断崖を叩きつける春の嵐は、岩肌を削り取らんとする勢いだった。湿った突風が外套の隙間から滑り込み、冬の名残を孕んだ冷気が肌を刺す。織部零は泥に沈む足元を睨みつけ、背後に渦巻く不穏な気配に神経を尖らせていた。
「……ミカガミ・リンネ、足元を。大丈夫ですか」
「……案ずるには及びません。この程度の雨、妖精の加護があれば造作もないことです」
水鏡燐音の声は、強がりの裏で細く震えていた。かつて銀の鱗粉を散らした美しい羽は、泥水を吸って重く垂れ下がり、今は見る影もない。零は無言で彼女の細い手を取り、さらに傾斜のきつい岩道へと導いた。鼻腔を突くのは、雨に洗われた土の匂いと、微かな血の鉄錆。泥を蹴るたびに、ふくらはぎの筋肉が悲鳴を上げて痙攣する。
だが、立ち止まる選択肢は存在しなかった。遠くの雷鳴に混じり、結社が放った「記憶の番犬(メモリー・ハウンド)」の、地を這うような咆哮が響いたからだ。
不意に、零の視界が歪んだ。強烈な色彩が脳裏に爆ぜ、身に覚えのない光景が網膜を焼く。
「……っ、あぐっ……!」
「オリベ・レイ? どうしました、顔色が紙のようです」
零は頭を抱え、崩れ落ちそうになる膝を必死に支えた。脳内に溢れ出したのは、この断崖で「巨大な怪鳥を討伐した」という輝かしい英雄の残像だ。それは結社が彼の精神に刻み込んだ、精巧な偽造記録だった。
「以前、ここで……僕は、民を守るために……戦った、はずだ……」
「何を言っているのです。ここは古くから我ら妖精族の聖域。人間が立ち入った記録など、ただの一度もありません」
燐音の冷徹な言葉が、偽りの記憶と現実の境界を鋭く切り裂いた。矛盾が走るたびに、零の神経を熱した針で刺すような激痛が突き抜ける。それはまるで、自らの魂が、他人の手によって巧妙に塗り替えられていくような感覚だった。
「来ます……。下がっていてください」
零は腰の剣を抜き放った。暗闇の深淵から、青白い燐光を放つ四つの瞳がこちらを凝視している。魔術によって生み出された異形の猟犬が、濡れた岩場を音もなく駆け上がってきた。
二頭の獣が、左右から同時に跳躍する。零は反射的に剣を振るった。しかし、鋼の刃は空を切り、空しく空気を裂いただけに終わる。
「……読まれているのか?」
「無様だな。お前の剣筋はすべて、結社の教典に記された『英雄の型』そのものだ」
闇の帳から、聞き覚えのある声が響いた。姿を現したのは、結社の監視役、戌亥鉄兵だ。彼は湿った煙草を弄びながら、冷え切った眼差しを零に向けている。
「イヌイ・テッペイ……さん」
「よお、英雄様。その犬っころはお前の動きをすべて学習済みだ。結社がお前に教え込んだ『正しい戦い方』をなぞっている限り、一生勝てねえぞ」
鉄兵の言葉を証明するように、番犬たちは零の次の一手を予見して動いた。零が上段に構えれば、獣はすでにその懐へと潜り込んでいる。右へ薙げば、影のように背後へ回り込まれる。
「くそっ……!」
番犬の鋭い牙が零の肩を掠めた。熱い血が雨に流され、視界が赤く染まりかける。
「僕は……僕は、あなたたちの人形じゃない!」
零は叫びとともに、教え込まれた端正な型をあえて捨てた。剣を放り出し、泥にまみれながら番犬の首筋に組み付く。それは英雄の振る舞いとは程遠い、ただの「生きようとする人間」の泥臭い足掻きだった。
彼は指先に魔力を凝縮し、獣の核へと直接叩き込んだ。青白い放電が爆ぜ、番犬が一頭、霧のように霧散する。
「……へっ。少しはマシな面構えになったじゃねえか」
鉄兵は追撃の手を緩め、わざとらしく背を向けた。
「行けよ。俺はこれから、ここで『英雄との激戦の末に逃げられた』という報告書を書かなきゃならねえんだ。全く、面倒くせえ仕事だよ」
「……すみません」
「謝るな、酒が不味くなる。……その女を、死なせるんじゃねえぞ」
鉄兵の言葉に背中を押されるように、零は再び燐音の手を取った。残った一頭を牽制しながら、断崖の中腹に口を開けた洞窟へと滑り込む。外では嵐がいよいよ激しさを増し、すべてを押し流そうと狂ったように荒れ狂っていた。
洞窟の奥は、驚くほど静まり返っていた。岩肌を伝う水滴の音が、規則正しく地面を叩いている。零は手早く乾いた枝を集め、小さな火を焚いた。
「……少し、休みましょう。この雨では動けません」
「……ええ。すまない、オリベ・レイ」
燐音は壁に背を預け、力なく座り込んだ。彼女の白い肌は透き通るほどに青ざめ、体温が奪われているのが見て取れる。零は自分の外套を脱ぎ、彼女の肩に掛けた。
「濡れた服が乾くまで、これを。妖精は寒さに弱いと聞きました」
「……温かいですね。人間の体温というものは、これほどまでに……」
燐音の言葉が途切れる。彼女は外套の襟を握りしめ、小さく鼻をすすった。焚き火のオレンジ色の光が、二人の影を洞窟の壁に大きく映し出している。それは嵐の中に浮かぶ、たった一つの小さな避難所のようだった。
「ミカガミ・リンネ。僕は、自分が何者なのか、もう分かりません」
零は火を見つめたまま、ぽつりと漏らした。
「英雄としての記憶が戻るたび、自分の中の何かが削り取られていく。本当の僕は、もっと空っぽで、冷たい人間だった気がするんです」
「……お前は空っぽなどではありません。少なくとも、私を助けるために泥にまみれた時のお前は、結社の書いた物語よりもずっと……生きていました」
燐音の言葉は、冷え切った零の心に小さな灯火をともした。彼女は震える手を伸ばし、零の頬に触れた。
「……傷を見せてください。私たちが受けた痛みは、結社にも書き換えられぬ真実なのですから」
彼女の指先は驚くほど冷たかったが、そこには確かな命の鼓動があった。零は促されるまま、彼女の隣に腰を下ろした。
「傷を……癒やさせてください」
零は燐音の脇腹にある、深い傷跡に手をかざした。
「魔力を分け与えます。拒絶反応が出るかもしれませんが……耐えてください」
「……構いません。お前の魔力なら、毒にはならないでしょう」
零が集中を高めると、手のひらから淡い光が漏れ出した。その瞬間、彼の右腕に刻まれた魔女の呪印が、激しく脈打ち始めた。排除すべき「悪」である妖精への接触を、結社の呪いが拒絶しているのだ。
「……う、ぐっ……!」
腕を切り落とされるような激痛が走る。だが、零は手を離さなかった。さらに強く彼女の体に触れ、自らの生命力を注ぎ込む。
「たとえすべてが偽りでも……この痛みだけは、僕のものです」
「オリベ……レイ……」
二人の肌が触れ合った場所から、熱い奔流が流れ込む。それは単なる魔力の譲渡ではなかった。魂の根底にある記憶の断片が、共鳴し、混ざり合っていく。
視界が、一瞬にして真っ白に染まった。
次の瞬間、零の鼻を突いたのは、焦げた肉と木の焼ける臭いだった。
目の前に広がっていたのは、平和な妖精の里だ。星屑のような光を放つ花々が咲き乱れ、子供たちの笑い声が響いている。だが、その平穏は、一振りの剣によって無残に引き裂かれた。炎が村を包み込み、叫び声が夜空に消えていく。
零は見た。燃え盛る家々の前で、返り血を浴びて立ち尽くす一人の騎士の姿を。その騎士は、今よりも少し幼い、だが間違いなく自分自身の顔をしていた。
「……あ、ああ……」
零の喉から、乾いた悲鳴が漏れた。彼が「英雄」として救ったはずの村は、実際には彼自身の手で滅ぼされたものだったのだ。結社に逆らう妖精たちを粛清し、その凄惨な虐殺の記憶を、「怪物を討伐して村を救った」という輝かしい記録に書き換えた。
騎士の足元には、幼い少女が泣き崩れていた。その少女の瞳には、冷酷な死神として映る零の姿が焼き付いている。
「……リンネ……」
その少女こそが、幼き日の燐音だった。零は、彼女からすべてを奪った張本人だったのだ。
現実に戻った零は、弾かれたように燐音から手を離した。
「……僕が……僕が、君の……」
声が震え、歯の根が合わない。肺が呼吸の仕方を忘れたかのように、胸が苦しくなる。真実という名の黒い水が、足元からじわじわと満ちてくる感覚。燐音は、すべてを悟ったような悲しげな瞳で零を見つめていた。
「……思い出しましたか。あの夜の火の粉を。私の兄を斬り、故郷を灰にした、その腕の感触を」
「……殺してください」
零は剣を彼女の前に差し出した。
「僕は、英雄なんかじゃない。ただの人殺しの道具だ……。君に、生かされている資格なんてない」
燐音は黙って剣を手に取った。鋭い刃が、焚き火の光を反射して冷たく光る。彼女の指が、零の喉元に剣先を突き立てた。わずかに力を込めれば、すべてが終わる。
零は目を閉じ、訪れるはずの罰を待った。
だが、いつまで経っても痛みは来なかった。代わりに聞こえてきたのは、剣が岩の地面に落ちる、甲高い音だった。
「……殺しません」
燐音の声は、嵐の音を突き抜けて静かに響いた。
「あの夜、私を壊したのはお前です。ですが、この数日間、凍える私を温め、泥を被って守り抜いたのも……お前なのです、オリベ・レイ」
零が目を開けると、そこには涙を溜めながらも、気高く微笑む彼女の姿があった。
「結社はお前を道具にしました。ならば、私はお前を『人間』にします。私を傷つけた過去を背負い、一生をかけて私に償いなさい。死んで逃げることなど、決して許しません」
「……リンネ……さん……」
零の目から、熱い雫がこぼれ落ちた。それは彼が「英雄」になってから初めて流した、自分自身の涙だった。彼は、彼女の細い肩を抱き寄せた。拒絶されることを恐れながらも、その体温を求めずにはいられ
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Chapter 7: 偽造 - 星屑バス停留所
断崖を叩きつける春の嵐は、岩肌を削り取らんとする勢いだった。湿った突風が外套の隙間から滑り込み、冬の名残を孕んだ冷気が肌を刺す。織部零は泥に沈む足元を睨みつけ、背後に渦巻く不穏な気配に神経を尖らせていた。
「……ミカガミ・リンネ、足元を。大丈夫ですか」
「……案ずるには及びません。この程度の雨、妖精の加護があれば造作もないことです」
水鏡燐音の声は、強がりの裏で細く震えていた。かつて銀の鱗粉を散らした美しい羽は、泥水を吸って重く垂れ下がり、今は見る影もない。零は無言で彼女の細い手を取り、さらに傾斜のきつい岩道へと導いた。鼻腔を突くのは、雨に洗われた土の匂いと、微かな血の鉄錆。泥を蹴るたびに、ふくらはぎの筋肉が悲鳴を上げて痙攣する。
だが、立ち止まる選択肢は存在しなかった。遠くの雷鳴に混じり、結社が放った「記憶の番犬(メモリー・ハウンド)」の、地を這うような咆哮が響いたからだ。
不意に、零の視界が歪んだ。強烈な色彩が脳裏に爆ぜ、身に覚えのない光景が網膜を焼く。
「……っ、あぐっ……!」
「オリベ・レイ? どうしました、顔色が紙のようです」
零は頭を抱え、崩れ落ちそうになる膝を必死に支えた。脳内に溢れ出したのは、この断崖で「巨大な怪鳥を討伐した」という輝かしい英雄の残像だ。それは結社が彼の精神に刻み込んだ、精巧な偽造記録だった。
「以前、ここで……僕は、民を守るために……戦った、はずだ……」
「何を言っているのです。ここは古くから我ら妖精族の聖域。人間が立ち入った記録など、ただの一度もありません」
燐音の冷徹な言葉が、偽りの記憶と現実の境界を鋭く切り裂いた。矛盾が走るたびに、零の神経を熱した針で刺すような激痛が突き抜ける。それはまるで、自らの魂が、他人の手によって巧妙に塗り替えられていくような感覚だった。
「来ます……。下がっていてください」
零は腰の剣を抜き放った。暗闇の深淵から、青白い燐光を放つ四つの瞳がこちらを凝視している。魔術によって生み出された異形の猟犬が、濡れた岩場を音もなく駆け上がってきた。
二頭の獣が、左右から同時に跳躍する。零は反射的に剣を振るった。しかし、鋼の刃は空を切り、空しく空気を裂いただけに終わる。
「……読まれているのか?」
「無様だな。お前の剣筋はすべて、結社の教典に記された『英雄の型』そのものだ」
闇の帳から、聞き覚えのある声が響いた。姿を現したのは、結社の監視役、戌亥鉄兵だ。彼は湿った煙草を弄びながら、冷え切った眼差しを零に向けている。
「イヌイ・テッペイ……さん」
「よお、英雄様。その犬っころはお前の動きをすべて学習済みだ。結社がお前に教え込んだ『正しい戦い方』をなぞっている限り、一生勝てねえぞ」
鉄兵の言葉を証明するように、番犬たちは零の次の一手を予見して動いた。零が上段に構えれば、獣はすでにその懐へと潜り込んでいる。右へ薙げば、影のように背後へ回り込まれる。
「くそっ……!」
番犬の鋭い牙が零の肩を掠めた。熱い血が雨に流され、視界が赤く染まりかける。
「僕は……僕は、あなたたちの人形じゃない!」
零は叫びとともに、教え込まれた端正な型をあえて捨てた。剣を放り出し、泥にまみれながら番犬の首筋に組み付く。それは英雄の振る舞いとは程遠い、ただの「生きようとする人間」の泥臭い足掻きだった。
彼は指先に魔力を凝縮し、獣の核へと直接叩き込んだ。青白い放電が爆ぜ、番犬が一頭、霧のように霧散する。
「……へっ。少しはマシな面構えになったじゃねえか」
鉄兵は追撃の手を緩め、わざとらしく背を向けた。
「行けよ。俺はこれから、ここで『英雄との激戦の末に逃げられた』という報告書を書かなきゃならねえんだ。全く、面倒くせえ仕事だよ」
「……すみません」
「謝るな、酒が不味くなる。……その女を、死なせるんじゃねえぞ」
鉄兵の言葉に背中を押されるように、零は再び燐音の手を取った。残った一頭を牽制しながら、断崖の中腹に口を開けた洞窟へと滑り込む。外では嵐がいよいよ激しさを増し、すべてを押し流そうと狂ったように荒れ狂っていた。
洞窟の奥は、驚くほど静まり返っていた。岩肌を伝う水滴の音が、規則正しく地面を叩いている。零は手早く乾いた枝を集め、小さな火を焚いた。
「……少し、休みましょう。この雨では動けません」
「……ええ。すまない、オリベ・レイ」
燐音は壁に背を預け、力なく座り込んだ。彼女の白い肌は透き通るほどに青ざめ、体温が奪われているのが見て取れる。零は自分の外套を脱ぎ、彼女の肩に掛けた。
「濡れた服が乾くまで、...