさがまとわりつく。 管理端末フロアの扉が、自動で「スッ」と横に滑った。
窓のない高層オフィスを思わせる乾いた空気が、顔の皮膚を一枚だけ薄く剝がすみたいに当たる。 なのに足元だけ、床下からじんわりと熱が立ち上っていて、残雪の下から地熱が滲んでくる春先の滑走路を踏んでいるような感覚だった。 壁一面には、水平に走る淡い光の縞。 近づくと、その一本一本が細い文字列になっている。 視線を滑らせるたび、「ピッ」という小さな電子音が耳の奥で弾け、鼓膜の内側にかすかな振動を残した。 喉の乾きが、そこに砂を撒かれたみたいに強まる。 「春日さんですね」
声に振り向くと、端末フロア担当の管理係が一人、カウンターの向こうに立っていた。 白い手袋に薄いタブレット。 どこにも力の入っていない口元と、光を均等に反射するだけの瞳。 蛍光灯の白さを、そのまま人の形に固めたみたいな印象だった。 「はい。 一時出張の説明って、伺ってましたけど」
自分の声が、乾いた空間に少し浮いて響いた。 マスクの内側で吐息が反射し、こもった温度だけが現世を思い出させる。 鼻先に自分の呼気がかかり、レンズがうっすら曇った。 「ええ、形式上は。 ようやく、… … その間、その前に、こちらを確認していただく必要があります」
管理係が指先で端末を弾いた。 目の前の空中に、薄い本の形をしたデータが「フッ」と現れる。 透ける背表紙を指でそっとつまむと、手袋越しでもわかる冷たさが骨まで染み込んできた。 指先に、微かな静電気が「パチ」と走る。 タイトル行に目を落とした瞬間、肺が一瞬だけ空気の吸い方を迷う。 ——水無瀬紗月 仮死時記録/閲覧制限付き。 文字が白地の上で淡い青にじんで見え、視界の端で壁の光の縞がざわりと震えた気がした。 耳の奥の電子音が、「ピー…」と細く伸びる。 「… … たちまち、これは」
声が出た時、喉がさびた蝶番みたいにきしんだ。 舌の位置が妙に意識に上る。 冬の朝、氷点下の滑走路で無理やり深呼吸した時の肺の痛みが、胸の奥にじわりと戻ってきた。 「記録管理上は、『例外的試験保存』に分類されます」
管理係は、会議資料の一行を読み上げるみたいなトーンだった。 目線だけが、手元の画面と虚空を行き来する。 「現世側での事故の際、一時的に意識レベルが低下した状態で… そして、… 量子接続が行われまして。 その時のデータを、図書館側で一冊分として仮保存したものです。 本人は覚えていないはずです」
「ちょっと待ってください。 ここで、生者のデータは扱わないって… … それが原則ですよね」
掌に乗った本データの重みが、急に具体的な質量を帯びる。 冷たさが、皮膚の上で窮屈な手錠みたいに締まっていく。 背筋に、細い氷柱を一本ゆっくり差し込まれる感覚が走った。 「原則としては、はい」
管理係はあっさり認めた。 足元を見もしないまま、わずかに視線だけを横へ動かし、遠くの規程集を透かして見るような目つきになる。 「ただ、こちらは連理会および現世側コンソーシアムとの共同プロジェクトに関連する、極めて限定的なテストケースです。 現在は、死亡予定日時も確定しておりませんし、“現世側存命”ステータスで凍結されています」
死亡予定日時。 耳の内側にぬるりと入り込んで離れない単語だった。 外側からイヤーマフでぎゅっと塞がれたような圧迫感が一瞬広がる。 「… … 本人の意思は、どうなってますか」
想像よりずっと静かな声が出た。 怒鳴る代わりに音量を絞っていく、いつもの癖が喉の奥で勝手に働く。 拳を握ると、手袋の布が「キュッ」と擦れ、関節が布越しに硬く当たった。 「その確認のためのプロセスです」
管理係が、ほんの少しだけ声のトーンを変えた。 程度としては、書類のフォントサイズを一段階変えるくらいの差だ。 「現世側での正式な同意取得は別ルートで実施済みです。 ただし、本人はここでの保存の詳細までは認識していません。 今回、仮死時記録の継続保存か解放(=消去)かを決めるにあたり、黄泉側での代理人として立ち会う司書が必要だと判断されまして」
管理係の視線が、こちらの肩から首筋、目元へと一度なぞる。 体温を測るみたいな長さだった。 「推薦されたのが、春日さ...