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窓枠の冷えた石が、織部零(オリベ・レイ)の指先に刺さる。冬の気配を含んだ風が、肺の奥を鋭く撫でた。視線の先、尖塔の頂で「銀の梟」が首をゆっくりと回転させている。鈍い銀光を放つ瞳が石畳を等間隔でなぞり、影の中へと消えた。一、二、三、四。心臓の鼓動が一度跳ねる。監視の目が逸れるその空白こそが、結社という名の檻に空いた唯一の穴だった。
「……今だ」
吐息は白く濁り、闇に溶けた。零は音もなく窓を越え、外壁の僅かな凹凸に指をかける。指先から伝わる石の冷気は、まるで死者の肌をなぞっているかのようだ。路地へ着地すると、背後で英雄の凱旋を祝う魔法灯が、皮肉なほど鮮やかに夜を焼いていた。光が強ければ強いほど、足元の影は深く、濃く沈む。街の境界へ向かう足取りは、知らず知らずのうちに速まった。
地図から抹消された森の道が、暗がりの先へと伸びている。そこには、かつて妖精族と人間が交わったとされる「星屑バス停留所」が眠っていた。その名を脳裏に浮かべた瞬間、頭蓋の奥で何かが激しく脈打った。結社が施した記憶の封印が、禁忌への接近を検知して警鐘を鳴らしているのだ。視界が砂嵐のように明滅し、平衡感覚が足元から崩れ去る。零は自分の爪を手のひらに食い込ませ、その激痛で辛うじて意識の端を繋ぎ止めた。
霧の向こうに、青白い燐光が揺れていた。古びた鉄の看板が、凍てつく風に吹かれて細い悲鳴を上げている。停留所の周囲だけ、雪ではなく青い光の粒が、星屑のように降り注いでいた。
「……静かに。随分と遅かったではありませんか、英雄様」
霧の中から、鈴を転がすような、けれど刃物のように鋭い声が響いた。水鏡燐音(ミカガミ・リンネ)が、停留所のベンチに腰掛けている。彼女の周囲には、踏み潰された花びらと凍った露の香りが微かに漂っていた。月光を浴びた彼女の銀髪は、凍りついた滝のような輝きを放っている。しかし、その瞳に宿る光は、零を射抜こうとする明確な敵意に満ちていた。
燐音が立ち上がり、ゆっくりと距離を詰める。彼女が近づくにつれ、零の右腕に刻まれた「英雄の証」が、焼けるような熱を帯び始めた。妖精族と、彼らを討伐する力を持つ者との間に働く、本能的な拒絶反応だ。
「なぜ、私を呼んだのですか? 記憶を剥ぎ取られた人形が、今さら何を求めているというのでしょう」
「……僕の中に、僕の知らない記憶があるんだ。結社が語る『武勇伝』とは違う、残酷な光景が」
「ふん……。ようやく自分の頭の中が、継ぎ接ぎだらけの安物に思えてきたということかしら」
彼女は嘲笑うように唇を歪めたが、その瞳の奥には、隠しきれない悲哀が揺れていた。燐音は懐から、布に包まれた何かを取り出した。差し出された手は、僅かに震えている。包みを開けると、香ばしいナッツの香りが鼻腔をくすぐった。不格好だが、確かな温もりが指先から伝わってくる。
「食べなさい。それは『星屑のパン』……私たちの一族が、冬の夜に家族で分け合うものですわ」
「パン? なぜ、僕にこんなものを」
「毒なんて入っていません。ただ、今のあなたには『本物』の温もりが必要だと思っただけです。偽りの栄光で腹を満たしている英雄様には、毒に等しいかもしれませんけれど」
一口噛みしめると、甘く素朴な味が口いっぱいに広がった。それは、結社の用意したどんな贅沢な料理よりも、「生きた味」がした。喉を通る温もりが、凍てついた魂を少しずつ溶かしていく。
「……美味しいな。なんだか、ずっと昔に食べたことがあるような気がする」
「そうでしょうね。あなたは、かつて私たちの村で……」
燐音が言葉を切り、視線を落とした。遠くで「銀の梟」の鋭い鳴き声が響き、森の静寂を切り裂いた。時間が限られていることを、その音が冷酷に告げている。
「燐音、教えてくれ。この右腕の傷は、本当に魔物との戦いで得たものなのか?」
「……英雄様。その傷は栄誉などではありません。それは、書き換えの儀式の際に、あなたの魂が抵抗してついた『拒絶の痕』。あなたが守ってきた平和は、私たちの同胞の血で塗り固められた、ただの書割なのです」
言葉が楔となって、零の脳を打ち抜いた。視界が真っ赤に染まる。爆ぜる炎の音。崩れ落ちる家々。逃げ惑う子供たちの影を、銀色の剣が冷酷に切り裂いていく。その剣を握っているのは、他ならぬ自分自身だった。
「ああ、あああああッ!」
零は地面に蹲り、自分の髪をかきむしった。頭蓋の内側から、何かが突き破ろうとしている。結社の監視魔法が異変を察知したのか、周囲の霧がどす黒く変色し、空間が歪み始めた。
「レイ! しっかりなさい! それは偽りの記憶が剥がれ落ちる音ですわ!」
燐音が零の肩を強く掴む。その接触を通じて、さらなる断片が流れ込んだ。燃え盛る村の中で、彼は一人の少女を抱きしめていた。銀色の髪は煤で汚れ、彼の鎧は返り血で赤く染まっている。
「僕は、救ったんじゃない。僕が、あの村を焼き払ったんだ……。僕が、みんなを……」
「……それを認めるのは、死よりも辛いことでしょう。けれど、それがあなたの真実。魔女結社があなたに与えた『英雄』という役割の裏側にある、血塗られた台本ですわ」
遠くで「銀の梟」の鋭い鳴き声が再び響いた。森の奥から、複数の魔力反応が高速で近づいてくる。霧の向こうから、音もなく半透明の光で編まれた「星屑バス」が姿を現した。
「バスが来ました。私は行かなければなりません」半透明の光が、燐音の輪郭を白く塗りつぶしていく。彼女は停留所の縁に立ち、一度だけ振り返った。その瞳には、先ほどまでの敵意を上回るほどの、深い憐れみが湛えられている。
「次に会う時までに、思い出して。あなたが英雄として守っているものが、誰から奪った屋根の上にあるのかを」
彼女がバスのステップに足をかけると、空間に走った亀裂から青白い燐光が溢れ出した。零が伸ばした手は、冷たい霧を掴むだけで終わる。バスは音もなく滑り出し、森の奥へと溶けていった。後には、踏み荒らされた雪と、鼻をくすぐるナッツの香りだけが残された。
ふと足元を見ると、雪の上に一枚の青い鱗が落ちていた。燐音の体の一部だろうか。拾い上げると、それは氷のように冷たく、それでいて心臓の鼓動を伝えるかのように微かに震えている。零はその鱗を、焼けるような熱を持つ右腕の紋章から遠ざけるようにして、懐に深く隠した。それは彼にとって、偽りの世界に唯一存在する「本物の欠片」だった。
「……っ、あ」
激しい頭痛が再び襲いかかる。結社が施した記憶の封印が、禁忌に触れた意識を強制的に書き換えようとしていた。視界の端で、銀色の梟が旋回を始める。監視網がこの場所を特定するのは時間の問題だ。
零はよろめきながらも、影に紛れて停留所を後にした。街の境界線を超えると、皮肉にも彼を称えるための「英雄の帰還」を祝う魔法の祝祭灯が、街路を眩しく照らし出していた。その白々しい光は、今の零にとっては逃走を妨げる障害物でしかない。
「オリベ、どこにいる。応答しろ」
通信用の魔石から、戌亥鉄兵の低く、投げやりな声が響く。零は荒い呼吸を整え、声を殺して影から影へと跳んだ。
「……こちらオリベ。少し、風に当たっていただけだ」
「風、だぁ? 監視網にノイズが出てんだよ。葛城の旦那にバレたら、俺の首が飛ぶんだっつーの。さっさと戻れ」
鉄兵の言葉には、苛立ちと共に、どこか彼を庇うような響きが含まれていた。零は冷たい石壁に背を預け、祝祭灯の光が通り過ぎるのを待つ。かつてはこの光を、自分を守る温かな暖炉の火のように感じていた。だが今は、獲物を追い詰めるための冷酷なサーチライトにしか見えない。
結社の寮まで、あと数百メートル。零は建物の隙間を縫い、屋根を伝って自分の部屋の窓へと滑り込んだ。鍵をかけ、カーテンを閉め切る。暗闇の中に一人取り残されて初めて、彼は肺の中の毒を吐き出すように深く息をついた。
鏡の中に映る自分の顔を見る。そこには、人々に希望を与える「清廉な英雄」の顔があった。だが、その皮膚の下では、血塗られた真実が絶えずうごめいている。
「僕は……何をしたんだ」
懐から取り出した青い鱗が、月光を反射して静かに輝いた。それは、彼が守ってきた平和が、誰かの犠牲の上に築かれた砂の城であることを無言で告発していた。
零はベッドに横たわり、右腕の紋章を強く握りしめた。熱は引かず、むしろ心の奥底まで焼き尽くそうとしている。次に燐音と会う時、自分は剣を抜けるだろうか。それとも、その剣で自らの偽りを断ち切るべきなのか。
窓の外では、銀色の梟が獲物を探して夜の空を鳴き渡っていた。彼が「英雄」という仮面を被り続ける限り、この檻からは決して逃げられない。零は瞳を閉じ、手のひらに残る、あのパンの温もりと、残酷な炎の記憶を交互に反芻し続けた。