棚の端を軽く押すと、「きい」と乾いた音がして、本の列が一冊ぶんだけ奥へ揃った。 黄泉の閲覧室の空気には、まだ細い焦げ跡みたいな歪みが残っている。 天井の蛍光灯とは別種の白い光が床に薄く滲み、タイルの上でところどころ水たまりのように揺れていた。 鼻の奥へ、桜餅の甘さと冷えた金属の匂いが一度に入り込んでくる。 遠く、中枢寄りのほうで、水琴窟を遠くで聞いているような「ぽと… ぽと…」という水音が途切れぎれに響く。 その隙間を縫って、「ぱらり」とページを繰る音が散発的に重なり、再起動後の図書館がかろうじて通常運転に戻りつつあることだけが音の層から伝わってきた。 「ね、聞いた?」
背後のカウンター付近で、同僚の声が小さく跳ねた。 紙束をホチキスで留める「パチン」という音に紛れた、半分仕事、半分雑談の気安さが混じる。 すぐに、「何をですか」
貸出ログの端末を立ち上げながら、春日透真は、視線だけモニタに据えたまま声を返した。 指先で触れたパネルの表面には、まだぬるりとした量子膜の名残が残っている。 指を滑らせるたび、インクとも湿布ともつかない匂いが、ふっと鼻先を掠めた。 「雪村さん。 中では、退職願、出したって」
ログ画面の端が、一瞬だけ水を打ったように滲んだ。 モニタの中で利用者IDの行がじりじりと揺れ、ピントが合い直す。 喉の奥に、小さな結び目が出来ていく感覚がじわりと広がった。 彼は息の速さを意識的に落とし、「… … ここまで、人事の話、早いですね。 どこから」
声に角が出ないよう、意図的に言葉と言葉のあいだに余白を挟む。 その間に、カウンター奥の同僚司書——着任と配置換えが早すぎて、透真の中ではいつまでも「あの人」のままの相手——が、椅子ごとくるりと回った。 「人事課の棚、さっき行ったらさ。 また、『扱いに困ってる』ってぼやいてたよ。 退職扱いにするけど、アクセス権は完全には切れないとか何とか。 すぐに、ね、長谷部さん」
隣で台帳を閉じていた長谷部玲央が、「え、俺振られた?」と顔だけ上げて笑った。 慎重に紙の表紙を指の腹で叩き、「ぽん」と軽い音を響かせる。 「いやまあ、噂ですよ、噂」と、長谷部。 肩をすくめ、「ですよねー、って感じですけど。 雪村さんレベルの司書がいなくなると、現場的にはわりと痛いっていうのは、マジで本当です」
机上の付箋に視線を落とし、透真はペン先で角をなぞりながら、「配置換え、進んでるみたいですね」と、何気ない一言のふりをした。 ペンが紙からわずかに滑り出す。 「さっきも、外縁棚のリスト持っていかれましたし」
「それはそれ、これはこれ、ってやつですよ」
同僚が椅子の背にもたれ、背もたれがわずかに「ぎし」と鳴る気配がした。 「現世側で何かやるらしいって。 ちょうどその時、相談室? みたいな。 近くで、詳しくは聞いてないけどさ」
「相談室… … 今では、」
その語を舌の上で転がすと、空調の風が一瞬だけ止まったように感じられた。 インクの匂いが、さっきより濃く鼻にまとわりつく。 喉の内側がかすかに乾き、「本当なんですか、それ。 もう決まりで?」と、呼吸の合間を探るように問いを差し込んだ。
「さあ。 司書長も珍しく口かたいし」
同僚の声が、紙束を抱え上げる「しゃっ」という音に重なる。 「でも退職願、受理はしたっぽいですよ。 あっちの棚に、朱印入りの封筒、見えましたもん」
朱印、という単語に、透真の指が端末の上でぴたりと止まった。 図書館の公印は、独特の枝の形をしている。 連理会のマークと似ているが、微妙に枝の数が違う。 その朱の色を頭の中に浮かべた瞬間、視界の端で、本棚の一列がぐにゃりと波打った。 息を吸い込み、手をそっと伸ばして、その列の端の背板を押さえる。 木目の冷えた感触が、ゆっくりと掌に上がってきて、揺らぎがぴたりと収まった。 「… ゆっくりと… 一応、配置図、もう一回見てきます」
自分でも説得力の薄い言い訳を口にして、透真は端末の電源を落とし、カウンターを離れた。 足裏に伝わる床の感触は、薄い光の膜と固いタイルが幾層にも重なったような妙な感触で、「きし」とも「しゃら」ともつかない音を足音のたびに漏らす。 現世側では季節はもう春の後半に入っているはずだ。 なのに、図書館の外縁層にも、桜データの残り香がまだ漂っている。 標準化された春の匂いの奥に、焦げた回路の匂いが薄く混じり、それが崩壊前後の記憶を押し上げた。 あの翡翠色の空からどうにか着地したあとで、ようやく息をしていた場所から、誰かが出て行こうとしている。 *
資料整理室の扉は、いつもよりわずかに開き気味だった。 隙間から漏れる蛍光灯の白には、細かい明滅が混じっている。 天井のどこかでチカチカと「じ… じ…」いう音がしていそうな気配が廊下まで滲んでいた。 ノックをする前に、古い紙とインクの乾いた匂いが、冷えた廊下の空気を押し出すように流れ出てくる。 透真はその匂いを胸いっぱいに吸い込み、「すみません」と、扉に向かって低く声を掛けた。
押し開けると、蝶番が小さく軋み、内側の空気が一段温度を下げる。 段ボール箱とファイルの山に埋まったいつもの部屋の景色に、今日は白い封筒が一本、別の色を差していた。 机の端にきちんと揃えて重ねられたその封筒には、「人事課 御中」と黒インクで静かに書かれている。 左上には、少し色の抜けた朱色の印が、小さく押されていた。 何度も使われた印鑑特有の、かすれと滲みが縁に溜まっている。 封筒の向こう側で、雪村沙羅が背中を丸め、メガネを額にずらしたまま手元の紙束に赤ペンを走らせていた。 ペン先の「さらさら」というリズムと、蛍光灯の「じっ」という雑音が、部屋の中で交差する。 「… … 春日くん?」
顔を上げた彼女の声には、紙やけした空気以上の掠れが混ざっていた。 喉に砂を含んだような音色だ。 「手伝いましょうか」
段ボールの間を縫うようにして、透真は机へ近づく。 足先が箱に当たって「ごと」と低く鳴り、塔のような紙の山がわずかに揺れた。 箱の角を指先で支えながら、白い封筒に視線を滑らせる。 「配置換えのリスト… … ですか?」
雪村は、赤ペンを指の間でくるりと回し、口元だけで小さく笑った。 「いいえ。 これはもう、配置じゃなくてね」
ペン先で封筒の端を軽くつつく。 「こん」と紙の中身が小さく響き、朱印がかすかに揺れたように見えた。 「退職届。 ちゃんと、辞表ってやつを出したの。 形式だけはきれいにね」
さらりとした調子とは裏腹に、ペンを置く指先が、そこだけ時間を止められたみたいに固まる。 弓の弦を限界まで引き絞って、そのまま放たれずに耐えている瞬間の筋肉の張りに似た止まり方だった。 「… … 本当に、辞められるんですね」
喉から零れた声は、自分で驚くほど小さかった。 古紙の匂いとインクの甘さが、肺の奥まで入り込んで張り付き、言葉を重くする。 雪村は、もう一度だけ息を置いてから、「辞める、かな。 一応」と言った。
彼女は椅子の背にもたれ直す。 金属の支柱が「ギシ」と呻き、蛍光灯がそれに合わせるように一瞬だけ光を落とす。 「ここを出て、少し違う場所でやってみようと思ってるの。 記憶の… … 相談みたいなことをね」
「現世で、ですか」
「ええ。 黄泉のこの層じゃなくて」
資料整理室の隅の細い窓に、量子膜が薄く張りついている。 その向こうで、夕暮れの橙色が水彩画みたいにぼやけて揺れた。 窓枠にそっと触れると、指先に「ひや」とした冷たさと、針の先で刺されたような細いピリつきが走る。 外と中を隔てる境界の手触りだ。 向こう側では、現世の桜の花びらはもうほとんど散っているだろう。 「… … ここじゃ駄目なんですか。 その、相談っていうのは」
口に出した瞬間、自分の言葉の幼さが舌に残った。 喉の結び目が、少しきゅっと締まる。 雪村は目を細め、窓のほうへ視線を送った。 橙と灰色が混じり合う空のグラデーションだけが、その先に揺れている。 「ここだと、どうしても“公的な顔”が付いて回るでしょ」
彼女は机の上の紙束を指で弾いた。 「ぱさ」と紙が鳴り、舞い上がった埃が白い光の中で粒子の列になって漂う。 「この閲覧室で話すと、どうしても『制度としての黄泉』に相談してる感じになる。 供養として正しいかどうか、とか。 家の体裁とか。 そういうタテマエがね、先に前を飛んでしまうの」
視線の端で、紙片がふわりと浮き上がっては机に落ちていく。 せっかく走り出した機体の前に、上から貼られた見えない規定の板がふっと降りてくるような光景が、透真の頭の奥で形を取る。 「もう少し… … ホンネに近い高度で話ができる場所が欲しいのよ。 遺族の人たちも、私も」
「ホンネ」
その二音を舌に乗せると、さきほど飲んだコーヒーの残りかすみたいな苦味が口の中に広がった。 紗月がここで涙をこらえながら話した、「本当はあの日——」の続きが喉の裏側に浮かびかけ、すぐに沈む。 「たとえばね」
雪村は、机の端のノートに手を伸ばした。 表紙は柔らかいクリーム色で、角は手垢で丸く削れている。 開かれたページには、見慣れたようでいて微妙に違うフォーマットの表が縦に連なっていた。 「来談予定者(仮)」の見出しの下に、名前、年齢、続柄、亡くなった人との関係、相談キーワード——と整然と項目が並んでいる。 黒インクで書かれた文字は、何度も重ねてなぞられたのか、場所によって濃さが違い、その濃淡が紙に「ぎっちり」と刻み込まれていた。 「準備、早いですね」と、透真はページの端を見ながら言った。 「これ… … 何のリストですか」
「試しにね。 相談に来るかもしれない人たちの、仮の姿を想像して書いてみたの」
彼女はペンの跡を指先で軽く撫でる。 紙の繊維が、爪の先にささやかに引っかかった。 「名前、関係、いつ頃の記憶か、どういう場面がつらいか。 そういうのを、ひとまず項目ごとに分けておくの。 最近の若い子は、こういうのJSONって言うんでしょ?」
少し肩の力を抜いた口調になった。 「キーと値。 そんな感じ」
軽い音で放たれた「JSON」という外来語が、この埃っぽい資料室では場違いなほど軽やかに響き、空気の緊張を少しだけ緩める。 透真は、ノートの端に指を滑らせた。 紙のざらりとした手触りが、指紋の溝に入り込む。 「キー:亡くなった人、値:その人に言えなかったこと、とか、そんな感じですか」
「そうそう。 『キー:父』『キー:彼女』とかね。 値のほうには、『最後の半年ほとんど話してなかった』とか、『遺書に自分の名前が一度も出てこなかった』とか。 ばらばらの話を、一度こうやって構造にしてみる」
遠くの閲覧室から、利用者のささやきが薄い水の層を通して聞いているみたいにくぐもって流れ込んでくる。 ページをめくるたび、「しゃり」と紙と紙が擦れる。 「分けたあと、その… … JSON、どう返すんですか」
自分でも妙な比喩を使ったと思いながら、透真は尋ねた。 「書き換えたりは… … しないんですか」
書き換え、という音を出した途端、兄の記憶層で見た改竄痕の光景が、喉の後ろあたりまでせり上がる。 枝のアイコン、エラー451、赤い警告文。 それらが、今のインクの匂いと混ざり合った。 「返すときは、基本、そのまま」
雪村は、少しだけ間を置いてから答えた。 「せいぜいインデントを揃えるくらい。 整理のお手伝いね。 連理会みたいに、キーごと差し替えたりはしないつもり」
「インデント」
行頭の空白。 あれを揃えるだけでコードが読みやすくなる、と氷室蓮がぼやいていたのを透真は思い出す。 「分かりやすくするけど、内容は変えない… … ってことですよね」
「そのつもり。 … … そのつもり、なんだけどね」
言葉の終わりで、雪村はペン先を宙で止めた。 扉の隙間から入ってきた廊下の空気が、用心深く部屋を一巡りしていく。 「人の話を聞いて、構造を付けるって、それだけでだいぶ介入だから」
ノートの紙面には、まだ何も書かれていない空白の欄がいくつか残っていた。 そこに何を入れるのか、誰が決めるのか。 透真の胃のあたりで、さっきほぐれかけていた結び目がまた固くなった。 ページをめくろうとした指先が、紙の角に当たる。 そこに、小さな四角い枠が描かれていた。 枠の横に、朱色の印がちょん、と押されている。 図書館の司書長印に似ているが、一本だけ枝が足りないようにも見えた。 「これ… … 朱印、ですか」
指でそっとなぞると、紙がわずかにへこんでいる。 インクの匂いに、朱肉の油の匂いがごく薄く混じる。 「人事の印に似てません?」
「気のせいよ」
雪村は、少しだけ早口になってそう言い、ノートをぱたんと閉じた。 閉じた紙の重みが机に伝わる。 「退職ってね、案外データ処理が多いの。 現世の役所も、ここも。 あっちとこっちを揃えるのが大変」
言葉の端に、皮肉と疲労が細く混じる。 蛍光灯がまた「じ… …」と鳴き、光がわずかに弱まった。 部屋の空気が少し重くなった気配に気づきながら、透真は、自分の中の決断の弦を手探りで引き寄せるような感覚を覚えた。 「… … 沙羅さん」
名を呼ぶと、彼女の視線が赤ペンから離れてこちらに向いた。 瞳の中に、窓の橙色が細い線を描きながら映っている。 「少し、休みませんか。 カフェに、コーヒーくらいは」
椅子から立ち上がる前に、彼は自分の膝に置いた手に力を込めた。 行動を変えれば、空気も変わる。 いまは、それに賭けるしかなかった。 *
カフェスペースは、再起動のタイミングでひっそり増設されたばかりの小さなエリアだ。 自販機の列の脇に、簡素なテーブルと椅子が四つ。 壁際には観葉植物が一つ置かれていた。 湿った土の匂いが、コンクリートと消毒液の匂いとぶつかり合いながらも、ぎりぎりのところで負けずに残っている。 冷蔵ケースのモーターが、「ぶーん」と低く唸る。 奥で動くエレベーターの稼働音と重なり、一定のリズムで空間を揺らすその音は、耳には心地よいホワイトノイズに近かった。 「送別会みたいなことはやめてよね」
トレイに紙コップを載せて戻ると、雪村は椅子を引きながらそう言った。 椅子の脚が床を擦る「きゅ」という音が、あたりの静けさの中で必要以上に鋭く響く。 「… … そんな立派なものじゃないです」
透真は、息を小さく吐きながら、コーヒーとスープと、コンビニおにぎりと小さな焼き菓子をテーブルに並べた。 紙コップからゆらゆらと湯気が立ち上がる。 コーヒーの苦い香りとスープの塩気、フライドオニオンの香りが混じり合い、先ほどまで冷えた空気をじわりと温めていく。 「今日は、僕のおごりです。 一応」
「公務員(仮)相手にたかるのは、ちょっと気が引けるわねぇ」
言いながらも、雪村の手は素直にコーヒーへ伸びた。 紙コップを両手で包む指が、かすかに震えている。 指の節にじんわりと熱が広がり、その震えを内側から押さえ込んでいくように見えた。 透真もスープのカップを両手で持ち上げる。 熱が掌から腕へとじわじわ上がってくる。 唇にカップの縁を当てると、立ち上る湯気が頬を撫で、「ふう」と息が零れた。 スープを口に含むと、思っていたより塩気が強く、舌の側面が「ぴり」と痺れる。 「… … あったかいですね」
言ってから、あまりに当たり前の感想だと気付き、自分で少し笑ってしまった。 紙コップの縁が歯に当たり、「こつ」と小さく鳴る。 「黄泉もね、たまにはこういうの、必要だって分かったのよ」
雪村はコーヒーを一口飲み、喉を通る苦味に一瞬だけ眉を寄せてから言った。 「崩壊前は、こういう“人間の休憩”みたいなものは、あまり意識してなかったでしょう。 みんな、死者のことばかり見ていて」
「そう、かもしれません」
紗月が徹夜で閲覧した夜、職員用ベッドに彼女を寝かせたときの光景が胸の奥に浮かぶ。 あのとき淹れた番茶の湯気の匂いが、今のコーヒーの香りに重なった。 「沙羅さんは、その… … ここで休む時間、あまりなかったですよね」
「自分で削ってただけよ」
苦笑しつつ、彼女は焼き菓子を一つつまむ。 包装を破る「ビリ」という音が、冷蔵ケースのモーター音に割り込んだ。 中から出てきた小さなクッキーには、飛行機の形をしたチョコレートがちょこんと載っている。 「わざわざ飛行機なんて、意識して買ってきた?」
「いや、たまたまです。 たぶん」
実際には、自販機の棚でこれだけが小さくプロペラを伸ばしているように見えて、つい手が伸びた。 空の話題には、ここ最近特に弱い。 「… … ねえ、春日くん」
クッキーをかじる「さく」という軽い音のあとで、雪村が改まった調子で切り出した。 口の中で甘さを溶かしているのか、少し間を空けてから、言葉を足す。 「あの夫婦のこと、覚えてる?」
「戦死者棚の——」
言葉の先を察して、透真は小さくうなずいた。 黄泉の閲覧室で、夫の記憶と戦友の記憶を、彼女がほんの少し時間帯をずらして並べたあのケース。 結果として、妻は現世の生活を手放し、夫の記憶に依存するようになってしまった。 「あれから、もう何年も経つのにね」
コーヒーを見下ろす彼女のまつげに、天井の照明が細い線を描く。 「ときどき夢に見るのよ。 黄泉の閲覧室じゃなくて、あの人の現世の部屋のほう。 アルバムと位牌だらけの、小さな六畳の。 何度も、なんであの時… … って」
紙コップを持つ指に力が入り、白い紙がほんの少し凹む。 「あのとき私が勝手に動かなければ、あの夫婦をあそこまで追い詰めずに済んだんじゃないかって、未だに思うの」
空調の送風口から、ごく弱い風が降りてきた。 彼女の髪の先が「ふわ」と揺れる。 観葉植物の葉もかすかに震え、湿った土の匂いが少しだけ濃くなった。 透真はスープをもう一口飲み、舌の上に残る塩気を確かめる。 喉の結び目が、熱に溶かされるように少しずつほどけていく。 「でも——」
言葉を選ぶように、彼はカップを指先で回しながら続けた。 「あの人たちが、沙羅さんに話したこと自体は、たぶん、本物だったと思います」
雪村が少しだけ顔を上げる。 視線が、コーヒーの縁からこちらに滑ってきた。 瞳の奥で、何かがわずかに揺れる。 「誰かに聞いてほしくて、ここに来たんだと思います。 結果がどう転んだかとは別の話で」
透真は、自分の指先に視線を落とした。 紙コップの縁に小さな水滴が付いている。 指で触れると、冷たさが皮膚に移り、掌の熱とぶつかり合う。 現世と黄泉の境界線を、手の中でつまんだような感覚だ。 「干渉しないほうが正しい場合も、あるとは思います。 でも… … 何もしないことも、一種の干渉ですよね。 最近、ようやくそう思えるようになってきて」
誰かの人生から意識的に距離を取ること。 それを選ぶこともまた、滑走路の端に立ったまま飛ばないと決めるみたいな一つの動きだ。 「だから、あのとき沙羅さんが話を聞いたことは、無駄じゃなかったと思います。 … … たぶん」
最後の一音で、いつもの癖で「たぶん」を添えてしまう。 自分の声が、ほんの少し震えているのが分かった。 「あなたも、だいぶ仲人側の人間になってきたわね」
雪村はふっと笑う。 目尻に小さな皺が寄った。 「そんなにきれいにフォローされると、かえって恥ずかしいわ」
「きれいには、言えてないと思いますけど」
「自覚あるなら、なおさら」
軽口のやり取りに、カフェスペースの空気がすこし柔らかくなった。 冷蔵ケースのモーター音が、さっきよりも遠くから聞こえる。 「記憶相談室でも、きっと同じようなことをするんだろうなって、自分でも思うのよ」
コーヒーを一口飲み、カップを指で揺らしながら沙羅が言う。 「人の話を聞いて、整理して、少しだけ並べ方を変える。 やっていることは、図書館とそんなに変わらない。 だから、また誰かを追い詰めるんじゃないかって怖い部分もある」
紙コップの底を指で軽く叩く「とん」という音が、テーブルの木目に響いた。 「でも、それでも話を聞くほうを選ぶんですね」
「… … そうね」
短く答えたあと、彼女は観葉植物の葉先をじっと見つめる。 葉に付いた小さな水滴が、蛍光灯の光を受けてきらりと光った。 「黄泉の司書は、制度に守られている代わりに、ときどきすごく冷たい刃物になる。 それが嫌になったのかもしれない。 外に出れば、今度は逆に、何の保証もないまま誰かの人生に触れることになる。 それも怖い。 でも、どこかで足を地につけて、自分で踏ん張ってみたくなったの」
床を踏む足の裏を意識するように、彼女は靴の中でつま先を動かした。 自分の立ち位置を、自分で選ぶ、その重さを確かめるみたいに。 「春日くんは?」
唐突に、矛先がこちらに向かう。 「あなたは… … ここに残るんでしょう?」
紙コップから立ちのぼる湯気が、視界の一部を白く曇らせた。 その白い煙の奥で、彼は自分の指を見つめた。 指先には、兄の棚の背表紙の感触がまだ染みついている気がする。 「… … 残ります」
少し間を空け、胸の中で言葉の重さを量ってから、そう答えた。 「兄のことも、紗月さんのことも。 ここで見てきた記憶のことも。 全部途中で投げたくないので。 外に出る度胸がない、っていうのも、たぶん半分くらいはありますけど」
自嘲を混ぜて付け足すと、沙羅が肩をすくめるように笑った。 「逃げてるだけだって言われれば、そうかもしれません。 でも、ここに残るのを“選ぶ”って、最近ようやく思えるようになってきて」
兄の人生を補完するためだけに自分がいるわけじゃない、とようやく言葉に出来た日から少しずつ。 図書館で働くことが、自分で選んだ滑走路だと、ようやく腹の底で認められるようになってきた。 「ここが好きなんですか?」
沙羅の質問は、意外なほど正面からだった。 透真は、一瞬、喉に言葉をつまらせる。 カフェの隅で観葉植物の葉がまた少し揺れた。 土の匂いとコーヒーの匂い、スープの塩気が混ざり合って、鼻腔の奥に層をなす。 「… … たぶん、好きなんだと思います」
それ以上の言い方が見つからなかった。 けれど、口に出した瞬間、胸の奥の結び目がほんの少しだけほどける。 「いろんな人の人生の飛行計画が、ここをかすめていく感じが。 滑走路を整えるだけで、自分は飛ばなくてもいいんだって、前はそれを言い訳にしてましたけど」
カップを置く「ことり」という音が、妙に大きく耳に届いた。 「今は、飛ばないことを選んでここにいる。 そう思っていたいです」
「いいじゃない」
雪村は、少し目を細める。 「空に出ていく人も必要だし、滑走路を守る人も必要よ。 どっちが偉いわけでもない」
そう言ってから、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。 「現世で、行き場を失った記憶があったら、たまにここに回すから。 ちゃんと滑走路、磨いておいてね」
「それは… … ぜひ」
返事をしながら、さっき自分が言おうとしていた言葉と、彼女の台詞が少しだけ重なっていることに気づいた。 「僕も、現世で行き場を失った記憶があったら、その… … 沙羅さんのほうに、たまに頼っていいですか」
思ったより素直な言葉が口から出て、自分で少し戸惑う。 紙コップを握る指先には、まだスープの温度がじんわり残っていた。 「現世の相談室に頼らないといけないのは、むしろあなたたちのほうかもしれないのに?」
笑いながらそう返しつつ、その声の奥底には、「戻る場所」としての図書館を確かめるような微かな響きも混じっていた。 椅子の背にもたれた彼女の肩が、少し落ちる。 肩の力が抜ける音までは聞こえないが、空気の密度がわずかに変わった。 「… … 行き来できる橋、ってことにしておきましょうか」と、透真は言った。 「ここからそっちへも、そっちからこっちへも。 たぶん、完全には切れない気がするので」
「半地下ルートね」
沙羅は、投げ出した足先で床を軽く蹴った。 靴底が「とん」と鳴り、床に引かれた淡い水色のラインが、一瞬だけ波紋みたいに揺れたように見えた。 「そういう曖昧な橋を、あなたが持っていてくれるなら、私は少し安心して飛べるかもしれない」
その言葉をどこまで深く受け取っていいか分からず、透真はコーヒーの香りをもう一度、肺の奥まで吸い込んだ。 苦味が鼻から頭蓋の内側へ抜けていく。 *
エレベーター前の空間は、閲覧室よりも音が少ない。 天井がやや低く、そのぶん層の密度が濃いのか、足音が「す、とん」と柔らかく沈む。 床には淡い水色のラインが引かれていた。 現世行きのゲートまで真っ直ぐ伸びるその線は、空へ向かう誘導灯を埋め込んだ通路みたいに見える。 ラインの上に立つと、つま先からふくらはぎにかけて、肌の温度がほんの少し変わるのが分かった。 ゲートの縁では、薄く縦に割れた光が水面のように揺れている。 「ゆら、ゆら」とわずかに震える様子は、春の川面に映る空の色を思わせた。 近づくと、頬に静電気のようなざわつきと、ほんの少し暖かい風が当たる。 遠い現世側から、車の走る低いノイズが、厚いガラス越しに「ごう… …」と微かに届いた。 図書館の水音とは違う、地上の生活のリズムだ。 「送ってくれてありがと」
コートの前を軽く合わせながら、雪村が言った。 布が擦れる「しゃり」という音と、控えめな香水の匂いが、淡い水色のラインの上に落ちる。 「ここから先は、もう私の足で行くしかないけど」
「… … その前に、一つだけ」
透真は手に持っていた職員用ICカードをポケットに戻した。 プラスチックの冷たさが指の腹に残る。 「現世で、行き場を失った記憶があったら——」
そこまで言って、喉が一瞬詰まった。 胃のあたりの弦が、またぎりぎりまで引き絞られる。 「その、たまにはここに回してもらっても。 僕、まだここで働いてますから」
言葉がエレベーター前の静けさに放り出され、少し大きく響いた。 ゲートの縁の光が、その音に反応したようにわずかに強く瞬く。 雪村は一拍置いてから、小さく笑った。 「勝手な仲人、続ける気ね」
そう言うと、彼女はそっと彼の肩を軽く叩いた。 制服の布越しに、掌の重さと温度がじんわりと伝わる。 その感触を、彼は無意識に背筋で受け止めた。 「でも——頼りにしてる」
その一言は、熱いコーヒーよりもゆっくりと、胸の奥へ沈んでいく。 エレベーターの扉が、「ぴん」という電子音とともに開いた。 内側から白い光が溢れ出し、現世と黄泉のあいだに張られた膜がそこだけ薄く見える。 沙羅は一歩、ラインを跨いだ。 ヒールの踵が「こん」と金属の床を叩く。 「あなたがここに残るって決めたのなら——」
振り返りざま、彼女はそう言いかけた。 白い光が輪郭を少し霞ませる。 「それはきっと誰かの救いになる——」
最後の言葉の尻は、扉が閉まる音に飲み込まれた。 「しゅう」と空気が吸い込まれるような音がして、光が細い線になって消える。 残されたのは、淡い水色のラインと、ゲートの枠に残るわずかな温度差だけだ。 頬に当たっていた暖かさが消え、代わりに図書館特有のひんやりとした空気が戻ってくる。 透真は、しばらくその場に立ち尽くした。 天井の白い板の向こう側に、薄く春の空の色がにじんで見える気がする。 ほんの少し青みを帯びたその色は、崩壊前に見上げた翡翠色とは違い、落ち着いた高さを持っていた。 兄の棚がある方角ではなく、自分のこれからの棚が増えていくであろう方向へ、彼はゆっくり視線を向ける。 そこにはまだ何もない。 空白の棚板だけが並び、静かに光を反射していた。 この余白の場所で、自分はこれから何を選び、誰の記憶と向き合っていくのか。 問いだけが、滑走路の先に浮かぶ淡い雲のように、彼の胸の中でいつまでも揺れていた。
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第20章:余白に降りる滑走路 - 黄泉の図書館
棚の端を軽く押すと、「きい」と乾いた音がして、本の列が一冊ぶんだけ奥へ揃った。 黄泉の閲覧室の空気には、まだ細い焦げ跡みたいな歪みが残っている。 天井の蛍光灯とは別種の白い光が床に薄く滲み、タイルの上でところどころ水たまりのように揺れていた。 鼻の奥へ、桜餅の甘さと冷えた金属の匂いが一度に入り込んでくる。 遠く、中枢寄りのほうで、水琴窟を遠くで聞いているような「ぽと… ぽと…」という水音が途切れぎれに響く。 その隙間を縫って、「ぱらり」とページを繰る音が散発的に重なり、再起動後の図書館がかろうじて通常運転に戻りつつあることだけが音の層から伝わってきた。 「ね、聞いた?」
背後のカウンター付近で、同僚の声が小さく跳ねた。 紙束をホチキスで留める「パチン」という音に紛れた、半分仕事、半分雑談の気安さが混じる。 すぐに、「何をですか」
貸出ログの端末を立ち上げながら、春日透真は、視線だけモニタに据えたまま声を返した。 指先で触れたパネルの表面には、まだぬるりとした量子膜の名残が残っている。 指を滑らせるたび、インクとも湿布ともつかない匂いが、ふっと鼻先を掠めた。 「雪村さん。 中では、退職願、出したって」
ログ画面の端が、一瞬だけ水を打ったように滲んだ。 モニタの中で利用者IDの行がじりじりと揺れ、ピントが合い直す。 喉の奥に、小さな結び目が出来ていく感覚がじわりと広がった。 彼は息の速さを意識的に落とし、「… … ここまで、人事の話、早いですね。 どこから」
声に角が出ないよう、意図的に言葉と言葉のあいだに余白を挟む。 その間に、カウンター奥の同僚司書——着任と配置換えが早すぎて、透真の中ではいつまでも「あの人」のままの相手——が、椅子ごとくるりと回った。 「人事課の棚、さっき行ったらさ。 また、『扱いに困ってる』ってぼやいてたよ。 退職扱いにするけど、アクセス権は完全には切れないとか何とか。 すぐに、ね、長谷部さん」
隣で台帳を閉じていた長谷部玲央が、「え、俺振られた?」と顔だけ上げて笑った。 慎重に紙の表紙を指の腹で叩き、「ぽん」と軽い音を響かせる。 「いやまあ、噂ですよ、噂」と、長谷部。 肩をすくめ、「ですよねー、って感じですけど。 雪村さんレベルの司書がいなくなると、現場的にはわりと痛いっていうのは、マジで本当です」
机上の付箋に視線を落とし、透真はペン先で角をなぞりながら、「配置換え、進んでるみたいですね」と、何気ない一言のふりをした。 ペンが紙からわずかに滑り出す。 「さっきも、外縁棚のリスト持っていかれましたし」
「それはそれ、これはこれ、ってやつですよ」
同僚が椅子の背にもたれ、背もたれがわずかに「ぎし」と鳴る気配がした。 「現世側で何かやるらしいって。 ちょうどその時、相談室? みたいな。 近くで、詳しくは聞いてないけどさ」
「相談室… … 今では、」
その語を舌の上で転がすと、空調の風が一瞬だけ止まったように感じられた。 インクの匂いが、さっきより濃く鼻にまとわりつく。 喉の内側がかすかに乾き、「本当なんですか、それ。 もう決まりで?」と、呼吸の合間を探るように問いを差し込んだ。
「さあ。 司書長も珍しく口かたいし」
同僚の声が、紙束を抱え上げる「しゃっ」という音に重なる。 「でも退職願、受理はしたっぽいですよ。 あっちの棚に、朱印入りの封筒、見えましたもん」
朱印、という単語に、透真の指が端末の上でぴたりと止まった。 図書館の公印は、独特の枝の形をしている。 連理会のマークと似ているが、微妙に枝の数が違う。 その朱の色を頭の中に浮かべた瞬間、視界の端で、本棚の一列がぐにゃりと波打った。 息を吸い込み、手をそっと伸ばして、その列の端の背板を押さえる。 木目の冷えた感触が、ゆっくりと掌に上がってきて、揺らぎがぴたりと収まった。 「… ゆっくりと… 一応、配置図、もう一回見てきます」
自分でも説得力の薄い言い訳を口にして、透真は端末の電源を落とし、カウンターを離れた。 足裏に伝わる床の感触は、薄い光の膜と固いタイルが幾層にも重なったような妙な感触で、「きし」とも「しゃら」ともつかない音を足音のたびに漏らす。 現世側では季節はもう春の後半に入っているはずだ。 なのに、図書館の外縁層にも、桜データの残り香がまだ漂っている。 標準化された春の匂いの奥に、焦げた回路の匂いが薄く混じり、それが崩壊前後の記憶を押し上げた。 あの翡翠色の空からどうにか着地したあとで、ようやく息をしていた場所から、誰かが出て行こうとしている。 *
資料整理室の扉は、いつもよりわずかに開き気味だった。 隙間から漏れる蛍光灯の白には、細か...