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晩秋の霧が境界の森を白く塗り潰し、視界を数メートル先にまで遮っていた。儀礼用の白銀の鎧は美しく輝いているが、その継ぎ目からは湿った冷気が容赦なく這い入り、織部零(オリベ・レイ)の肌を刺す。一歩踏み出すたびに、濡れた落ち葉がぐしゃりと潰れる音がした。その重苦しい響きは、彼が背負わされた罪の数を数える鼓動のようにも聞こえる。
頭上では、機械仕掛けの鴉が真鍮の羽根をきしませながら円を描いていた。カチ、カチ、という乾いた不協和音が、霧に包まれた静寂を一定の間隔で切り裂く。それは結社の「目」であり、英雄という名の囚人を監視する冷徹な看守の声だった。
「……現在地点、異常なし」
零は誰に聞かせるともなく、掠れた声で呟いた。言葉は白い吐息とともに霧の中へ溶け、形を失う。彼に与えられた任務は、この森に潜む「世界の毒」――邪悪な妖精の掃討だ。民を導く英雄の象徴であるはずの鎧が、今は地面へと引き摺り下ろそうとする重石のように感じられた。肩に食い込む金属の感触が、自らの輪郭を希薄にしていく。
ふと、鼻腔を突いたのは、朽ちた木の匂いとは異なる甘く焦げたような香りだった。零は無意識に腰の聖剣の柄を握りしめる。指先に伝わる冷たい彫刻の感触が、わずかに彼を現実に繋ぎ止めた。
前方の茂みが、月光を反射した水面のように銀色の光を放って震えている。零は息を殺し、一歩、また一歩とその光源へ歩み寄った。そこには、結社が設置した「記憶の檻」が、獲物を捕らえた顎のように無残に口を開けていた。
罠の中心で、一人の少女が膝を突いている。彼女の背中からは、透き通った羽が折れた枝のように力なく垂れ下がっていた。傷口からは鮮血の代わりに、冷たい輝きを放つ銀の鱗粉が、砂時計の砂のように絶え間なく溢れ出している。
「……妖精族、確認」
零の喉が、乾いた音を立てて鳴った。彼女こそが、魔女結社の教典が定義する討伐対象。だが、少女の瞳と視線が重なった瞬間、零の右腕に言いようのない痺れが走った。それは燃えるような熱さではなく、氷を直接押し当てられたような、芯まで凍てつく鋭い痛みだ。
少女の瞳は、夜空から零れ落ちた星屑を溶かし込んだような深い銀色を湛えていた。その静かな眼差しが、零の「英雄」としての仮面を、音もなく削り取っていく。
「……無様ですね。意志を持たぬ器が、英雄の皮を被っている姿というのは」
少女――水鏡燐音(ミカガミ・リンネ)は、苦痛に眉を寄せながらも、凛とした声で言い放った。彼女の言葉は鋭い氷の礫となって、零の胸に深く突き刺さる。周囲に舞う銀の鱗粉が、幻想的な美しさと残酷さで視界を染め上げた。
零は剣を抜こうとしたが、指先が石のように固まって動かない。脳裏に、見たこともないはずの、それでいて胸が締め付けられるほど懐かしい風景が火花のように明滅した。それは暖炉の火が爆ぜる音であり、自分を呼ぶ誰かの柔らかな声の断片だった。
「僕は、結社に救われた英雄だ。この力は、民を守るために……」
教典の文言を、彼は壊れた蓄音機のように繰り返した。しかし、その声は自分自身の耳にさえ、空虚な風の音にしか聞こえない。燐音は血の混じった銀色の唾を吐き捨て、冷たく口角を上げた。
「英雄? 笑わせないでください。あなたはただ、都合のいい物語を詰め込まれた、空っぽの器に過ぎないわ」
彼女の言葉が、零の記憶の「継ぎ目」を、鋭利な刃物で切り裂いていく。その時、頭上の旋回音が急激に激しさを増した。監視鴉が獲物を見つけた猛禽のように、高度を下げてくる。カチカチカチ、と真鍮のレンズが高速で焦点を合わせる駆動音が響き渡った。
鴉のセンサーが、零の心拍数の上昇と目標との接触を検知しようとしている。このままでは彼女は処分され、零自身も「再調整」の対象となるだろう。
「……隠れて」
零は自分でも驚くほど素早い動きで、外套を脱ぎ捨てた。傷ついた燐音を岩陰の狭い隙間へと押し込み、自らの大きな外套で、彼女の小さな体を包み込むように覆い隠す。
外套越しに伝わってくるのは、消え入りそうなほど微かな体温。冷たい鎧に慣れきった零にとって、それは火傷しそうなほどに鮮烈な「生」の感触だった。彼は岩の前に立ち塞がり、無機質な空を見上げた。
『カイル・ブレイブ、心拍数の微増を確認。報告を継続せよ』
鴉の合成音声が森の静寂を切り裂く。零は奥歯を強く噛み締め、表情を鉄の仮面のように固定した。内側に渦巻く動揺を、深い井戸の底へと沈めようと試みる。
「……問題ない。目標の痕跡を見失った。これより、追跡を再開する」
嘘を吐く瞬間、背筋が鋼に変わるような感覚があった。それは結社への忠誠を誓って以来、初めて彼が手にした、自分だけの「意志」だったのかもしれない。鴉はレンズを不気味に発光させながら数秒間スキャンを続けたが、やがて不快な旋回音とともに霧の向こうへと遠ざかっていった。
零は肺にある空気をすべて吐き出すように、深い溜息を漏らした。膝の力が抜けそうになるのを必死に堪え、外套を捲る。そこには、信じられないものを見るような目で自分を見上げる燐音がいた。彼女の銀色の瞳には、困惑と隠しきれない敵意が混ざり合っている。
「……何を企んでいるのですか。殺すなら、今すぐになさい」
燐音の声が鋭く響く。零は答えず、震える手で腰のポーチから魔法石を取り出した。石に微かな魔力を通すと、それは淡い橙色の光を放ち、周囲の空気を暖炉のそばにいるような温もりで満たしていく。
彼は懐から紙に包まれたパンを取り出した。それは今朝、戌亥鉄兵(イヌイ・テッペイ)から渡された、味気ない携帯食のはずだった。だが、魔法石の熱で温められたパンからは、香ばしい小麦の香りがふわりと立ち上る。
「……これは、毒ではない。少し、温かいんだ」
零はパンを半分に割り、燐音の前に差し出した。その動作はひどく不器用で、迷いに満ちている。敵に情けをかけることは、結社の教典において「魂の汚染」とされていた。
燐音は差し出されたパンと零の顔を、何度も往復するように見つめた。やがて、彼女は奪い取るようにパンを掴むと、小さな口で頬張った。ハフ、という小さな咀嚼音が静かな森に響く。
「……変な人。英雄のくせに、温かいパンを持ち歩いているなんて」
パンの湯気が、彼女の冷え切った顔をわずかに赤らめていた。その光景は、戦場や儀式の間では決して見ることのできない、家庭的な安らぎを零の心に呼び起こす。彼は岩に背を預け、彼女の隣に座り込んだ。
二人の間に流れる時間は、嵐の夜に避難した小さな小屋のような静寂に包まれていた。外では冷たい風が吹き荒れ、監視の目が光っている。しかし、この外套の下だけは、世界から切り離された唯一の聖域だった。
「……なぜ、私を助けたのですか? あなたの記憶にある『妖精』は、もっと醜い怪物のはずでしょう」
燐音の問いに、零は言葉を詰まらせた。確かに彼の頭の中にある記録では、妖精は慈悲なき略奪者だ。しかし、目の前の少女から感じるのは、そうした物語とは異なる、切実な痛みだった。
「……分からない。ただ、君の瞳を見た時、僕の知っている物語が、嘘のように感じられたんだ」
零の言葉は、独白に近い響きを持っていた。彼は自分の鎧の裏側に、指先で触れた。そこには、先ほど気づいた小さな傷跡があった。戦闘でついたものではなく、鋭利な何かで刻まれた、文字のような形。
「その記憶、誰に書いてもらったのですか?」
燐音がパンを飲み込み、零の目を真っ直ぐに見つめて言った。彼女の言葉は、零の意識の底にある重い扉を叩くような衝撃を伴っていた。書き換えられた過去、与えられた使命、そして自分という名前。
「……僕は、織部零だ。結社が、そう名付けてくれた」
「いいえ。あなたの本当の名前は、その鎧には刻まれていないわ」
燐音は立ち上がろうとして痛みに顔を顰めたが、傷口からはすでに銀の鱗粉が止まり、微かな治癒の光が漏れ始めていた。彼女は零の外套を丁寧に畳み、彼の足元に置いた。そして去り際に、零の側頭部へ冷たい指先で触れた。
その瞬間、零の視界が真っ白な閃光に包まれた。
「……あ」
脳の奥底で、何かが砕ける音がした。
燃え盛る家。泣き叫ぶ子供。そして、自分を抱きしめる温かな腕。
それらは結社の記録には存在しない、しかし、血を流すような現実味を帯びた真実の断片だった。
「思い出して。あなたが誰のために泣いていたのかを」
燐音の声が風に乗って遠ざかっていく。零が目を開けた時、そこには静まり返った森の空気だけが残されていた。銀色の鱗粉が雪のように地面を覆い、彼女のいた痕跡を消し去ろうとしている。
零は震える指先で、自分の頬に触れた。そこを伝っていたのは、冷たい霧の雫ではなく、熱い液体だった。彼は自分が泣いている理由さえ、まだ明確には思い出せなかった。
遠くで、再び機械仕掛けの鴉の鳴き声が聞こえた。それは彼を現実という名の檻へと連れ戻そうとする、冷酷な合図だ。零はゆっくりと立ち上がり、重すぎる鎧を再びその身に纏った。
しかし、先ほどまでとは何かが決定的に違っていた。鎧の重みは変わらないはずなのに、その内側にある心だけが、ひどく頼りなく、そして熱く脈打っていた。