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金属棚が、かすかに鳴いた。 再び、「キィ…」という湿った音が、まだ利用者のいない早朝の閲覧室に、冷めかけたスープみたいにじわっと広がる。 春日透真は、手にしていた端末をあわてて押さえ込んだ。 視界の端で、棚全体がゆっくりと、右へ一冊ぶん、滑るみたいにずれていく。
指先が勝手に動いた。 棚板の端にそっと触れる。 冷たい。 冬から出し忘れた鉄鍋が、台所の隅でひんやりしているような冷え方だ。 軽く押し返すと、金属のきしみが「キン」と跳ね、その瞬間だけ、あたりの光が揺らめく。
桜の花びらの投影が、すっと真上から足元へと逆流した。 透真は小さく息を吸い込む。 「…たちまち、戻って」
声に出した途端、舌の上に春の空気の味が乗った。 土と花粉と、遠くの線香。 うすい塩味の出汁みたいな匂いが、鼻の奥をふわりと撫でる。
棚は、渋々といった歩幅で、定位置に滑り戻った。 図書館の骨組みが、目に見えないところでひとつ深呼吸したような気配が、床から足首に上ってくる。 指に残る冷たさが、じわりと緩んだ。 ——また、ずれた。
ここ数日、この「一冊ぶんのずれ」が確実に増えている。 ログに残るほどの大きな異常ではない。 なのに、洗い忘れた鍋の底でじくじく焦げが広がっていくみたいに、胸の奥をじわじわ占領して離れない。 透真が棚板からそっと手を離した時だった。
「おはよう、春日くん。 外では寒そうだけど、ここで今日も朝からお料理ね」
背後で布の擦れる音。 振り返ると、雪村沙羅がスカーフを外しながら、口元だけで笑っていた。 彼女の足元にも、桜の花びらの光が、他の場所より少し厚めに積もっている。 「料理…ですか?」
聞き返すと、沙羅は棚に近づき、透真の指先をちらりと一瞥した。 目の動きは軽いのに、視線の温度は確かにそこを計っている。 「棚の味を見て回るの、春日くんの朝のルーティンでしょ。 火加減、どう?」
「…まず、弱火で、なんとか」
自分でもよくわからない答えだった。 けれど口にすると、喉の奥に固まっていた緊張がすこしほどける。 沙羅は棚板を軽く叩いた。 「コン」と乾いた音が響く。
「うん、大丈夫。 まだ煮崩れてないよ」
いたずらっぽく目を細める。 外縁層は、今日も薄い桜色の光で満ちていた。 花びらの投影がふわふわ浮かんでは消え、遠くで水音みたいなページめくりのノイズが「ぱら、ぱら」と続く。 その中に、ごく小さな、違う季節の匂いが混じっていた。
味噌汁の湯気に紛れたような、秋の朝の湿った冷気。 金木犀の甘さが、鼻の奥をかすめてすぐ消える。 肩にぞわりと鳥肌が立つ。 「雪村さん」
透真は、声を抑えながら言った。 「さっき、棚が…」
「動いたね」
沙羅が、こちらの言葉をいつもの柔らかい声音で継いだ。 「見えてた。 春日くんの手つき、板前さんみたいだった」
「板前…」
透真は、自分の指を見下ろす。 白い手袋越しに伝う鉄の冷たさ。 包丁ではなく棚をさばいている感覚が、指の骨にまで残っている。 「記録、つけますか?」
端末を持ち上げると、沙羅はゆっくりと首を横に振った。 「あとでいいよ。 朝ごはん前に仕事の愚痴を書くと、消化に悪いからね」
「愚痴、ですか」
「ほら、今日の予約、もうすぐでしょ」
彼女は視線だけで受付カウンターの方を示す。 「水無瀬紗月さん。 三回目のご来館」
名前を聞いた瞬間、肺の中の空気がひやりと冷えた。 冷蔵庫から昨日のスープ鍋を引き出した時に顔へぶつかる温度差。 彼女の歩き方。 声の高さ。 視線の落とし方。 そういう細部が、頭のどこかに刻み込まれたまま抜けない。
「ええと…」
透真は端末を開き、文字列を追った。 「今日も、同じ記憶冊子をご希望です。 ──水無瀬絵里さん、ですね」
沙羅のまぶたがわずかに揺れた。 「そう。 今日で、彼女の閲覧は四回目かな」
「ルール上は…」
言いかけて、舌が止まる。 閲覧回数の上限は、まだ先だ。 それでも、同じ場面だけを繰り返し味わう行為に、口の中がざらつくような感覚が残る。 沙羅は、そんな透真の躊躇を湯気でも嗅ぐみたいに観察してから、柔らかく笑った。
「今日は、春日くんがつくってあげて。 優しいスープ、ね」
「スープ…」
「難しく考えなくていいよ」
彼女は肩にかけていたカーディガンを指先で整えながら続ける。 「味見だけ。 薄すぎたら、また足せばいい」
透真は小さく頷き、閲覧室の入口へ向かった。 靴音が「こつ、こつ」と静かな床に染み込む。 足首のあたりで、桜の光がさらさらと揺れた。 ◇
水無瀬紗月が、受付カウンターの前に立っていた。 制服のブレザーの袖口から出た手首が、赤くまだらに色づいている。 さっきまで外にいた冷えが、そのまま皮膚に貼りついているようだ。 春の外縁層の光がその上にまとわりつき、薄い皮膚を透かして見える。
彼女は案内板ではなく、カウンターの角をぼんやりと見つめていた。 視線が何度か同じ場所を行き来するだけで、焦点は合っていない。 「水無瀬さん」
声をかけると、肩が「びくっ」と跳ねた。 紗月は、慌てて深く頭を下げる。 「あ、あの、おはようございます」
敬語とタメ口のあいだで舌がもつれている。 発音の度に喉がひっかかるようなそのぎこちなさに、前回来館時の会話が脳裏に立ち上がる。 ——てか、ここ、マジでやばいっすね。
——やばい、って…まぁ、そうですね。
あの時と同じように、彼女は透真の顔を真正面からは見ない。 視線が頬のあたりをかすめて、すぐ近くの棚の方へ逃げる。 「本日は、前回と同じ記憶冊子でよろしいでしょうか」
事務的な言い回しが、いつもの癖で口から滑り出た。 不安を隠そうとして、丁寧語を砂糖みたいにかけすぎる。 紗月は、小さく頷く。
「はい。 えっと…一応、今日で最後、にしようかなって。 たぶん」
「最後、ですか」
その言葉が舌の上で、溶けきらない塩の粒みたいにざらつく。 胸の内側をゆっくり擦ってくる。 「でしたら、閲覧のあとで少しだけ、お話を伺っても…」
「カウンセリングとか、そういうのじゃないですよね」
彼女が、急に早口になった。 「てか、そういうの、学校で散々やらされたんで。 『辛かったね』とか言われても、なんか味しないっていうか」
胸の奥がきゅっと縮む。 熱い鍋の縁に不用意に触ってしまった指先みたいに、思考が一瞬後ずさる。 「ここでは…」
透真は息を一度深く吸って、言葉を選ぶ。 喉の奥の筋肉をそっとほぐすように。 「水無瀬さんのペースで、大丈夫です。 話したくなければ、話さなくていいですし。 ただ、僕たちは、一応、スープの味見役なので」
「スープ…?」
紗月が小さく首をかしげる。 その顔が、ようやく真正面からこちらを向いた。 黒目の中で、外縁層の桜の光が小さな輪になって揺れている。 「記憶のスープ、っていうか」
自分で言いながら、耳の裏がじわっと熱くなる。 「しょっぱすぎたり、苦すぎたりしたら、少し薄める方法を、一緒に考える…みたいな」
紗月は、「ふっ」と短く笑った。 鼻先で笑いを噛み砕いて、そのまま飲み込むような表情。 「なんか、それ、家庭科の先生っぽいですね」
「家庭科、ですか」
「『お塩入れすぎましたー』って泣いてる生徒に、
『お水足したらいいじゃん』って言う感じ」
言葉の最後に、少しだけ肩が下がる。 からかい半分、期待半分。 「そんなに軽くは、言わないつもりですけど」
透真の口調が、自然に和らぐ。 「とりあえず、閲覧室にご案内しますね」
受付のゲートが、紗月を認証して開く。 光が一瞬だけ濃くなり、「しゃら…」と氷砂糖を砕くような音が鳴った。 ◇
閲覧室は、今日も静かだった。 座席の間を流れる空気は、昆布出汁を弱火で温めているみたいに、じんわり温度を上げていく。 ページをめくる「ぱらっ」という音と、誰かの小さなため息が、遠くでスパイスの粒みたいに散る。
紗月をいつもの席に案内し、記憶冊子を呼び出す。 透真の掌の上に、光の粒が集まり、形を持ち始めた。 桜色だった光が、少し青みのある春の朝の映像へと変わっていく。 水無瀬絵里。 紗月の友人だと聞いた少女が、コンビニの前で缶コーヒーを振っている。 今日も、同じ場面から始まる。
缶の中で、氷とコーヒーが「かしゃ、かしゃ」とぶつかり合う。 少女の指先には、剥げかけたマニキュアではなく、ボールペンのインクの跡が染みついている。 「再生を開始します」
透真が告げると、紗月は小さく「はい」と答えた。 膝の上で組んだ両手に力が入り、指の節が白く浮き上がる。 制服のスカートの布が、爪の形に沿って皺を刻んでいた。
再生を始める。 映像が動き出す瞬間、手のひらに「ざらっ」とした特有の感触が走る。 電子レンジの回転皿が動き始める一瞬前の、わずかな揺れ。 だが、今日の映像は、いつもと少し違っていた。
コンビニの看板の色味が、ほんのり秋に寄っている。 春のはずなのに、店先に並んだ商品ポスターの中に、銀杏並木の写真が混じる。 缶コーヒーの冷気のかわりに、焼き芋の甘い匂いがふっと鼻をかすめた。
「…?」
透真の指が、思わず再生パネルの縁を掴む。 腕毛が一斉に逆立つ感覚。 足元に、目に見えない段差がふいに現れたみたいに、重心が揺らぐ。 「大丈夫ですか」
紗月がこちらを見上げた。 視線がぶつかった瞬間、透真は慌てて目線を逸らす。 「少し…映像にノイズが入っているだけです。 閲覧には、支障ありません」
喉が乾き、声が紙を擦るように掠れた。 支障はない、と言い切るには、焼き芋の匂いがあまりにもはっきりしている。 舌の上に、ほくほくした甘さが残る。 これは春の記憶じゃない。 誰かの秋の夕方の味だ。
「春日さん」
紗月が、映像から目を離さずに口を開いた。 「今日ね、外、桜、あんま咲いてなかったですよ」
「え?」
「なんか、つぼみのまんまっていうか。 ニュースだと、もう満開って言ってたのに」
外縁層の桜は、今も床に柔らかく降り積もっている。 紗月の肩にも、花びらの光がうっすらと乗っていた。 「こっちは、満開ですね」
透真がそう言うと、彼女は短く鼻から息を吐いた。 「なんか、ずれてるんだなって。 あたしの、時間」
その言葉は、妙に澄んでいた。 鍋の底に沈んでいた具材だけを、突然おたまで掬い上げられたみたいな感覚。 透真は、再生ログを確認するふりをしながら、端末の別メニューを開く。
映像に付与されているタイムスタンプ。 そして、その下に並ぶタグ。 ——外部参照タグ:季節補正・秋。 喉の奥に冷たい石が落ちたような感覚が走る。 昨日、沙羅と一緒に見た、不審な外部IDのログ。 そこにあった名前に似たタグが、画面の端にちらりと表示されている。
予定外の調味料が、スープに紛れ込んでいる。 誰かが、どこかで、季節を混ぜた。
「春日さん」
紗月が、今度は透真の顔を見ないまま問いを投げた。 「これ、本当に『そのまま』の記憶なんですよね」
「基本的には…はい」
「基本的に、って」
彼女の声に、わずかな塩辛さが混じる。 「じゃあ、応用編とか、裏メニューとか、あるんですか」
「裏メニュー…」
言葉が喉で丸くなって動かない。 スープの火加減を聞かれているのに、鍋の底で何が焦げているか料理人自身がわかっていない状態。 「水無瀬さん」
透真は、できるだけ穏やかな声になるよう息を整えた。 「もし、何か違和感があったら、その都度教えてください。 僕たちも、気づけないことがあるので」
「違和感、ね」
紗月は、映像の中の友人から目を離さない。 「ちょっとやそっとの違和感なら、もう慣れちゃいましたけど」
コンビニ前の絵里が、缶コーヒーを飲み終え、空き缶をゴミ箱へ放る。 音もなく、きれいに入る。 その瞬間、背後の街路樹の葉が、一瞬だけ紅葉の色に変わる。 映像の端で、その赤が「じりッ」と焦げた。 紙が燃え始める手前のような、音にならない音。
透真は、再生パネルに手を伸ばしかけて、こぶしを握った。 訂正したい。 季節を戻したい。 ——けれど、規則は、閲覧中の介入を許さない。 拳の中で指先が湿っていく。 手袋の内側に、じっとり汗がにじむ。 心拍が、戦いの前のような一定のリズムへと落ち着いていく。
「…春日さん」
紗月の声が、ほんの少し震えた。 「ねえ、これ。 絵里、こんなこと、言ってましたっけ」
映像の中で、絵里が振り向く。 いつもと同じ、あっけらかんとした笑顔。 その口元が、違う言葉を形づくった。
「死ぬの、けっこう楽しみなんだよね」
音が違った。 透真が記録している前回、前々回の閲覧では、ここは別の台詞だった。 ——寝ても、明日また学校じゃん。 だるい。 そういう、軽い愚痴。
「そんなこと…」
声が漏れた。 紗月が、肩を小さく震わせる。 「今の…前は、違ったはずです」
口にした途端、背中を冷たい汗がつーっと伝った。 規則を守る側が、「違ったはず」と利用者の前で言う。 自分たちの厨房の汚れを、客席から丸見えにしてしまう行為に近い。
「違った」
紗月の唇が、ゆっくり動く。 「やっぱ、そうですよね。 あたしの記憶違いかと思ったけど」
彼女は視線を映像から外さない。 「この前は、『明日も部活で死ぬ〜』って、笑ってて。 まあ、いつも通りって感じで。 死ぬって言葉は、よく使ってたけど、なんか、味が違うっていうか」
味。 透真は、舌の上でその単語を転がした。 絵里が口にした「死ぬ」の温度。 以前は、からあげにかけるマヨネーズみたいな、軽い誇張の調味料。 いま目の前で再生されている「死ぬ」は、別物だ。 煮詰めすぎたソース。 砂糖と醤油が焦げついた鍋底の苦さと重さを伴っている。
「春日さん」
紗月が、ようやく透真の方を向いた。 その目には、涙の光はない。 代わりに、足元に虚空が開いた時のような、慎重に足を置こうとする怖さだけが潜んでいる。
「ここってさ…記憶、書き換えたりとか、しないんですよね」
喉が、ごくりと鳴る。 吸い込んだ空気が、普段よりずっと冷たく感じられた。 外縁層の桜の匂いに、さっきの焼き芋の甘さがまだ薄く混じっている。
「基本的には」
また、その言い回し。 舌の根元を噛みたくなる。 「意図的な改竄は、禁止されています。 もし何かが変わっているとしたら…それは、ノイズか、閲覧者の認知の揺らぎか…」
「か、何ですか」
紗月の声が細くなる。 表情の筋肉が、一斉に陣形を整えるみたいに固まっていく。 「…あるいは、外部からの干渉、かもしれません」
言葉を吐き出した瞬間、胸の中の何かが「カチン」と鳴った。 そこに置いてはいけない器を、うっかりテーブルの真ん中に置いてしまったような音。 紗月は、しばらく黙っていた。
映像の中では、絵里が缶コーヒーの空き缶を足で踏みつぶす。 「ぐしゃり」とつぶれた金属音が耳の奥を締めつけた。 「外部から、って」
やがて、紗月がぽつりと言う。 「なんか、ハッカーみたいなやつが、ここに侵入してきてるってことですか」
「映画みたいに単純な話ではないですが」
透真は、端末のログ画面に視線を落とした。 外部IDの文字列が、さっきよりもはっきりと輪郭を持っている気がする。 ——REN_R。 ぼやけたアルファベットの断片。
「春日さん」
紗月が、勢いをつけるみたいに続けた。 「あたし、ね。 もし、本当に絵里が『死ぬの楽しみ』って思ってたなら、知りたいです。 でも、誰かが勝手に、その言葉を足したんだったら…」
彼女は、きゅっと唇を噛んだ。 血の気が引いて、色が抜ける。 「そいつの喉に、こんがり焼いたフランスパン詰めてやりたい」
透真は、喉の奥で笑いそうになるのを押し殺した。 比喩の形はどこか柔らかいのに、その中身は鋭い怒りだ。 言葉の温度が、空気をじりじりと熱くしていく。
「水無瀬さん」
椅子を少し引いて、透真は腰を落とした。 彼女の視界に、自分の姿が自然に入る高さ。 「一度、再生を中断してもいいですか。 ログを確認したいので」
「はい」
短い返事。 その声の中に、期待と不安が、スープの中の油と水みたいに浮きあがっている。 透真は再生を一時停止し、端末を操作した。 映像が静止し、絵里の笑顔がそのまま固まる。 背景の光には、春と秋の中間のような色が、不自然に混じっていた。
閲覧ログ。 再生履歴。 外部参照。 指先が、頭で考えるより先にアイコンを叩いていく。 手が止まらない。 軍勢が次々と矢を番えるように、指の関節が勝手にコマンドを並べる。
「春日くん」
背後から、低い声がした。 閲覧室の入り口に、雪村沙羅が立っている。 さっきまでの柔らかい声色とは違う、少し硬さの混じった響き。
「…何をしているのかな」
端末の画面には、外部参照の詳細情報が開きかけていた。 ——外部連結レイヤ:企業側検証用ミラー。 行の末尾に、小さく《制限付き》の赤い文字。 規則では、若手司書は触れてはいけない領域。 厨房の一番奥にしまってある、誰も見てはいけないレシピ帳。
透真は、もうそこに指先を滑り込ませてしまっていた。
「雪村さん…」
喉がざらついて、声が出にくい。 「ログを。 少しだけ、確認を」
沙羅は、閲覧席まで歩いてきた。 靴音と一緒に、香水ではない線香の匂いがふわりと漂う。 春のお彼岸の仏間みたいな、乾いた甘さ。 「規則、覚えてるよね」
彼女は紗月のほうをちらりと見てから、低く言った。 「閲覧中の外部レイヤへのアクセスは、司書長の承認が必要。 ——春日くん」
名前の呼び方が、ほんの少し変わる。 敬語の奥に、別の調味料が混ざる。 怒りではなく、不安。 あるいは、事情を知っている者だけの苦味。
「でも」
紗月が、椅子から少し身を乗り出した。 手の甲がテーブルの端に触れ、白く押しつぶされる。 「今、記憶、変わってて。 さっきの、聞いてましたよね」
「聞いていたよ」
沙羅は穏やかに頷いた。 「だから、止めに来たんだ」
「止めるって」
紗月の細い肩が、震えた。 声に棘が立つ。 「このままにしとけってことですか。 絵里が本当は何考えてたか、わかんないままで」
沙羅は、紗月の真正面には立たなかった。 少し斜め後ろ、透真と紗月のあいだに細いスペースをつくるような位置。 その立ち位置は、彼女の癖だと透真は知っている。
「ここはね」
静かな声。 「煮込み料理の鍋みたいな場所なんだよ。 火を強くしすぎても、弱めすぎても、味が壊れる」
「味が壊れるの、そんなに嫌なんですか」
紗月の言葉には、明らかな棘があった。 「あたしは、焦げてもいいから、ちゃんと味知りたいんですけど」
閲覧室の空気が、きゅっと絞られたみたいに重くなる。 遠くの席でページをめくる音さえ、薄くなった気がした。 沙羅はしばらく黙っていた。 視線を床の桜の光に落とし、つま先でそっと踏む。 足元の光が、ほんの少しだけ砕ける。
「…春日くん」
やがて顔を上げて、透真を見た。 「彼女の言うこと、どう思う?」
急に、火加減の調整を任された。 鍋の前に立たされて、お玉を握らされる。 「僕は…」
言葉を探す。 兄の記憶を、何度も味見してきた舌。 そこに残っている焦げと甘さと、欠けた部分の冷たさ。 「変わっている部分があるなら」
一語ずつ、慎重に置く。 「それがノイズなのか、誰かの手なのか、確かめる義務が、僕たちにはあると思います。 利用者に、嘘の味を『本物です』って出すのは、違うので」
紗月が、ぐっと息を飲んだ。 膝の上の手が、さらに強く握りしめられる。 沙羅の目が、一瞬だけ鋭くなった。 迷いと警戒が、熱い油と水のように弾ける。
「義務、ね」
彼女は薄く笑う。 「春日くん、料理人の言葉を覚えたんだ」
「覚えさせられた、というか」
透真の口から、つい余計な一言がこぼれる。 「雪村さんたちに、ですけど」
沙羅は、肩を小さく竦めた。 「じゃあ、こうしよう」
彼女は透真の隣に立ち、端末の画面に指先を伸ばした。 細い指が、《制限付き》の表示の上でぴたりと止まる。 「ここから先は、本当は司書長の許可がないと開けないレイヤ。 でも、外からスパイスを勝手に入れられてるかもしれない鍋を、味見もせずに出すのは——」
沙羅は言葉を切り、紗月に視線を向ける。 「筋が悪い」
その言い方に、透真はどこか懐かしい響きを感じた。 兄・春日悠真が、よく口にしていた言葉。 「筋の悪い嘘は嫌いだ」と笑った時の声が、舌の裏でうずく。
「だから今日だけ」
沙羅は、小さく息を吐いた。 「私が責任を持つ。 春日くん、開いて」
「いいんですか」
驚きと戸惑いが、胸の内側でぐつぐつ沸き上がる。 「司書長に、怒られませんか」
「怒られるよ」
あっさりした口調。 「でも、怒られるのは私。 春日くんは、『先輩に指示されました』って言えばいい」
言葉の軽さの裏に、重い覚悟の粘りが見える。 自分の罪悪感を、仕事の「使命感」に混ぜて薄める癖。 その危うさを、透真はまだうまく言葉にできない。 ただ——今、鍋の中身を確かめる機会が眼前にある。 逃したら、二度と同じ味には戻らないかもしれない。
「…わかりました」
指先が自然に安定した。 さっきまで震えていたのが嘘のように、動きが滑らかになる。 外部レイヤへのアクセスキーを入力。 画面の光が、一瞬だけ強くなり、「じりっ」と熱を帯びたように感じられた。
閲覧室の照明が、ほんの少しだけ暗くなった気がする。 紗月が、ごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。 沈黙の中、その小さな音だけがやけに鮮明だ。
画面に、新しい情報ウィンドウが開く。 見覚えのある企業ロゴと、見慣れない部署名。 ——オルビス・メモリア社 記憶品質検証部門。 責任者の名前の欄に、「梶原真理子」。
「企業側…」
透真は、思わず声に出す。 「ここ、企業のミラーサーバと繋がってます」
沙羅の顎が、わずかに強張った。 彼女がこれをどこまで知っていたのか、表情からは読みきれない。 ただ、驚きというより、「やっぱり」という苦い納得の色が濃かった。
「春日さん」
紗月が、テーブルの端を両手で掴んだ。 指先が食い込み、木目がかすかに軋む。 「その…梶原って人が、絵里の言葉、いじったってことですか」
「まだ断定はできません」
透真は、焦げそうな鍋をかき混ぜるみたいに、必死で声を落ち着かせる。 「企業の検証用にコピーされたデータがあって。 そこから何かが戻ってきた…可能性は、あります」
「戻ってきた、って」
紗月の声が低くなる。 「いらない味、勝手に足されて戻されたってことですよね」
返す言葉が喉に詰まる。 端末の画面には、さらに細かい文字列が浮かび上がっていた。 ——連携エージェント:HIMURO_R。
——テスト項目:感情強度補正・死への志向性。
氷室蓮。 顔も知らない名前が、熱湯に投げ込んだ香辛料みたいに、透真の体内で一気に広がった。
「春日くん」
沙羅の声が、かすかに震えている。 「ここから先は、本当に、危ない」
「危ないって」
紗月が、言葉を遮る。 「誰にとって、ですか。 あたし? 絵里? それとも——」
一拍置いてから、しっかりした声で続けた。 「ここで料理してる、みなさん?」
閲覧室の空気が、ふたたび張りつめる。 春の外縁層の光がわずかに揺れて、桜の花びらの投影の中に、雪の粒みたいな白いノイズがちらちら混じり始めた。 透真は、端末の画面と紗月の顔と、沙羅の横顔を順番に見た。 どの鍋も、もう沸騰ぎりぎりだ。
「危ないのは——」
言葉を紡ぐ。 「たぶん、全部です。 水無瀬さんも、絵里さんも、僕たちも。 それでも、味を確かめたいなら、先に進むしかない」
紗月の瞳が、ゆっくりと細くなる。 恐怖の奥に、かすかな決意の火が灯る。 猟犬の声を聞いた野兎みたいに身を固くしながらも、逃げる方向を選ぼうとしている。
「進みたいです」
彼女は、はっきりと言った。 「もし、それで、鍋、ぶっ壊れても」
沙羅が、小さく息を呑む。 視線が透真へ向かう。 ——決めなさい、と、無言で迫っていた。
透真は、端末の「詳細」ボタンに指を置く。 ガラスの冷たさが、先ほどより薄く感じられた。 胸の内側で、熱いスープの鍋にふたを取る前の高揚と怖さが同時に膨らんでいく。
「わかりました」
自分でも驚くほど静かな声だった。 「ここから先は、記録を取ります。 誰が、どんな味を足したのか。 ——全部、残します」
「春日くん——」
沙羅が何か言いかけた、その時。 端末の画面が、自動的に暗転した。 閲覧室の明かりが一瞬落ち、耳の奥で「ブツン」と電源が切れるような音が鳴る。
続いて、館内放送のチャイムが「ピン、ポン、パン、ポン」と響いた。 普段は時報にしか鳴らないはずの音が、午前中の半端な時間に唐突に降ってくる。 『全司書に告ぐ』
落ち着いた、低い声がスピーカーから流れた。 鏑木宗一郎の声だ。 『外部連結レイヤに関する臨時の制限を、これより発動する。 関連端末は、ただちに操作を停止し、司書長室まで報告に来なさい。 ——春日透真。 きみも、だ』
自分の名前が呼ばれた瞬間、背筋に冷水を浴びせられたような感覚が走った。 手のひらの熱が、一気に抜ける。 端末の画面には、「アクセス権限の一時停止」という表示が、無造作な赤字で点滅していた。
紗月が、透真を見た。 その瞳の中で、桜の光と、さっき混ざり始めた雪のノイズが、複雑に揺れている。 「春日さん」
彼女は、唇を震わせながら言った。 「これって…もう、味見、終わりってことですか」
透真は、返事をしようとして喉を固くした。 鍋の中身は、まだ見えない。 ふたは、上から力任せに押さえつけられている。
沙羅が、静かに立ち上がった。 透真の肩に、そっと手を置く。 その手のひらの温度は、驚くほど落ち着いていた。
「行こうか、春日くん」
「はい」
透真は紗月のほうへ振り返る。 「必ず、戻ってきます。 続きは、そのあとで」
自分でも、その言葉にどれだけ力を込められたか分からない。 それでも、その約束だけは、鍋の底に沈めておきたかった。 紗月は、ぎゅっと唇を結び、頷く。 期待と不信が入り混じった光が、その目の奥でざわめいていた。
閲覧室の扉が、静かに開く。 外の廊下には、まだ春の光があふれている。 けれど、その光の中に、さっきの焼き芋の匂いが、もうはっきりと混じっていた。
透真は、一歩、廊下に踏み出した。 足元で、桜の花びらの投影が「しゃりっ」と鳴る。 掬い上げていない鍋底の焦げが、そこに確かにあると、その音は告げていた。