磨き上げられた大理石の廊下を歩くたび、硬質な靴音が無機質な空間に吸い込まれていく。汚れ一つない白壁は、鏡のように零の姿を冷たく映し出していた。鼻を突くのは、微かな薬品の匂い。ここは帰るべき場所でありながら、他人の皮膚を無理やり被せられたような違和感が、足裏からじりじりと伝わってくる。零にとって、この「白亜の塔」は過保護に管理された硝子の温室に他ならなかった。
訓練場の入り口で、零は足を止めた。背後から漂ってきたのは、安っぽい煙草の煙だ。
「お帰り、英雄様。随分と長居をしたもんだな」
振り返るまでもない。壁に背を預け、気だるげに紫煙を吐き出す男、戌亥鉄兵がそこにいた。鉄兵の細められた視線が、零の肩に巻かれた白い包帯の上を、獲物を探る猟犬のように這う。
「手間取りました、イヌイさん。……少しばかり」
「手間取った、だと?」
鉄兵は鼻で笑い、吸い殻を携帯灰皿にねじ込んだ。その瞳の奥には、いつもの粗野な振る舞いの裏に、鋭利な理性がひらめいている。彼は零に歩み寄ると、耳元で密やかに声を落とした。
「今日は随分と、檻の鍵が甘かったとは思わねぇか?」
心臓が跳ねた。皮膚が体に対して窮屈になるような、嫌な緊張が全身を走る。鉄兵は零の硬直を楽しむように口端を吊り上げると、そのまま背を向けて去っていった。彼が何もかもを見抜き、零が禁忌に触れていることを確信しているのは明白だった。
零は一人、冷たい廊下を葛城枢の執務室へと向かった。彼女はこの結社の管理官であり、織部零という「英雄」を造り上げた創造主だ。重厚な扉の前に立つと、胃の底が冷えていくのを感じる。零は一度深く息を吐き、木目を叩いた。
「入りなさい、零」
中から聞こえてきたのは、鈴の音のように透き通った、しかし慈悲のない声だった。
部屋の中は、暖炉の炎が琥珀色の光を室内に投げかけている。枢は優雅な所作で、ボーンチャイナのカップに褐色の紅茶を注いでいた。彼女は零を一瞥すると、聖母のような笑みを湛えて顔を上げる。
「おかえりなさい。怪我をしたと聞きましたが、痛みはありませんか?」
「……大丈夫です、カツラギさん。ご心配をおかけしました」
零は教えられた通りの作法で、彼女の前に膝をついた。枢は満足げに目を細め、零の髪にそっと指を滑らせる。その指先は驚くほど冷たく、零の体温を奪っていった。
「世界は今、とても穏やかです。あなたの献身のおかげですね」
「穏やか……ですか。ここで?」
「ええ。不純な要素は取り除かれ、物語は完璧な調和へと向かっています。あなたは私の最高傑作。その魂が揺らぐことさえも、この平穏を支えるための美しい旋律なのですから」
枢の言葉は、甘い毒のように耳の奥へ染み込んでくる。彼女の語る愛は、鉢植えの花を愛でるような、支配的な執着に過ぎない。枢にとって、零は一人の人間ではなく、結社という巨大な機構を維持するための重要な部品なのだ。
「もっと自分を大切になさい。あなたは、独りではないのですから」
枢は零の頬を撫で、慈しむように目を細めた。零はその温もりを拒絶したい衝動を必死に抑え、静かに頭を下げた。根を断たれた植物が、無理やり別の木に接ぎ木されたような、悍ましい違和感が胸を掻き毟る。
執務室を出た零は、そのまま地下区画へと足を向けた。結社の監視を掻いくぐり、真実の断片を拾い集めるには、あの男に会うしかない。記憶の密売人、獏野宵。彼は結社の影に潜み、あらゆる情報を「商品」として扱う怪人だ。
地下の路地裏は、上層の清潔さを嘲笑うかのように湿り気を帯びていた。埃と古紙の匂いが混ざり合う闇の中を、零は迷うことなく進む。迷路のような路地の突き当たりにある「記憶の店」の扉を叩いた。
「おやおや、これは珍しいお客様だ! 英雄様がこんな掃き溜めに何の御用かな?」
扉が開くと同時に、芝居がかった高い声が響いた。派手なガウンを羽織った獏野宵が、仮面のような笑みを浮かべて零を迎え入れる。部屋の棚には無数の小瓶が並び、その中では誰かから奪われた「美しい記憶」が淡い光を放って蠢いていた。
「ヨイチさん。教えてほしい。なぜ結社は、僕と水鏡燐音を接触させた? 監視が緩かったのは、意図的なものなのか?」
宵の動きが、ピタリと止まった。彼は芝居がかった仕草で顎に手を当て、楽しげに目を輝かせる。
「おっと、気づいちゃった? さすがは僕ちゃんのお気に入りだ。正解だよ、零くん。あの『聖母』様はね、君たちの悲恋を推奨しているのさ」
「悲恋を、推奨……?」
「そう。君が彼女を焦がれ、彼女が君を呪う。その激しい感情の摩擦が、膨大な熱を生む。星屑のように儚い君たちの絆こそが、この張りぼての世界を動かすための、最高級の燃料なんだよ」
耳元で、心臓の鼓動がうるさく鳴り響いた。冷酷な真実が、脳内で音を立てて形を成していく。零と燐音が惹かれ合い、傷つけ合うこと自体が、結社の計算に含まれていた。二人の孤独も、密かな再会も、すべてはこの偽りの平穏を維持するためのシステムの一部に過ぎない。
「酷い話だよねぇ。しかし、愛すれば愛するほど、君たちは自分たちの牢獄を強固にしているわけだ。まさに地獄の喜劇ってところかな!」
宵は腹を抱えて笑った。零は拳を白くなるまで握りしめる。彼女を守りたいと願う心が、彼女の一族を滅ぼしたシステムを助けている。この絶望的な矛盾に、眩暈がした。
「……どうすれば、それを止められる?」
「止める? まさか! こんな面白い結末、僕ちゃんが許さないよ。でも、もし君が本当に『自分』を取り戻したいなら……その偽りの根っこを引き抜く覚悟が必要だね」
宵は零の胸に指を突き立て、残酷な笑みを浮かべた。指先から、冷たい静電気のような感触が伝わってくる。
零は店を飛び出し、夜の街を彷徨った。見上げる空には、結社が作り出した偽りの星が輝いている。それは美しく、けれどどこまでも冷たい。零はこの光に守られ、この光に縛られている。だが、その瞳には、今までになかった静かな決意の火が灯っていた。宿舎へ続く無機質な廊下を歩く。背後から、湿ったコンクリートを叩く重い足音が近づいた。
「夜遊びにしちゃあ、ずいぶんと物騒な場所を選んだもんだな。っつーの」
立ち止まると、壁の影から戌亥鉄兵が姿を現した。使い古されたトレンチコートから、安酒と煙草の混じった、ひどく生活感のある臭いが漂う。それはこの結社という清潔な檻の中で、唯一、生身の人間を感じさせる泥臭い気配だった。
「散歩をしていただけです、イヌイさん。少し、風に当たりたくて」
「へえ、記憶のゴミ捨て場の風は、さぞかし心地よかったんだろうよ。鼻が曲がりそうだぜ」
戌亥は零の肩を強く掴んだ。節くれだった指の感触が、制服の生地越しに伝わる。それは監視者の拘束であり、同時に、嵐を前にした子供を案じるような、不器用な重みを持っていた。戌亥の瞳の奥には、かつて救えなかった誰かへの悔恨が、澱のように沈んでいるのが見える。
「カツラギ・カナメは、お前のすべてを見ている。その瞳に映らない場所なんて、この街にはねえんだ。っつーの。余計な火遊びは、自分を焼き尽くすだけだぞ」
「……僕に帰る場所なんて、最初からなかったのかもしれませんね」
零は静かに、けれど拒絶の意志を込めてその手を振り払った。戌亥は眉間に深い皺を刻み、吐き出すように溜息をついた。
「死に急ぐな。俺は、もうこれ以上、英雄の成れの果てを見るのは御免なんだよ」
その言葉を背中で受け止めながら、零は自分の部屋という名の鳥籠へと戻った。完璧に整えられた空間は、まるでモデルルームのように生活感が欠落している。ここは結社が与えた「家」であり、唯一の居場所のはずだった。だが今の零にとって、この四角い部屋は、自分の本質を削り取るための研磨機にしか見えない。
零は部屋の隅に置かれた、英雄の功績を称えるための飾り棚に指をかけた。そこには、討伐した「悪」の残骸や、市民からの感謝状が整然と並んでいる。獏野宵が別れ際に指で示した場所。零は棚の底板に爪を立て、無理やり引き剥がした。
乾いた音と共に現れたのは、結社の管理ナンバーすら刻印されていない、古びたデータチップだった。
「これが、僕の本当の根っこ……」
震える指で端末に接続する。モニターに映し出されたのは、激しいノイズの向こう側の景色だった。燃え盛る村。逃げ惑う人々。その中で、幼い零を抱き、必死に庇う一人の女性がいた。
「逃げて、零……。この光に、心を売ってはだめ……」
映像の中の女性は、絶望的な状況にあっても、零を包む腕を緩めなかった。その温もりを、零は知っている。今の葛城枢が与える、計算された慈愛とは決定的に違うもの。それは、自分という存在を無条件に肯定してくれる、本物の「家」の温度だった。
映像の端に、冷酷な光を放つ結社の紋章が映り込む。自分を救ったはずの英雄たちが、自分の家族を、歴史を、すべてを焼き尽くしていた。その残酷な真実が、零の脳内に鮮血のような色を塗り広げていく。
背筋を冷たい汗が伝った。その時、背後の自動ドアが音もなく滑り開いた。
「深夜に勉強会
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Chapter 8: 白亜 - 星屑バス停留所
磨き上げられた大理石の廊下を歩くたび、硬質な靴音が無機質な空間に吸い込まれていく。汚れ一つない白壁は、鏡のように零の姿を冷たく映し出していた。鼻を突くのは、微かな薬品の匂い。ここは帰るべき場所でありながら、他人の皮膚を無理やり被せられたような違和感が、足裏からじりじりと伝わってくる。零にとって、この「白亜の塔」は過保護に管理された硝子の温室に他ならなかった。
訓練場の入り口で、零は足を止めた。背後から漂ってきたのは、安っぽい煙草の煙だ。
「お帰り、英雄様。随分と長居をしたもんだな」
振り返るまでもない。壁に背を預け、気だるげに紫煙を吐き出す男、戌亥鉄兵がそこにいた。鉄兵の細められた視線が、零の肩に巻かれた白い包帯の上を、獲物を探る猟犬のように這う。
「手間取りました、イヌイさん。……少しばかり」
「手間取った、だと?」
鉄兵は鼻で笑い、吸い殻を携帯灰皿にねじ込んだ。その瞳の奥には、いつもの粗野な振る舞いの裏に、鋭利な理性がひらめいている。彼は零に歩み寄ると、耳元で密やかに声を落とした。
「今日は随分と、檻の鍵が甘かったとは思わねぇか?」
心臓が跳ねた。皮膚が体に対して窮屈になるような、嫌な緊張が全身を走る。鉄兵は零の硬直を楽しむように口端を吊り上げると、そのまま背を向けて去っていった。彼が何もかもを見抜き、零が禁忌に触れていることを確信しているのは明白だった。
零は一人、冷たい廊下を葛城枢の執務室へと向かった。彼女はこの結社の管理官であり、織部零という「英雄」を造り上げた創造主だ。重厚な扉の前に立つと、胃の底が冷えていくのを感じる。零は一度深く息を吐き、木目を叩いた。
「入りなさい、零」
中から聞こえてきたのは、鈴の音のように透き通った、しかし慈悲のない声だった。
部屋の中は、暖炉の炎が琥珀色の光を室内に投げかけている。枢は優雅な所作で、ボーンチャイナのカップに褐色の紅茶を注いでいた。彼女は零を一瞥すると、聖母のような笑みを湛えて顔を上げる。
「おかえりなさい。怪我をしたと聞きましたが、痛みはありませんか?」
「……大丈夫です、カツラギさん。ご心配をおかけしました」
零は教えられた通りの作法で、彼女の前に膝をついた。枢は満足げに目を細め、零の髪にそっと指を滑らせる。その指先は驚くほど冷たく、零の体温を奪っていった。
「世界は今、とても穏やかです。あなたの献身のおかげですね」
「穏やか……ですか。ここで?」
「ええ。不純な要素は取り除かれ、物語は完璧な調和へと向かっています。あなたは私の最高傑作。その魂が揺らぐことさえも、この平穏を支えるための美しい旋律なのですから」
枢の言葉は、甘い毒のように耳の奥へ染み込んでくる。彼女の語る愛は、鉢植えの花を愛でるような、支配的な執着に過ぎない。枢にとって、零は一人の人間ではなく、結社という巨大な機構を維持するための重要な部品なのだ。
「もっと自分を大切になさい。あなたは、独りではないのですから」
枢は零の頬を撫で、慈しむように目を細めた。零はその温もりを拒絶したい衝動を必死に抑え、静かに頭を下げた。根を断たれた植物が、無理やり別の木に接ぎ木されたような、悍ましい違和感が胸を掻き毟る。
執務室を出た零は、そのまま地下区画へと足を向けた。結社の監視を掻いくぐり、真実の断片を拾い集めるには、あの男に会うしかない。記憶の密売人、獏野宵。彼は結社の影に潜み、あらゆる情報を「商品」として扱う怪人だ。
地下の路地裏は、上層の清潔さを嘲笑うかのように湿り気を帯びていた。埃と古紙の匂いが混ざり合う闇の中を、零は迷うことなく進む。迷路のような路地の突き当たりにある「記憶の店」の扉を叩いた。
「おやおや、これは珍しいお客様だ! 英雄様がこんな掃き溜めに何の御用かな?」
扉が開くと同時に、芝居がかった高い声が響いた。派手なガウンを羽織った獏野宵が、仮面のような笑みを浮かべて零を迎え入れる。部屋の棚には無数の小瓶が並び、その中では誰かから奪われた「美しい記憶」が淡い光を放って蠢いていた。
「ヨイチさん。教えてほしい。なぜ結社は、僕と水鏡燐音を接触させた? 監視が緩かったのは、意図的なものなのか?」
宵の動きが、ピタリと止まった。彼は芝居がかった仕草で顎に手を当て、楽しげに目を輝かせる。
「おっと、気づいちゃった? さすがは僕ちゃんのお気に入りだ。正解だよ、零くん。あの『聖母』様はね、君たちの悲恋を推奨しているのさ」
「悲恋を、推奨……?」
「そう。君が彼女を焦がれ、彼女が君を呪う。その激しい感情の摩擦が、膨大な熱を生む。星屑のように儚い君...