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「春日くん、起きてる?」
耳のすぐそばで、水面に小石を落としたみたいな声が弾んだ。 薄く霞んだ閲覧室で、透真の肩がびくりと跳ねる。 膝の上で開きっぱなしの記憶冊子から、淡い光が湯気のように立ちのぼり、さっきまで穏やかだった揺らぎが、今は細かな震えに変わっていた。 喉の奥がきしみ、彼は舌を動かしてから、ゆっくりと口を開く。 「……ようやく、起きてます」
声は紙やすりを押し当てたみたいに掠れていた。 冷めた出汁の鍋底に舌を擦りつけたようなざらつきが、喉から胸まで張りつく。 隣の席から、雪村沙羅が椅子をきい、と少し引き、身を乗り出した。 細い指先が冊子の端にそっと触れる。 白湯に指を落とした時みたいな、曖昧なぬるさだけが指先にまとわりついた。 「さっきから、ページが戻ってるよ」
言われて視線を落とす。 「四十七回目のお花見」と背表紙に刻まれた冊子のページが、ぱさ、ぱさ、と乾いた音を立てて勝手に巻き戻っていた。 静かな閲覧室に、紙の擦れる音が細い爪でなぞられた傷みたいに染み込んでいく。 足元には、巻き戻しロックのペダルがきちんと踏まれている感触。 「……足元で、巻き戻しロック、入れましたよね、これ」
自分の声なのに、誰か別の司書が喋っているみたいに遠い。 言葉を吐いた瞬間、その冷たさだけが胸の真ん中に氷片みたいに残る。 沙羅は冊子から指を離さず、横目でちらりと彼を見た。 「入れたよ。 春日くんがさっき、ちゃんと確認してくれたじゃない」
くつくつ、と小さな湯沸かし器がどこかで鳴るようなノイズが、天井の暗がりから降ってきた。 光源のない天井の隅に、白い粒子がふわふわと浮かび、ゆっくり揺れる。 雪でも花びらでも、湯の泡でもない、途中のかたち。 春の黄泉の閲覧室は、いつも弱火で煮込みを放置したままの台所のようだった。 温度だけはあり、沸き切らない鍋の代わりに、誰かの記憶の香りが空気に溶けて漂い続ける。 少し甘い卵焼きの匂いに、今日は焼き海苔の香りが混じっていた。 沙羅が、ふと視線を利用者のほうへ動かす。 「……けれども、利用者さん、まだ見てます」
目の前の閲覧席では、白髪の女性が細い肩をすくめ、前屈みになって同じ場面を凝視していた。 桜並木の下。 若い自分と夫が、笑いながら重箱の蓋を開けている。 湯気は立っていないのに、画面の中の唐揚げがじゅ、と油を弾いたような錯覚が喉を刺激し、透真は無意識に唾を飲み込む。 端末の表示には閲覧制限時間がじわりと近づいていたが、指はまだロック解除に触れない。 「ロックが滑るようになったら、必ず報告してって言われてるでしょ」
沙羅は、線香の煙を見送るような目つきで冊子を眺めながら、声だけ少し冷やした。 「はい。 近くで、すぐ、記録に——」
言いながら、彼の歯が小さく唇を挟んだ。 キーボードとは別の「記録」に指を伸ばすことが、そのまま「例外」のスタンプを押すことになる。 台所で、鍋底の焦げつきに気づいていながら、蓋を押さえつけてごまかしていたのに、今や焦げの匂いが鼻先まで迫ってきている。 ペンを取るのをためらっている自覚が喉ぼとけにひっかかる。 「春日くん? それから」
「……一応、利用者さんの閲覧が終わってからでも、いいですか」
自分の声が妙に丁寧な敬語に寄っていく。 沙羅の視線が、彼の横顔をなぞるようにゆっくり動いた。 その目が、彼の頬のこわばりまで測っているのが伝わる。 「うん。 あの方に、変な波立ちを見せたくはないよね」
「はい。 その後で。 今日で最後の閲覧だっておっしゃってたので」
春の日差しの代わりに、閲覧室の空気に混ざった光の粒が、ふっと濃度を増した。 桜の匂いに、味噌汁の湯気みたいな湿り気が紛れ込む。 湯飲みに触れなくても、誰かの体温が指先にうっすら伝わってくるような、重い「最後」の予感が胸の奥に沈んだ。 「最後のつもりで来られて、ね。 帰り道で『やっぱりもう一回』って、何度でも思い直すんだけど」
沙羅の言葉は柔らかく、しかし匙の先で鍋底をこつんと叩くみたいな芯の硬さを含んでいた。 光の粒の揺れが、彼女の声のリズムに合わせて変わる気がする。 「春日くん。 ここはさ、『お代わりできますよ』っていつでも言えるけど、本当はどこかで『お腹いっぱい』を決めなきゃいけない場所でもあるんだよ」
お腹いっぱい。 その言葉がぽとりと胸に落ちる。 味の濃い煮物を掻き込みすぎた昼下がりに襲ってくる、体の奥の重さがゆっくり広がる。 透真は小さく頷き、冊子から漏れるノイズを耳と指先で計った。 ぱち、ぱち、と乾いた火花みたいなさざめき。 通常の閲覧では生じないはずの揺らぎだ、と頭の片隅が警告を鳴らす。 危ない。 そう思いながらも、彼は沙羅の指の上に自分の手を重ね、二人で冊子の角を押さえた。 紙を挟んで伝わる体温がじわじわと混ざり合う。 海苔巻きのご飯粒を、指先でぎゅっと押さえ込んで形を整える時の集中と似た感覚。 冊子の震えが、ゆっくりと落ち着きを取り戻した。 「——落ち着きました」
「ね。 司書の手は、ここじゃ鍋つかみみたいなもんだから」
沙羅が小さく笑う。 その笑いに釣られるように、透真の唇もわずかに緩んだ。 閲覧室の奥でざわついていた光の粒が、潮が引くみたいにすっと静まる。 天井近くに浮かんでいた白い粒も、儚い湯気の帯になって消えていく。 春の黄泉の閲覧室は、またいつもの弱火に戻ったように見えた。 けれども、鍋底に沈んだ小さな焦げだけが、誰にもすくわれず、黒い斑点のまま残っている。 利用者の女性が閲覧を終えたのは、それから三十分後だった。 立ち上がる時、彼女は重箱を抱くように記憶冊子を胸に寄せ、ぽつりと言う。 「……その上、ごちそうさまでした」
その一言が、喉に硬い拳をねじ込んだみたいに響いた。 声を返そうとしても喉が動かず、胸の奥でぎゅっと締め付けられる。 カウンターの向こうで急須から緑茶を注ぐ音が、とろりとした温度でその固まりを少しだけ和らげた。 「本日の閲覧、以上でございます。 お疲れさまでした」
形式どおりの言葉を押し出しながら、彼は意識して女性の目を見ないようにした。 見てしまえば、何かが溢れてしまう。 そんな予感が、眼球の裏側まで張りついていた。 女性はそれ以上何も言わず、小さく会釈して出口へ向かう。 細い背中の線が、記憶の中の若い妻の姿と重なりかけた瞬間、透真は慌てて視線を紙束に落とした。 指先にはまだ冊子の感触がまとわりついている。 和紙より少し湿った、ぬるりとした手触り。 さっきまで記憶という料理を盛り付けていた皿の表面に残った薄い油膜を、爪でそっとなぞる感覚。 沙羅が、わざと明るい声を作った。 「さて。 鍋の焦げ、どうする?」
彼女のコートの裾が歩くたびに春の風みたいにひらりと揺れ、線香の香りが弱く立ちのぼる。 「……報告します」
口にした言葉の端が、いつもより低く重く響く。 顎がわずかに上がり、椅子の背もたれから背筋が離れた。 胸の奥で、長い間止めていた何かの機構が、こつりと小さく動き出した気がする。 規則は守るためにある。 例外に逃げ込む場所を増やしたくはない。 そう思いながら、一拍置いて続けた。 「その前に、ログを、もう一回だけ……自分で確認させてください」
沙羅の眉が、ほんの少しだけ動く。 しかし、その変化は豆腐を崩さず箸の向きを変える時みたいに繊細だった。 「……今度は、春日くん。 自分で味見してから、厨房に回すってこと?」
「はい。 すみません、ちょっと」
許可を待つより早く、透真は冊子を胸に抱え、自分の端末席へ慎重に運んだ。 歩くたび、背表紙の文字が光の下でわずかに揺らぐ。 「四十七回目」の「七」の線が、目を凝らすと微妙に滲んでいる。 「——七?」
数字を口の中で転がす。 味噌汁に紛れた小骨を舌先で探る時の、あの慎重さが自然と戻る。 ごく軽い違和感が、舌の側面にずっとひっかかっている。 冊子を端末スロットに差し込み、ログビューアを起動する。 暗い画面に、水面に映る月のような円が浮かび、それが細かな文字列へと崩れていく。 閲覧履歴。 巻き戻し回数。 司書ロックのタイミング。 指先でスクロールしながら、彼は呼吸を浅くした。 「……あれ」
漏れた息は驚きというより、熱した鍋のふちに指先をかすらせた時の、反射的な吸い込みに近い。 ロックのタイミングが、わずかにずれていた。 自分がペダルを踏んだ時間の、一秒前。 見たことのない識別子で、閲覧権限が一度だけ通過している。 冷汗が背中にじわりと浮いた。 「沙羅さん」
名前を呼ぶと同時に、脊髄を冷たい液体がゆっくりと下りていく。 氷水ではなく、冷蔵庫から出したばかりの牛乳が足元にこぼれ、靴下をじんわり濡らしていく時の、ぬるい冷たさ。 「ここ、見てもらっていいですか」
畳の上をすべるような柔らかい足音が近づく。 沙羅が隣に立ち、画面を覗き込んだ。 顔の影がモニターの光の上に薄く落ちる。 「……誰か、先に箸を入れてるね」
いつも以上にストレートな比喩が口をついて出た。 彼女は識別子の桁を追い、息をわずかに止める。 「このID、館内のじゃない。 外部接続……?」
透真は喉の奥で言葉を丸めた。 館外からのアクセスは数えるほどの窓口にしか許されていない。 承認された研究機関か、企業の検証アクセスだけ。 「春日くん、心当たりは」
「ないです」
反射で答える。 弾かれたように。 その瞬間、胸の内側で硬い何かが爪を立てた。 心当たりはない。 はずだ。 理屈だけはそう並ぶ。 「ねえ」
沙羅の声が、画面から視線を離さないまま落ちてくる。 「『ない』と『あってほしくない』は、味が違うよ」
胸の奥で、微かな破裂音がした。 熱い油に水滴が落ちた時の、鋭いぱちん。 透真の指先に力が入り、画面の枠を掴む手の甲に血が浮かぶ。 「——沙羅さん。 これ、司書長に上げる前に、ローカルにコピー取ってもいいですか」
言いながら、自分がすべりの悪い場所に足を踏み出している自覚があった。 閲覧ログのコピーは規則で固く禁じられている。 厨房のレシピを撮って持ち帰るのと同じ。 見つかれば、立場は一気に弱火から強火になる。 それでも、今画面の隅でくすぶる識別子は、その危うさごと舌に載せて確かめたくなる味をしていた。 沙羅の視線が、ゆっくり彼へ滑る。 彼女は一度だけ口を閉じ、短く息を吐いた。 「春日くん、それは……」
反対されるだろう、と頭が先に構えた。 沙羅は規則の人、というラベルが周囲から貼られている。 表向きは。 その次の言葉が喉に届いた時、彼は熱い汁物を勢いよくすすってしまったみたいな、意外な熱さを感じることになる。 「——コピーを取るなら、一回きり。 私が見てる前で。 それなら、私も一緒に叱られればいい」
「え」
情けない声が漏れる。 想定と違う方向から湯気が立ち上る。 沙羅の表情には、微笑とも、皮肉ともつかない薄い歪みが浮かんだ。 「誰かが勝手に味を変えてる鍋にさ、そのまま蓋して『知りません』って言い張るの、私、ちょっと苦手でね」
言い回しの端々に、ふっと地の口調が滲む。 柔らかな関西寄りの響きが、決意の固さを逆にくっきりさせた。 「司書ってさ、本当は仲人っていうより、台所の番人に近いんだよ。 火加減を人に任せるのは、最後の最後」
「……はい」
胸の奥のどこかで、長く閉じていた弁がきい、と開く音がした。 冷えていた空気が深く肺に流れ込み、呼吸が底まで届く。 「じゃあ、一度だけ」
透真は、ログデータのコピーを分析用の限定領域へ転送した。 端末が微かに震え、低い唸りを上げる。 冷蔵庫のコンプレッサーが動き出した時のような、重たい音。 画面の隅にはコピー完了の小さな印が点灯した。 その光点が、妙につややかに目に刺さる。 「——春日くん」
「はい」
「今日、特別な利用者さん、いたよね」
問いかけの角度に、透真は一瞬ピントを合わせ損ねた。 すぐに、午前中の受付カウンターの光景が、湯気の立たないスープの表面に映る影みたいに静かに浮かび上がる。 黒いスーツ。 喪服ではないが、葬儀場の廊下を歩いてきたみたいな、無駄のない線。 手首に巻かれた古いカメラのストラップ。 握手の時にふと鼻をかすめた、現像液の銀っぽい匂い。 「……あの、企業の方、ですか」
「そう」
沙羅が小さく頷く。 「名刺、預かったよね?」
「はい。 オルビス・メモリアの……」
胸ポケットから名刺を取り出す。 厚めの紙が指に吸いつく。 高級レストランのメニューをめくった時と同じ手触り。 〈オルビス・メモリア コンプライアンス部長 梶原 真理子〉。 活字を目で追った途端、閲覧ログの謎のIDと名刺の間に見えない線が立ち上り、湯気の筋みたいに意識に絡みつく。 口の中に酸味がじわりと広がった。 レモンをかじった後の、奥歯がきゅっと締まる感覚。 「企業の検証アクセスは、司書長承認が必要なはず、ですよね」
「そうだよ」
沙羅の声が、さっきより硬い音を含む。 鍋の蓋を、重めに載せ直した時の、小さな鈍い響き。 「だから、このタイミングで外部の箸が入ってるのは、本当は、おかしい」
おかしい。 舌の上で転がすと、温度は常温なのに、どうしても喉を通りにくい違和感が残る。 透真は名刺と画面を交互に見比べながら、指先に力を込めた。 厚紙の角が爪の下にじくりと食い込む。 「——沙羅さん。 あの方、今日、何を閲覧されましたか」
「記録上は、戦災関連の統計データ。 個別の記憶じゃない」
「統計……」
眉間にしわが寄る。 戦災記憶の統計閲覧は、企業に開かれた窓口のひとつだ。 ただ、それだけなら、なぜこの「花見」の鍋にまで箸を伸ばす必要があるのか。 「味見をしたい鍋が、別にあった、ってことかな」
沙羅が名刺を指先で弾く。 紙がぺち、と短く鳴った。 「春日くん。 さっきのIDの足跡、ひとつだけとは限らないよ」
その一言で、背中に冷たい汗がすっと流れた。 黄泉の書架はどこまでも続く。 並ぶ鍋も皿も、数え切れない。 ひとつの焦げを見つけたからといって、他の鍋の底がきれいだと誰も保証してくれない。 「……他に、同じIDの痕跡、探してみます」
自分の声が意外なほどすぐに出た。 いつもなら慎重に言葉を選ぶ場面。 今は、火にかけた鍋が吹きこぼれそうなのを見て、先にコンロのつまみに手が伸びる。 「自分の割り当て棚の範囲だけでも。 今日中に」
沙羅は数秒口を閉じ、空気の張りが一段強くなる。 閲覧室の隅の影が濃くなったように見えた。 棚の下の闇に、沈殿した具材の輪郭めいたものが浮かぶ。 「……仕事を増やしたいわけじゃないのは、わかってる」
彼女の声は少し低めになって戻ってきた。 「春日くんの棚ってさ、誰の鍋が多いんだっけ」
胸の奥で、小さな鈴が鳴る。 兄。 その名前をここで口にしないよう、いつも舌で押さえていた。 けれど「誰の鍋」という言葉が、湯気をまとってその方角を指す。 「……一般利用者の、です」
嘘ではない。 ただ、表面に浮いた部分だけをすくう言い方だ。 彼の棚の片隅には、「事故死者」とだけラベルされた細い区画がある。 大学の実験事故。 高速道路の多重衝突。 工場火災。 様々な形の「途中で止まった人生」が、鍋ごと火から引き上げられたように並ぶ棚。 その奥。 司書長直轄棚の影に隠されるように置かれた一本の冊子。 「春日 悠真」と刻まれた背。 その背表紙に、見知らぬ箸が触れていたとしたら——。 喉の筋肉がきつく締まり、肺に空気が入りにくくなる。 皮膚が身体に対して窮屈になり、胸郭の内側が急に狭まったような圧迫感。 肩のあたりで血がざわつく。 沙羅が、その肩を箸の先でこんにゃくをつつくみたいに軽く突いた。 「ね。 弟くん」
「……はい」
声は一度胃の辺りで跳ね返り、ようやく口まで昇ってくる。 「自分の領分を守るのは、大事だよ。 でもね」
沙羅の声に、炊きたての白米に落とした梅干しみたいな鋭い香りが混じる。 「鍋の底をかき混ぜるとさ、沈んでたもんが、いっぺんに浮いてくる。 その覚悟だけは、しておきな」
言葉の奥に、彼女自身の過去の影が薄く透ける。 新人時代に彼女が起こした「特別な仲介」の噂話。 底をかき回しすぎて、具材をばらばらにしてしまった仲人の話。 「はい」
ほとんど聞き取れない声で返事をし、透真は自席へ戻った。 端末の光が、机の上の紙と彼の顔の半分を照らす。 キーボードを叩くたび、カチャ、カチャ、と硬い音が秋刀魚の骨を断つみたいに室内に響いた。 外部IDの痕跡検索。 簡易ツールで追える範囲には限度がある。 それでも何もしないよりは、厨房の隅に落ちたパン粉を拾うくらいの意味はある。 画面の一覧に、数字と記号の列がひとつずつ埋まっていった。 データの行が、皿に並べた料理みたいに整列する。 その中に、見慣れた棚番号が紛れているのを見つけた瞬間、心臓が一拍強く叩いた。 「——ここまで来てるのか」
自分でも気づかないうちに声が漏れる。 その棚番号は、自分の割り当ての一番奥。 司書長管理の特別棚の手前。 春日悠真の棚と同じ通路。 指がわずかに震えながら、具体的な記録タイトルを呼び出す。 「大学実験事故/量子情報研究室/被験者群……」。 詳細を開こうとした、そのとき。 「春日くん」
背後から低い声が落ちてきた。 静かな厨房に重い鍋を置いたような、鈍い衝撃音。 振り返ると、そこに鏑木宗一郎が立っていた。 司書長の灰色のスーツは、どこか和装の羽織を思わせるゆるやかな線を持ち、その周囲の空気だけ温度が少し上がる。 けれど、その目の奥には出汁の味を確かめる時のような厳しい慎重さが覗いていた。 「勤務中に、個別ログの掘り下げとは——熱心だね、春日くん」
口元だけを見ると笑っているようにも見える。 耳に落ちてくる声は丁寧だが、言葉の隙間には指で蓋を押さえつけるような圧が混ざっていた。 「いえ、その……たまたま、ロックのずれがあったので。 確認を」
早口にならないよう舌を抑えながら、透真は必要な事柄だけを説明した。 調味料は最低限。 飾りのハーブもなし。 鏑木は画面へ視線を落とし、ログの数字を追いながらゆっくり頷く。 「うむ。 外部ID、か」
低い声が、味噌汁の底をさらうようになめらかに言葉をなぞる。 「コンプライアンスの梶原さんのアクセスは、私のところを通っている。 統計閲覧の件だ。 ここに映っているのは……む?」
眉が僅かに動いた。 ほんの小さな皺の変化だけで、透真の背中に汗がしっとり滲む。 窯から吹いた熱気が逆流してきて、首筋を撫でていったような感覚。 「この棚番号は、まだ彼女に触らせていないはずだがね」
「……はず?」
思わず反芻する。 鏑木は短く咳払いし、「失礼」とひとこと添えた。 「失礼。 『まだ』ではないな。 『決裁していない』、と言うべきか」
ことばを選び直す慎重さに、透真の舌の上で小さな違和感が溶け残った。 醤油と塩を取り違えそうになった料理人が、ぎりぎりで手を止めた感じ。 「春日くん。 今見たこのログのコピーは、どこに保存した?」
喉の奥で生唾がごくりと鳴る。 鏑木の視線が、手元から顔へとゆっくり移動する。 食べ残しの皿を検分する人のように、表情の端々まで視線が滑っていく。 「……分析用の一時領域に」
嘘を混ぜる余地はなかった。 誤魔化せば、味見どころか鍋ごとひっくり返る。 沈黙が周囲に広がる。 遠くで誰かがページをめくる音がして、それがやけに生々しく耳に刺さった。 鏑木は一瞬目を閉じ、息を長く吐く。 その吐息が、出汁をとる鍋から立つ湯気のように静かに広がる。 「君が、ここまで辿り着いたのは、偶然ではないのだろうね」
「どういう……」
問いを継ごうとした舌が、喉の奥で絡まりそうになる。 鏑木の口元に、笑いとも諦めとも読める微かな歪みが浮かぶ。 「君の『家族』の棚に、外部の箸が伸びている。 そう感じているのではないか、春日くん」
世界がぐらりと傾いた。 足元の畳が、水面に変わったみたいに軟らかく揺れる。 視界の端で、花びらの形をした光がぱらぱらと落ちていった。 「……兄の棚には、まだ——」
否定の言葉が喉の上まで来て、そこで力を失う。 声には芯がなく、薄いスープのように頼りない。 鏑木は、その言葉をさえぎるように静かに手を上げた。 「春日くん。 ここから先はね、単なる厨房の話ではすまなくなる」
視線が端末から棚の方向へ滑る。 司書長だけが通行許可を持つ、書架の奥の細い通路。 「君の兄君の棚に関して、外部とのやり取りは——一切ない。 表向きは、だが」
「表向きは……?」
耳の奥で心音が、鍋のぐつぐつとした煮立ち音に変わる。 頬に熱が登り、指先が冷え始める。 鏑木は、声をひとつ低い段へ落とした。 「この図書館が、完全に無垢な厨房だと信じて入ってきたなら、今から言うことは、味気ない話かもしれない」
「……はい」
喉はまた強く締まりかけたが、さっきとは違い、そこに自分の意志で歯を食いしばる感覚が混じる。 顎がゆっくりと上がる。 「君の兄君の記憶データは、初期の量子アーカイブ実験の中核だ。 企業や……思想団体にとっても、魅力的なレシピだろう」
思想団体。 その単語が、唐辛子をひとつ鍋に落としたみたいに、空気の味を一瞬で変えた。 「連理会、のことですか」
口に出した自分の声が、驚くほどはっきりしていた。 鏑木の目がわずかに細まる。 驚きか、評価か、判断のしづらい光が宿る。 「名前を知っているか」
「噂程度には。 先輩から」
長谷部玲央が、「ここ、婚活サイトみたいな変な団体に狙われてるって噂ありますよ」と笑いながら言っていたのを思い出す。 死者と生者の縁を組み替えようとする、妙な仲人集団。 ただの噂話として棚の隅に置いていた名前が、今、熱い鍋の縁みたいな具体的な重さを帯び始めている。 鏑木はひとつ頷いた。 「彼らは、『よりふさわしい縁』とやらを、量子レベルで再配置しようとしている。 鍋をひとつにまとめて、味のバランスを最適化する、という説明のほうが、君には馴染みやすいかな」
言い方にはわずかな皮肉が混じるが、その奥の気配は本気の警戒だ。 「春日くん。 今日の外部IDは、おそらく、その橋頭堡だ」
橋頭堡。 鍋の端に箸を突き立てられたみたいな言葉だった。 「彼らは、君の兄君のレシピに、手を伸ばしたがっている。 ……いや、正確に言うなら」
鏑木の目が透真の顔の一点を捉える。 黒目の奥で、何かが細く光る。 「すでに、一度、味見をしている」
胸の奥で何かが静かに崩れた。 積み上げた皿の塔が、一枚目から音もなく横に滑り落ちる。 「いつ、ですか」
自分の声が、自分のものとは思えないくらい低く静かに響いた。 怒鳴りも震えもない。 ただ、鍋の中身を見極めようとする料理人の目で相手の口を見ている自覚があった。 鏑木は、視線を一瞬伏せる。 「君が、ここに採用される、少し前だ」
「俺に話さなかった理由は」
敬語が、どこかで落ちた。 兄の名を呼ぶときと同じ、素の声。 自分で意外なほど、するりと出る。 鏑木の眉が僅かに上がるが、それを諌める気配はなかった。 「君が、ここを『避難所』として選ぶためには、知らないほうがよかったからだ」
避難所。 一言で、胸の中の何かがじわりと溶け出す。 黄泉の閲覧室。 兄の棚。 自分がここへ来た理由。 静かな厨房で、誰にも邪魔されずに他人の記憶を眺めていられる場所。 「春日くん。 君が今日、ロックのずれを見つけたことは、偶然だ。 ただ」
鏑木の声が、もう一段沈んだ。 「それを『見なかったことにする』か、『自分の舌で確かめる』かは、君の選択だ」
選択。 蓋に手をかけるかどうか。 火を強めるか弱めるか。 これまでは、誰かが決めてくれたレシピ通りに火加減を整えるだけでよかった。 今、目の前の調理台には、レシピにない材料が並んでいる。 外部ID。 連理会。 オルビス・メモリア。 兄の棚に伸びた見えない箸。 喉が痛む。 その痛みの中に、微かな熱が混ざり始めていた。 鍋底でゆっくり温まるスープの熱。 「……自分で、確かめます」
透真は、はっきり言った。 敬語でも、くだけた言い方でもなく、ただ自分の声で。 鏑木は、しばらくじっと彼を見つめる。 数秒間、沈黙が二人の間で息を潜めた。 その間に、閲覧室の奥から、誰かがお茶をすする控えめな音が届く。 「その代わり」
司書長が静かに続ける。 「君が鍋をかき混ぜてる間、厨房の外では、鍋がひっくり返らないように蓋を押さえておかねばならない。 私にも、沙羅さんにも、それぞれ役目がある」
「はい」
「だから、君には『ひとつだけ』、約束してほしい」
鏑木の目が少しだけ柔らかくなる。 炊きあがった釜の蓋を開ける前の、慎重な期待の表情。 「自分の兄君の記憶を、誰かにとって都合のいいメニューに変えるためじゃなくて、君自身の舌で味わうために、鍋をかき混ぜること。 その違いを、忘れないでほしい」
誰かにとって都合の良いメニュー。 頭の片隅に、見たことのない宴会のテーブルがぼんやり浮かぶ。 連理会の晩餐か、企業のパーティか。 知らない誰かが兄の記憶をつまみに酒を飲み、笑う光景。 胃の辺りがきゅう、とひねられ、軽い吐き気がこみ上げる。 「……兄を、誰かの料理にされたくないです」
言葉がいつのまにか口からこぼれていた。 喉にはまだひりつきが残るが、その痛みには唐辛子を少し効かせた後のような、妙な冴えも混ざる。 鏑木は深くうなずいた。 「よろしい」
彼は短く、それだけ告げた。 その声は、味見を終えた料理人が「これで出そう」と決めた時の響きに似ている。 「では、今日のところは、ログのコピーはこのまま君のところに置いておきなさい。 ただし、外には出すな。 連理会にも、企業にも」
「もちろんです」
「そして」
鏑木は視線を落とし、端末の画面に映る棚番号のひとつを指先で軽く叩いた。 コン、と乾いた小さな音。 「この通路の、一番奥の棚。 君の兄君の冊子の前に、明日、私と一緒に立ちなさい」
「……え」
声が裏返りそうになる。 明日。 あの棚の前に。 司書長と並んで。 「君が自分の手で鍋をかき混ぜるなら、私はその横で火加減を見守ろう。 そういう意味だよ」
それだけ言うと、鏑木は踵を返した。 靴音が絨毯の上で鈍く遠ざかる。 灰色の背中が、棚と棚のあいだの暗がりに溶けて消えた。 残された閲覧室では、誰の声もすぐには立ち上がらない。 天井から舞う光の粒が、静かに揺れ続ける。 花びらとも湯気ともつかないその揺らぎが、ひたすら落ちるのを目が追う。 「……春日くん」
いつのまにか背後にいた沙羅が囁いた。 その声は、味見の前に添えられる「熱いから気ぃつけてね」のひとことに似ている。 「明日、行くんだね」
「はい」
「その前に」
沙羅は、端末ではなく透真の顔をまっすぐ見た。 湯気に隠れた鍋の中身ではなく、鍋を持つ手元を確かめる相棒の目。 「今日のうちに、ひとつだけやっておいてほしいことがある」
「なんですか」
「兄君の棚に行く前にさ」
彼女は、あえて言葉の前に小さな間を挟んだ。 余熱を行き渡らせるみたいに。 「君自身の棚が、どこにあるか、探しておきな」
予想外の方向からふいに振りかけられたスパイスの香りが、鼻腔をくすぐった。 自分の棚。 自分のレシピ。 誰かのではなく。 「そんな棚、あるんですか」
口から出た声には、半分だけ冗談の軽さが混じっていた。 それでも喉の奥は乾いたまま。 沙羅は小さく肩をすくめる。 「あるかどうかは、君次第。 まだ空っぽの鍋かもしれないし、もう誰かが勝手に味見してるかもしれない」
「勝手に、って」
「そう。 だからさ」
沙羅が顎で、閲覧室の奥の、まだ誰も足を踏み入れていない暗がりを示す。 「閉館前にちょっとだけ、自分の匂いを探す散歩しておきなよ。 明日、他人の鍋かき混ぜる前にさ」
自分の匂い。 自分の出汁。 それはもうどこかに薄く漂っていて、自分だけが気づいていないのかもしれない。 透真は椅子から立ち上がった。 脚がかすかに震える。 ただ、その震えは、恐怖だけじゃない。 沸騰直前の鍋が、かすかに揺れる時の期待と似ていた。 棚と棚の間を歩き出す。 淡い光が通路を満たし、背表紙に刻まれた名前たちが静かに湯気をまとう。 事故死者。 幼児期の記憶。 戦災。 難病。 恋愛。 日常。 一歩ごとに、違う匂いが鼻をかすめた。 線香。 カレー。 シャンプー。 雨上がりの土。 桜餅。 鼻腔に残る香りの層が重なり、胸の奥で混ざり合う。
やがて、まだ仮のラベルしか貼られていない小さな区画が視界に入った。 棚の木目だけ他より少し新しく、塗りたての漆のように鈍い光を返す。 背表紙には何も書かれていない。 白いラベルだけが、名を待つようにまっさらなまま。 近づいた瞬間、ふわりと見覚えのある匂いが立ちのぼった。 深夜のコンビニで買ったおにぎりの海苔の匂い。 大学の研究室で飲んでいた安いインスタントコーヒーの粉っぽい香り。 それらが不器用に混ざり合い、彼自身の生活の匂いになっている。 「……ここ、か」
誰に聞かせるでもなく呟く。 指先を伸ばし、冊子の端にそっと触れた。 紙はまだ冷えていて、重さもほとんどない。 水だけ入った鍋の持ち手に触れたような、空虚な軽さ。 その瞬間、棚の奥でかすかな音がした。 ぱち。 油が、ごく小さく弾けたような音。 指先を通して、微かな熱が伝わってくる。 まだ火を入れていないはずの鍋が、どこかで静かに温まり始めている気配。 明日、兄の棚の前に立つ。 その前に、今、自分の鍋が誰の手で火加減を変えられようとしているのか。 棚の向こう、厨房のどこかで、見えない誰かが、つまみをひねっている。 透真は、息を止めていたことに気づき、ゆっくり吐き出した。 空気が肺から抜ける音が、静かな閲覧室にほどけるように溶ける。 指先に残る熱は消えない。 棚の奥で、見えない炎が、誰の意図によってかすでに灯っている気配だけが、そこに確かにあった。